入谷家
第一一話「あきらめかけた。けど、あきらめきれなかった」
「アキ姉、ただいま~」
六畳二間と四畳半、ダイニングキッチンがある、3DKのマンション。
さほど広くはないので、玄関からの声はどの部屋にいてもだいたい届く。
だから、キッチンにいた晶もすぐに反応する。
「おーおかえり。買い物、サンキューな」
キッチンのドアを開けて、ショートカット頭を廊下に突きだした。
玄関先には、靴を脱いで上がろうとしている、紺色のトレーニングウエアを着た弟の姿。
片手に小さなビニール袋、さらに玄関には大きなビニール袋が二つ置いてある。
「重かっただろ、平気か?」
「このぐらい問題ねーよ。もう一四だぞ、おれ。身長もアキ姉と変わんねーし」
そう言った弟の体を頭から足下まで流して見る。
自分と同じ陸上競技に進んだ弟は、確かに少し前からかなり立派になっていた。
ただし一言で陸上競技と言っても、「走る」「跳ぶ」「投げる」と種類がある。
その中で「走る」ことを選んだ晶と違って、「投げる」を選んだ弟の直己の体つきは随分と違っていた。
細身でひきしまった筋肉の晶に対して、直己の筋肉は全体的に少し分厚い。
言い方を変えれば、まだ中学生にもかかわらず男らしい体つきだ。
だが、その表情にはまだまだ幼さが残っている。
やはり、晶から見たらまだまだ「子供」なのだ。
「まあ、確かに図体だけは大きくなったな」
「アキ姉……また、
直己は、晶と同じような褐色の頬を弛ませた。
そして重そうなビニール袋二つをヒョイと持ちあげ、台所まで運んでくる。
飲み物類が多く入っているのでかなり重いはずなのだが、確かにそれほど負担にはなっていないらしい。
さっさとテーブルの上に荷物を置くと、彼はふと振りかえって廊下の方を見ながら言った。
「で、アキ姉。姉貴の具合はどうなんだ?」
「ああ。もうかなり熱も完全に落ちついたし、本人的には元気みたいだぜ。さっき、コッソリ仕事してやがったから、今日ぐらいは寝てろって言ったぐらいだかな」
「たっく。姉貴はワーカーナントカだな……」
「それ、ワーカーホリックな。今の仕事が楽しいんだろ。……んじゃぁ、夕飯作るぞ。そろそろスタミナがつくもんでも作るか」
「おお、いいな! 頼むぜ、かぁちゃん代理!」
「任せろ!」
柴犬の刺繍が入ったピンクのエプロンをつけたまま、晶は直己の買ってきた荷物をあさる。
先週の木曜日の夕方から具合が悪くなった晶は、インフルエンザにかかっていた。
おかげで泊と遙と一緒に遊びにいく予定だった週末は、まるまる寝たっきりだったのだ。
その後、熱は数日で下がったが、しばらくは学校を休まなくてはならない。
これは退屈そうだと思っていたが、そうはならなかった。
もう治ると思っていた矢先、看病をしてくれていた姉にインフルエンザが移っていたのだ。
今度は逆に、晶が姉の晶子の看病をすることになった。
そのために今日は学校に行ったものの、部活にもでずにすぐに帰ってきている。
(ホント、姉貴には悪いことしたな……)
姉には自分の看病とインフルエンザで会社を休ませることになってしまった。
忙しいと言っていたのに、申し訳なくて仕方がない。
せめてこれ以上、仕事で迷惑をかけるわけにはいかない。
「様子、見てこようかな……」
案じる直己を晶は止める。
「やめとけ。オマエまでうつったらどーすんだよ。それより、オマエの部屋に荷物おいといたぞ」
「オイ! またおれの部屋に勝手に……」
「かず兄から、荷物だ。たぶん、誕生日プレゼントだろ」
「――マジか! やった!」
顰めっ面から一転して、
直己がすごい勢いで踵を返す。
「ちゃんとかず兄にお礼を言っておけよ」
「わーってるって! ついでに、アキ姉のかわりに『アイシテル』って言っておいてやるよ!」
「――っ!? ざーけんな、バカ!」
カァーッと熱くなった晶の言葉なんて聞いてない。
直己は、さっさと自分の部屋に走って行った。
(――ったく)
晶が「かず兄」を「兄代わり」ではなく、「一人の男性」として見たのは、たぶんかなり早い時期だった。
小学生高学年の頃には、もう「お嫁さんになる」と心に決めていたぐらいだ。
ただしそれは、「お姉ちゃんと一緒にお嫁さんになる」という子供らしい願いだった。
それになんの疑念もなかったし、当たり前だろうと思っていた。
