梅島家
第一三話「選べないかと思っていた。されど、選ぶことは難しくなかった」
自宅に帰り、身なりを整えてから、遙は祖父の執務室を訪れた。
伸びた蔓で小鳥が羽を休めるレリーフが彫られた、観音開きの扉。それを遙につきそったメイドがノックする。
「失礼いたします。遙様が戻られました」
高い音色のノック音と共に、メイドがそう告げた。
するとすぐに「入れ」と返事が戻ってくる。
メイドが慣れた手つきで、観音開きの片方だけを押し開けて中に入り、扉が閉じぬよう押さえながらも深々と
キャンプの時とは異なり、ふわりと広がる白いドレスを身にまとった遙も一礼してから、執務室に足を踏み入れる。
「ただいま戻りました、お祖父様ー。……お父様もこちらにいらしたのですねー」
「ああ、お帰り。大事な話があったからね」
遙の父である【
ビシッと決まったスーツ姿の彼は手前のソファに座っていたが、すっと席を立って遙を迎えるように片手をあげて、向かい側のソファに腰かけるように勧めてくる。
細面ながら、しっかりと力強い眉と、意志の強そうなひきしまった双眸で、男らしい顔つきだった。それでいて高い鼻と薄い唇で、どことなく柔らかい美しさを備えている。また四〇代半ばながら、その見た目は三〇代で通るほどイキイキとして若々しさを保っていた。
わが父親ながら、未だに多くの女性から色仕掛けされるというのも、納得できてしまう。遙から見ても、ひいき目なしで素直に素敵だと思う。
「お帰り、遙」
そして奥の席に腰かけていた祖父【
容姿はまさに
しかし遙にさえ、やはり貫禄が違うと感じさせる。年齢は七〇にもなるのに、放つ迫力はまだまだ働き盛りの
「ご心配をおかけして申し訳ございませんでした、お祖父様、お父様」
「心配などしとらんよ。弥生たちもついていたし、しっかりものの営野くんも一緒だったしな」
「本当にお祖父様は、営野様を買っていらっしゃるのですねー」
「ああ。そうでなければ、あんな小芝居の提案を受けて、大事な孫娘を預けたりせんよ」
クイッと口角が上がる祖父の顔を見て、遙は複雑な想いで笑みを作る。
(ああ、参りましたわねー……お祖父様には敵いませんわねー……)
脱帽。降参。お手上げである。
遙がテントを立てることができる範囲は、
もちろん、それはわかっていたことだ。だから、今までも素直に祖父や両親の言うことに従ってきたのだから。
(それを今さら……)
そうだ。今さらである。
このことに、なんの疑問をもつ必要があるというのか。
「それで、わたくしを早急に帰宅させたご用はなんでしょうか?」
「ああ。それは私の用事だ」
そう言うと
サイズにしてA4の分厚い封筒。遙の脳裏にうかぶデジャビュ。いや、デジャビュではなく、確かに何度もくりかえされたことだ。
「実は次の見合い候補がそろってね。急で申し訳ないのだが、今夜しか都合のつかない相手が一人いたものだから……」
そう言いながら、封筒からたくさんの紙を取りだす。
昔ながらの台紙に貼られた見合い写真ではなく、それは簡単な略歴と顔写真が印刷された光沢紙の人材名簿とでもいうべき物だった。それがテーブルに並べられる。
またかと思いながらも、遙も父親の正面に座り、適当に並べられた名簿を眺めた。
「一応、今回はこれだけだ。この中から好きな相手を選んでくれ」
「選ぶ……」
いつも通りだ。遙はいつもそう言われると、深く考えず適当に手に取っていた。それは選んでいるわけではなく、選ぶことをあきらめた行動だった。
しかし、今日はなぜか手が伸びない。いつもどおり適当にとればいいのに、それができないでいる。
ふと、なにかが脳裏をよぎったのだ。いや、ひっかかった。
父親の言った「好きなのを選べ」という言葉を最近、聞いた気がする。
これもデジャビュだろうか、はたまた記憶の欠片だろうか。
気になる。
遙は記憶の紐をたぐろうと思考の中に沈んでいく。
「遙? どうかしたか?」
