16 再会(非認識)


 人のいない路地裏で、焔はそれを見つけた。


 近くに同年代と思われる少年が倒れている。

 少年は苦しげな、あるいは悔しげな表情で唇を噛み、腕を伸ばしていた。


 伸ばす手の先には、焔と同い年ほどと思われる赤い頭巾をかぶった少女がいた。しかし彼女は、ガタイの良い男性に担がれている。


 普通ならば、理性で助けたいと思っても、腰を抜かすか逃げるかしてしまうだろう。考え無しなら特攻を仕掛け、見事に自滅するかもしれない。

 だが、焔はそのどちらでもない道を選び取る。


「【跳躍】」


 静かに『スキル』を発動させ、驚異的な跳躍力を見せた後――

 同じく静かに、それでいて豪快に、更には大胆にも、男性の肩を狙って、蹴る。


「【手加減】【キリングシュート】」


 男の2、3メートルは上空から、恐ろしく淡々と放たれた一撃に、男は抱えた少女を放り出す。


 それをキャッチしたのは、先程倒れていた少年だった。

 少女をキャッチした後、再び体勢が崩れていたが、先程よりはマシな動きをしている。


 そこで初めて、彼は麻痺系の毒を盛られたのかもしれないと、焔は思い至った。


 が、それは、今は関係ない。


 鍛えたとはいえ、相手は自身の何倍も大きく、筋肉隆々といった様子の男性。何者かは知らないが子供3人、内1名負傷、1名どう見ても非戦闘員では、逃げた方が懸命である。

 加えて、人を庇いつつ戦う方法を知らない焔は、むしろそれしか思いつかなかった。


「【跳躍】【キリングシュート】」


 スキルで速度を増した鋭い蹴りが、男性のある部分にヒットする。


「うごぉお!?」


 一撃で、ガタイの良い男性は沈んだ。

 大の大人が股間を抑えて蹲る姿に、少女は愕然としながらも口を開いた。


「わ、すご」

「走るよ!」

「えっ! で、でも、日雀が……!」

「お、お嬢様、僕の事はお気になさらず――」

「そうそう、気にしない!」

「……ハッキリ言われてもムカつくのは何故でしょう」


 地べたに倒れたために汚れた服に身を包む少年、日雀は、眉をひそめた。

 こうしている間にも、男性は回復……していないが、早めに動いた方がいい状況である事は変わらない。だからといって、敵ではなく、また、頭巾な少女の友達(?)らしい少年を放っておくわけでもない。


「気にする事無いわよ。―― アタシがおぶってあげるから」

「「えっ」」


 ひょい、と。いとも簡単に日雀を背に担いで見せて、焔達は裏路地の奥へと進む。

 日雀も少女も一瞬きょとんとした顔で固まったが、焔が恵の手を引いて走り始めたのだから、自然と身体が動いた。


 次いでハッとなった少女が何を言ったかと言えば。


「わぁ、これが下町の元気っ子……!」

「恵お嬢様、さすがにこれは違います。違うので、常識に組み込むのはやめてください」

(……恵?)


