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「……この時間帯は、何と言ったらいいのかしら」
「さあ。きっと、貴女のお好きな通りに」
「じゃあとりあえず全部言いましょうか」
「全部?」
「全部。まずはお早う」
「次はこんにちは?」
「そう、で、こんばんは」
「じゃあ、しめはこれでいかがですか?」
「これ?」
「ええ。はろー、『人嫌い』さん」
「ああ。はろー、瀬野仁茂君」
朝なのか夕なのか。はたまた夜なのか。全くわからないその空間で、青年と女は座っていた。常ならば光の差し込む天窓から与えられる明かりはなく、あるのは互いの視力のみ。
「不思議ね。もしかして、あの世かしら?」
「僕がいる時点で違うと思いますよ」
「あら、いつの間にか同胞になっていたのかもしれないわ」
「まさか。自分が死んでいるか生きているかくらい、理解していますよ」
「あらそう、残念ね」
たがいに顔を合わせないまま、つらつらと言葉を紡ぐ。触れ合わない手は交わって、冷たい床を覆う。
「そうそう、この前、貴女がキスの意味について仰っていたでしょう? 気になって調べてみたら、面白いものを見つけましたよ」
「面白いもの?」
「ええ」
交わらない視線はしかし遠い地平線で交わることを望むかのように遠くに据えられて、交わらない温度は床を通して軽く触れ合う。
「『手なら尊敬のキス。額なら友情のキス。頬なら厚意のキス。唇なら愛情のキス。瞼なら憧れのキス。手のひらなら懇願のキス。腕と首なら欲望のキス。それ以外なら、狂気の沙汰』」
「あら、じゃあ彼方のキスはほとんどが狂気の沙汰ね」
「ええ、僕もそう思いました。キスの格言、というらしいですよ。有名な戯曲作家の言葉だそうで」
ふたりで声を合わせてくすくすと笑う。おかしくて、笑う。別に、違和に気付いていたわけではないのだ。
「ちなみに、その『狂気の沙汰』にもちゃんと意味があるのですよ?」
「そうなの?」
「興味がおありで?」
「勿論。彼方の行動に、どんな無意識な意図が仕組まれていたかなんて、知らない手はないでしょう?」
好奇心に目をきらめかせながら、女は甘えるように知恵をねだる。在りし日の楽園でもあるまいに、何を望んでイヴは林檎を齧るのか。その代償は、身にしみた罪で思い知っているだろうに。
「では、ひとつひとつ、お教えしましょうか」
蛇は誘う。誘う言葉は事実のみで、偽りなど欠片もなく。問うのはひとつ。「その」存在のみ。そこに、真実楽園は「在」ったのか。それは在りし日の「オートプス」。文字通りの、理想郷。
青年は緩やかに腰を上げると、隣に座る女の前に膝をつく。彼女は不確定な瞳をゆらゆらと揺らしながら、艶美にわらった。
「まずは、腹へのキス。回帰」
青年の唇が女の腹に触れる。くすぐったげに体をよじると、漆黒の絹糸が軽く彼の頬を叩いた。
「腿への口付けは、支配」
腿へ落ちた唇の感触に、彼女の躰はぴくりと跳ねた。その拍子に、女の鎖がしゃらりと鳴く。
「腰は、束縛の接吻」
次に落ちた唇に、女はわずかに眉根を寄せた。目の前の青年の髪が布越しに肌に触れて、くすぐったい。身じろぐ度に、自由を奪う戒めがじゃらじゃらと音を出す。
はて。ここにとどまってからの数年で、この鎖が鳴いた音を聞いたことが、はたしてあっただろうか。
刹那、彼女は目を見開いた。
「ここへするのは、初めてですね」
