12 飛べない雀


「遊びに来ちゃった♪」

「お帰りください」

「酷い!」


 今日も今日とてアポ無しでやってきた叔母様。

 かわいらしい笑顔で扉を開けた彼女に、私は特に何の感情を抱く事も無く帰るように伝える。そして扉を閉めようと手をかけた。


 本人の強い要望によって、彼女の名前……雪瓜様と呼ぶ事になったわけだけれど。

 ブレスレットを預けたあの日から、1週間に3度はこのやり取りを繰り返している。


 最初の内は対応していたのだけれど、何だか段々どうでも良くなってきた。前世の時から同じようなやり取りをしているのだ。飽きも来る。

 重要な話をするでもなく、ただただ私のかわいさについて話しに来るだけなのだ。


 容姿がコンプレックスの私にとって、地獄に等しい時間だよ!


「で、今日は何の御用ですか?」

「結局お話を聞いてくれるめぐたん大好き!」

「……」

「にゃー!? 待って! 超待って! 無言で扉を閉めようとしないで! って、めぐたん意外と力強いね!?」


 これで10歳年上だと言うのだから、信じがたい。

 それにしても、今日はしつこいなぁ。


 昨日なんかは2分ほど扉を閉めようとしていたら、諦めてくれたのに。


「ちょ、今日は無理! 兄様……めぐたんのお父さんから、直々に紹介を頼まれたから、何もせずに諦めて帰る選択肢がにゃいんだよぉ!」

「……紹介?」


 珍しく焦った様子の雪瓜様に、私は首をかしげながら、扉に力をかけるのをやめた。ちなみに私は扉の取っ手を掴んで引っ張っていたので、急に開いた扉の勢いで、雪瓜様は軽く飛び上がる。


 廊下にしりもちをついて、下着が……あ、下に短パン履いてあった。

 ……どちらにしろ、貴族令嬢っぽくは無いね。


「ふー。何とか入れてもらえたにゃー。んじゃ、めぐたんの機嫌が悪くならない内に、とっとと紹介を済ませちゃうよー? ほい入った入った」


 打ち付けた部分をさすりながら、雪瓜様は誰かに入るように促す。至極面倒くさそうにしているので、誰かいるのは間違い無いらしい。


 待って数秒も経たない内に、人が1人通れる隙間から……彼が、現れた。


 動きやすいように伸びる生地で作られた、黒メインの執事服。

 それを着ているのは、私とあまり背丈の変わらない少年。


「あ、えと。飛野坂日雀ヒノサカ ヒガラです」


 最初こそ言い澱んだけれど、ピシッと姿勢を正して名乗る少年、日雀。

 日雀は不恰好なメガネを着けており、そこだけ違和感があった。

 暗い灰色の髪は無造作に跳ね、時折白いメッシュが混じっている。メガネの奥には鮮やかな赤色の瞳があり、じっとこちらを見ていた。


「館恵です」

「はい。これから、精一杯仕えさせていただきます」

「……ん?」


 ペコリ、と礼儀正しくお辞儀する日雀。

 ……んん?


「えっと、どういう事?」

「どうって、そのままの意味だにゃー」

「詳しい説明をお願いします、雪瓜様?」

「えー、めんどくさ」

「詳しい説明をお願いします、雪瓜様?」


 一言一句同じ台詞をもう一度繰り返すと、雪瓜様の動きが一瞬固まった。

 うん、よし、もう1回だね!


