第七話 紫の章―虹の終わり

 もうすぐ始まってしまう。あいつを天に送るカウントダウンは、もうすぐ終わりを迎えてしまう。

「姉ちゃん……って、イタッ」

 飛んできたのは枕だった。坂登翠愛用の、ステッチが可愛いデニム柄の枕だ。

「姉弟でも、踏み込んでいい場所ダメな場所がある。本当、デリカシーのない」

「姉ちゃんが気づかないから悪いんだ。呼び出しといてさー」

 内線で弟を呼び出したのは、確かに私だ。しかし、ノックもなしに女性の部屋に入るとはいかがなものか。母がいたらビンタの一発も喰らっていたに違いない。

「姉ちゃんさあ」

「……」

「すみません、翠……さん」

「ここは私の部屋だし、姉ちゃんでいいわ。実は気持ち悪かったのよ、あんたが私を翠さんと呼ぶのは」

「だよねえ、姉弟だもんねえ」

 弟は、性格が母によく似ている。死んだ妹がつくった婚外子を、軍から簡単に引き取ってしまう人の好さ。のんびりしているように見えて、きちんと現実を見据えているまっすぐな心。

「向井……紫恩の居場所、分かる?」

「姉ちゃんとこにも本隊長来たの?」

「ああ。青白くて見ていられなかった。あの馬鹿、女を泣かせやがって」

「姉ちゃん言葉が乱れてる。でも、もう明後日なんだよね。計画実行の日。ずらせないの?」

「萌田さんは解析分野のプロフェッショナルよ。予備日も含めて探し当てた日程らしいし」

「計画に志願した民間人は百パーセントで、僕たちを入れると、ちょうど艦が飛ぶのにぴったしらしいよ。伊東さんが言ってた」

 伊東が寝る間も惜しんで紫恩の穴を埋め、計画は最終段階までこぎつけることが出来た。予備実験も全て済ませて、あとは本番を待つのみ。精神の安定のため、当日までは好きに過ごせと、伊達将軍からお達しがあった。

 それにしたって、向井逃亡後の伊東の集中力は凄かった。艦のマシンチェック、コンピュータチェック、酸素発生器チェック……紫恩の細密な指示書の通りにやっただけと言っていたけれど、伊東自身も天才肌で、上官である紫恩はやはり科学の神に選ばれた男なのだろう。

 このまま――飛ぶのか。

 

 紫恩、このままでいいのか?

 お前を愛してくれる、希少価値の高い女を泣かせたままで。



◇◆◇



 愛しき君が、久しぶりに俺の元に訪れた。


「伊東ッ!」

「おまえ……隊室のドアまで壊すなよ」

 どんな育ち方をしたら、頑丈な科学隊室のドアを凹ませることができるのやら。計画隊に招集される以前、不定期に男子寮の俺の部屋の窓を壊して侵入していた。隣室のやつなんかにデストロイヤーと揶揄されていた女だが、招集後は落ち着いていたのに――

「行くわよ、合コン」

「馬鹿。明後日に迫ってんのに、そんな気になれるかっての」

「そのまま返すわ。そんな気を吹っ飛ばしたいから、合コンするのよ。早くセッティングしてよね」

「西谷、そんなことじゃ向井隊長をおとせないぞ」

「……簡単に地雷を踏むな」

 やっぱり、西谷も知っていたか。軍のトップ機密、少なくと宇宙空間に耐えられないことくらいは。

「告白して来いよ、ずっと好きだったんだから」

「嫌よ」

「そうやって自分の気持ちに嘘ついて、苦しんで、俺にあたって。三つめはどうでもいいんだけど、そのうち本当に心が壊れるぞ」

「じゃあ、どうしろって言うのよ!! 死んじゃうんだよ、向井紫恩。このまま宇宙に行ったら、彼は確実に死ぬわ」

「じゃあ、搭乗するなとか、サードの位置ずらしてくださいとか、言えばいいんだ。どうして自ら動かないんだよ。西谷水香はアクティブがウリのはずだろう」

「……あたしが何を言ったって、無駄よ。本隊長に伝えたのに、なんの措置もしてくれない。無慈悲な女よね」

 違う。

 違うよ、西谷。

「あの女、向井紫恩が好きなのよ。なのに、止めもせずに……」

「チームに於いて科学隊長はナンバーツーだ。本隊長の命に背いたって、おかしくない立場だろ」

「何が言いたいの」

「それに、本隊長が“いくな”と言っても、向井隊長は“いく”と言うはずだ」

「言わないで」

「向井隊長だって、本隊長を想ってる」

「やめて」

「本隊長のためなら、邪魔な命を狩るし、自分の命を投げ出す。極端な性格を、お前は理解しているはずだ」

「やめてよ!!」

「水香!!」

 凛田紅莉は、とてつもない重圧と恩情の上に立っている女性だ。だがそれは、手に入れたい男を想う同性がいたら、すぐ気持ちを殺すような幼い思考と同義だ。思いやりと、譲り合いは、違うものなのに。

