「お早う、瀬野せの仁茂ひとしげ君」

「お早う、『人嫌い』さん」


似合いもしない制服を着崩した青年、瀬野は、「人嫌い」とよんだ女の許へと歩く。

カツン、カツン。どこか高圧的なその足音に、しかし「人嫌い」は心地良さ気に耳を傾けた。


「今日は早かったのね。だってほら、世界はまだこんなにも仄暗い」

「そのくらいの方が貴方には都合がいいでしょう? いつも貴女はとても眠たそうにしているから」


瀬野は恭しく膝をつくと、女の横に置かれた手に手を伸ばす。それを認めて、女は少し笑みながら手を持ち上げた。

触れ合わない手。

互いの間に数センチほど空間をあけたまま、そのふたつは彼と彼女の目の前へ。

そして、青年は姫にかしずく騎士のように、その甲へ触れないキスをひとつ落とした。


「今日も今日とて、鎖に繋がれたそのお姿。世界で一番美しいと思いますよ」


青年は、少し熱のこもった瞳で彼女を見る。

シャラリ、と。彼女の両手両足、更には首にまでつながれた鎖が鳴った気がした。無論、それが鳴るはずなんてないのだけれど。


「触れられないのに?」


すっと下した彼女の手は、「人嫌い」というその名のように、ヒトと触れ合うのを厭うように、瀬野の手をすり抜ける。

その様を「人嫌い」はすこし物足りなさそうな瞳で眺める。そんな彼女の不安定な手のひらに、瀬野はギリギリまで己の両手を近付け、まるで包み込むように添える。

……そして。


「触れられないからこそ」


触れない彼女の手を押しつぶすように、手をぐっと合わせた。ぼやけた女の手の平の中に、青年の両手が埋まる。

驚いたような、そしてどこか傷ついたような瞳をする彼女を認識して、瀬野は軽く笑んだ。


「触れられないからこそ、美しいのですよ」


もう一度、その甲にキスを落とすしぐさを。

それに、「人嫌い」は小さく微笑んだ。


「幽霊なのに?」

「幽霊だからこそ」

「幽霊だから?」

「ええ。愛してますよ、『人嫌い』」

「あら、そう。私も好きよ、彼方が」

「僕が?」

「そう、彼方が」

「生者なのに?」

「彼方だからこそ」


彼女は持ちあげていた手を動かして、頬に添える。優しげな、愛おしげな微笑み。それはどこか壊れた雰囲気を醸し出していて。


「ところで、学校には行かなくていいのかしら?」

「問題ないよ。僕はもう死んでいるから」


何の感慨もなく呟かれた言葉に、女の瞳が軽く煌めいた。


「生きているのに?」

「逝きてはいないんですけど」

「遺棄されたんだ?」

「息はしてるんですけどね」


さらりと放たれた言葉に、女は皮肉気に微笑む。それにさして気を害したそぶりもなく、瀬野は笑顔を形作る。


「とはいえ、あの場所に限った話ですが。残念ながら、この場では僕は生きた人間でしか在れませんし」

「あら、残念」

「申し訳ありません」


何を謝るの、と彼女は笑った。心底可笑しそうに。愛おしげに。

青年は、向けられている感情が愛情だと知っている。恋情だと理解している。それがどこか歪であることだって、正確に。

それでも彼は、微笑み続けた。


「さて、今日は何のお話をしましょうか。貴女を捨てた男の話? 貴女を騙した女の話?

 それとも、彼らに復讐した貴女自身の話でしょうか?」


そう微笑んだ。ともすれば相手の機嫌を損ねかねない発言。けれど女は慣れているのか、軽く微笑むだけ。

彼女はそれを愛故だと言うのだろうか。


「じゃあ、今日は、あいつを殺した時の話をしましょうか。如何にあいつが醜悪だったか、如何にあいつが害悪だったか。

あいつの話をすることによって彼方の綺麗な耳を汚してしまうのは少し忍びないけれど、きっと彼方は好きでしょうから」


うふふ、とどこか恍惚に微笑を浮かべる『人嫌い』。綺麗な物を穢すということは、背徳感と、征服欲の充足により、非道く、そしてこの上ない快感だそうだ。ならば、きっと、女を今満たしているのも、その快楽なのだろう。

青年は、ただ笑う。


「ええ、是非。僕の愛しい『人嫌い』」


ゆるりと女は床に伏し、青年は女の腹に口づけを落とす。

青年の微笑みの歪みに気付くものは、誰ひとりとしていなかった。



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