5ページ目 表紙を印刷する

 いつまでも怒っていると眉間に深い皺が残っちゃうから、取りあえず深呼吸、深呼吸。


 息を吸って、吐いて、スーハ―、スーハ―、スーーーー、ハーーーー。


 うん、よし! 大丈夫、落ち着いた。

 革ジャン先輩はそんな私を見て小さく微笑むと、テーブルの上の一角に積まれた印刷物――たぶん本の表紙を一枚手に取った。



「これが、同人誌の表紙。まだ、紙の事とかインキの事とか、製本とか、色々と教えなきゃいけない事が山のようにあるんだけど、今は印刷機の説明ってことで」



 革ジャン先輩が私の目の前に差し出した、淡い土壁のような色の紙に、筆で書いたような可愛らしいキャラクターが描かれていた。私はそれを手に取り、指先で紙の表面をスリスリと擦る。

 紙と言われると漫画や広告のような白い紙を思い浮かべるけど、この紙は見た目だけじゃなく表面もザラザラしていた。

 とてもシンプルな表紙。でも味がある。



「漫画の表紙って、カラー印刷じゃないんですね? あっ、この表紙がダメとかじゃないんですよ? ただ、表紙のイメージが……」

「イメージ……ね。商業誌がカラーだからだろ? 週刊漫画雑誌とか、コミックはカバーがカラーだ。でも、ウチはカラーの印刷機がないし、カラーの印刷は料金が高いんだよ」

「全然金額のことはわからないんですけど、カラーが高いって言われて、ああやっぱりって思っちゃいました」



 本屋さんに売っている本は、その殆どがカラーの表紙だ。漫画から小説に至るまで、右を向いても左を向いてもカラー。革ジャン先輩が言うように、カバーの話だけど。

 それなのに、この机の上に数点並べられている多分表紙と思われるものは、1色か、精々2色で印刷されている表紙ばかりだ。



「この表紙の本って、後からカラーのカバーを巻くとかじゃないんですよね?」

「カラー自体が高いって言っているのに、そんなことする訳ないだろ? この表紙で製本して、それがそのまま商品になる」



 同人誌の表紙ってカラーばかりだと思っていました。そんなことなかったんですね。このお店にカラーの印刷機がないからなんですかね?

 机の上に並ぶ漫画も表紙も、便箋も封筒も、色々な色ではあるけれど、カラー印刷ほどの華やかさはない。



「カラーはできないけど、表紙や便箋、特に多色の印刷物なんかを刷るのが両面機の隣の印刷機なんだ」




************

 

 革ジャン先輩です。

 平成も終わりの頃になると、同人誌でもカラー印刷が当たり前のようになりましたが、それよりン十年前はカラー以外の表紙も意外と多くありました。なぜなら安いから。

 同人作家は一様にお金がありませんでした。バイトや仕事で得た収入を本やグッズにつぎ込むなんて話をよく聞いたことがあります。なので、1色や2色の表紙が多かったと思います。特にウチの店が初心者から中級者までのお客様が多かったせいもあるでしょう。


 だからと言って、侮ってはいけません。


 お金がなくカラーの表紙が印刷できない。だから、作り手は工夫するのです。

 様々なデザインペーパーがあります。インキも。多色刷りならなおさら、型抜き、型押し、箔など、自分の作品のイメージに合わせて、自分の作品が他のどの作品よりも人の目に留まるように、日々頭を悩ませたのです。


 カラー印刷は、ファッション業界で言う、プレタポルテです。何の変哲もない白い紙に、CМYKの四色で印刷する量産型です。会社によっては、別のお客様の表紙を一枚の紙につけ合わせて印刷したりもします。


 単色印刷(多色も含む)はオートクチュールです。

 その表紙単体でしか印刷できません。ただ単純に安いからではないのです。中にはカラーではないのに、カラーよりも高額な表紙になったお客様もいます。


 当時は「カラーはいいなぁ」なんて思っていましたが、今振り返ると昔の同人誌には、作り手の工夫とこだわりが溢れていました。


 ちなみに厳密に言うと、片面一色刷りの印刷機でも、カラー印刷はできます。やれと言われても断固拒否したくなるほど面倒ですが。


************




「両面機と違いがあるんですか? さっき、両面機でも片面印刷やっていましたよね?」



 革ジャン先輩は私の言葉にニヤリと不敵な笑みを漏らす。そして、机の上から青色と黒で印刷された表紙を一枚手に取り、片面機の隣に移動した。私も後に続く。

 印刷機の滑り台の上、滑車のついたバーを押し上げ、手にした表紙を置く革ジャン先輩。



「ここを、滑って、機械に入る前で一旦紙が止まる。これが、アテと呼ばれる縦の基準になる。そして、この板が横から紙を押しきった所――ハリと呼ばれる横の基準で、紙が機械に入る」



