第一六話「まったりするのかと思った。だけど、出かけると言われた」

「マジか……すげーな、これ……」


 かず兄が紙皿に盛られたコンビーフカレーを一口食べたとたんにもらした感嘆の言葉。

 短い端的な言葉だけだったが、晶は拳をあげて握りしめ、大きくうなずいて同意した。

 わかる、わかるのだ。思わず「うまい」ではなく「信じられない」という気持ちがあふれる感じが。

 なにしろ晶も最初に食べたとき、同じように「マジか」ともらしたのである。


「煮込んでもいないのに、この味の馴染み……よーく煮込んだカレーに思えてしまう」


 そうなのだ。とても、一煮立ちでできあがるような味ではない。

 晶もほぐれたコンビーフが埋もれたカレーをスプーンですくって食べて見る。


 口の中に広がるのは、コンビーフの味……ではない。

 それは煮込まれてほぐれてしまったビーフシチューのビーフのようだ。


 通常、カレーにいれた肉は、すぐに馴染んだ味にはならない。煮込んで寝かせないと、カレーのソースも肉の味も、尖ってしまい一体感がなく、風味が引き立たないものだ。

 それなのに、このコンビーフカレーの肉は完全にカレーに馴染んでいる。

 コンビーフ独特の癖がカレーに包まれて隠れ、牛肉の旨味が強くガツンと味わえる。


 そして野菜が入っていないというのに、野菜ジュースのおかげでいろいろな旨味が含まれている。また、その甘さが最初の口当たりでは強いが、追加した鷹の爪の辛味が後から刺激として舌で踊る。


 そしてなんと言っても、疲れた体に効きそうな塩気と強い味。

 まるで「飯を食え」と言わんばかりに、カレーソースが口の中で暴れていた。


(これはご飯がやっぱり進むカレーだなぁ。でも……)


 このカレーには、唯一残念なことがある。

 それは食感が物足りないということ。基本的に、形のないコンビーフと野菜ジュースしか入っていないのだから当たり前だろう。本当は、にんじんやジャガイモなどの根菜類をいれたいところだ。


 しかし、今回はガッツリキャンプ飯らしく、晶はサイコロ化させたステーキ肉を混ぜこませた。

 もちろん、カレーの味が染みこんではいない。しかし、一緒に食べると食感だけではなく、染みこんでいないからこそ味わいも変わって楽しめた。


「この手軽さは確かにすごい。キャンプカレーには最適だな」


「かず兄もソロキャンの時に作ってみたら?」


「おお。これはやらせてもらうよ。なにしろ最小限なら缶詰と野菜ジュースパック、カレールーがあれば作れちまうんだからな。今まで、クーラーボックスなしでカレーを楽しむ方法だと、レトルトか缶詰カレー、フリーズドライカレー、作り置きした冷凍カレーだったけど、これで選択肢がまた増えた」


「ふふん。オレに感謝してくれていいんだぜ」


「ああ、するする。感謝の表れとして、今度は俺がベーコンをご馳走させてもらおう」


 そう言いながらかず兄は、分厚い炙られまくった豚バラをまな板の上に置いた。

 ローテーブル上のすっかり飴色に染まった豚バラの存在感は凄まじい。ただ、炙られただけの肉だというのに、カレーから一瞬で主役の座をとってしまう。


 いや。かけられた時間を考えれば当然なのかもしれない。

 そもそも、ただ炙られただけではないだから。キャンプの前日から、ソミュール液に漬けられて、干されて、そして6時間近く焚き火でゆっくりと炙られ続けていたのだ。

 それは見た目でもわかる。表面の複雑な色合いもおいしそうだが、包丁がいれられて現れた切断面もまた食欲をそそる。そこには、ピンクの赤味と白い脂身が口の中でベーコンの味を再現してくれた。


「寒いからすぐ冷めるな」


 ほぼ日は沈んでいた。そのため気温が急激に下がって、今はかなり冷えこんでいる。

 LEDライトが照らす少し暗めのシェルター。その中で、ガスストーブをつけているから多少はましだが、それでもやはりひんやりはしていた。


「ちょっと炙るから、待っててくれ……」


 ガスバーナーの上にフライパンが置かれ、十分に熱せられたあと、厚切りにされたベーコンがのせられる。

 かず兄のヘッドライトに照らされながら、ジュウッと派手な音を立てて、すぐに脂を弾けさせる。

 弾けるポップな音に、漂い始めるのは、肉の焼ける香ばさ。

 晶は、それだけで気分が上がってしまう。


「本当は吊しながら削って食べる方が楽しいんだけどな」


「それはワイルドでいいな!」


「だけど今日は、これで。熱いから気をつけろ」


 紙皿にだされた厚切りベーコンは、狐色に表面が焼けていた。

 表面には透明な脂が染みでているのがわかる。

 晶は、それをフォークで刺して口元まで運び、息を吹きかけて冷ましてから噛んでみた。

 とたん、じゅわっとあふれる脂。そこには肉の旨味が十分に溶けこんでいる。そしてしっかりとした塩味とそこに混ざった旨味。


(脂がすごいけど……なんだろう? 甘い感じがする……)


