龍泉の湯
第八話「笑わなかった。だけど、悶えていた」
かず兄が連れて行ってくれた温泉は、キャンプ場から車で二〇分から三〇分は走ったところにあった。そこまで行くと、かなり建物も多く普通に町。ちょっと車で走れば、大型ショッピングモールもあるような場所だった。
【龍泉の湯】
http://www.ryusennoyu.com/
古風な旅館風デザインの見た目はオシャレで、中もかなりきれい。休憩所や食事処もあり、時間があればのんびりと過ごせそうな感じである。
風呂も内湯に露天風呂があるのは当たり前として、ジェット風呂、でんき風呂などがあり、さらに炭酸泉、つぼ風呂と豊富な風呂が楽しめた。
晶もいろいろな湯に浸かって、ほっと脱力して体がお湯に溶けていく感覚を堪能することができた。
もちろん、それだけ設備が揃っているのだから値段もそれなりにするのだが、ここもかず兄がもってくれた。
晶は自分でだすと言ったのだが、「飯を作ってもらうから」と返されてしまう。しかし、食費、キャンプ場の代金、交通費と、すべてかず兄の負担だ。かず兄には、「仕事の一環だから経費だ」と言われたけど、入浴代や食費ぐらいは折半にして対等な関係になりたいところだ。
しかし、「子供はそんなこと気にするな」と言われてしまう。
けっきょく彼は保護者で、自分はまだ子供なのだ。それはわかっていたことだが、晶は改めて思い知ってしまう。
ただ、今の晶に
そう思って風呂から出ると、すでにかず兄は休憩室で待っていた。
本当は晶も休憩室でのんびりしていたかったが、かず兄をあまり待たせるのは申し訳ない。それに腹を空かせているかず兄のために、早く夕食の支度もしたい。
だから晶は、すぐに出発しようとかず兄を急かしたのだ。
「でもさ、風呂、すげーよかったよ。連れてきてくれてありがとうな、かず兄!」
ぽかぽかとする体のまま車の助手席に戻ると、晶は手にひんやりとした冷たさを伝える、買ったばかりの炭酸水を開けた。そして、グビグビと飲みはじめる。
シュワシュワと口から喉の奥まで弾ける感じを味わいながら、晶はかず兄の顔を見る。
「ああ、いい風呂だろ。前に来たときにいいなと思ってな」
かず兄の少し濡れて艶のでている髪や、温泉効果なのかすべすべしてそうな肌。そんな彼を見ていると、晶は現状を再認識してしまう。
(そ、そうか。これって一緒に、二人きりで温泉に入った……ってことだよな? 一緒に風呂……ひゃぁ~! それってなんか、夫婦みたいじゃんか! 同じ匂いがしているわけじゃん? それってヤバくない? もう既成事実できたんじゃね?)
