7ページ目 取り出しましたるこの封筒
製品一時保管場所――長テーブルの上に三箱積まれた、片手でつかめる程の大きさの箱一つを無造作に手に取り、革ジャン先輩は奥の小さな印刷機へ歩いていく。
段差を軽快に飛び降り、急いで革ジャン先輩を追いかける私。
パッ!
両面機の横、通路を挟んで反対側に、突然強い光が走り、私の目を眩ませる。思わず立ち止まりゴシゴシと目を擦る。そこには、プレス機のような機械を黙々と動かす関さんがいた。
よく見ると、美しいまでに透き通るガラスの板が押さえつけているのは、原稿――貼り合わせた漫画の原稿だった。
キョトンとそれを見つめる私と目を合わせ、関さんは不思議そうに首を傾ける。
「どうしたの? 革ジャンさん待ってるよ?」
関さんはガラス板を押し下げながら、空いた手で革ジャン先輩を指さした。私は慌てて振り返る。
革ジャン先輩は印刷機の上に箱を置いて、ヤレヤレとでも言いたそうに肩を竦めている。
「製版機は後で教えるから、まずはこっち」
小さな印刷機に指先を落とす革ジャン先輩。
ああ、これが製版機だったんですね。さっきから、雷のように時々光っているのは気づいていましたけど、何をプレスしているんだろうと思っていましたよ。
製版機――漫画の原稿も気になります。けど、まずは印刷機ですよね、革ジャン先輩?
小走りで革ジャン先輩に駆け寄る私。
「さて、この箱の中身はなんでしょう?」
いきなり質問ですか?
それくらい、箱の横に書いてあるから私にもわかりますよ。
片手でも持てるくらいの大きさ。上から見ると漫画のコミックより小さい。箱をスッポリと覆うような柄の入った蓋に、『パステルピンク』と印字されたシールが張られてる。箱には『洋2』の文字。
分かりましたよ。総てお見通しです。
これは、パステルピンクの洋2です!
洋2って何ですか?
私はゆっくりと首を傾けていく。
きっと、頭の上に大きな『?』マークが浮かんでいるに違いない。
それを察して、革ジャン先輩は私の答えを待たずに、小さな箱の蓋を開けた。
淡いピンク色の可愛い紙が見える。
ポストカード? 葉書?
私は上の一枚を指先で摘み上げた。
「あっ、封筒だ」
「そう、洋2の封筒。箱に書いてあるだろ?」
「書いてありますけど、封筒のサイズなんて知らないですから。そもそも封筒使わないですし(スマホでも十分! なんてここでは言えないですよね)」
「味気ねぇなぁ」
ハッと息を飲む私。
『インターネットだスマホだ、何をするにも手元に残らない仮想空間の物に何の価値がある? 音楽データ配信? Web漫画、小説? 新聞もいらない、手紙もいらない。味気ない……味気ないなぁ』
私の耳に残る、何度も何度も繰り返されたその言葉。
確かにこの時代で印刷を勉強してこいと革ジャン先輩に言われた。けど、それだけじゃない。
私は味のある物を知りたくて、印刷のことを教えてもらっているんですよ。
ずっと――ずっと前から知りたかったんですから。
「どうした?」
「えっ? あっ、何でもないです。わざわざ封筒を持ってきたって事は、この印刷機は封筒専用ってことですね? 他の印刷機じゃ印刷できないから、この小さな印刷機なんですね?」
キョトンとする革ジャン先輩に、思いつく限りの疑問を並べる私。
って事は、それが理由で封筒専用機になっているんだと思う。
私もこの短い時間で、だいぶ印刷のことがわかってきた。自分で言うのもなんだけど、凄いよね。
「ああ、他の印刷機でも封筒は刷れるよ」
「あれ?」
反対側の壁まで伸びそうな勢いだった私の鼻は、あっという間に根元からポッキリと折れる。
だってだって、じゃぁ何で封筒を持ってくるのよぉ~!
私、ドヤ顔してなかったかな? 顔が熱いんですけど。
「他の印刷機でも刷れるけど、サイズ的に微妙だし、そこは仕事だから」
「はい? どういう意味ですか?」
「この小さな印刷機――モルトン機で印刷した方が、コストパフォーマンスが高いんだ」
コスパが高い? インクの使用量が少なくてすむ――とか?