 そしてなんと言っても、独特の香りがすごい。

 サクラの木の香りなのだろうが、焚き火に当たっていた自分もその匂いが染みついてしまっているだろう。

 しかし、ベーコンからしてくる香りは、それよりも深く香ばしい。


「香りがすごいね。スモーキーだけど、どこか爽やかで、イキイキとして……アクティブな感じ」


「そうか。大抵のものは、できたてがうまいけど、これもその内のひとつかもな」


 二人はカレーとベーコンを平らげた。

 かず兄のオトモは、ビール。

 そして晶のオトモは、炭酸飲料。

 和気あいあいと会話も弾む。


「来週、クリスさん退院だろう? 俺が迎えに行くから帰ったらメッセージ投げておくから」


「サンキュー、かず兄。悪いけどたのむわ」


「そう言えば、このまえ看護婦さんの前で『クリスさん』って呼んだら、大騒ぎになっちまった」


 かず兄がおかしそうに笑うので、晶もつられて笑ってしまう。


「あはは。また、もめたのか。ってか、そろそろその呼び方やめてやんなよ。まあ、本名もけっこうイタイけど」


「本名は抵抗感があるし、もう癖だからなぁ、これ。それに、そう呼んでいた直矢さんが悪い」


「とーちゃんは、しゃーないじゃん。かーちゃんがヤンチャしていた学生時代からのつきあいらしいし。とーちゃんが更正させるまで、かーちゃんすごかったらしいからなぁ」


「直矢さんはすごい人だったよなぁ……。もう亡くなってから八年か。早いな」


「うん……そうだね」


 さすがにもう、突き刺すような胸への痛みは来ない。

 それをわかっているから、かず兄もこういう話をするのだろう。


「俺が一五才の頃に両親が死んで、親戚が誰も手を伸ばそうとしていなかったとき、遠縁だというのに直矢さんだけがいの一番に、保護者になると声をあげてくれた。いくら自宅が近いからって、そうそう言えることじゃない」


「とーちゃんは、お節介だったからなぁ。誰かに頼られると、がんばっちゃうし」


「晶ちゃんは、完全に直矢さんの血を継いでいるな」


「……かもなぁ」


 そう言われると少しくすぐったく感じてしまい、晶は少しニヤけてしまう。


「けっきょく俺は自宅で一人で暮らしていたけど、なんだかんだと気にかけてくれたし、週に何回も飯に呼ばれたし、学校の進路相談にまで顔をだしてくれたし……」


「喜んでやってたよ、とーちゃんは」


「ああ。それは伝わってきた。だから、俺も君たちに喜んで力を貸している。直矢さんと同じように。……は、できていないか」


「かず兄?」


「同じようにできていたら、クリスさんが倒れることもなかったはずだしな……」


「そ、そんなことねーよ。あの時はかず兄だって忙しかったし……」


「それはいいわけだ。いくらクリスさんに『大丈夫だ』と言われても、直矢さんのようにお節介でももっとサポートするべきだったんだ。体調崩してから体力がなくなっていた女性一人で、三人の子供の養育費を稼ぎながら子育てするのは大変なんだから」


「かず兄……。でも、その分、今はいろいろとしてくれてるじゃんか。かーちゃんだって、助かってるって言って……」


「まあ、でもクリスさんのお願いでも、はあるけどな」


「ん? なんのこと?」


 晶はかず兄の苦笑に気がつき、小首をかしげる。

 しかし、彼は「なんでもない」と言ってごまかした。

 晶が知る限り、入谷家の人間がお願いしたことで、かず兄が受けなかったこと、叶えなかったことは今までになかった。

 それだけに気になるが、かず兄は話をするつもりはないらしい。


「さてと。食休みは十分か?」


 かず兄がそう言いながら席を立った。

 だから、晶もすぐに立つ。


「ああ。食器の片付けならオレがやるよ。紙皿とかだから片付け楽だし。ってか、紙皿とか焚き火で燃やしちゃえばゴミにならなくていいんじゃね?」


「それはダメだ。マナー違反だな」


 紙皿をまとめながら、晶は表情で尋ねる。

 肉の脂とかついていてよく燃えそうだし、ゴミも焼却できるのだから、これはいいアイデアだと思っていたのだ。

 シェルターの外では、焚き火台の中で熾火がまだ火を宿している。そこに突っこめばいいではないか。


「まず食べ物を燃やすと、くさい煙がでることがある。場合によっては、周りに迷惑をかける。まあ、たとえば割り箸に少量ついているぐらいじゃ臭わないとは思うけどな。それよりは肉を焼いている臭いとかのが強いだろうし。それから炎が強いときに紙を下手にいれると、風で舞いやすい。熾火でも火がつくと一気に燃えあがるからな。風がある時は、周りに飛び散って危ないんだ」


「ふーん、そうなのか。なるほどな」


「それにもう、焚き火は消さないとな」


「え? もう?」


 思わず晶は、丸い目をパチクリとさせてしまう。

 かず兄は「キャンプで一番好きな時間は、焚き火で温まりながら、ゆっくりと過ごす夜だ」と言っていたことがある。だから、昨夜もそのように過ごしていたし、晶も一緒になって星を見ながらつきあった。

 ならば、これからが本番のはずだ。就寝時間まではまだかなりある。かず兄との大事なお喋りの時間がなくなるのは、非常にもったいない。


「た、焚き火消したら、寒くなるじゃん」


「ああ。いいんだ。でかけるしな」


「え?」


 出かけるにしても、どこにでかけるのか。売店へ買い物だとしても、片方が留守番をしていれば、わざわざ焚き火を消すことはない。それより遠くだとしても、かず兄はすでにアルコール摂取済みだ。車をだすことなどできやしい。


「でかけるって、どこへだよ?」


「すぐそこまで」


 そう言って、かず兄は晶に手をさしだす。


「デートに行こう、晶ちゃん」


「――!!」


 晶は心臓が胸を突き破って飛びでるのではないかというほど衝撃を受けた。

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