14 OSINOBI
今日は、大事な日です。
何が大事って、この姿を見てわかりませんか?
って、文字だけじゃわからないよね。そりゃそうだ。
「どうかな」
「お似合いです。どこからどう見ても、町娘にしか見えないかと」
「ありがとう」
ベタと言える「町娘には見えないかな?」と言う流れを汲まず、スマートに返してくれるところはとても好感が持てるよ、日雀。
そう、今の私は町娘に見える服装なのです。
髪も目立つらしいので、赤い頭巾で隠して、茶色をメインに使ったエプロンドレスタイプの服だ。目の色はどうしようもないけれど、頭巾を目深にかぶれば問題無し!
「じゃあ、行くよ……!」
「はい、お嬢様」
「今日の私は?」
「ただの恵です」
「うん、よし、行こうか日雀!」
「仰せのままに!」
うん、えっとね。
何でここまで盛り上がっているのかというと、今日、私は初めて、お姉様達と一緒に町へお忍びに行くからなのです。
領地査察と言えば聞こえは良いかもしれない。
けれど、所詮は成人前の子供だ。買い食いやら外の空気を吸うのがメインである。
事の始まりは3日前。
気紛れに何度か、桜お姉様の魔法の練習を見させてもらっていた時である。
「恵。恵はお忍びでは、何をするのかしら?」
「お忍び、ですか?」
「そう。私はお祭りの時を狙って行くのですけれど、3日後、兄妹揃って都合がついたので、一緒に行こうという事になったのですよ。恵の予定は空いているかしら」
桜お姉様は、近くのベンチに座っていた私に目線を合わせ、無邪気な笑顔を浮かべた。
うーん。
「日雀」
「一応、雪瓜様ご訪問の予定はございません」
「じゃ、空いているって事だね。お姉様、私が付いて行ってもよいのですか?」
「もちろん」
「では、恵お嬢様の初・お忍びになるのですね。きちんと予定を空けておきましょう」
まぁ、そもそも予定なんて、6歳児には無いも同然だけれど。あ、お勉強の時間があるけど、3日後は休日だって事を忘れてはいない。
雪瓜様が来ないのであれば、予定は無いのだ。
というか、予定なんて無くても、雪瓜様は来るわけだけれど。
と、雪瓜様のすっかり元通りになった不敵な笑みを思い出していると、桜お姉様がプルプル震え、俯いている姿が目に入った。
「……今、何て?」
「? きちんと予定を」
「あ、もうちょっと前」
「恵お嬢様の初・お忍び」
「―― 恵、お忍びに行った事無いの!?」
「え? はい!」
桜お姉様が、くわっと目を見開いて尋ねてきたので、元気良くお返事をする。
5歳のお出かけ以前は知らないけど、少なくともこの1年でお忍びは行っていない。
何せ1年前に出かけた先で、プールに溺れたらしいし。それから病気らしい病気も無く、トラブルらしいトラブルも無いけれど、まぁ心配されて当然である。
桜お姉様と一緒に行った事が無くてよかった……。
行っていたら「覚えていないの」と号泣される恐れがあったからね!