「っ、彼方は、」
「胸へするそれは」
迫るそれを防ごうとして、引きつった様な痛みを知る。決定的な自由を奪ったことのなかったその拘束が、初めて彼女の意思を妨げた瞬間。装飾のように細かったそれは、事実その行動を制限するために硬度と太さを増し、透度を失ったその肌に、赤い痣を残す。
「胸へ落とすそれは、支配のキス」
全ては決定的だった。胸へ落とされたその唇が触れた瞬間、女の瞳が先ほどとは異なる因果で見開かれる。喉から迸るはずだった悲鳴はしかし体の緊張によって音になること叶わず。内側に与えられた衝撃を逃がすように躰は弓なりに。
「聡い君なら、もうとっくに全て気付いていると思ったのに。恋は盲目、なんて。滑稽だね。『人嫌い』」
口調と、雰囲気と。その目つきさえも変わった青年は、緩慢な動作で立ち上がると、数歩女から距離を取る。一瞬蔑むような視線を落とした後、ふらりと背後へ歩む。
女は涙で濡れた瞳でその姿を追った。さてはて、その涙の理由は何なのか。きっと本人でさえも理解していないだろうし、さながら、居もしない神のみぞ知る、といったところか。
「彼方は、何なの」
「まだわかってないわけ? ほんと、愚かしいよね。最初、あいつがこの作戦でいこうとかほざいた時は何言ってんのこいつ頭大丈夫? とか思ったけど、ここまではまるとはねぇ」
あ、ちなみにあいつっていうのは俺の相棒のことね。と、皮肉に笑いながら、女の感情を押し殺した言葉に応える。ふらふらと、だらしなく申し訳程度に結ばれたネクタイを解きながら柱の陰に立てかけてあった長い影を担いだ。
「ま、一応自己紹介はしとくかな。あいつは怒るだろうけど、そこまで縛られるのもなんか癪に障るし。あ、とはいえ名前は秘密だから」
品もなく着崩された似合いもしない制服が、妙に合う彼は、担いだ歪な棒、否、刀で肩を叩きながら、シニカルに微笑んだ。
「俺は、まあ、あれだよ。『人殺し』。馬鹿みたいに祓い屋だの祓魔師だのエクソシストだの呼ぶやつは結構いるけど、俺はただの『人殺し』。幽体に実体を持たせて、その依り代を壊してその存在を葬り去る、何の変哲もない『人殺し』だ。何度訂正しても直んないんだけど、そっちの方が通りがいいしまあ結果は一緒だからってほうってるけどさ」
青年は笑う。邪気はない。どこか快活なその子供じみた笑みに、女はただ己の求めた「彼」の影を求めた。けれど、そんなもの残滓すら残っていなくて。演技にしては出来すぎだと、彼女は目を伏せる。
「『彼』は、なんだったの」
「ニセモノ」
なんでもない事のように、「人殺し」は言った。いっそ爽やかに、涼やかに。それがどんなに、目の前の女を抉るかなんて、わからないから。
「ヒントは、ずっと有っただろう? 『瀬野仁茂』って云う記号自体が、最大の鍵」
「どういう、」
「全部、音読みしてみなよ、愚かな愚かな『人嫌い』」
憐れむように、青年は告げた。最後まで操者のイトに操られ続ける可哀そうな人形。可愛そうだとは、思えなくなってしまったけれど。
「セノ、二、モ?」
「そう。じゃあそれを入れ替えて御覧、賢しき賢しき愚か者」
「――――…………ニセ、モノ」
ぐらり、と瞳が回った。一回転、二回転。着地した世界は泥沼で、ずぶずぶと溺れてく。崩れたのは足場から? 呑み込まれたのは頭から?
そんなこと、知ったこっちゃない。どうせ彼女の世界は随分前に破綻していて、そんなの今更。尚更何を騒ぎたてると?