 でも、そういう人だから本隊長が務まる。大勢の命を預かるリーダーは、その二つが同居しなけりゃいけない。

 分かれよ。分かれよ、水香。


「なんでよ。なんであんたが泣いてんのよ……」


 愛する女は、尊敬する上官を想っていて。

 その上官は、別の女を愛していて。

 その女は、上官を――


 分かってくれよ。


「水香……」


 誰にも愛されない、俺を分かってくれよ――


「何」

「俺、お前がわかんねえよ」

「当り前じゃん。そんなん、あたしだって分かってないんだから。負けよ負け。本隊長に負けたの、あたし」


 だから、泣かないで。蒼。



◇◆◇



 ずっと一緒に入れたら幸せだね。でも、人間に“ずっと”はない。三十年にも満たない人生でも、それは分かる。


『ママはずっと、橙子と一緒よ』


 そういって、ママは橙子を捨てたんだから。



「さすが、よくわかったね。確かに、橙子は知ってるよ。向井の居場所」

「消去法だ。坂登姉弟を頼ればすぐばれるし、伊東と西谷は向井を心酔しているから口を割るとは思えない。萌田しか、頼る人間はいない」

「誰にも頼らずに、って選択肢はないの?」

「誰にも何も言わずに消えるなんて無責任なことを、向井がするはずがない」

 向井が姿を消してから数日、本隊長が業務をこなしながらずっと走り回っていたのは知っている。それを見て、何度も向井との約束を破りそうになったけれど。


『橙子ちゃん、俺は今から姿を消す。やらなきゃいけないことがあるんだ』


 珍しく神妙な顔をして、無力な橙子を頼ってくれた。それが単にうれしくて。


『多分、凛田本隊長が探しに来る。でも、教えないでくれないか』

『なんで橙子に頼むの?』

『橙子ちゃんだから』

『えー、自信ないよう。相手は軍の秘蔵っ子なのに』

『これ、渡しとく。ちゃんと凍らせといた』


 テストミッションの時から、橙子は向井を支えるって決めた。色恋ではなく、同僚として。

 でも。


『バナナ……』

『頼むよ、橙子ちゃん』



「……向井紫恩は、もう乗ってる。軍が技術の粋を尽くして作った、サード移住計画対応巨大輸送艦。通称“レボリューション”って言うんだって。何をするつもりかは、知らない」

「じゃあ、格納庫か」

「捜すのは無理よ。東アジア圏だけで、どれだけ格納庫を持っているのか、知らないとは言わせないよ」

「それでも、捜す。説得する。科学の力が追いつくまで、星で待っていてほしいと……」

「どれだけ自己中心なの。それが向井の首を絞めてるんだよ」


 御免、向井。

 やっぱり秘密はダメだよ。橙子はママみたいな女になりたくない。


『橙子ちゃんは、橙子ちゃんのままでいいんだから、好きに生きていいんだ。俺たちは人類を救わなきゃいけない。でも、俺たちだって人類だ。俺たちも、救われなきゃいけない。そうしなきゃ、等号で結ばれないだろ』


 橙子は、橙子のままで生きる。迷惑かけない程度に、思う道を好きに生きるよ。

 そう言ったのは、向井じゃない?


「向井のことが好きなら、向井の願いをかなえるべきだよ。それにトップにぐらつかれたら、その下の橙子たちは不安になる」

「萌田……」

「泣いてもいいよ。だけど、毅然としててほしい。あなたは、それができる人よ。落ち込むのは、サードが落ち着いてからにしてね」

 凛田本隊長の白い肌に、一筋の雫が伝う。気づいていないのか、目は開いたままだ。そのまま、どんどん涙があふれる。子供の様にしゃっくりを押し殺す彼女は、まだ残る幼さを通り越して美しいと思う。


 二人の倖せが叶う時、人類のタイムリミットがデッドラインを割る。

 なんて、切ない。もどかしい。

 たぶん、皆が思ってる。



 “サードで、向井紫恩に会いたい”

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