黄昏
夕闇の中、女の拘束が涼やかに鳴る。
「こんにちは、瀬野仁茂君。今日は遅かったのね」
「こんにちは、愛しい人。ええ、補習を受けさせられてしまって。さぼりすぎるのも考えものですね」
ゆるやかに微笑む青年に、女は少しふてくされたような顔をする。まるで、恋人との逢瀬で待ちぼうけを食らった乙女のような。
実際は、そんなにかわいいものではないのだけれど。
「まあ、私と彼方の貴重な時間を横取るなんて、何て罪悪。呪い殺してやろうかしら」
ぶすっと頬を膨らませて幼子のようにすねる女に、瀬野はまあまあ、と笑った。
遅くなった時点で彼女の機嫌がこうなることはわかっていたし、わかっていながら対策を講じない彼ではない。青年は彼女に静かに近付くと、片膝をつき女の小さな頭を挟むように両手を壁につける。
黒や藍や紫の絵具をそのまま塗りたくったような、不自然にべっとりとした髪。肩からさらさらとこぼれる美しいそれの天辺に、彼はいつものように口づける仕草をした。
「そんなに怒らないでください、『人嫌い』。美しきはどうあってもその美しさを忘れることはありませんが、貴女は笑っている姿が一番麗しい。
それに、今日の補習を受けた分また貴女と過ごす時間は増えますから」
「相も変わらず口がうまいのね。一体それで何人の女を泣かせたことやら」
なんて歯の浮くような科白、と揶揄するように笑うと、青年はどこか苦く笑う。
「こんな若造に、世の女性はそうそう靡きませんよ」
「あら、その青さを染めたいと思うのが女の云うものでしょう?」
「僕はそれは男の専売特許だと思っていましたよ」
「まあ、それならカラダに教えてあげましょうか?」
くすくすと艶やかな微笑。つ、と半透明な指は同じく半透明な、しかし毒々しく赤い唇をなぞる。妖しく、艶やかなその笑みに、青年は赤面するわけでも、慌てるでもなく、ただただ静かに微笑む。
「おや。では、ご鞭撻をお願いいたしましょうか」
涼やかに微笑む瀬野。まるで相手にしていないその態度に、女は再び口をとがらせた。
「彼方、本気にしてないでしょう?」
「いえいえ。そんなことはありませんよ。ご存じの通り、僕は感情が顔に出にくい性質でして。実は内心大慌てですよ」
「嘘吐き」
「おやおや、酷い言い草だ」
くすくすと目を細めて笑う彼。ぷう、と、歳に似合わぬ幼い仕草で頬を膨らませる「人嫌い」に、青年は更に笑みを深くした。
「拗ねないでください、愛しい人。僕が貴女を愛していることに偽りなどないのだから」
青年は、女の前に跪き、その崩された腿に唇を落とす。それはまるで忠誠を誓う騎士のように。愛しい者の機嫌を伺う恋人のように。
それに、女はふと笑みをこぼした。
「彼方は本当に口づけが好きね」
「そうですか? 自覚はないのですが」
「好きよ。私も吃驚するくらい。何か意味でもあるのかしら?」
悪戯に笑う彼女に、青年はふむ、と顎に手を当てた。
「意味がある、と聞いたことはありますが、残念ながら内容までは」
お役に立てず。と苦く笑う瀬野に、女は聖母のように微笑んだ。
「彼方は謝るのも好きね。大丈夫よ。たいして興味もなかったし。私には、『彼方が口づけてくれた』という事実だけで十分」
色のない頬に同じく色を失って久しい手を添えて、うっとりと愉悦に浸る。
境界の揺らぐ夕闇の影のなかで、不安定な光はゆらゆらと揺れた。
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