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 自分には姉がいる。愛らしい顔立ちの姉。優しい姉。弟思いの姉。無邪気な姉。無垢な姉。まだ幼い、両の指の数ほども生きていない姉。

 そして何より、この世の何よりも恐ろしい存在。

 そう、恐ろしくてたまらないのだ。彼女の存在が。悪夢でしかないのだ。彼女の存在自体が。

 悪夢。そう、悪夢だ。赤い夢。鉄さびと氷塊。怒号と悲鳴。被虐と加虐。加害と被害。夢のような現実。いや、あれは確かに夢だった。夢だというのに、なぜ自分は。

 夢とは記憶の整理のために見るのだという。ならば、自分の見る夢は過去の映像だ。遠い過去の。遠いいつかの。そしてそれは、いつなのだろう。数秒前? 数時間前? 数十年前? 

それともそれは、生まれる前のものなのだろうか。生まれる前。自分が自分として息吹く前。自分が自分でなく、彼であったあの時。

 夢はみれば大抵忘れるものだ。なのにあの夢だけは忘れない。彼への断罪か、彼の贖罪か。どうでもいい。問題は彼でなく自分が蝕まれていること。それ以上の皮肉が、ここにあること。

 彼女でない彼女を殺した彼であった自分が彼女になった彼女の弟になり、彼女の母に殺された彼であった自分の姉に彼女であった彼女がなるなんて。

 嗚呼、なんて馬鹿馬鹿しい。そう怯えながら、自分は笑って姉に手を伸ばす。自分は姉の前では決してぐずらない。怖いからだ。姉が恐いからこそ自分は笑い、媚びる。どうか愛してと。だからどうか、殺さないでと。

 因果応報という言葉がある。このめぐりあわせが因果なのだとすれば、それに応じ報いる罰は、一体。


「**くん、**くん。きょうはなにしてあそぶですか?」


 伸ばしたその手を握って、姉はあどけなく笑う。両親は今いない。あまりにも自分が姉になついているように見えるので、短時間の外出なら自分たち姉弟を置いていく。

幸い、両親は彼女になった彼女の父母ではなかった。つまり母は自分になった彼ではないということで。それがどれほど自分に安堵を促したか。


「おにんぎょあそびはきのうやったですね。おえかきは**くんがあまりすきではないです。どうしますか?」


 うむ、と愛らしい顔にしわを刻んでうんうん唸る姉に、ただ自分は怯えるだけだ。立つこともままならぬ幼児の身で、姉に抵抗などなぜできようか。出来ることは祈るのみ。

出来るだけ早い姉からの解放と、両親の帰宅。そうすれば、最低限命の危険はないだろうから。


「そうだ、おままごとをしましょう。あしたのあした、きりちゃんのおうちでやったのです。とてもたのしかったの、**くんもやりましょう」


 ぽむ、と小さな掌を叩いて、姉は笑う。きっと楽しいですよとニコニコ笑う。穏やかに愛らしく。ああ、それなら大丈夫だ。と、胸をなでおろす。

姉と二人でままごとなどやったことはないが、彼の記憶にままごとがどんなものかぐらいある。大丈夫だ、これで、危険など無い。


「おねえちゃんがおかあさんで、**くんはあかちゃんをやってくださいね」


 次いで、姉はそうだ、と目を輝かせた。いいことを思いついたと。そう言いたげなまあるい瞳。


「せっかくいいおてんきです。おそとにいくましょう! おかあさんはかってにそとにでてはだめっていうますけど、ないしょです」


 嬉しそうに笑って、人差指を口にあてる。愛らしい笑いだ。しかし、彼女は今何と言った?


「おままごとどうぐのはいったふくろをもって、いくますね。ちょっとまってください」


 とてとてと走る音と、帰る音。外に行く? 何を言っている。ここはマンションの二階だ。つまり外に出て遊ぶには階段を下りる必要がある。姉が自分をおぶさると? 