「君は最初から答を与えられていたんだよ。それに気付こうとしなかったのは君の怠慢だ。残念だったね、お馬鹿さん」
「人殺し」たる彼は笑う。殺すのは心。虐げ強いたげ、踏みにじる。そこに付いた足跡に、浮かぶのは笑み。
「全部、偽物だったというの……? 彼方が手の甲に刻んだ尊敬も、瞼に刻んだ憧憬も。掌に想った懇願や、頭に記した思慕や。腕に顕わした恋慕さえも?」
虚ろに震える声は、か細い絹糸。美しく、綺麗で、何より脆い。ぴんと堅く張り詰められているからこそ壊れやすく、掬われる。
こぼれるのは、笑声。
「ああ、その程度の知識は持ち合わせてたんだ。意外。知ってたなら、なんでされるがままだったわけ? 呪いを刻まれてることには気付かなかったの?」
廃墟に響く哄笑が、明確化した心をただただ突き刺す。傷だらけのそれを、粉々に砕きつぶし、更に土足で踏みつぶす。完膚なきまでに、壊しつくして。
一歩、一歩。青年は崩れた女に近付いた。不安定だった時よりも、ともすればはるかに崩壊した女を、ただ無感動に見下ろして。何となく、頭の片隅でこの場に件の相棒がいないことが幸いだったな、と思うだけ。
「今から、お前を殺すよ、『人嫌い』。君の血はやはり苦いのかな? まあ、どうでもいいけど。俺はどっかの誰かさんみたいに生首にキスを送るほど悪趣味ではないんでね」
肩に担いだ刀を横に薙ぐと鞘が灰色の床を叩いて滑る。闇の中、どこからともなく光を集めた刀身がただ鈍色に光る。
崩れ落ちた女の瞳は焦点を結ばない。ふらふら、ふらふら。実体を手に入れた彼女は、幽体を失ったように揺れて揺れて揺れて。
青年は、軽く目を細めた。
「冥土の土産に、ひとつだけ、教えてあげるよ。嘘も偽りも誇張もない。一から十までの真実を、ひとつだけ」
彼女の胸の上に切っ先を振り上げて、彼はすっと目を伏せた。刀を握る手がぴくりと震える。同時に、開かれた水面が、波紋を呼んで。
「『それでも僕は、貴女を』」
歪んだ声は、赤色によって遮られた。
刹那、彼は手に持つ刀に確かな感触を得る。
目の前には、見たこともないような美しい黒曜石が双つ。理解も認識も間に合わなかったのに、それでも彼はその黒を見たいと思った。無意識にそれを引き寄せようとして、その腕は宙を掻く。気付けば、眼前の双黒がするすると解けていた。崩壊していた女の瞳はそれでもひとつの光を宿して、砂と化した。
さらさら、さらさら。無いはずの風に乗って流れて行くその残骸が空気に溶けていくのが酷く惜しくて。空気をつかんだ。
からん、と音を立てて刀が地に落ちる。
「…………はっ、」
何もない。何もない。確かにそこに在った女の躰も、その自由を奪っていた拘束も。砂ヘと解けて消えていた。残るのは、あの美しい黒の衝撃と、唇に残った不確実な温もりの感触だけ。
「はは、ははははっ、」
片手で顔を覆い、青年はわらった。嗤った? 哂った? 自嘲った? そんなの、訊くまでもない事で。
「人殺し」は、ただ、笑う。
「『愛情』だっていうの。あれだけ嘲られて、見下されて、蔑まれて、それでも、君は」
笑みを含む声に、震えが含まれていることに気付かないふりをする。何も知らない、何も知らない。だから、この震えを抑えられないのは当然だ。
ああ、本当に。あいつがここにいなくて、よかった。
「サロメは、あのユダヤの王女は、一体どんな気分だったんだろうね。手に入れるためにその命を刈ったのに、それによって永遠に失ったことに気付けなかった彼女は」
嗚呼、でもきっと、今ならわかるかも知れない。と、彼は囁いた。
それは、驚くほどに柔らかい微笑み。「ニセモノ」であった「瀬野仁茂」ですら、浮かべなかった、非道く幸せそうで、哀しいくらい美しい、それは。
「『俺』も、『僕』も。確かに、君を―――」
パァン。と、どこからともなく音がして。
ずるりとすれる音がした。
女がいた場所に、赤い赤い月が出て、いつの間にか差し込む天窓の光を反射する。
残念だったね、と、啜り泣く声がした。
結論におけるサロメ的恋愛思考 @mas10
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