「……日雀。私が何故、あなたにも聞かせたか、わかりますね?」
「重々承知しております」
「ならいいわ。恵、私がお忍びの楽しみ方を教えてあげる!」
「はい!」
これが、3日前にあった会話である。
お姉様の口調が僅かに変化したとか、そこらへんは気にしない方が良いらしい。
人間、表があれば裏もある。本来遊び好きな子供であれば、ふとした拍子に素が出てもおかしくない。大人だって隠し切れないのだから。
……とまあ、こんな感じの会話があって、私は兄妹でお忍びへ行く事になったのだ。
どこに行くかは、全然知らないけど。
「恵、こっちよ」
桜お姉様は、髪をポニーテールにしていた。赤い布を給食の時に付ける三角ナプキンのように身に着けている。服は桃色のエプロンドレスだ。
こそこそと移動する事10分。私は初めて、葵波お兄様の私室までやってきた。
「葵波お兄様、桜ですわ」
コンコン、コン。桜お姉様が扉を3回、独特な間を置いてノックする。すると静かに扉が開いて、子供が1人通れる程度の隙間が出来た。
私達はそれをすり抜けて、部屋へと入る。
日雀まで入りきると、素早く扉が閉じられた。
「来たな、桜、恵!」
「はい、葵波お兄様!」
実はこの1年ほとんど再会する事の無かった葵波お兄様は、前に見た時よりも背が伸びていた。
小さな子供の成長は速いからね。身体検査の結果を見る度に、明らかに伸びた背を実感させられていたなー。
「それで、今日はどこへ行くのですか?」
「何だ、桜から聞かなかったのか」
「サプライズですもの。希お兄様も、お早かったのですね」
「……まぁ」
葵波お兄様は会わなかったけれど、希お兄様には不思議と何度も会っていた。
前に会ったのは2週間前。これでも葵波お兄様よりは頻繁である。
私はワクワクしながら、葵波お兄様のベッドに腰掛けている、帽子をかぶった希お兄様に話しかけることにした。
「希お兄様、お久しぶりです」
「……ん」
希お兄様は、相も変わらず口数が少ない。けど極めて短いその言葉は、とても柔らかくて温かい。性格自体はクールではないのである。
あ、でも、冷静沈着という意味ではクールだけどね。
「……隠し通路」
「?」
「……外へは、隠し通路を使う。暗い場所だが、大丈夫か?」
「はい。大丈夫です」
とても心配そうに私の頬を撫でる彼は、真っ直ぐ私の目を見て話す。
この1年で色々試してみた。お湯の中で泳げる程度には、トラウマも薄らいでくれるほどには努力してみたのです。
冷たい水の中だと、一気に気を失っちゃうのだけれど……。
ま、まあ、それは仕方無い。
暗いところくらいなら大丈夫。女神様に誓って、大丈夫なのです!
「じゃあ行こうぜ。時間が惜しいからな!」
葵波お兄様は無邪気な笑みを浮かべると、壁にかかった絵画に手をかけ、横へ押した。
絵画は軽々と横へずれて行き―― 下へと続く、階段が現れた。
「わ、ぁ」
お屋敷の、外。
これまで屋敷と屋敷の敷地内しか見た事の無い私の眼に、初めて外の様子が映し出された。
色も、匂いも、足から伝わる感触も、風の温度さえも……違う。
暗くてかび臭い通路を抜けた先には、廃屋のような場所があった。どうやら隠し通路を隠しておくためにある家屋のようで、長年誰も手入れをしていないらしい。そろそろ屋根が落ちてきそうなほど古びてしまっている。
もちろん、お忍びの目的地はここじゃない。
家と同じく、ボロの扉の先に広がる「町」だ。
白を基調とした建物とは違う、暗めの色が使われた家々。どこからとも無くお肉の焼ける匂いがしてきて、賑わう人の声がどこにいても聞こえる。
美味しそうな果物を売るおばさんの元気な声、新鮮で大きな魚を捌くおじさん、野菜の値引き交渉で盛り上がるオーディエンス。
私と同じような格好をした子もいるけれど、頭巾からはみ出した髪は茶色とか黒に近い緑の子ばかり。お兄様達とよく似た格好の人もいた。
そういえば、お兄様達は髪色を隠していないけれど、大丈夫なのかな?
うーん、本人たちが気にしていないようだから、いっか。
建物の種類は前世の日本からかけ離れた、西洋の物だ。
けれど、商店街やマーケット特有の、騒々しさを含んだ賑やかさがあった。
「はぐれないように、手を繋ぐわよ」
「はい!」
「……恵、敬語を外す事は出来るかしら?」
「あ、は……うん!」
「「よし」」
桜お姉様に言われて敬語を外すと、お兄様2人が声を揃えて親指を立てる。
わぁ、さすが兄弟、息ピッタリ!
あ、そうだ。日雀も私と同い年だし、手を繋いでおいた方が良いかな。
「日雀も」
「いえ。僕は周囲の警戒をするので」
「むぅ……」
全部言う前に内容を察したのか、私から1歩離れた距離を保つ日雀。頬を膨らませても動じない。いつもなら言う事聞いてくれるのに……。
まぁ、手は繋いだ事無いけどさ。
「賢明な判断だわ」
「当然の対応ですので」
お姉様と日雀が何やらアイコンタクトで話しているけど、当然の如く私に内容はわからない。
お姉様達って、こんなに仲良かったっけ?
……むぅ。
「恵、あちらに大道芸をしている人がいるみたいです」
「え、本当?」
「それは見たいわね……! 案内しなさい、日雀!」
「こっちです」
桜お姉様の指示に素直に従う日雀。彼は今にもスキップしそうな勢いで先導し、
……もしかして、はしゃいでいるのかな? 無表情で物凄くわかり難いけど。日雀、まさかはしゃいでいるのかな!?