 私が見下ろす目の前で、革ジャン先輩は印刷機の上を移動する紙の動きを、説明を加えながら一つ一つ丁寧に教えてくれる。とても分かりやすい。

 イメージ的には、こうだ。

 滑り台を滑って(スー)、入口のアテに当たる(コツン)、ハリが押す(シュッ)、機械に入る(ガシャン)って感じ。

 スー、コツン、シュッ、ガシャンだ。

 印刷機はその繰り返し。

 スー、コツン、シュッ、ガシャン! スー、コツン、シュッ、ガシャン!



「この上の部分がブランケットで、その下が金属製のシリンダー――版胴」



 革ジャン先輩はカバーを開けて、緑色のブランケットと版胴を指さす。

 片手で髪を束ね持ち、首を折って機械を覗き込む私。

 版胴は大きな筒を横にしたような形で、鏡のようにキラキラと光を反射していた。



「機械に入った紙は、版胴に備えつけられたツメでくわえられ、機械が回るタイミングで排紙のツメに受け渡されて印刷完了」



 機械の上でヒラヒラと表紙を移動させ、排紙側の網の上にそれを置く革ジャン先輩。そして、両手をパンパンと叩いた。

 印刷する時の紙の動きはよくわかりました。

 けど、印刷機の違いは?

 私は腕を組んで小さく首を傾げる。



「他の印刷機は違う動きをするんですか?」

「いや、概ね同じ動きだな」

「じゃぁ、違いって何です?」

「それは……」



 革ジャン先輩は再び表紙を持ち、もう一度滑り台の方へ移動する。



「ここだよ」



 そう言って指を指したのは、紙の入口部分だった。



「この印刷機は、基準になるアテとハリの精度が他の印刷機に比べて高い。両面機は三本の排紙ヅメがそのままアテになるから基準が三つある事になるし、奥の小さい印刷機なんて、そもそも滑り台がないだろ? アテはあるけどハリが存在しないんだ」

「?????」



 さっぱりわかりません。

 機械の精度って、印刷と何の関係があるんでしょうか?

 私はしゃがみ込んで、片面機の滑り台に両手をかける。そして、ジーッと機械の入口を眺め見た。



「綺麗に印刷出来る……とか? 基準――精度が高いってことは、真っ直ぐ印刷出来る……とか?」

「おしいっ!」



 左右にコテンコテンと首を傾けながら、縋るように革ジャン先輩を見あげる。革ジャン先輩はニコニコと笑いながら目を細め、私の次の言葉を待っていた。

 アテとかハリとか――紙が入って行くところの精度が高い――あっ、そうか!



「同じ位置に印刷できるんですね!!」

「正解! 凄いね。ちょっと驚いた。ご褒美に飴をあげよう」



 革ジャン先輩はエッチングの機械の下、色々な種類のインキが並んだ棚に置いてある缶から、大きな飴玉を一つ私にくれた。

 クルクルとビニールの包装を解き、黒い飴玉を奥ゆかしい口に放り込む私。

 コロコロコロコロ……コーラの味がした。



「で、最初に戻るけど、同じ位置に印刷できるってことは、同じ紙を何回も印刷する時に有利だ」

「あっ! だから、2色の表紙の印刷なんですね! もっと多く、3色とか4色とかも出来ちゃいますよね! 正解! お見事! 飴玉ください」

「げんきんな奴だな。まぁ、お見事なのは本当だから、奮発して飴玉3つあげよう」



 ケタケタと笑いながら、缶から取り出した飴玉を3つ、私の掌の上に置く。

 ありがとうございます。味わって舐めます。



「精度が高いって言っても、所詮紙版だからなぁ。カラー印刷までは無理ってことで。まぁ、製版は後で教えるけど。じゃぁ、最後は奥の小さな印刷機だ」


 そう言って、革ジャン先輩は他の印刷機に比べてかなりコンパクトな、奥の壁際にある印刷機を指さした。

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