まさか。そんなことができるはずがない。不可能だ。ならばどうやって? 方法はあるのか? わからない。なにも。どういうことかわからず脳がパンクしそうになる。


「**くん、ほら、いきましょう。おねえちゃんとおそとです。うれしいでしょ?」


 恐ろしい。笑みがひきつる。しかし、泣いてはいけない。ないては、ないては。疎まれる。憎まれる。嫌悪される。憎悪される。ああ、それはなんて恐ろしい。


「ああ、でも**くんはまだたっちできません。あんよもできません。どうしましょ」


 こてりと傾げられた首。そうだ、そうだ。不可能なんだ。彼女であった姉に必死に祈る。諦めろ、諦めろ。


「ああ、そうだ。いいことをおもいつきます。よかったね、**くん。おそとです」


 フリーズ。なにを。などと思う暇もなく、風景が変わる。天井が動く。なにがなにがなにがなにが。なにがどうしてどうなって、どうなる?


「こうすれば、いいのです」


 足首にある違和感。右足首。まとわりつく暖かい感触。これは? これは、てのひら。姉の。てのひらが、足首をつかむ。なぜ? 意味が。

 ただ無意味に錯乱する中でも、姉は歩く。ままごと道具のはいった小さなバックを肩にかけ、両手で自分の足首をつかんで、引きずる。


「あ、あ、あ、」


 叫び声は出ない。恐怖に喉がひきつって。体は動かない。ただただ恐ろしさに戦慄いて。

――――衝撃。


「っがぁ……!?」


 肩と頭を襲う激痛。痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたい

イタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイ遺体。

 死という幻想死という発想死という衝動死という現象。襲いかかる黒き神。忌まわしき呪わしき鎌を振りかざすさまを幻視する。

 玄関の段差から落ちたのだという。わからない。痛みに回らぬ頭で思考する。次はなんだ。つぎは、つぎは。


「**くん。もうすぐかいだんです。だから、もうすぐそとですよ」


 かいだん。会談。怪談。戒壇。解団。……階段。

 姉は愉快に鼻歌を歌いだす。有名な歌の替え歌を、上機嫌に歌う。


「あーそーぼー、あーそーぼー、**くんとー、ふたりでー」

「あ、あ、あ、あああ、あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ

ああああああああああああ」


 叫ぶ。叫ぶ。恐怖など通り越し、恐ろしさは姉よりも、死に対し。死にたくない死にたくないしにたくないしにたくない。これは罰か贖罪か。しかし自分は彼ではない。

彼ではないのだ。自分は彼ではないのならどうして死なねばならぬ。いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ。


「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」

「こら**くん、はやくあそびたいのはわかるけど、なくのはめっ」


 その言葉に、ひくりと喉が鳴る。一瞬のその沈黙に、彼女はにこりと笑った。


「うん、いいこね」


 そしてまた歌いだす。

 一歩。

――――激痛。

 一歩。

 ――――激痛。

 一歩。

――――激痛。

ガコン。ガコン。ガコン。頭を打ち、肩を打ち、腕を打ち。激痛鈍痛絶痛疼痛。痛みからの逃避と夢への回帰。


「あーそーぼー、あーそーぼー」


 ガタン。

夢? いいや違う。


「**くんとーふたりでー」


ゴトン。

彼? いいや違う。


「あそぶのー、だいすきー」


 ドン。

夢ではなくあれは明らかに現実で。


「どんどんゆーこーう」


 ゴン。

 彼ではなく確かに自分で。


「ままごとーおえかきーおにんぎょあーそーびー」


 ゴツン。

 ならばあれは。ならば彼は。


「おうちあそびにー、おそとあーそーびー」


 ガツン。

 彼女になった彼女は、まさしく。


「かいだんおーりーて、おままーごーとー」


 ガコン。

 ――――ああ、やはりこれは原初の十字架。







 後に残るは無邪気に笑む血まみれの少女の姿と、血と汚物にまみれ、歪な十字架を描いた小さな小さな弟の肢体。

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十字架の夢と無邪気な出来事 @mas10

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