三 困惑とともに笑う男

 困惑と憐みを笑顔で隠す男――宮本みやもと修二しゅうじが最初に目にしたのは、コンクリート製の天井であった。身体を起こして今まで寝ていたベッドの隣に設置されていた机の上に置かれたA4サイズの紙を手にして内容を見た。

 それには、今の自分がおかれている状況が事細かに書かれていた。宮本修二が既に先の長期間に及ぶ仕事の最中に死亡していること。自分が彼に何か起きた時の為の予備の体であること。これからは亡き宮本修二として生きる義務があること。そして彼が今現在している仕事についてである。

 彼は、今宮本修二と名乗る男はつまり、所謂人クローンであった。

 自分の人生が強要されていることにさして疑問を持つこともなく、彼は誰にも聞こえていないのを承知で小さく「了承した」と呟いた。

 彼は宮本修二としての行動を開始した。とはいっても、彼には元である宮本修二の記憶がないし、厳密には別人であるために、かつての「彼」と同じ行動が出来るかと言えばいいえである。しかしどれだけ考えても仕方がないことだ。故に、彼は好きに動くことにした。どうせ上は仕事を宮本修二らしく行えば文句は言うまい。実際に、机に置いてあった紙――指令書には、私生活までらしくしろとまでは書かれていなかった。書いていないことまではやらない―まあまずもってできようもない―のが、今の彼の在り方である。それからは細々とした上からの仕事をこなしていった。

 目が覚めてから――宮本修二として生きるようになってから一ヶ月ぐらい経った頃に、彼は桜田さくらだ敬一けいいちと名乗る男―最初の接触では彼は名乗らなかった―と出会った。その時は思わず誰だと問い掛けてしまった。僅かな会話から彼が「宮本修二」の私生活での友人であると察せられ、彼は今更ながらに私生活を調べなかったことを後悔した。走って去っていく直前の、彼の絶望したような表情が頭を離れない。罪悪感から帰宅してすぐに上に問い合わせたら、かつての「彼」の親友であり、相棒であったという。ついでに言えば、この桜田敬一は狙撃手としては一流の部類であり、その道に身を置く人で知らないものはいないとまで叫ばれるようになった人物である。彼はベッドを両手の握りこぶしで激しく叩いた。そのような重要なことは、初めから資料として添付してほしかった。宮本修二として生きろと指令を下しておきながら、裏でも付き合いのある人間との情報を渡さないなど馬鹿といえる所業ではないだろうか。敬一には確実に記憶喪失と思われてしまったに違いない。次に会った時に思い出したと言っても恐らく彼は信じることはないだろう。先程みせた表情で分かってしまった。彼は人間としては酷く面倒くさい部類に入る人物である。思い出したのであれば、何かエピソードをそれとなく確認してくるであろうことが修二には理解できてしまったのである。

 敬一と初めて会った翌日から、やはりと言うべきか、彼は修二につきまとうようになった。やはり「修二」は記憶喪失であると考えたようで、「彼」の脳を刺激するようなことをして、記憶を取り戻そうと行動を起こしたようだった。最初は彼に対する罪悪感と、図らずも自らが真似るべき「宮本修二」のことが聞けるとあって付き合っていたものの、中々記憶を思い出さない「修二」に対して、彼の行動は段々とエスカレートしていくようになった。最後に提示された銃で頭にゴム弾を撃つというものに命の危険を覚え、修二は敬一から逃げ回る事を選択したのである。

 それから少しの間だけではあるが、彼は平穏を得た。逃げ回る中で気付いていなかったが、途中から敬一は、彼を追ってきてはいなかったのだ。

 ――ようやく諦めた、良かった。心底ホッとして、久し振りにゆっくり寝たいと、自室の寝室へと足を運ぶ。

 快眠を約束するはずの場所で、修二は悪夢の始まりをみた。

 自分にはもう安らぎはないのかと、思わずにはいられなかった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る