 恵、それは、雫の親友の名前だ。


 声も、口調も、恵のそれと似ているとは思った。

 この世界には同姓同名がいるのかと、感心してしまった。

 雫が焔になったように、恵の名前も変わっているはずだ。と、早々に可能性を斬り捨てる。


「ね、ねぇ、どこに行くの?」

「この路地裏は、入口でもなければあんな嫌な奴はいない! 一旦奥に逃げて、その後路地裏自体を脱出するの! ルートなら任せて!」

「う、うん!」


 有無を言わせない力強さを込めて、焔の声が恵を突き動かす。勝手に引っ張られるため一緒に走るしかないのだが、なるべく自力で走るようにがんばった。


 やがて、3人は小高い丘へと出る。路地裏の奥は悪人がいないと、焔は知っている。だが焔以外の精神状態を考えて、そのまま突っ切る事にしたのだ。

 見渡しの良いその丘には、1本だけ太い木がある。そこにまだあまり動けない日雀を寄りかからせて、一息ついた。


 焔は恵へと向き直る。


「アンタ、何であんな所に?」

「えっと……兄弟で来たのだけれど、急にバトる人が出て、はぐれちゃって」

「あー、なるほど。さては初めてのお出かけだね?」

「何でわかるの!?」


 雫が初めて外に出た時と、不安そうな、それでいて見る物全てが新鮮で楽しそうな雰囲気が重なったから、とは言えない。

 前世の話など、何も知らない相手へ言っても理解できないだろうからだ。


「ま、似たような状況を見たことがあるから、かな」

「わ、私以外にもあんな目にあった人が……?」

「いやそこは少数派だと思うよ!?」


 路地裏に入っただけで子供が何人もいなくなれば、この辺りはもっと治安が悪くなっている。それは領地から人が消えるゆえに、館家も弱体化するという事だが……恵は気付かない。


 ただ思いついた事を言葉にしているだけの恵の口を、焔は焦って押さえる。

 一応周囲に誰もい無い事を確認してから、呆れたようにクスリと笑みを零した。


 そのやり取りは、どこか懐かしいように思えたからだ。


「もー、館家の人に聞かれたら、大変だったよ? 館家の人が、領地を纏められていないって、批判にも聞こえるし!」

「え? あ、そっか?」

「何で疑問系なのよ。有数の貴族の中でも評判の良い館家とはいえ、そこに仕える人達は凄く厳しい事で知られているのに」

「あ、うん。えっとね。私の名前、館恵っていうの」

「あっそぉ、恵ね、館恵……館?」


 急に名乗った彼女の名前を、自分の中で反芻させる。もう名前も声も前世の親友と同じなら、苗字まで同じでもむしろ驚かないなぁ。


 などと、台詞の前半は考えていたが、思えば親友の苗字は、館。

 この領地を治めている貴族と、同じものである。


 生前から持つ頭の回転の速さにより、そこに思い至った途端。


「え、恵って館なの!?」

「うん!」


 叫んでいた。

 恵も満面の笑みで、元気良く返事をする。


「お、お嬢様」

「命の恩人に隠し事は良くないよ、日雀。あ、彼は飛野坂日雀。同い年だけど、私の執事だよ。それで、あなたは?」

「え、アタシ? あ、あー。そういえば自己紹介していなかったね。アタシは焔。悠芽焔よ。気楽に焔で良いわ」


 お忍びの意味が無くなりかねないカミングアウトに、日雀は動き難いはずの手を上げて制止する。が、恵は満面の笑みで是非を許さない。

 そのままの勢いで自分も自己紹介をしたところで、焔がある事に気が付く。


「って、もしかして敬語じゃないとダメだった?」

「ううん。今超プライベートだから、むしろ敬語外してくれないと困る」

「あ、そぉ……」


 急に真顔になった恵に、焔の顔が引き攣った。


「でもまさか、初めて出かけた先で、偶然お友達が出来るとは思わなかったなぁ」

「……えっ?」

「……んっ? あれ? もしかして、ダメだった? ううん、ダメなはず無いよ!