晶は顔を背け、ゆるみ始めた口元を両手で強く抑える。
確かに温泉に来たのは「二人きり」だったが、温泉に入っていたのはけっして二人っきりではないし、そもそも湯船どころか浴室さえ当然別である。しかしそれでも、暴走気味の思考のために、温泉で温まったときよりも、さらに晶の頬が熱くなる。
無論、晶も気がついていた。自分の中でハイテンションな感情が、理性の箍をはずしかけて暴走し始めていることに。
だが、これは当たり前のことなのだ。大好きなかず兄と、久々に一緒にいられる。それだけでも至福だというのに、その上で邪魔な姉も、うるさい弟もいない。二泊三日の独占状態という初体験。この状態でハイテンションにならずに、どうするというのか。
ソロスタイルで一人で寝ろだとか、一人で観光しろだとか言われ、寂しくなって腹が立つこともあるが、そんなことさえもすぐに許してしまう。だって腹が立っている時間がもったいないではないか。そもそも、かず兄がこんな感じの人間である事はよく知っていることだ。それでも、好きなのだからしかたがない。
「じゃあ、出発するぞ。ちょっとキャンプ場から離れているから、またしばらくかかるぞ」
「ウーッス。でもさ、
いい風呂だと連れてきてくれたのは嬉しいが、往復で1時間もかかるのはバカにならない。
「まあな。だから、明日は悪いけどキャンプ場のシャワーで我慢してくれ」
「ん? 明日は温泉に行かないの?」
「明日はちょっと時間がないと思うしな」
「……?」
なんで時間がないのかわからないが、晶はかるく流した。まあ、明日は帰宅の前日だから、片付けなどがあるのかもしれない。
「そういえば来週末だよな」
車が走りだしてから、かず兄は思いだしたように開口した。
「クリスさんが退院するのは」
「ああ、うん。かーちゃん、経過観察も問題ないみたいだし」
「手術が上手くいってよかったよな」
「うん。これも、かず兄のおかげだよ」
何度も言った感謝のセリフ。
しかし、こう言うと必ずかず兄は苦笑する。
「手術が上手く言ったのは、お医者さんのおかげだ。俺は金をだしただけだからな」
「またそういうことを言う。そのおかげじゃんか……」
「まあ、俺がやりたくてやっていることだ。直也さんの代わりに、このぐらいはやらせてくれ」
今は悲しさよりも懐かしさが蘇る父の名前。かず兄は、その名前をいつも親愛をこめて呼んでくれる。
それは自分と同じ想いをもってくれているという、強い証。
晶は胸にわく温かさに、自然と微笑する。
「……うん。とーちゃんも、きっとかず兄にお礼を言っていると思うよ」
「まだまだ、礼を言われるには足らないよ。独りになった俺を助けてくれた直也さんの分もあるけどさ、クリスさん、それに晶子ちゃんや晶ちゃん、直己にだって俺は助けられている」
かず兄は、晶子に勉強をさせて仕事を与え、晶と直己の学費まで負担している。それが夫を亡くしてから体調を崩しがちで、まともに働けなくなった母親にどれだけの助けになったことか。
それでもまだ、かず兄の恩返しは終わっていないという。
「もう、かず兄……十分じゃないのかな……」
思わず晶は、今まで言ったことがないことを言ってしまう。
もしかしたら、頭の中で「自立」という単語が拭き取っても落ちない、ガラスについた汚れのように残っていたせいなのかもしれない。
そしてそれは自分だけではなく、「入谷家」として拭き取らなければならないものだと、わかっていたからかもしれない。
きっと、ひとつの縁を切ることにも繋がりそうで怖かった言葉。
だから、伏し目でやおら唇を動かす。
「そんなにオレんちのために――」
「――そう言うなよ」
かぶせ気味に返ってきたのは、いつもと違う声色。
その色は、遠慮気味なのに、強い否定の意志を見せる。
思わず晶は、かず兄の顔を見る。
「まあ、なんだ……お礼だけじゃなく……その……」
次の言葉をあぐねる口角が、引きつったようにつりあがる。
そして、それをほぐすように右手の人差し指が頬を掻く。
「今までちゃんと言ったことはなかったけどさ……俺は、本当に晶子ちゃんも晶ちゃんも直己も家族みたいに思っているんだ。だから、三人が自立できるようになるまでは面倒見させてくれよ」
途端、かず兄の頬が沈みかけの夕日よりも赤くなった気がした。
それは晶が初めて見る、かず兄の表情。
思わず、晶はかず兄から顔を背けて窓の方を見る。
「……ああ、くそっ。恥ずかしいこと言ったか? もしかして、笑ってるな!」
「そっ……そんなことは……」
晶の声が震える。
「やっぱり笑ってんじゃないか……」
「…………」
晶はそれ以上、応えられなかった。
笑っているわけじゃない。
でも、頬の緩みが収まらない。今、口を開いたら何を言ってしまうかわからない。
(やべぇ……やべぇよ、かず兄……照れてるかず兄が、かわいすぎるぞ!)
晶は身震いするように悶えながら、一人で鼻息を荒くしていたのである。
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