しかし、今の彼女の願いは少し違う。
幼い頃のような純粋な願いではなくなっている。
(このまま……ってわけにもいかないし。オレもこのままじゃ……)
野菜を洗い、肉を焼きながら晶は、またモンモンとする。
ここしばらく家で大人しくしていたせいか、よけいそんなことを考えていた。
(って言っても、オレとかず兄だと今は、飯ぐらいしかつながりが……)
昔はもっと気楽に、勉強を教えてもらったり、遊んでもらったりしていた。
だが彼が忙しくなってからは、その機会も少なくなってしまった。
チャンスらしいチャンスと言えば、たまに食事をしに来てくれるぐらいである。
もちろん、何も手を打たなかったわけではない。
たとえば晶子と一緒にキャンプへ連れて行って欲しいと、お願いしたことがあった。
ところがいつも大抵の願いを聞いてくれる彼が、初めてキッパリと断ってきたのだ。
――ごめん。キャンプはソロで行きたいんだ。
あまりに申し訳なさそうに言うので、晶も晶子もそれ以降、キャンプに連れて行ってと言えなくなってしまったのだ。
しかも、その頃には毎週のように彼はキャンプに行くようになっていた。
つまり唯一、一緒に過ごせそうな彼の休日が、キャンプに奪われてしまったのである。
(最近は友達とはキャンプに行くくせによ……。しかも、いつの間にか彼女とか作るし! 彼女ともキャンプ行くし! ……ま、まあ、別れてくれたけどよぉ、また彼女を作られたりしたら……)
最悪、本当に最悪でも、結婚相手は晶子であって欲しい。
もちろん、晶自身が結婚したいのだが、それが難しいことはよくわかっている。
年齢も離れすぎているし、彼は自分のことを妹としてしか見ていないこともわかっている。
そして今のところ、それを覆す手段など思いつかない。
(ああ~ぁ。とまりんみたいにソロキャンプ始めたら……かず兄も興味持ってくれっかなぁ)
今日、久々に学校で泊と会った。
その時、先週末に行っていたソロキャンプの土産話を泊からいろいろと聞いたのだ。
多くは「肉がうまかった」「こんにゃくがうまかった」「鮎の塩焼きがうまかった」という、食べ物の話ばかりだったが、キャンプで不安になったり、楽しくなったりという話もしてくれた。
内容はともかく、その話す姿を見ていると、まるで泊に置いて行かれたような気がしてしまうのだ。
(なんかそう言えば、とまりん……キャンプ、始めてから変わったし……)
「――アキ姉~!」
明るい声と共に、直己がまた戻ってきた。
その手には、直己自身のスマートフォン。
「ん?」
料理の手を止めた晶に、直己が妙にニヤニヤとする。
「かず兄が替わって欲しいってさ」
「――!! お、おお……」
たぶん送られてきた誕生日プレゼントの礼のために、直己が電話をかけたのだろう。
そのついでだろうが、わざわざ電話を替わって欲しいというのはどういうことなのか。
ついさっきまで考えていた相手と言うこともあり、晶は妙に緊張してしまう。
手を洗ってエプロンを取ると、そそくさと直己の元に行く。
ニヤニヤとしている直己をひと睨みしてから、晶はそのスマートフォンを受けとった。
そして直己を部屋に戻るように追いはらう。
「も、もしもし。晶です」
『おお、こんばんは。ひさしぶり、晶ちゃん』
「こ、こんばんは。かず兄、ひさしぶり……です」
『インフルエンザ完治してんだよな。大丈夫か?』
「う、うん。心配してくれてありがと。オ……あたしはもう平気。……で、なにかようですか?」
『ああ。晶子ちゃんの具合はどうかな?』
胸にチクリとくるが、考えてみれば当たり前だ。
このタイミングで晶子の話題が出ないわけがない。
「あ、ああ、うん。熱も下がったし、本人も元気だ……です。さっきも仕事しようとしてやが……しようとしてたから、慌てて止めたよ」
『あはは。そうか。来週明けまでは自宅待機だから、大人しくさせておいてくれ。仕事の方はこっちでやっているから心配ないから』
「うん。了解。ごめんね、あたしのために仕事で迷惑かけて」
『晶ちゃんのせいじゃないだろう。病気は仕方ないさ。ただ……うーん、そうだな……』
電話の向こうで、かず兄が口ごもる。
言いにくいのか、悩んでいるのか。
とにかく困っているなら、こちらから手を差し伸べなくてはならない。
「な、なにか困っていることあるの、かず兄?」