 ほら、お友達の握手、はい!」

「え、あ……うん。はい」


 焔は、呆気に取られたまま、笑顔の恵と握手を交わす。その手の温かさや光景は、非常に強い既視感を抱かせるものだった。

 それは、前世の恵と雫が初めて出会った時の会話。


 焔の「えっ?」は既視感に目が眩んだ事から来るものだった。

 しかし前世……雫は、友達の作り方など知らず、恵が突如として発した友達という単語に驚いてしまったのである。


 あの時と一言一句間違えない台詞は、おぼろげだったはずの大切な記憶を呼び起こす。

 あの時の恵の手も、柔らかく、温かかった。


「……っ!」

「あ、あれ? 焔?」

「え? いや、何でも無い。というか、会ったばかりで友達とか」

「会ったばかりでも、助けてくれた恩人とは友達になるしかないと思う!」


 自信満々に宣言すると、握った手をブンブンと上下に振る恵。その内、真っ赤な赤ずきん風の頭巾がずれて、取れた。

 そこには、恵の素顔があった。


「あ、落ちちゃった。うーん、ここには人いないし、良いよね!」

「……」


 声と氏名が一致した事で、既に覚悟していた焔。やはりというか何というか、恵は前世の恵にそっくりだった。

 6歳の彼女を見た事は無い。


 だが、髪や瞳の色が違っても、顔立ちはやはり彼女の面影がある。

 世界が違えば両親すらも違うはずなのに、何故か彼女は似ていた。似すぎていた。


 雫もそうだったが、恵もまた、将来絶対美人になると囁かれていた。そんな彼女に似ているこちらの恵もまた、成長が楽しみである。

 もっとも、彼女の持っていた『役割』が邪魔をして、誰もがそんな未来など見ていなかった。だからこそ、彼女自身が自分の容姿に自信を持っていなかったのだが。


 焔は雫の時に、彼女に言った言葉を思い出す。


「……恵は将来、絶対かわいくなるね」

「まっさかー」


 恵はケラケラと笑ってみせる。

 普段よりも低いガチトーンで、しかも真顔で告げてもこれだ。


 全く真面目に受け取ってもらえないのだ。たとえ延々と説明しても、彼女は「私をフォローするのに時間掛けなくていいよ~」と軽い調子で言われるのがオチなのだ。


 まさか今言っても同じように返されるとは思っていなかった焔だが、ここまで似ていると最早どうでも良くなっていた。


「……ま、いいや。で、どこまで送れば良い?」

「送ってくれるの?」

「いいよ。良い筋トレになるし」

「おぉ……。えっと、じゃあお願いするよ。うーん、と。日雀」

「西地区のサントレード大通りで」

「あぁ、館家のお膝元ね。たしかにあそこら辺は安全そうだわ」


 日雀が告げた目的地は、恵達が使った隠し通路用の家がある場所だ。


 散歩という名のフリーランニングをしている焔は、どの街のどこが安全かをしっかり把握しているのだ。


 館家の領地はもちろん、今は他の領地も、行けそうな所は行っている。

 門番の目を盗んでいるので、スリルだけはある。

 雫であればまずしないであろう事を、平然としてのけるのだ。


 日々、自分が変わっている事を自覚する焔。雫のような弱い自分とは完全に縁を切りたいが、事あるごとに比較のために取り出していた。

 その度に捨てきれていない事に気が付き、いっそう気を張る。


 前の記憶を持つ焔だからこその悩みだった。


「どうしたの?」


 会話の途中で雰囲気の変わった焔を、恵みが下から覗き込む。


「あー……ううん。恵には関係の無い、私事だから」

「ふぅん? 私でよかったら、相談に乗るからね! いつでも話してね!」

「といっても、恵はもう帰るでしょ? 相談なんて出来ないよ」

「でも、焔も学校は行くでしょ?」

「少なくとも1年後だけどね」

「というか、私が焔のところに遊びに行くよ! 住所教えて!」


 ピョンピョンと跳ねながら、恵は催促する。目がキラキラと輝いており、焔が無意識にその眩しさから目を逸らすと、恵はすぐさま焔の目の前へ移動する。

 そのまま何故か、その場をクルクルと回り始めた。


 クルクル、グルグル。


 時折フェイントで逆回りも試したが、悉く付いて来られてしまった。


「~っ、あー、もー! わかった、教えるから!」


 やがて意地で逃げていた焔の方が、折れた。


「はぁ、はぁ。あ、アタシが住んでいるのは、サントレード孤児院だよ。これで、満足?」

「……孤児院、ですか」

「まさかの日雀が返した!」

「まさかのって何ですか! というか、その場所って」


 日雀が何やら、気まずそうな顔をしつつ目を逸らす。

 何があったのかと恵が尋ねようとしたが、日雀はそれよりも前に、恵へと向き直った。


「ともかく、今はあの場所へ戻りましょう。入口で合流できるはずです」

「むぅ。後で色々聞くからね?」

「仰せのままに」


 恵の隣で、彼は胸に手を当てながらお辞儀した。


「って、もう回復したの?」

「はい。即効性は高かったようですが、持続性は無かったようですね」


 ニコリ、と通常運転で笑ってみせる日雀。


 恵は動けるようになった日雀に安堵したが、焔は違う。

 即効性の麻痺毒。ナイフから僅かに漂っていた柑橘系の香りは、即効性がある上、昏倒するほどに強い毒である。たしかに毒そのものの持続性は無いかもしれない。しかし麻痺による昏倒で、毒性が切れる時間になっても起きられないのだ。