珍しい光景だよ! カメラがあったら撮りたかった!
仕方無いから、記憶に焼き付けておくよ……。
「うわ、すげぇ!」
珍しい態度の日雀に目を奪われていると、葵波お兄様の声が聞こえた。
意識を引き戻された私は、大人の足を掻き分けて進む桜お姉様の姿を捉えた。私もその後を追って抜けた先には、日雀の言った大道芸の人が見える。
顔を覆い隠す仮面をかぶった、2人の人間がそこにいた。1人はアコーディオンのような楽器による軽快なメロディを奏で、もう1人は派手な色の塗られた玉に乗ってジャグリングを披露している。危なっかしくフラフラしながら、ジャグリングの手は緩めない。
「わ、わ、絶妙に倒れない!」
「……すごい」
私も日雀も、思わず感嘆の溜め息を漏らしてしまった。
やがてジャグリングに使っていた物を、用意したシルクハットに入れ、私の前まで来て中身を見せてくる。
真っ赤なリンゴが5個、入っていた。
それを確認するのとほぼ同時。
シルクハットが、上空へと投げ出された。
―― 途端。
シルクハットそのものが、パァン! と弾け、何羽もの真っ白な鳥へと変化する。
集まっていた観客が、わぁわぁと興奮した様子で盛り上がりが最高潮に達していた。
仮面の2人の元へ、鳥達が降りてくる。どうやって持っているのだろう。鳩サイズだけど鳩じゃないその鳥は、シルクハットに入っていたリンゴを1個ずつ足で掴んでおり、大道芸人へと手渡すと、彼等の肩や頭に留まる。
「……」
無言で、そのリンゴの1つを私にくれた。
……いつの間にか、焼きリンゴになっている。
え、いつの間に!? しかもまだあったかい!
「い、いいの?」
「……」
大道芸人さんは、無言のままコクコクと頷いた。
「恵、チップ用の小銭ならあるぜ」
「鉄貨1枚。……それ以上は、目を付けられる」
鉄貨? 鉄貨はたしか、日本円で言うところの100円くらいだったかな。
とても安いお菓子が何個か買える程度、で覚えている。
日常生活で使うのは、主に鉄貨、銅貨、銀貨の三種類。平民が持つ銀貨の数は少ないけれど、大きなお買い物、例えば家や家具、嗜好品はこれを使う事が多いとか。
庶民には手に入らない金貨とか、白金貨とかもあるみたいだね。
私達貴族が普段目にするのは、こちらの大きなお金くらいらしい。らしいというのは、私は見た事が無いからだ。お小遣いを現金で渡された事もないしね。
……葵波お兄様は、どうやって小銭を手に入れたのかな?
「こ、これ!」
「……」
鉄貨1枚を受け取ると、律儀にペコリとお辞儀する。
すると、私の横やら上やらから、次々にいつの間にか彼等の持っていたシルクハットの中へ、お金が放り込まれて行った。
全て小銭のように思えたけれど、中には金色に光るものを投げ込んだ者もいた。
というか、わ、わ、出るタイミングを失っちゃったよ!
「恵、行きましょう」
「あ、うん」
お姉様に促され、その場を離れる。……振り返ると、大道芸人さんがひらひらと手を振っていた。私も、見えるかどうかはわからないけれど、振り返しておく。
仮面は泣いているようにも、笑っているようにも見えた。
焼きリンゴは日雀に預かってもらい、町を探索する。これまで何度か
「それにしても、人、多いね」
手を離したらすぐはぐれちゃいそうだよ。
「そうね。お祭りじゃないはずだけど」
「いや、祭りの準備期間だから、こんなものだろ?」
「……そうだな」
「お祭りがあるの?」
「……ん」
下から目線で尋ねると、希お兄様は、ほんの少し誇らしげに頷いてみせた。
「明後日、男女子供に分かれて喧嘩祭りが開催される。……野蛮な奴も多いが、安全な道を通っている。だから、安心しろ」
「うん!」
「たしかに、活気のある場所ならなにか起こっても大丈夫そうだしな!」
あぁ。うん、そうだね。
人のいない場所って、どれだけ叫んでも気付かれ難いしね。
「とにかく。こうしてしっかり握っていれば大丈夫よ!」
「うん!」
……。
…………。
………………。
以上、約10分前までの回想でした。
そう、回想なの。
喧嘩祭りに参加する人も、観戦するだけの人もたくさん集まっていた。そこで、前哨戦のノリで、暴れる人が現れてもおかしくなかったのだ。
路辺で突如として沸くオーディエンス。
お酒も飲んでいないのに、楽しそうに拳と拳の語り合いを始める熱い男達。それに触発された筋肉ムキムキのお姉さん達。
彼等による、突発的なバトルショーが始まった途端。
彼等を取り囲むように集まって、人海のリングを作り出す観戦者達。
子供の握力は弱い。どれだけ本人達が固く握っていようと、すぐ離れてしまうほどに。
人の波から放り出された私は、騒々しい表通りから、少し暗い路地裏へと辿り着いた。今しがた、私がいたはずの表通りは、興奮した大人たちで埋まっている。
ムリヤリ通ろうとすれば、おそらく蹴られる。
痛いのは、嫌だなぁ。
でも、表通りに戻らない事には、お姉様達と会えない。
大人の一人に話しかけたところで、この興奮状態じゃ聞いてもらえないよ。というか、話しかけても無視されたよ!
