23ページ目 透明なインキ

「インキ~?」



 眉間に皺を寄せながら気持ち顔を伏せ、鼻背びはいに乗せた丸眼鏡ではなく、裸眼で私を睨み付ける革ジャン先輩。

 何でそんなに不機嫌になるんですか? 私、地雷踏み抜きましたか?

 オドオドと、可愛らしい小動物のように、上目づかいで革ジャン先輩を見る。



「印刷の工程は全部勉強してきたのか?」

「はいッ! 覚える事が多すぎて、どこまでが全部なのかどうかわかりません!」

「自信満々にを張るな!」

「なーッ! ちゃんとありますよ! もうバインバインです、バインバイン……」



 革ジャン先輩の視線が私の胸に釘付けになる。サッと両手で胸を押さえる私。

 私の顔と胸を交互に行ったり来たりする革ジャン先輩の視線。胸を見る時だけ眼鏡越しなのが、革ジャン先輩のいやらしさに拍車を掛けている。

 胸を押さえる私の手に力が入る。

 エッチです。そんな目で見ないでください。



よりも革ジャンの方が似合うぞ?」

「コンニャロー!」

 ボスッ!!

「ウッ……」



  渾身のアッパーカットが革ジャン先輩の鳩尾を抉り込む。革ジャン先輩は体をくの字に曲げお腹を押さえた。



「冗談じゃないか、ウイットに富んだ革ジャンジョーク……」

「言っていい冗談と悪い冗談がありますよ! はぁぁぁぁ~……ちゃんと教える気はあるんですか? また大きな声出しますよ? いやらしい目で見られたって」

「ごめんなさい。それだけはヤメて」



 腕を組む私に向かって拝むように両手を擦り合わせる革ジャン先輩。

 もうッ! 私が可愛いからってすぐエッチな目で見るのヤメてください。

 私は短いため息をつき、大きく頷いた。

 そんな私を一瞥して、革ジャン先輩は苦笑する。



「けど何で、急にインキの事を聞きにきた訳?」

「バキュン年前の革ジャン先輩がインキを作るって言うから、見せてもらってたんです。けど、ちょっと説明不足でよくわからなかったので」

「どこまで聞いた?」

「インキの缶が1㎏って言うのと、T&K TOKA製の基準色。あと、ない色は作るって事くらいですかね? あっ、そうだ! 作ったインキって残ったら捨てちゃうんですか? あの棚にあるインキの缶は、革ジャン先輩が作ったインキですよね?」



 インキ缶の並んだ棚を指差す私。

 印刷機横のステップの上に立ったとしても、私の背丈よりも高い棚に並んだ何百とも思えるインキの缶。さっき見た時は、その一つ一つの缶に、違う数字が書き込まれていた。あれはきっと、カラーチャートの番号に違いない。

 革ジャン先輩は納得したように大きく頷く。



「なるほど――ね。ヒナちゃんが理解できなくても当然。あの頃のオレは、まだ印刷の仕事を初めて数年。インキの何たるかなんて説明できる身分じゃないな。よし、わかった。インキの事はこの時代で教えよう」

「ホントですか!?」

「インキのノウハウは経験だ。特に作ったインキ――特色インキなんて、今のオレでも新しい発見があるくらいだからな。けど、今はまだインキの基本だけだ。印刷の工程を学ぶには、基本さえしっかりしていれば問題ないから」



 そう言うと、革ジャン先輩は印刷機横の棚からインキの缶を三缶持ってくる。そしてそれを、印刷物を見る台の横のテーブルに置いた。

 えっ――と、T&K TOKA製のインキじゃないんですね? DICってロゴが入ったラベルが貼られてますよ。インキメーカーの違いもあるんですかね?



「これがインキ。ヒナちゃんが軽オフを勉強しに行っていた時代ではT&K TOKA製のインキだったな。インキは時代によって様変わりするから、当時のインキはもう手に入らないと思うよ。灯油系のインキだったし」

「灯油系――ですか? じゃぁ、今は?」

「植物油系。環境問題がうるさくてねー。今となっては使い勝手も変わらないから、気にする程のもんじゃないけど」



 積まれた三缶をポンポンと叩き、革ジャン先輩は一番上のインキ缶を手に取った。

 赤色のラベルが貼られた銀色の缶で、紅と印字されている。あっ、革ジャン先輩が言った通り、環境に優しいマークも入っています。SOYって書かれたマークもありますね? ソイ? 大豆? あっ、大豆油を使っているって意味ですね?