 凄まじい回復力があれば、克服できる毒かもしれない。

 それを、自分と同い年の子供が持っているなんて。という、知識があるゆえに、驚愕した。


「あの甘酸っぱい匂いは、気を付けた方が良いよ、恵」

「甘酸っぱい? うーん、リンゴとか?」

「どっちかというとグレープフルーツかな。あ、そうそう、こんな感じの」


 どこからか漂ってきた甘酸っぱい香りに、焔眉をしかめる。


「……恵、その手」

「え? あっ。そうだった」


 そう、恵は手をケガしていた。刃物で切りつけられた傷で、もう血は止まっているが、僅かに流れた跡がある。

 傷が深くなかった事や、その後日雀が登場したり、日雀が倒れたり、焔が登場したり、焔に助けられたりと。矢継ぎ早に事が起こったため、自分のケガの事を忘れていた。


「もう……どこでケガしたのさ。ほら貸して」


 色々と話を聞かれるかと思いきや、焔は特に何かを聞くでもなく、何かを取り出す。

 それは触ったら柔らかそうな、つるりとした質感の石だ。透明で、薄い緑色で、ほんのりと光っている。


 焔がぶつぶつと呟くと、石は弱い光を放つ。その瞬間、焔は石を恵の切り傷にかざした。

 すると、みるみる傷口が逆再生をするかのように塞がり、常と変わらない真っ白な肌がそこにあった。傷のきの字も無い、すべすべの手である。


「……え、ま、魔法? 魔法って、7歳からじゃないと使えないのでは」

「? 魔道具は、誰でも使ってオッケーでしょ?」


 あっけらかんと告げられた、これまで聞いた事の無い情報に、恵は総毛立つ。


「そうなの日雀!」

「はい。魔法そのものはきちんとした過程を経ないと使えませんが、魔法そのものに回数制限をつけて市販されたタイプの、いわゆる魔道具は使用制限がありません。中でも、回復系の物は一家に10個は必須です」

「多い。5個が最低限で、10個が最大だって!」


 傷薬や絆創膏、頭痛薬などと同じような感覚で、回復魔法の使える道具は売られている。

 一般家庭に普及しているのである。


「というか、魔法を使うための媒体なんて、高すぎて買えないよ。学校とかでもらえる支給品なら、誰でも持っているけどさ。だったら量産品のこっちの方が、使い勝手は良いし」

「そ、そうなんだ。知らなかった……」


 回数制限があり、効果も一定の量産品。

 値段は高いが、一生物で効果も高い一品物。


 1ヵ月から1年に1度あるかないかの軽い頭痛で、医者に相談しに行くのか。

 そういう問題なのである。


 もちろん、効果の小さな量産品では治せないような時は、医者にかかる。魔法を使うために必要な媒体というのは、そういったちゃんとした知識と技術のある人が持っていれば良い。


