04 文字が読みたいのです
お父様が読み聞かせてくれたおかげで、簡単な文字なら覚える事ができた。
……読めるだけで書けないし、寝て起きたら忘れてそうなほど、おぼろげだけど。
お父様は、赤ずきん――本当は別の名前だったけど――の後も、何冊か本を読んでくれた。そのおかげで少しは文字がわかったのだから、感謝しかない。
お父様はさっき、仕事があると言って部屋を出てしまった。
私としては、精神的にはまだまだ余裕だ。
けど、身体は幼い子供で、当然、昼寝を挟まなければやっていられないほど体力が無い。加えて、一週間も寝た後だからか、部屋中をうろつくにもやや苦労した。
1日寝たきりで、2日分の筋肉を失うって本当かも。
これは、早急にリハビリが必要だね!
とはいえ、今はあまり動かないようベッドに居座り、本をペラペラと読むに留めておこう。
それだけで体力は削られてしまうのだから、いつの間にか寝巻きに変えられて、本も片付けられていた、という事が1日で3回も起こったので。
この部屋には大したおもちゃが無く、遊び相手もいない。
そこにこじつけて、寝た後も近くに本を置いておくようリリエラに頼んでおく。
それと、ペンと紙もおねだりしてみた。
……案外スッと意見が通った。お嬢様って凄い。
まぁね。ペンと紙はともかく、本は寝る時邪魔にならないようどけていたからね。わざわざ部屋の端から端まで重い本を運ぶくらいなら、近くに寄せるだけで良いのは楽だよね。
私は3回くらい、この小さな身体で往復したけれど。
さすが子供。体力の減り方は早いけど、回復もまた早い!
1人で静かに感動していると、リリエラがぽそっ、と声を零す。
「これ以上、お嬢様が動き回って倒れられたら、それこそ大変ですから……」
けれど、その声は私には聞こえない。
何せ、紙とペンが手に入ったからね!
紙、というか、分厚い日記帳だけれど……。装飾の施された物ではなく、本当に落書き帳のようなもの。ハードカバーで、補強用の金属製パーツが付いているものだ。
この世界がどの程度発展した世界化は知らないけれど、植物紙は使われていない。だからといっておなじみの羊皮紙という物なのかと聞かれると、違うっぽい。
何だろうね、この紙。
まぁいいや。今は書ければ、それで良し! 羽ペンを使うのは初めてだけどね!
えっと、先端部分に、インクを付ければ良いんだよね……?
あ、よし、書けた。じゃあこのまま、本の最後のページに、あいうえお表を書いて、と。
ふふふ、この世界の文字は、ひらがなと同じような役割を持つ文字が多い事は、既に判明しているのだよ……!
後は絵本の文字に当てはめていくだけだ。
「よし!」
声でも気合を入れて、いざ翻訳スタート!
―― と、意気込んだは良いものの。
正直ね? うん。
凄く、疲れる。
いや、普通翻訳作業って疲れるものだろうけど。慣れない道具を使っているからか手はすぐ痛くなるし、ずっと首を曲げているからか首も痛いし。遅々として作業が進まない。
まるで、英語の読み方をひらがなにしているような、文字の配置。それが分かった分、とても楽なはず。少なくとも、全く知らない言語を読むよりかは、ずっと。
声に出して読めば、一応意味が分かる。けど、文字自体の意味を覚えるには、ちょっと時間がかかりそう。
そこら辺は5歳児だし、ゆっくり覚えていこうか。時間はたっぷりあるし。今の私は、記憶はともかく身体は子供。記憶力も相当優れているはず!
焦らずじっくりやれば、初めて日本語を覚えた時と同じように出来るはず。
じゃないと、困る。
とりあえず、表を埋める事は出来た。後はこれを、手近な絵本を読みながら反復練習をして、覚えていくしかない。
この幼い身体に、ちょっとした期待を抱いた。
それにしても、この世界の絵本は何やら見知った物ばかりである。
赤ずきん……は、いろいろな話が混ざりすぎているけれど。それ以外、シンデレラに似たものもあれば、ジャックと豆の木に似た物まであった。
ただ、この世界には魔法があるようなので、ノンフィクションも中にはあるのだろう。
妙に生々しい表現のある本もあったしね。
「えっと? リボンを、あたま、に、着けた……絵からしてアリスかな。アリスでいいや」
青い表紙の、やや分厚い本の表紙には、なんとなーく見覚えのある少女の絵が描かれていた。赤ずきんとは違い、他の話が混ざっている様子は無い。
むしろ、私の知っている物語そのものといった様子で、少し驚いてしまった。
「タイトルは、と。……『幼き青の試練』? また変な名前だなぁ」
赤ずきんも「赤き衣の少女」だったし、シンデレラは「煌く宝珠の原石たる者」だった。読み難い上に分かりづらい。子供用の絵本とは思えない題名である。
おかげで覚えるのに苦労したよ!
覚えたけどね!
で、その、青き……違う、幼き……?
ああもう! アリスって事にしとく! 以上!