「詳しい説明をお願いします、雪瓜様?」

「うぅー……もー、わかったから、怖い雰囲気を出すのやめてくれにゃいかにゃあ!? かわいいかわいいめぐたんに、そんな顔は似合わないよぅ!」


 自分では完璧と思える営業スマイルに、雪瓜様が折れた。

 悔しそうに唇を噛んでいるけれど、彼女にとってはこれも単なるスキンシップにしか感じられないだろう。


 だって、内容違いで同じような場面が、この数週間で5回はあったからね。

 懲りない人なのだ。


「今日も今日とて忙しい兄様がね、かわいくて愛らしくていっそ一生屋敷に閉じ込めておきたいくらい好きなめぐたんに、護衛を付けようって言ったのよ」

「護衛ならマクシスがいるのになぁ」

「……かわいいのくだりは無視にゃのね……」


 そりゃあ、お父様の私への溺愛っぷりは、雪瓜様よりも間近で見ていますから。

 肩を落として呆れ顔の雪瓜様だけれど、まだ説明は終わっていないらしい。すぐ立ち直って、その口を開いた。


「で、女の子の護衛は中々見つからなかったけれど、同い年のこの子なら仕上がっていたからって。本日付でめぐたんの護衛にあたらせる事ににゃりました! あ、マクシスくんと違って、護衛がついでで執事が本業だから、そこはよろしくにゃー」


 雪瓜様は朗らかな笑みを浮かべると、日雀の頭をそっと撫でる。日雀はピクリと反応したけれど、彼女を見る事は無かった。

 雪瓜様はそのまま、部屋を出て行ってしまう。


 本当に面倒と思っていたんだね……今頃廊下を、逃げるように走っているはずだよ。

 そうして自分が居城としている自室にこもるのだ。


 彼女は気紛れで私に会いに来る以外、外に出ようとしない。

 今回はそういった気紛れではないのだ。私に会った事自体は嬉しかっただろうけれど、日雀を連れて行くという任務を終えた今、私の部屋に留まる『理由』が無くなった。


 良くも悪くも、理由とか意味とかが無い行動はしない人なのだ。


 それにしても、イキナリ護衛というか、執事が増えるって、どうなのだろうか?