動きをとめてしまったからだろう。
父親に心配され、遙は慌てて笑って応える。
「いいえー。すいません、何でもありませんわー」
「そうか。……キャンプに行ってきたばかりで、疲れているところすまんな。ただ、今回のは私の中でも厳選した者たちだ。たとえば、今夜に約束をしている彼だが、東大法学部に通いながらもベンチャーを起業してすでに年商で……」
父親が熱心に説明し始める。
一人の説明が終わると、また一人。そして次の一人と熱心に、自分がどういうところが気にいっているのかと、選んだ理由を説明する。
(あらー。やっぱりこんなことが最近あったようなー……)
テーブルに並べられたものから好きな物を選べと言われ、適当に選んだ後悔。
そこに並べられたものの中だけから選べという不条理。
――選択をきちんとしていくことは大事なことだ。
ふと、頭の中に蘇る言葉。
それは、数時間前まで一緒にいたキャンパーの声で再生される。
――人からさしだされた選択肢を『どれでもいい』と選ばないのもよくないが、だからと言ってその中から選べるとは限らない。
遙は目の前に並ぶ見合い名簿を見つめる。
きちんと考えて選んだところで、この中に生涯を共に歩む相手がいるのだろうか。
――問題は、そこで漫然と並べられた物を手に取ってしまった、きみの思考だ。『どうせどれも同じ』とかいう、あきらめに近いことを考えなかったか?
自分は、この提示された中であきらめなくてはいけないのだろうか。
自分に、その自由もないのだろうか。
――ソロキャンプで大事なことは、自分で考えて選択することだ。
――さしだされた物を手にするだけの人間や、『どうせ』とあきらめる人間では、ソロキャンプはできない。
(そうですわー……。わたくしは、キャンプをすると……キャンパーになると決めたのでしたわねー)
とたん、遙の中でいろいろなことが繋がって、そのことがおかしくなり思わず吹きだしてしまう。
営野の突飛に見えたいくつかの言動の意味がやっとわかったのだ。
「ふふふ……。いやですわー……」
「は、遙? どうかしたのか?」
「す、すいませんー。まさか、見合い相手をガス缶や調味料にたとえる人がいるとは思わなくて……」
「え? ガス缶? 調味料って?」
「ごめんなさい、なんでもありませんわー。……それよりお父様ー。たくさん選んでいただきましたが、いくらお父様でも世の中のすべての男性を見合い相手にふさわしいか調べたわけではありませんわよねー?」
「も、もちろんそうだが……」
父親が面白いように動揺している。たぶん自分の予想外の言動に驚いているのだろう。ここまで困惑した父親を見たのは初めてだ。
遙はふと自分を縛る手綱が緩んだのを感じる。
(ああ……違うわねー。もともと手綱なんてなかったのかもしれないわー)
しがらみ全てが自由を縛るものだと、勝手に決めつけていただけかもしれない。
家族のしがらみが、必ずしも自由を縛るものとは限らないはずだ。
きっとこのしがらみは、捨てずに上手くつきあっていけばいいだけのもの。
「それでしたら、もっと男性を学ぶ時間をわたくしにいただけませんかー? 見合いのお話をもって来ていただくのはかまいませんが、見合いをしばらくするつもりはなくなったのです」
「どどどど、どういうことだ? まさか好きな男でもできたか?」
「そうではありませんわー」
一瞬、脳裏に浮かぶ姿があったが、そのことをおくびにも出さずに遙は微笑む。
(お兄様は……そういうのではなく、いわばわたくしの師匠ですしねー)
そうだ。その師匠から、まだ学びたいことがある。
だから、選ばなくてはいけない。
「わたくし、もっといろいろな男の方を……というより人を見てみたいのです」
外向きの口調で、遙はしっかりと言い切る。
「人を……」
「はい。そして同時に、一人でいろいろなことをできる人間になりたいのです」
「遙……」