『困っているというほどではないんだけど、実は晶子ちゃんと今週末にキャンプヘ行く予定だったんだ』
「――へぁっ!? あ、あ、姉貴とキャンプ~ぅ!?」
まさかと、思わず素っ頓狂な声をだしてしまう。
ソロキャンプにこだわっていたかず兄が、まさか晶子を誘うとは思わなかったのだ。
そもそも彼が女性と二人きりでキャンプしたのは、元カノとだけのはずである。
つまり……だが、いや待て、おちつけ。
まだ、そうと決まったわけではない。
「……あ、ああ。もしかして、あれかな? 会社の慰安旅行みたいな? みんなでとか?」
『いや、晶子ちゃんと二人でだったんだけどな』
「…………」
これは、確定だ。
すでに二人の仲は、そこまで進んでいたのだ。
自分の出る幕など、とっくになかった。
「そ……そう……」
泣きそうになる。
わかっていたことなのに、涙が溜まり始めてしまう。
後悔しないつもりだったのに。
『まあ、会社のイベントという意味では近いんだけど』
「……へ?」
ところが急に流れが変わって、晶は息を呑む。
『もう晶ちゃんは聞いているだろうけど、晶子ちゃんに今度、キャンプ用品関係の会社を任せることになったんだ。けどさ、晶子ちゃん自身にあまりキャンプの経験がないだろう?』
「う、うん。たぶん、学校行事で行ったぐらい……オレ……あたしもだけど」
『ああ、そう聞いた。だけどキャンプ関係の仕事するのに、それはまずいだろう。やはり経験をある程度、積んでおかないといけない。だから、まずはキャンプを体験させようかと思ってさ』
「あ、ああ……ああっ、そうか! 仕事の一環か!」
『ん? ああ、そうだが……』
「そうか、そうか。そーだよなー、うんうん……」
安心したら、限界ぎりぎりで涙が引っこんだ。
同時に自分がどれだけ覚悟ができていなかったかを思い知る。
『企画しているキャンプ用品は、若い女性向けをメインに攻めようと思っている。だから、晶子ちゃんにも、どんな需要があるのか体験して知ってもらおうかと思っていたんだけど……』
「なるほど。それは確かに必要だね」
『でさ、若い女性って実は高校生ぐらいから考えていて、できたら晶ちゃんの意見もと思ったんだけど……前に晶ちゃん、キャンプなんて面倒くさいだけだみたいなこと言っていたから』
言っていた。
確かに言っていた。
しかし、「面倒くさい」はキャンプに対する嫉妬からでた言葉だ。
本当に「面倒くさい」などと思っていたわけではない。
『キャンプ場の予約も取ってあるし、せっかくだから代わりに晶ちゃんに参加してもらおうかと思ったけど、嫌がっているのを無理に――』
「――行く! オレ……あたし行く! 絶対になにがあっても行く! 死んでもド根性で行く!」
『ド根性!? ……でも、今はキャンプに興味がなかったんじゃ……』
「いや、ありまくりだ……です! じ、実はさ、友達が最近、キャンプにこりはじめてさ! だからその影響で、あたしも興味すげーでてきてて……。ああ、ちょうど良かったなぁ~。キャンプ、行きたいと思ってたんだよ、かず兄!」
『そ、そうか……。それなら確かにちょうど良かったんだけど……』
これはチャンスだ。
もしかしたら、覚悟できていない自分に、神様がくれた最後のチャンスかもしれない。
ここで勝負をする、もしくは妹としてではなく別の関係性を築く必要性がある。
その後、詳細はメールでやりとりすることになり、電話を切った。
そしてスマートフォンを弟の部屋に返しに行く。
「直己、協力して欲しいことがあるんだ」
嫌がる弟の部屋に押し入ってドアを閉めると、姉の威厳を大いに見せつけるように胸を張る。
「な、なんだよ、いきなり……」
「今週末、出掛けないで姉貴の面倒を見てくれ。もうかなり元気だから、大して面倒を見ることはないと思う。あくまで念のため。まあ、飯を買ってくるぐらいでいい」
「えーっ。おれ、久々に友達と遊びにいこうと……」
「協力してくれなかったら、今日の牛丼から未来永劫、おまえのだけ肉抜きな!」
「そっ、それ、ただのタマネギ丼じゃねーかよ! おれの大好物……」
「最悪、タマネギも抜きだ」
「汁丼!?」
この偉大なる姉の威厳により、弟は泣く泣く従うことになったのである。
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