 同い年、だよね? でも、紅音と違って話題が豊富にあるわけではなさそう。私は会話では受動タイプなので、何か話してくれないと困る。


 うーん、話題。話題。


「そうだ。紅茶、淹れてくれる?」

「承知いたしました」


 ぺこりとお辞儀した彼は、早速キビキビと動き始めた。

 私と同い年の子とは思えないほど、彼の動きは洗練されている。さすがにまだ覚束ない所はあるようだけれど。

 マクシスの場合、その場で魔法を使ってお湯を出すのだけれど、まだ魔法が使えない彼は、急いでお湯を取りに行った。


 というか、扉の外で待機していたマクシスに頼んだ。


「出来ました」


 やがて淹れられた紅茶は、フルーティーな香気を放ち、目の前に置かれた。

 それを一口含む……。


「あ、美味しい」

「……ありがとうございます」


 私が思わず零した笑みに、日雀は気付かれない程度に胸を撫で下ろした。

 心なしか、日雀の強張っていた表情は柔らかくなる。よかった、緊張が解れたみたいだね。私もそうだけど、急に執事をつける、なんて、当人が一番驚いたはずだもん。


 それにしても、この紅茶思ったより美味しい。まだマクシスほどじゃないけれど、今これなら将来が楽しみである。

 マクシスに教えてもらうように頼もうかなぁ。


「……お嬢様」

「ん、なぁに?」

「その。お聞きしたい事が、あるのですが」


 紅茶を愉しんでいる私に、日雀が話しかけてくる。

 その表情はやけに真剣だった。


「聞きたい事?」

「……一年前の、事件の事を」

「うん? あ、私が溺れたっていうあれかな」


 彼の言葉で思い当たった事をそのまま声に出す。それしか無いよね? あれから事件らしい事件といえば、試練場に迷い込んだ事くらいだし。

 あれは秘密中の秘密なので、彼が知っているわけが無い。


 日雀は無言で頷いた。


 でも、質問かぁ。私、その事件の事を覚えていないんだよね。

 聞かれても答えられない質問が来ると厄介だし、最初に言っておこうかな。


「私ね、あの事件の記憶が曖昧なの。王女様にパーティへ招待されたって聞いたけれど、その辺りも全く。だから、聞きたい事がそれ以外なら聞いて良いよ」

「……っ、いえ」


 彼はそう呟いて、俯いてしまう。私が答えられない質問だったらしい。

 よほど聞きたい事だったのかな。だとしたら、悪い事をした気分。


「ごめんね」

「あ、お嬢様が謝る事ではありません。ですが、その。……本日は、下がらせていただけませんでしょうか」

「うん、いいよ。私が聞いていなかったくらいだもん。日雀も急にこんな事になって、混乱しているよね。今日はゆっくり休んで、明日またお話しよう?」

「……はい。ありがとうございます」


 彼は何とも言えない表情のままぺこりとお辞儀して、部屋を出て行った。

 本当に、悪い事をした気分だ。


 私は―― 彼の事を、知っているのに。


 私が私になる前。前世の記憶を思い出した時。その前にいた「恵」の記憶は、ピンボケの写真のような静止画で記憶されていた。

 その最後の1枚に、彼は写っている。


 私が私になる前の、最後に見たもの。


 それは日雀が、絶望している表情だけが、ハッキリと写っている1枚絵だった。


 私は私に何があったのかをよく知らない。

 けれど彼はそれを知っているのだろう。そうして、何故か私の元にやって来たのだろう。


 それにあの、後悔と絶望と期待が綯い交ぜとなった、複雑極まりない表情。

 同い年の子供がするような顔じゃなかった。


 でも、私はちゃんと覚えているわけじゃない。何が起こったのかを知っているのは、私が私になる前の「恵」と、日雀。そしておそらく、お父様達くらいである。




 用意された自室に戻った日雀は、着替えもせずにベッドへダイブした。


 せっかく用意された新品の執事服だが、替えが何故か10着ほどもある。それにどうせ、明日には替えに着替えるのだから問題ない。

 着けていたメガネだけを外し、天井を眺める日雀。


 彼の目には、常人ではありえないものが見えていた。


「……館家、日雀の個室、天井」


 それは、文字。


 彼が生来持ち合わせる、特殊技能によるもの。

 視界に映る物の情報を読み取り、自身の視界にのみ映し出す能力。


 人はこれを、鑑定眼と呼んだ。


 彼はこの能力を持って生まれたが故に、文字という物を物心ついた時から完全に把握していた。それは文字のみならず、相手が話す専門用語だらけの論文ですら理解できた。


 彼にわからない事は無かった。

 料理を見れば隠し味まで見通し、毒の有無からアレンジ方法までわかる。

 動物を見れば手懐け方から倒し方などを網羅し、図鑑よりも正確に身体の構造がわかる。


 それらの情報を駆使する事で、彼にわからない事など、何一つ無かった。

 ……だが。