「だからわたくし、キャンプを始めますわ。ゆくゆくは一人で……ソロキャンパーとしてキャンプに行けるぐらいにはなりたいと思っていますの」
「…………」
父親がこれほど目をパチクリとさせる姿を見たことはなかった。いつも冷静で貫禄をもって構えている父親が、普通の人のように慌てている。
それが遙には妙におかしかった。
「ふふふふ……。お父様、ごめんなさい。いきなりこんなことを言って」
「い、いや、しかし……」
そう言って
釣られるように、遙も祖父の顔を見る。
もともと婚約の話は、山岳が言いだした話である。そしてこの家の実権は、未だに山岳が握っている。彼の思惑が、梅島家の絶対である。
「お祖父様……」
先ほどから黙って聞いている祖父に向かって、遙は立ちあがって近づいた。
祖父の表情は、何を考えているのかわからないほど無表情だ。人の考えを読むのは得意な方だが、この人が相手だとまったく読めない。人とは違う思考、視点、発想をもった人間で、だからこそ人生において大成功を収めてきたのかもしれないと思う。
しかし遙は今、この大きな人物と対峙しなければならない。
「ご意向に背き申し訳ございません。ですが、わたくしはまだ未熟。もう少しいろいろと学びたいと思います。そうしなければ、生涯の伴侶など決めることはできないでしょう」
そう言って深々と頭をさげる。
ある意味で、初めての反抗だ。反対されるか、叱られるか、どちらにしても紛糾することはまちがいないだろう。
だから、遙は体を縮こまらせて言葉を待つ。
「遙、キャンプは楽しかったかい?」
「……はい?」
責めを覚悟していた遙にとって予想外の質問。そのせいで、どこか素っ頓狂な声をだしてしまう。
「営野君とソロキャンプの練習をしたのだろう。どうだったかね?」
遙は顔をあげて祖父の顔を見る。
が、その表情はまだ読めない。真顔で顎に手をかるく当ててこちらを見ている。
「……あ、はい。楽しかったですわー。……いえ。正直、まだよくわかりませんけどー」
「わからない……とは?」
「楽しかった……のだとは思いますが、たぶんまだ楽しめていなかったといいますかー……。きっと初めてのことが多くて、とまどってー……。でも、きっとそこには、その先には楽しみがある気がしてー」
「ふむ。それで?」
意図がわからないまま促され、遙は言葉を続ける。
「おに……営野様に教えられたのは、キャンプ、特にソロキャンプの楽しさは自分でやりたいことを選んで、それを成していく充実感だったと思いますわー。ですからわたくしはまだ、キャンプの楽しさを楽しみきっていない気がするのですー」
「だから、まだ『わからない』ということかな?」
「はい、お祖父様ー。わたくしには、まだわからないことだらけですわー」
そう言って、遙は苦笑する。
今まで大人としてふるまおうとしていた。早く大人になって祖父や両親の期待に応えたいと考えていた。それなのに自分を子供だと認める発言を今はしてしまっている。
ところが、なぜかそれが気持ちいい。
「そうか。ならば仕方ないな」
「申し訳ございません。お祖父様」
「謝る必要はない。むしろ嬉しいのだから」
そう言って、山岳は柔らかい笑みをまた見せた。
遙に温かさを与えてくれる笑顔だ。
「おまえはいい子すぎるから心配していたが……少し安心したよ。言われた道を歩くだけでは、道を指示する者がいなくなったときに歩けなくなるからな」
「お祖父様……」
「見合いの話は、別に受ける必要はないぞ。気が向いたらでかまわない」
「あ、ありがとうございます」
「そうだ。今度、私ともキャンプに行ってくれるかな?」
「もちろんですわー。喜んでー」
逃れたかったしがらみは、絆となって一緒にキャンプに行く。
それもまた、遙にとって新しい楽しみになっていた。
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