夕闇
月光は、異形の者に加護を与え給うのか。
「こんばんは、瀬野仁茂君」
「こんばんは、宵闇の人」
鳴らない鎖がさらりと動く。女は月読の光の下でゆるりと立ち上がると、頼りない拘束を引きずり歩く。
「おやおや、貴女が歩くなんて珍しい。どうかなさいましたか?」
「いいえ? ただ、この前の逢瀬からいくらか時間が経ってしまったから。はやく彼方に触れたいと願うだけ」
「触れられないのに?」
「触れられなくても」
「触れられなくても?」
「触れられなくとも。近付けばきっと、彼方を感じられる」
ゆるり、ゆるり。歩を進めるうちに、張り詰める拘束。まるでそれは女の精神を表しているように感じられて。
「止まって」
「瀬野仁茂君?」
「止まって、『人嫌い』」
温度のない声。それに彼女は怯えたように顔をゆがめて立ち止る。
「どうしたの? なんでわたしをこばむの?あなたもわたしがきらいになったの? あなたもわたしをうとむの? ねえ、ねえ、こたえて。ねえ、こたえてよ、わたしの」
「こけてしまうでしょう?」
「……え?」
ぼやけた瞳を見開く女に、青年は呆れたように眉をひそめた。ゆっくりと彼女に近付くと、その頬に手のひらを寄せる。
「その鎖は、貴女を完全に拘束しているのはご存じでしょう? そのままだとそれに足がとられて転んでしまいますよ?
更に悪い事に僕は貴女に触れないから、バランスを崩した貴女を支えることもできない。僕に、目の前で愛する人が苦痛を感じる悲痛を味わえと?」
だからほら、いつもの定位置に戻ってくださいな。そう諭すようにしかめっ面をする青年に、「人嫌い」はただ呆然とした後、噴き出した。
「『人嫌い』?」
「いえ、なんか、初めて見たわ、彼方のそんな人間らしい顔」
「おや、それではまるで僕が冷血漢みたいではありませんか、失礼ですね」
呆れたように目を眇める彼に、女はただ柔らかい視線を注ぐ。愛愛愛愛愛。あふれるほどの愛情。否。あふれることを許さないほどの愛情。それを彼は、真正面から受け止めた。
「僕が、『瀬野仁茂』が貴女を拒むことはありません。厭うことも、疎むことも、決して。だから、そんなこと考えないでください。かなしくなりますから」
「ええ、そうね。彼方が彼方である限り、彼方は私を裏切らないものね。ごめんなさい。余りに逢いに来てくれないものだから、どうかしてたわ」
口元を押さえて、儚げに微笑む女に、青年は目を細める。
「? 瀬野仁茂君?」
「あいしていますよ」
両膝をついた彼は曖昧な彼女の腰回りに腕を回し、そこにひとつ、接吻を。触れられない腹に頭をうずめるように擦り寄せ、もう一度言葉を絞り出す。
「あいしています。おしたいしています。だれよりも。なによりも。うそじゃない。僕の何を疑っても構いません。けれど、どうか。どうか、この言葉だけは信じて」
言葉なく立ちすくむ彼女に、彼は再び、腕、手のひらにと、触れられない口づけをする。刻むように、刷り込むように。想いを絞り出しながら、彼は瞳を閉じる。
月光は、異形ならざる身に加護をお与えにならぬのか。
「しんじて、ください」
最後にその瞼に形だけの仕草を繰り返して、彼は微笑んだ。
彼は一体、何を信じて欲しかったのか。
夜闇は人成らざる身に加護を与え給う。
宵闇は異形成らざる身に加護を与え給わず。
この泣き声は、誰のものだったのだろうか。
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