けど、地図も無い、食べ物も無い、見た事も無い場所に放り出された私の心は、この上なく不安に押し潰されそうになります。
あぁ、どうしよう!
困惑に陥った私は、その場にへたりこむ。少し待てば、この喧騒も収まると思ったからだ。
一日中続くような奴だったら困るけど、それでも人の集まり方には波がある、はず。
何とか隙を見つけて、路地裏以外の場所へ移動したい。
路地裏なんて場所、何か好く無い事の起こる場所ランキングで言えばトップ3に入るよ!
「お、こんな所にガキが……」
ほらね!
背が高くてスキンヘッドでピアスをたくさん着けた筋骨隆々のおじさんが、路地裏の奥から現れ、下品な笑顔を浮かべていた。
こ、この人、良い人かな? 実はトラックに轢かれそうな琥猫を助けるタイプの――
「こいつぁ、金になりそうな女の子じゃねぇかよぉ」
―― ないね! ご丁寧にナイフの脅しまで付けてくれたよ! 親切なまでにわかりやすい悪党だよね、これ!
興奮した人達は、私たちの事に気付かない。不思議なほど、気付かれていない。
な、何で。
「へっへっへ……防音魔法、やっぱ便利だなぁ。認識阻害の効果まで付与するなんざ、本当……こういう事にはうってつけじゃねぇの!」
はい、ご丁寧な説明どうもありがとう!
防音魔法ってあれだよね、雪瓜様も使っていた魔法。周囲に音が届かなくなる魔法、らしいけど、誰が使ってもこんな、発動の兆候が無いものなの?
しかも認識阻害? だから人が気付かないの? 触っても気付かないなんて、どうして……!
「そのかわいぃ服を破りたくは無いからよぉ、じっとしていろよなぁ!」
「……っ!」
腰に提げた果物ナイフのような物を取り出し、その切っ先を私に向ける。
そうして男は、ひゅん、と空気を切り裂いた。
「……っあ」
音に驚いて咄嗟に上げた手に、チリッとした痛みが走る。
途端、私の脳裏に、前世の記憶がフラッシュバックした。
あの地獄のような3週間。実際の長さよりも、ずっとずっと長く、永遠にも続くかのような日々を送らせられた記憶が。
一瞬で、全身が凍りついたように動かなくなる。
指先が痛いくらいに冷えきり、全身が震え始めた。
この、感覚。
全身が自分のモノじゃなくなったような感覚を、私は知っている。
自分よりも大きな男にナイフを突きつけられ、ゆっくりと近付いてくる「それ」を。
どれだけ小さかろうと、刃物であれば。
それは、私を死に至らしめる、凶器となる……!
「いや、やだ……やだぁあーー!」
「ヒュウ、良い声だな!」
盛り上がる人海の壁にすがりつく。どれだけ叩いても、彼等は気にする素振りすらない。
6歳児、それも女子の力だ。時間をかければいけるかもしれないが、興奮しきった彼等は、気付く様子がこれっぽっちも無かった。
どう、しよう。
どうしよう……。
どうしよう!
久々に思い出した恐怖に、私はパニックに陥った。
男が、恐怖をあおるようにゆっくりと近付いてくる。
私が怖がる姿を、愉しんでいるように見えた。
私を捕まえようと、無骨な手が伸ばされる。
私は恐怖に引き攣った顔を手で覆い、強く目を閉じた。
―― ガッ!