「インキはザックリ分けると三種類に分けられる。これがカラーのインキ――プロセスインキ。CМYK4色の内のМ、マゼンタインキ。で、こっちが中間色のインキ」



 二番目に積まれたインキをもう一方の手で持ち上げる。緑色のラインが入ったラベルで、こっちはカラーガイド用グリーンと印字されていた。



「中間色って何ですか? 真ん中の色?」

「このインキ単体で印刷することもあるけど、中間色って言うのは特色を作る材料みたいなもんだ」

「って事は、カラーのインキだと特色は作れないんですか?」

「相変わらず、せっかちだな。物事には順序ってもんがあるんだ。特色の説明は後、後。で、最後が特殊なインキ。これは、金」



 台の上に残された金インキは他のインキ缶よりも少し丈が低くかった。インキの缶一つが1㎏なのに、他の缶より小さいって事は……

 私は革ジャン先輩が手にした二缶と、台に置かれた金インキを見比べる。

 赤色と緑色と金色。



「色が違って、缶の大きさも違うって事は即ち、重さが違うって事ですね? 金のインキは重いんですか? さすが、私だと思いませんか? 違いのわかる女なんです。ただ可愛いだけじゃないんですよ」

「うんうん、可愛い可愛い」

「えっ!? 今の革ジャン先輩が私の可愛さを認めた?」



 私は長いまつ毛で嵐を巻き起こす勢いで、目をパチクリさせる。元から大きな目が、さらに大きく見開く。

 革ジャン先輩は糸のように目を細め、小さく何度も頷きながらほほ笑んだ。



「小学生みたいで」

「しっ、失礼じゃないですか!? どこからどう見ても大人でしょ! 色気だって山盛りありますから」



 少し前かがみで体に腕を巻き付け、胸を強調する。って、何やってるんでしょうか私は?

 革ジャン先輩はプッと吹き出し、私の背中をバンバンと叩いた。

 ヤメてください。痛いですから。



「イヤ、見ればわかることを自信満々に言うからさ。まぁ、ちゃんとそれに気づく事が偉いんだけど」

「そうですよ。偉いんですよ。だから、子供扱いはヤメてください」

「ん。じゃぁ、気づいたご褒美に」



 印刷機の上の小さな段ボール箱から何かを取り出して、革ジャン先輩は私の目の前に握った手を差し出す。あの箱、『革ジャン先輩のお菓子箱』って書いてありますよ? って事は……

 あっ、飴だ!

 わーい! ――それが子ども扱いって言うんですよ! まったく、もうッ!

 甘酸っぱいレモン味でした。初恋と同じ味ですね。



「この重さの違いが重要なんだ。こっちのプロセスインキと中間色のインキは、透明インキって呼ばれている」

「ほうめいいんひ?」

「舐めながら喋るな! 透明インキな? 透明インキ。で、金の方が不透明インキ」

「はぁ……透明なのに赤や緑なんですか? 革ジャン先輩、目見えてます? や、頭大丈夫ですか?」

「おいッ!」

 イタッ!



 革ジャン先輩のデコピンが私の額にクリーンヒット。会心の一撃です。思わずのけ反りましたから。暴力反対!

 両手で額を押さえ眉間に皺を寄せる。



「ヒナちゃんはインキを絵具か何かと勘違いしてないか? 水性絵の具も油性絵具も原液のまま使ったとして、乾いた後に別の色を重ね塗りしたらどうなる?」

「それはもちろん後に重ねた方の色ですよ。有名な絵画でも、絵の下に別の下絵が描かれているなんて話、聞いた事ありますから」

「インキは違う。赤のインキの上に青のインキを重ねると紫色になるんだ」

「乾いていても?」

「乾いていても。だから透明インキ。じゃないと、カラー印刷出来ないだろ?」



 あっ、そうか!

 たった4色でフルカラーを印刷するんだから、重なった色は違う色にならなきゃいけないんだ。考えた事もなかった。インキって絵具とは違うんですね。

 下地の色が透けるから透明インキ。



「じゃぁ、不透明インキの金は上から印刷すると下の柄が消えちゃうんですか?」

「そう。金のインキは着色剤に真鍮の粉末を使っているから下地を隠す。銀や白インキも同様。だから、黒や濃紺の紙にも印刷出来るんだ。綺麗に印刷するにはコツが必要だけど」

「へぇ~、黒い紙にも印刷出来るなんて凄いです。透明インキじゃ、絶対に無理ですよね。金属をインキの材料にするなんて…………あー!!」



 目を剥いて大きく肩を弾ませる革ジャン先輩。印刷機に寄りかかり、小さく息を切らせながら胸を押さえる。

 あっ、すいません、ビックリさせちゃって。でも私、わかっちゃったんです。

 私は革ジャン先輩にズイッと顔を寄せる。革ジャン先輩はその身を引こうとするものの、印刷機があって身動きは取れない。

 目と鼻の先に革ジャン先輩の顔。

 ヤダ、勢い余って近づきすぎました。



「インキに金属を使っているから重いんですね!」

「正解! 大変よく出来ました」



 革ジャン先輩は大きく頷いて、私の頭を優しく撫で上げる。

 へへッ、どんなもんですか。もっと撫でてください。私は褒められてのびる子なんです。


 透明インキに不透明インキ。次はどんなインキが出てくるんでしょうか? ちょっとワクワクしますよ。

 私は期待に胸を弾ませて革ジャン先輩を見つめる。



「よしっ! 次は光の三原色だ!」

「は?」

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