24ページ目 理科の時間、光と色の三原色
革ジャン先輩の言葉の意図も理解出来ず、ただただポカンと口を開けている私をよそに、彼は刷り上がった印刷物の山の中から何種類かの印刷物をピックアップして持ってくる。そしてそれを、操作パネルが設置された台の上に重ねて置いた。
「この台は色見台って言うんだ。どの会社でも、カラーの印刷機の傍に設置されているんじゃないかな? カラー印刷じゃなくても、実際色見台は必要だと思うけど」
「はぁ……けど、バキュン年前の印刷屋さんに、色見台なんてなかったですよ?」
「だね。当時はそんな知識もなかったからな。よくやっていたなって思うよ。あっ、この色見台一帯をオペレーションスタンド――オぺスタって言うんだ」
手前側が低い斜めになった台で、上から蛍光灯の明かりが全体を満遍なく照らしている。手前端に横一列に並んだデジタルキー。台の横にはオペレーターに向けられたタッチパネルのディスプレイと、その手前に上を向いたディスプレイが一つずつ設置されていた。
凄いですね。近代化ってヤツですか? 最新型の軽オフの機械もこんな感じなんですかね? 私は古い軽オフ印刷機しか見た事ありませんけど。
「この蛍光灯には基準値ってのがある。それが5000
「何ですか
「それは消費電力の大きさ。
「は? えっと――青と赤と……黄、じゃなくて緑ですよね?」
ちょっと間違えそうになってしまいましたよ。ずっと印刷の話ばかり聞いていましたから。色の三原色が青と赤と黄色ですもんね。それくらいは知っていますよ。学校で習いましたから。
「そうRGBが光の三原色。その三つの光が同じ強さで均等に混ざった白い光――それが、 5000Kの光なんだ。基準に近ければ近いほど印刷環境がいいって事」
「へぇ~、だから光の三原色の話なんですね? でも、何で5000Kじゃなきゃいけないんですか?」
「へっ? わからないの?」
鳩が豆鉄砲でも食ったような間抜け顔で、こぼれ落ちそうなくらい目を見開く革ジャン先輩。
なんかちょっとムッときますよ、その顔。わからないから質問してるんですから、そこは汲んでください。
「イヤ、じゃぁ極論で考えてみよう。上質紙に青い光を当てると?」
「青くなりますね」
「じゃぁ、リンゴに青い光を当てると?」
「えっと、紫色なんじゃないですか?」
「ブッブー! 残念でした」
はい? 赤と青を混ぜたら紫色になるじゃないですか? 革ジャン先輩大丈夫ですか? その鼻にかけた眼鏡って、老眼鏡ですよね? その眼鏡、見えてます?
不信感いっぱいの私を嘲笑うように、革ジャン先輩は鼻を鳴らした。
「正解は黒っぽくなるです。ヒナちゃん、色の三原色と光の三原色がごっちゃになってるんじゃないか?」
「あっ……そうか。ん~、リンゴは赤い光を反射するから赤く見える――で、合ってますよね? 青い光を当てると……何も反射しないから……そうだ、黒だ!」
「まぁ、リンゴも純粋な赤じゃないから真っ黒にはならないと思うけど」
「改めて考えると光って面白い……あっ、わかっちゃいました! だから5000Kなんですね? 三色が均等に混ざった光じゃないと、印刷物の色を変えちゃうんじゃないですか?」
革ジャン先輩が満足そうに、ウインクしながら親指を立てる。
そして、ひとしきり私の頭を撫でると、『革ジャン先輩のお菓子箱』から小袋を一つ取り出し私の手に握らせた。
これは、果汁入りグミですね? その箱の中身って飴だけじゃなかったんですね。
あむあむあむ――ジューシーですよ、このグミ。
色見台の上、白色の光に照らされた大きな印刷物が一枚。革ジャン先輩が持ってきた他の印刷物は、その大きな印刷物の下敷きになっていて今は見えない。
高校時代は物理なんて嫌いだった――と言うか、ヤル気が出なかった。だって、普段の暮らしで役に立つとは到底思えなかったから。
ドップラー効果の原理なんて知らなくても救急車は呼べるし、重力加速度なんて知らなくても物は上から下へ落ちるのが常ですから。
色の三原色や光の三原色は、物理と言うより小中学校の理科の実験ですかね? どちらにしろ好きじゃなかった事に変わりはないけど。
「なるほどなるほど。光が印刷物の色を……って、私が聞きたかったのはインキの話ですよ? 何で光の三原色――印刷物の見え方の話になってるんですか? 何だったんですか、今までの時間は? 最初っから意味不明だったのに、こんなに長く革ジャン先輩の雑談につき合っちゃいましたよ」
「雑談とは失礼なヤツだな? じゃぁ、聞くぞ? 光の三原色は全部混ぜると白になるよな? 色の三原色を全部混ぜるとどうなる?」
「そんなの簡単ですよ。黒です!」
「なら
えっ? 何で同じ事をもう一度聞くんですか? もしかして引っ掛け問題?