 唯一にして絶対の「例外」が現れてしまった。


 それが、恵だったのだ。


 初めて現れた「未知」は、彼にとって「恐怖」……というわけではなかった。むしろ初めての感覚に探究心を発現させ、彼女に異常なまでの興味を抱いたほどだ。


 その探究心が、彼を「未知」だらけの世界へと導いた。

 鑑定眼は、所詮その場にある物を調べる能力。知らない人へ話しかける方法、相手から話を聞く方法など、彼は知らなかった。


 これまでは相手から話しかけられ、相手から自分の情報を聞いていたから。

 だから、彼等のマネをする事にした。


 たとえば相手の名前を呼ぶ。

 これは無理だ。名前がわからない。


 ではどうするか? 相手に触れて、自分の存在に気付いてもらう。これなら出来そうだと、早速、日雀は行動に移した。

 だが、それで話が終われば、彼は館家の執事になどなっていなかっただろう。


 話しかけようとした場所が、問題だったのだ。

 プールに起きた小さな波を眺める恵に、力の加減を知らない日雀が触れる。


 油断していた恵は、プールの中へと落ちてしまったのだ。


 一瞬の出来事だった。


 恵が落ちた瞬間に水飛沫が舞い、日雀にかかる。それを無視して自分も飛び込み、救出する事こそが最善だっただろうが、それは日雀にとって予想外で、予定外で、想定外。


 呆然とするしかなく、叫び声すら上げられなかった。

 この瞬間、日雀の中にあった「未知」は「恐怖」に変化する。


 呆然としたまま何秒かが過ぎ、溺れた恵を護衛のマクシスが救出した。しかしその時には、恵は既に気絶しており、傍目から見れば死んだように動かなくなっていた。

 未だ恵について何も見えない事から、日雀の頭は真っ白になった。


 真っ白になって、それからの事は覚えていない。

 ただ、周囲が騒々しくて、何度か何かを聞かれたことくらいしか、覚えていない。


「何が起こったのかわかるかい?」


 日雀という少年の心は、そんな「恐怖」の質問に苛まれ、ゆっくりと崩壊を始める。


 彼が我に戻ったのは、事件発生から半年も経ったある日の事だ。

 なるべく彼に刺激を与えないようにと、特別に作られた檻の中。色の無い、白で統一された、鉄格子も鍵も無い、ただそこにいるためだけの部屋。


 彼はふと、目を覚ました。


「……ああ、そっか」


 彼にはその場所が、何のために、誰が、どうやって作ったのか、全てを理解した。


 そうして視界の端に映る情報に目を通し、鍵穴の無い扉を、自分から開ける。

 ……そこには、驚きに目を見開いた男性が立っていた。


 日雀が虚ろな瞳を、男性―― 館奏真に向けると、彼は悲しそうな笑顔を浮かべ、彼と目線を合わせるべくしゃがみこむ。


「……目を、覚ましたんだね」

「はい」

「今日は、話を聞けるかな?」

「はい」


 淡々と肯定のみを語る日雀を抱き上げて、奏真は部屋を後にした。

 扉の向こうも白いもので統一されている。別に扉から出ても、問題は無かったのだ。

 奏真は日雀をイスに座らせると、自身も対面にあったイスに腰掛ける。


 彼は笑顔を浮かべていた。


「君は、自分が何をしたのか、わかっているかな」

「はい。僕は、あなたの御息女を、王城のプールに突き飛ばしました」


 日雀の答えに、奏真は目を細める。


「何か理由があったのかな。僕の娘は、君の目に何か、良くない事を映してしまったのかな」

「いいえ。何も」

「……何も?」

「何も、映りませんでした。だから、彼女に話しかけようとした。けれど、話しかけ方がわからなかった。だから、これまで僕に話しかけてきた人のやり方を、真似しました。力加減がわからなくて、突き飛ばす結果になってしまいました。申し訳ありません」


 正直に全てを打ち明ける日雀は、無表情に、無感情に、ただ淡々と語る。

 謝罪の言葉に一切の感情が込められていない。


 これは普通ならば、怒りを覚える事だろう。

 だが日雀に関しては、普通という言葉では表せなかった。


 彼は、物心が付くまでに知るはずだった表情、感情、喋り方を、全て理解していた。

 理解していながら、それを「知識」として保有するのみで、体現までは出来なかった。


 人が行動を起こす際に、最も重要と言える感情が、欠落していたのだ。


「何も映らなかった……? それは、本当なのかい?」

「はい。今あなたを見る事で、ようやく彼女の事を知れました。彼女の名前は館恵。僕と同い年で、あなたの娘。現在跡取りとして最有力である館希と同等かそれ以上の魔力量を保持して生まれた……天才の類であろう、女の子」


 ペラペラと、奏真を見ながら語る彼の言葉に、偽りはない。その時点で未だ夫婦間でのみ話し合われた館家の跡取りに関する事まで述べられ、奏真は前身に緊張を走らせる。

 目の前にいるのは、本当に子供だろうか?