「ああ!?」
硬い物が、何かに当たる音が聞こえた。その途端、男のイラついた声と足音が、何回か遠ざかりつつ、響いた。
私は恐る恐る、目を開く。
「……恵お嬢様! 大丈夫ですか!」
「―― ひ、がら?」
私の目の前には、私に背を向けた日雀が、立っていた。
彼の声は、いつもより尖って聞こえた。
けれどそれは、目の前の状況からして当然のものだ。一瞬だけだったけれど、強張った身体が理解した瞬間に緩まった。
「ほぉー。お貴族様のガキだったのか。容姿よし、声よし。ハッハァ! 相場より高く売れそうだなオイ!」
大声で私を値踏みするように睨む男。
大きな声に私がビクつくと、日雀は1歩、前に進んで手を開いた。
「恵お嬢様に手出しはさせません」
「……威勢の良いガキだなぁ!? 大人に物を投げて、謝罪も無したぁ、親の躾がなっていない証拠だぜ。ま、どっちにしろ、見られたからには……」
日雀を捕まえる気はないようで、私の時と違って、あからさまにナイフをぎらつかせた。私の時は脅しに使っていたらしい。
男は日雀のみを見据え、ナイフを縦横無尽に振る。
日雀は、先手必勝とでも言うように、数メートル離れた男の懐へと入り込んだ。
「おらァ!」
そんな日雀へ、男はナイフを振り下ろす。
日雀は小さな体躯を活かし、ひらりと、避けた。
「チッ」
「……っ」
一方、日雀は攻撃する手段が素手しか無い。
決定打に欠ける、と思った。
けれど彼の弱々しい突きやチョップは、届く度に男が苦悶の呻き声を上げる。
私でも知っている人体の急所の1つ、鳩尾にクリーンヒットした瞬間、わかった。
日雀は急所しか狙っていない……!
え、急所しか狙っていなくて、急所にしか当たっていないの!?
ナイフを避けつつ、的確に急所を狙ってくる日雀に、男のイラつきが最高潮に達した。
「クソがぁああ!」
男はナイフを振り下ろす。
日雀はそれを、紙一重で避けた。
しかし、図体がでかい割に動きが速い男の一閃は、僅かに日雀に当たってしまう。
日雀の手の甲から、赤い液体がつぅ、と流れ出していた。
「―― 日雀!」
「問題ありません。……逃げてください、恵」
「で、でも」
「早く!」
「おー、おー、即効性のはずなのに、まだ動けるとはなぁ」
男が乱れた息を整えながら、ニヤついた。
即効……性……?
ま、さか。
毒……ッ!?
「身体を、麻痺させるタイプです。恵、僕は大丈夫ですから、あなただけでも」
「い、嫌だよ! 日雀を置いていくなんて……」
「いいから、逃げてください……!」
攻撃が当たる前までは、あまり乱れていなかったはずの呼吸。日雀は何もしていないのに肩で息をし始めていた。
即効性の毒が即効性ではなくなっている事に驚きが隠せない。
それ以上に、殺される事前提で私を逃がそうとしている。
どうして……?
「く……っ!」
「日雀!」
彼はついに、膝をついてしまう。
男は私達を、とても楽しそうに眺めていた。
しかし、日雀がもうマトモに動けないとわかると、今度は素早く私の傍にやってきて、私を軽々と持ち上げた。
日雀は悔しそうに唇を噛みながら、私に手を伸ばすけれど……地面へと、倒れこんでしまう。
「―― 離してッ!」
めいっぱい、叫ぶ。
誰かに届いて欲しかった。
届くかどうかもわからないのに、声を張り上げる。
私の事もそうだけれど、日雀に気付いて欲しい。
毒を盛られた日雀の方が、優先度は高いと思ったからだ。
日雀が来た事で、幾分か私の頭は冷静さを取り戻してくれたようだった。
嬉しくない誤算だよ。
……お願い。
「おーおー。元気があっていいなぁ」
誰でもいい。
「離すさ。離すとも」
このナイフが、届く前に。
「……こいつを殺してからなぁ!」
誰か―― 来て!
「――……【キリングキック】」
揺れた視界。
目に映る鮮やかな赤。
私は、突如として舞い降りた奇跡に、目を見開く事となる。
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