袋田温泉・関所の湯
第一五話「執筆をがんばろうと思った。ところが、怠けた」
この季節、バイクで走るには最適な陽気だった。
少しだけ冷たい風も、防寒性のある上下のウェアを着ていれば、むしろ心地よいぐらいだ。
(【イージス】シリーズ最強! やはり【ワークマン】のコスパ、リミットブレイクしてるぜ……)
泊の予算でも、機能性抜群の上下ウェアがそろえられる。
ネットでワークマンのウェアがキャンプやバイク乗りに向いているという記事を読んで買いに行ったのだが、確かにコストパフォーマンスは素晴らしい。
来月の予算では、キャンプに適した靴も探してこようと決心したところだった。
ちなみに泊には、小説の収入がかなりある。
メディアミックスによる展開もあるので、そちらの収入もあわせると一般的な大卒の社会人一年生など目ではないほど稼いでいる。
しかし現在、収入の多くは、わけあって家庭に入れていた。
前々からそれなりの額は入れていたのだが、今では家のローンも、父親の車のローンも、家族の食事代さえも、泊の収入で賄っている。
また「収入がいつなくなるかわからない仕事だから」と編集者に警告され、しっかりと貯金もしていた。
だから、収入が多くても際限なく使えるわけではない。
(でも、冬用のテントは買いたいな……重版出来、重版出来!)
そんな呪文を唱えながら、緑の多い、くねくねと曲がった山道でアクセルを開ける。
と言っても、大した速度はだしていない。
こういう風景の道ならば、ゆるりと走った方が楽しめる。
それに大量に載っていた荷物を下ろしたせいか、愛車PS二五〇のエンジン音も軽い。
まるで、愛車も一緒になって走ることを楽しんでいるかのようだ。
(気持ちいい……)
爽やかな草木の香りが鼻を撫ぜられ、自然に泊の口元が自然に緩む。
おかげで、つい先ほどまで「あんなに笑わなくてもいいじゃないか! ソロさんのセクハラオヤジ!」と、ムスッとふくらんでいた頬もいつの間にか鎮まっていた。
今は車の通りが少ない、上り坂の二車線。
このあたりまで来ると、スマートフォンのカーナビ案内はほとんど一本道。
右手に山の生い茂る木々。
そして左手には、たまに崖下の川がうかがえるだけでなにもない……と思っていると、店舗が唐突に現れる。
道沿いには幟も立っており、よく見ると【奥久慈しゃも生産組合】の文字が読み取れた。
(ほむ。ソロさんが寄ったのはここか。近くていいな。……やはりここは、帰りに晶へ
そんな自らの思考に「お土産とは?」と
今の目的地は、ここではない。
向かう先は、旅の楽しみのひとつ――温泉である。
(今日はまだ執筆できていないからなぁ。風呂をとっととすませて、早く戻らないと……)
執筆スケジュールは、わりとギリギリだ。
これは日常的に、キャンプのことを調べていたり、キャンプの準備をしていたりしていたことが原因……とは思いたくないが、そう言わざるをえない。
さらにキャンプ当日には、キャンプ場までの移動や準備に時間をとられてしまう。
効率よく集中して執筆をするためにキャンプという手段を取っているのだが、このままでは本末転倒だ。
もちろん、執筆キャンプには気分転換や、普段は得られない情報のインプットという役割もある。
(しかし、それにしても時間とられ過ぎか。池袋さんに、かるくプレッシャーかけられたし……)
わりと筆の進みは早い泊だったが、先日初めて担当編集から「少しペースが落ちていますね」と言われたことを思いだす。
確かに最近、執筆生産量が落ちている。
まだストックがあるので今すぐ困るほどではないのだが、やはり余裕はもっておきたい。
そろそろペースアップをしなくてはならない。
(――ほむ? こんなところに、ピザ屋?)
そんなことを考えながら走っていると、右手にいくつかの店舗と駐車場が見えた。
スマートフォンのナビソフトで確認すると、ちょうど右折ポイントにあたる場所だ。
(ピザ屋の隣……ゆばの店? その隣がこんにゃく関所? 向こう側は大黒大福? 和菓子屋か? カオスな並びだな……)
目的地への案内看板を見つけて、こんにゃく屋と和菓子屋の間の道へ右折する。
この脈絡のない店は、どれもこれも気になるが、それは後回しだ。
狭い山道をしばらく登ると、目的地はすぐだった。
右手に並ぶ、【袋田温泉 関所の湯】の幟。
そして現れる、横長で一階建ての古めかしい旅館を思わす建物。
【袋田温泉 関所の湯】
http://sekisyo-no-yu.com/
(だいたいキャンプ場から一〇分ぐらいか……近くてよいのぉ。良き哉良き哉)
バイクを止めて一通り眺めてから、石垣のような壁に挟まれた玄関を通る。
すると、すぐにさほど広くはないがホールがある。
左手には下駄箱、受付、売店。
どうやら左奥には大きな食堂があるようで、その場で食事もできるらしい。
中央には、丸太型の椅子に、木製の長テーブル。
そして右手には、なにか謎のオブジェがある。
作り物の石で囲まれた滝を模したものらしい。
(なんじゃありゃ……)
とりあえず受付をすませて、すぐさまそのオブジェを確認しに行く。
(誰かもぐっとる……)
滝の下にいたのは、縦長の頭にタオルを載せた老いた男の人形だった。
頬から顎、そして口の周りまで白いヒゲで覆われている。
説明を読むと、どうやら【袋田仙人】というらしい。
そして滝ではなく、どうやら温泉を模したオブジェらしい。
下からせりあがってきて、温泉につかりながらいろいろと説明してくれるようだ。
(ほむ。このわたしに説明などいらんのだよ、仙人様。えーっと……ここの泉質は、ナトリウム、硫酸塩・塩化物冷鉱泉と……。ほむほむ、なるほど……まったくわからん!)
スマートフォンでホームページに記載されていた「効能」の項目も見るが、神経痛やら筋肉痛、冷え症など、たくさんありすぎてみるのが途中で見るのが面倒になる。
(ほむ。要するに健康にいい温泉ということだな! よくわかった!)
いや、わかっていなかった。
今の泊に、細かいことを考えるキャパシティなどなくなっていたのだ。
長時間のライディング、そしてテントの設営に、テンションが上がる再会と、エネルギーを使いまくってしまっている。
端的に言えば、かなり疲れているのだ。
(まずいな。このままでは、執筆もままならない。……でも、ひとっ風呂浴びれば、頭もリセットされるはず……)
とりあえず楽観視して、温泉に向かう。
とにかく温泉だ。
温泉でゆっくり疲れを癒したい。
(そうしたら急いで帰って執筆だ!)
だが、泊は忘れていた。
温泉は諸刃の剣だということを。
湯船から出た泊は、むしろ入浴前より強くなった疲労感に襲われ、少しぐらいいだろうと、ついついホールでラムネを飲みながらテレビを見て、湯上りをまったりと楽しんでしまい、気がつけば多くの時間を費やしてしまい後悔する。
そんなことになろうとは、今の泊は知る由もなかったのである。
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