って、以上はダメだ。アリスの本は好きだったし、ちょっと読み込みたい。
「あ、やっぱり、喋るウサギに導かれるのね」
絵よりも文字が多い、一種の小説のような本だ。この世界の絵本は、それが普通らしいね。
アリスはウサギに導かれて、穴の底にあった不思議の国に迷い込む。不思議の国では、身体が大きくなったり小さくなったり、芋虫が喋ったり花が喋ったりと、それはもう色々起こる。
やがてアリスは赤いハートの女王に追いかけられて、目を覚ます。
これが『前世』でのアリスの話。
こちらでは、史実であり、教訓の1つみたいだ。
不思議の国で、アリスは迷いに迷った挙句、ハートの女王がいるお城に迷い込んでしまう。ハートの女王様はアリスを追い回すけれど、何と最終的に仲良くなってしまうのだ。
そうして敵がいなくなり、寂しさも消えたアリスは、目覚める事が無かった……。
こちらのアリスは、そういうお話らしい。
……ちょっと、悲しいな。
って、これよく見たら「前編」ってタイトルに書かれていませんか。
……後編、も、あるのかな?
ちょ、ちょっと、探してみよう。そうしよう。
えっと、アリス。あ、違う。青、じゃない。幼き……あ、あった! って、これも中編って書いてある! 横に後編もあるね。
わ、わ、絵本にしては長編ストーリーだよ!?
女王様の後にそんな、2冊も続くくらいのお話ってあったかな? 鏡の方も合わせれば、いけなくもないけれども。
興奮冷めやらぬ様子で、中編へと手を伸ばした、その時。
コンコンコン、と、ノックが3回、その場に響いた。
「―― お嬢様」
扉の向こうから、低い男性の声が聞こえる。
ふっ、と。脳裏に浮かんだのは、背が高い男性。髪が深い緑色で、瞳が綺麗な瑠璃色。私の髪と目の色素を、そのまま濃くしたようなカラーリング。
髪は無造作に跳ねているけれど、目や耳にかからないようにしているらしい。
目はいつも伏せられていて、まるで眠そうに見えるのが特徴的だった。
無表情でしか覚えていないらしい。笑顔の様子は記憶に残っていないようである。
どうやら護衛の人のようで、金属製の鎧を着ている姿が浮かんだ。
えっと、名前は……そう。マクシス。マクシス=アントーニョ。私専属の護衛だ。リリエラよりも若いけど、実力は相当らしい。
性格は生真面目で勤勉。努力を怠らない好青年だが、不器用でもあり、常に無表情で無口。
意外にも甘い物好き、って、この辺りの情報はどこから仕入れているのだろうか?
扉越しのくぐもった声だけれど、しっかりと声は届いていた。
「お嬢様、そろそろご夕食のお時間です」
「え……あっ。うん」
マクシスに言われて、窓を見る。すると、たしかに空が暗い紫色になり始めていた。部屋も相当に暗くなっていたけれど、気付かないほど熱中していたらしい。
「只今、リリエラが参ります。もう少々お待ちください」
「? うん。ありがとう、マクシス」
何でリリエラが来るのかな? あ、私って小さいし病み上がりだから、食べさせてくれるのかな。実際、この2日はそうだったし。
あ、何だろう。無性に固形物が食べたくなってきた。
固形物と言ってもあれだよ? 柔らかいパン的な。病人食みたいなあの甘い食事も、まだ飽きてはいない。けど、そろそろしょっぱい物が食べたい。
欲を言えばしょうゆが欲しい。
あっ、卵かけご飯が食べたくなってきた!
うーん、言えば用意してもらえるかな? そもそもしょうゆとかお米とかあるのかな。思いっきりパンとミルクが出てきたし、調味料もちゃんとした物が見られなかった。
甘いのだって、蜂蜜かメープルシロップで出した甘みだったしね。
塩が無いと、人って生きていけないはずだし、塩はあるよね。
わぁ、文字もそうだけど、知りたい事が一気に増えたなぁ。主に食べ物関係で。
ちなみに、夕食は塩味のするスープと、やや硬めのパン、そして果物の蜂蜜漬けだった。果物は、ベリー系のものだね。ラズベリーっぽい。
甘酸っぱさに胸がキュンとなる、今日この頃。
というか、この食事って豪華なのか質素なのかよく分からないなぁ。
試しに、ベリーの蜂蜜漬けを、リリエラと廊下に立っていたマクシスにあげてみた。
めちゃくちゃ喜んでくれた。
「蜂蜜もメイプルも、貴重品ですから。これほどまでに甘く、上等なものは、庶民には絶対手に入りませんよ!」
と、頬を赤く染めながら、リリエラが教えてくれる。
「ラズベリーは、この辺りではよく採れる物です。ですがこれは、味、香り共に最高クラスのものが使われておりますね。素晴らしく、美味しいです」
珍しく口の端が持ち上がったマクシスが、ただでさえ細い目を更に細めて言った。
……。
しょうゆは諦めなければならないかもしれません。
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