目をパチクリさせる私を見て、革ジャン先輩はフフッと鼻で笑う。
何かちょっと馬鹿にされたみたいで、ムッときちゃいましたよ。
「封筒と紙の違いは何?」
「はぁ? 封筒も紙ですよ? 封筒ですけど」
自分でも何を言っているのか分らなくなってきた。
紙を折って封筒にしている訳ですよね? 紙も封筒も同じじゃ……あれ? 折っている? ん?
私は手にしたピンク色の封筒を降り注ぐ蛍光灯の光にかざす。
淡いピンク色から濃いピンク色まで、封筒一枚で何種類もの彩を浮かべる。
私、分っちゃったかも。
「おっ、その顔は気づいたって顔だな? じゃぁ、もう一度聞く。封筒と紙の違いは?」
「一枚紙じゃないです。えっと……二枚の所と三枚の所、一番多い所は四枚ですね」
「正解! パステル洋2のダイヤ貼り封筒は、ヒナちゃんの言った通り、一番多い所で紙が四枚の厚さになる」
「やったー! また、飴玉もらえるんですか? けど、それとコスパの繋がりがサッパリわかりません」
革ジャン先輩は印刷機側面の、掌にスッポリと収まるくらいの大きさのダイヤルに手をのばす。そこには、『AUTO』、『0.1』、『0.2』、『0.3』と数字が表記してあった。
「オフセット印刷は、ブランケットと版胴の間を紙が通るって説明したよな? ブランケットの素材は?」
「ゴム……ですよね?」
「そう、ゴム。けど、ゴムと言っても、柔らかいゴムじゃない。触ってみれば分るけど」
革ジャン先輩は印刷機の網目のようなカバーを押し上げ、ブランケットを見せてくれる。私はそれを指先で突っついた。擦ってみた。押してみた。
「固いです。もっと柔らかいと思っていました」
「そう固いんだ。だから、一枚紙だといいけど、封筒だと困った事が起こる」
「困った事?」
「普段生活していると意識したことはないかもしれないけど、紙の厚さのせいでね」
厚さ……ですか?
私はもう一方の手の親指と人差し指で封筒を挟み、上下にスライドさせてみる。確かに三枚、四枚と重なった所は二枚の所よりもだいぶ厚い。ボコボコしている。
「分りやすいように上質70kで説明しよう。上質70kの厚みが0.1㎜。印刷機には印圧と言って、適正な厚みで印刷できるように調整するものがある。それが、このダイヤル。けど、封筒はどう? 封筒が上質70kで出来ていたとしたら、最低でも二枚だから0.2㎜。三枚の所は0.3㎜。当然、四枚は……」
「0.4㎜ですね」
「そう。じゃぁ、印圧ダイヤルはどこに合わせるのかって話。0.4㎜の所に合わせると0.2㎜の所は印刷されない。印刷機ってそれくらいシビアなんだ」
「なら、0.2㎜の所に合わせて印刷するんですね?」
「そう。だけど……」
革ジャン先輩はハンドルを手で回して印刷機を手動で動かす。そして、ある一か所で手を止めた。
「ブランケット、触ってごらん」
「はい……わっ、凹んでます!」
驚いた。ブランケットが封筒の形で凹んでいる。
固いゴムだ。印刷できる圧力で押しつけると、紙が厚い箇所はもっと強い圧力がかかる。それを何枚も何百枚も印刷すれば、当然凹む。
私だって何日も何日も「勉強しろ」「勉強しろ」とプレッシャーを与えられたら、当然凹む。紙も同じだ。
「この機械は葉書や名刺も印刷するからね。こんなに凹んだブランケットじゃ印刷できない。だから、ブランケットを交換しやすいこの印刷機なんだ」
「コストパフォーマンス――そういう事だったんですね。他の二台はブランケットの交換が簡単じゃないんだ」
「両面機は悲惨だよ。版胴じゃなくてブランケットとブランケットの間を紙が通るから、凹むときは二枚同時に凹む」
うわっ……それはイヤですね。身も心も凹んじゃう訳ですね?
「後は大きいサイズの紙には……」
革ジャン先輩はフッと階段を振り返った。
「すいませーん。自己製本終わりましたぁ。断裁機、いいですかぁ?」
一番最初に階段を降りてきた女の子が、柱の影からヒョコッと顔を出し、革ジャン先輩に向かって頭をさげた。
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