「さぁて、もう何も無いよね? 日雀の服が若干汚れている以外は、何も問題無いよね?」

「うん!」

「……はい」


 そういえば汚れていたなぁ、と思い出し、日雀が少々渋い顔になった。しかし別に重要度の高い事ではないのか、文句は言わない。

 実際、服を洗う担当のメイドに、こっぴどく叱られる程度だ。


 恵がケガを負った事を叱責されるよりかは、遥かにマシである。


「じゃ、今度こそ送っていくよ。ここからあそこへの近道は、アタシが一番よく知っているから」

「うん!」


 実際に住んでいる者よりも街の構造を把握している焔の言葉に、恵は素直に頷いた。

 そうして歩き始めて10分ほど……。


 大きな通りの端まで戻ってきた恵達は、ひと際賑わいを見せる建物の前で見知った顔を見つけた。そちらも恵達を見つけると、悦び勇んで駆けて来る。


「桜お姉様!」

「恵! 無事だったのね! よかった……!」


 恵の姉、桜は恵をぎゅう、と抱きしめる。

 抱きしめられた瞬間に、別れる前には無かった砂糖の甘い香りが広がる。どうやら恵がいない間もお忍びを満喫していたらしい。


 桜の後ろにいた兄2人も、恵を心配していはしたが、それぞれしっかり楽しんでいた。

 その証拠に、フランクフルトのような物を齧っていたので。


 やがて満足したのか、桜が恵を放すと、恵はすぐに焔へと向き直った。


「ありがとね、焔。またね」

「最悪1年、会えないけどねー」

「むっ、だから、遊びに行くってば!」

「出来たらねー」


 悪戯な笑みを浮かべながら、焔はひらひらと手を振ってその場を去る。彼女の姿は、あっと言う間に雑踏へと紛れ、珍しいと思っていた綺麗な赤色の髪はすぐ見えなくなった。

 頬を膨らませた恵も、あっけなく見失った彼女が見えなくなると同時に頬を萎ませてしまう。


 どこに向かっているのか、帰ろうとしていたなら追いたかったと、今更伸ばしても遅い手を引っ込める。


 孤児院を探したいが、この辺りの建物は見た目が似通っている。お忍びで来ている以上、家の人間を使って大々的に探すのは気が引けたし、そもそも少しの期間我慢すれば合えるとわかっている相手をムリヤリ探すのも何だかおかしい気がした。


 地道に探すか。


 そう、あくまで貴族的な思考をしない恵がちょっとした決意を固めると同時。

 日雀が、ぼそり、と呟いた。


「ここですよ」

「うん?」


 賑やかな建物の横にあるのは、恵達の使った隠し通路を隠すための建物。日雀はそんな古めかしい建物の方を見ていた。


「隠し通路の入口は、ここだけど、それがどうしたの?」

「そうではありません」


 日雀は、恵が見ている古めかしい建物ではなく、その横にある、これまた古めかしい建物へと人差し指を向けた。

 賑やかな建物とは違い、少し色味がくすんでいる。


「サントレード孤児院。ここですよ」

「……!」


 しかし日雀のその言葉で、古めかしい建物は彩度を一気に上げた。

 そう、偶然にも、焔が住んでいるらしい孤児院は、これからも使うであろう隠し通路の出入口、その真横にあったのだ!


 これに恵は、驚愕と歓喜の綯い交ぜとなった、何とも言えない幸せそうな笑顔をするしかない。


「あ、ありがとう、日雀!」

「今は帰りましょう。時間切れですから」

「うぁ……うー、はーい……」


 幸せオーラを周囲にぶちまけていた恵だが、街のいたる所に設置された時計を見れば、確かにもう帰った方が良い時間である。

 しゅん、とテンションが下がって落ち込む恵だが、すぐに顔を左右に振る。


「お姉様、そろそろ帰りましょう。心配されます」

「そうね。恵には初めてのお忍びだもの。これくらいにしておきましょう。……お兄様達は?」

「俺も帰るー!」

「……俺はもう少しここにいよう。日雀は恵と一緒にいるのか?」

「いえ、申し訳ありませんが、別行動を取らせていただきたく」

「えっ。そう? うん、わかった。遊ぶのはほどほどにね?」

「はい」


 日雀はニコリと微笑んで、お辞儀した。一応専属の執事兼護衛なのだが、恵は何と無くそこをスルーする。

 恵は桜に連れられ、密かに屋敷へと帰っていった。




 その後の事を、恵は知らない。


 ただしその後、街の裏通りでひっそりと、やけにガタイの良いママの経営するバーが出来たとか、出来なかったとか。

 そのバーは、貴族も御用達の良い雰囲気だとか。

 実際に行った者の話では、憑き物が落ちたような気分になったとか。


 そういった噂が一人歩きするようになった。


 カランコロン。氷がグラスを跳ね回る音によく似た、かわいらしい音のドアチャイム。


 ひとたび扉を開けば、甘い果物と熟成された酒精の香りが、人々を一時の幻想へと連れて行く。


 時折子供が入っては、中からこの世のものとは思えない声が聞こえるとか……。

 全て、実際に見なければ、やはり噂で終わるものだった。


 だが、恵があの時残った日雀や希を、絶対に敵に回してはならない事は、自ずと理解せざるを得なかった。




 恵は日雀達とは、何があっても敵対しないと心に誓う事となる。


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