革ジャン先輩は顎を突き出し、私を見おろすような格好で目を細める。
ハッキリ言いますけど、ムカつくからやめた方がいいですよ、その態度。
「黒――です――よ、ね?」
確認するように恐るおそる革ジャン先輩の目を見あげる。
間違っている訳がない。これで違う色になるのなら、それは絶対にマジックだ。もしくはファンタジーの代名詞、魔法だ。
革ジャン先輩は難しい顔で私を見る。ピクピクと小刻みに震える頬。
えっ? 違うんですか? 私の常識が根底から崩れていくんですけど。
「正解です!」
「もうッ、何で当たり前の答えをもったいぶるんですか? どこかのクイズ番組をリスペクトしているなんて言いませんよね?」
ポカポカと革ジャン先輩の胸を叩く。
馬鹿にしてます。絶対に私をからかっているに違いありません。
革ジャン先輩は両手を広げて一歩、二歩と後ずさる。
「実際は完全な黒にならないから、黒インキがあるんだけどね。って、イタタ――痛いって。そんなに怒るなよ。別にふざけてる訳じゃないんだから」
「ふざけてますよ! もっと素直に優しく、抱き締めるように教えてください! イや、抱き締めなくていいです! もっと……よしよしって感じで教えてくださいよ。革ジャン先輩だけが頼りなんですから」
もう革ジャン先輩以外に、印刷の事を教えてくれる人なんていないんです。お爺ちゃんが目を覚ます前に、いっぱいいっぱい印刷の勉強をしておきたいんです。
ケタケタと笑いながら私の両手首を取る革ジャン先輩。
や、このシチュエーションもよろしくない。どこかの少女漫画みたいですよ。
「ホントにふざけてなんてないんだって。これが中間色のインキがある理由」
「は? 光が白くなって色が黒くなって、中間色のインキが必要!? 微塵も意味がわからないんですけど」
「じゃぁ、これを見てみようか」
革ジャン先輩はオぺスタの下に置かれた小さな木の引き出しから細長い本のような物を取り出す。過去の革ジャン先輩も同じような物を使っていた。これはカラーチャートだ。
違うのはインキのメーカーですね?
カラーチャートを扇のようにスライドさせると、何十何百にもなる色がとても綺麗な花を咲かせる。
「これが中間色。印刷所では基準色とか言われてるインキだ」
「あー、基準色の事だったんですか。若い革ジャン先輩も言ってました。けど、こんなに沢山なかったですよ?」
「あの頃は特色メインな仕事じゃなかったかなら。漫画――モノクロメインだし。色もね、同人誌の料金表は指定基準色+黒のセット価格だったはずだから、特色の注文は決して多くはなかったんだ。このカラーチャートにある中間色も、全色使っている訳じゃないよ」
自然光に近い明かりの下、私は革ジャン先輩の広げたカラーチャートを見おろす。
プロセスインキ、中間色インキ、特殊なインキ、そして数えきれないほどの特色。
印刷オペレーターって、どこまで色に精通しなきゃいけないんでしょう?
さしずめ色の魔術師って所でしょうか?
過去も未来も、いつだってふざけているような人ですけど、やっぱり革ジャン先輩は凄いんですね。
――っと、そうじゃないそうじゃない。
光と色の三原色と中間色インキの関係ですよ。話が脱線しがちです。
それじゃぁ、わかりやすく優しく説明お願いします。
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