 それが奏真の抱いた疑問である。


「男女平等の思想が広がりつつある情勢下において、彼女の存在は館家にとってとても大きい。そんな彼女に、悪意は無くとも危害を加えた僕は、館家にとって脅威。

 ……だからこそ、半年前から今の今まで放心状態だった僕という存在を、館家と「藤山家」は全力で隠す事に決めた。そうして作られたのがこの『白の檻』であり、場合によっては、僕は一生をこの中で過ごす事になる」

「……やけに、冷静だね」

「それだけの事をしたのは、僕ですから」


 どう聞いても無関心なようにしか思えない、抑揚の無い喋り方だ。

 日雀の家庭環境を知っている奏真だからこそ、その態度は咎められない。日雀を「そう」してしまった大人の責任が、奏真の声を押し出す。


「ここから出たいとは、思わないのかな」

「さあ。……強いて言うならば、僕がプールに突き落としてしまった彼女の現状を知りたい、という事以外は、特に何か思う事はありませんから」


 鍵の無い部屋。

 それは、いつでもここから出られるという意味である。また日雀であれば、誰にも見つからず脱出するなど簡単なことだ。


 5歳児でここまで外に興味を持たず、遊び道具も何も見当たらないこの場所にいる事に、拒否感すら抱かないのは異常だ、と。奏真は感じる。

 奏真の表情は、段々と険しくなって行った。


「なら、直接見たいとは思わないのかな」

「……直接?」


 日雀の僅かな表情の変化を、彼は見逃さない。日雀の声が僅かに弾んだのを、彼は聞き逃さない。


「日雀君。確かに君は、危うく僕の娘を殺していたかもしれない。それを僕は許すつもりなんて一切無いけれど、ちょうど、娘と僕に忠実な『駒』が欲しくてね」

「……駒、ですか」

「ああ。もし君が一生をかけて恵を守り、何があっても仕えてくれるならば。僕は君に、これを与えようと考えている」


 奏真は懐から、小さなメガネを1つ、取り出した。

 子供用にしては無骨なデザインで、見るからに重そうだ。しかしそれを見た日雀の目の色が、一瞬にして変わる。

 日雀にとって、交渉材料になりうる物だったのだ。


「君は、君が見ている世界に辟易している。何故なら君にとって、悪意も善意も突発的な行為すらも予定調和になってしまうから。半年前に起こった事を思えば、これは君にとって恐怖の対象にもなりうるが……君にとって、唯一の興味の対象でもあると、僕は考えている」

「……そうなりますね」

「よかった。用意した甲斐があったよ。君の興味を引ける確証は無かったからね」


 そのメガネに使われたレンズには、特殊な能力が付けられている。それは彼が生来持っている鑑定眼を封印し、常人の視界を与えるものだ。

 当然、外せば鑑定眼は元に戻る仕様であり、着脱可能である。


「これまで君は、生きる上で必要な感情が欠落していた。しかし今回の事で、君自身がやりたい事を見出せたのではないかな」

「……僕自身が、やりたい事」


 静かな部屋で呟いた、彼の選択は――




 未知は恐怖である。

 日雀に限れば、人格を破綻させるほどの刺激物だ。

 ベッドに寝転がった日雀は、ぎこちない笑みを浮かべ、取ったメガネを優しく握りこむ。


「僕は―― 一生をかけてでも、貴方を守ります」


 それは、日雀が生まれて初めてもらった『生きる意味』だった。

 彼にとって、彼女を守りたいという感情は、極めて新鮮かつ鮮烈な刺激だったのだ。


 だからこそ妄信的に、盲目的に、館恵という人物を守り、仕える事に苦は無い。


 半年で叩き込まれた、執事としての技能と護衛としての技術。その2つを使って彼女の傍にいる事で、日雀はそれまで知らなかった事を知ろうとしていた。


 それは感情であり、表情であり、時間という概念でもある。

 常に同じように過ぎている時間と景色では、時が止まっているのと同意。恵と出会った事で、ようやく彼の『時間』は動き始めたのだ。


「―― 明日からが『楽しみ』だね」


 誰に言うでもなく、独り言を呟く日雀。


 彼は生家を自ら離れ、遠ざかり、なおかつ自ら苗字を変えた。


 他人に用意された道でも、自分で進むと決めた道を選び、歩き始めたのだ。


 かつて虚ろだった日雀の目を知っている者は少ない。


 今の彼を見た時、彼等は十中八九驚くだろう。

 今の彼の瞳は、誰よりもギラギラと輝いているのだから。


「また明日」


 誰に言ったのか。


 そう呟いて、日雀は目を閉じた。


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