5.All the Clouds a Roll Away.
僕は、病院のテラスを訪ねた。病室から少し離れた場所にあるそこには古いアップライトピアノが置かれていて、扉越しにピアノトリオの音色が聞こえてきた。
それは誰もが一度は聴いたことがあるような、一昔前のミュージカルの曲だった。そうだ。ジャズが好きだった祖父は、よく昔の曲をアレンジして弾いていた。力強い祖父の印象とはかけ離れた穏やかな曲調。あの頃と何も変わらない、虹のようにあらゆる色彩が混在する音色。硬くしわがれた巌のような指で奏でる曲は、ほかの何よりも美しかった。メロディを修飾する即興が何層にも何層にも折り重なり、曲の世界が幾層もの広がりを与えられて、どこまでもどこまでも広がっていく。
ああ、虹だ。
あの日と同じ、万色の音色だ。
――お爺さんは、毎日ピアノを弾いている。年老いた私の顔がわからなくなっても、ピアノの弾き方だけは昔と何一つ変わっていない。
――それに不思議なことにね、ピアノに向かい合っている間だけは、なぜか最近のことを思いだせるんだ。僕の顔がわかるようになるし、お前たちのこともおぼろげではあるが口にする。まるでピアノと過去が結びついているみたいに。
『Over The Rainbow』。
そう、その曲は確かそういう名前だった。大人びた少女の声で、星に語り掛けるように穏やかに歌われる曲だ。
Somewhere over the rainbow, Bluebirds Fly,
Birds fly over the rainbow,
Why, then on why can't I?
テラスの中で、誰かが歌詞を口ずさむ。詞に合わせるようにテンポが変わり、音色が何重にも修飾される。
祖父は音楽を聴いている。記憶が失われていこうと、祖父は音楽を通して対話をしている。
父の言う通りだった。言葉がなくとも理解できた。祖父は昔のまま変わっていない。年老いてなお背筋をぴんと伸ばし、手は巌のように固く、指は鍵盤の上を踊るようにして幾重もの音色を奏でていく。
僕は動くことができなかった。微動だにできなかった。数年ぶりに祖父のピアノを聴いた瞬間に、幼い日にみたあの幻想が去来したからだ。コンサートホール、スポットライト、グランドピアノに向かい合う祖父、緊張と期待のいりまじった、姉さんの横顔。
何もいえやしなかった。
何もできやしなかった。
何も。
何も。
僕はテラスに腰かけて、最後の一人になるまで祖父の音楽を聴いた。一体どれほどの時間をそこで過ごしただろう。祖父が演奏した曲は十数曲にも及び、祖父の演奏は数十分間にも、数時間にも続いたかのように感じられた。やがて僕は、祖父の演奏が病院の人々の心を慰撫していることに気がついた。疲れた顔の人には穏やかな曲を奏で、表情を失った大人には激しく湧きたつ激情の曲をぶつけ、暗い顔をした子供には陽気かつ軽快な曲でステップを踏みならした。祖父は思うがままに、我が儘に、誰かのために曲を奏でた。そのどれもが虹のように光り輝く音楽だった。
「どうだ」いつの間にか、父が隣に立っていた。
「あれは、お前のお爺さんがいつもジャズバーでやっていた演奏だ。訪れる客に合わせて、お爺さんは幾つもの曲を奏でた。肩を落とした客、何かを忘れたいような客、初めて意中の相手を連れてきて浮足立った顔の客…お爺さんにとって音楽は、誰かと対話するための道具だった」
僕は祖父の演奏に耳を傾けた。曲の一つ一つ、メロディの一つ一つに、誰かに対する祖父の想いが詰まっている。
祖父にとって音楽は目的ではなく手段だった。
だからこそ祖父の音楽は
やがて、僕と父以外の最後の一人がテラスをでていき、祖父は徐々に曲のテンポを落としていった。やがて最後の主和音が叩かれ、祖父が鍵盤から指を下ろした時、父は祖父に声をかけた。
「光男さん」父は、昔のように父さんと呼びかけはしなかった。「今日は光男さんに紹介したい人がいます」
「おお、おお、あなたは確か……そう、君塚くんでしたな」
対する祖父も、父のことを旧姓で呼びかけた。父はきっと、僕や父のことを憶えていない祖父に気を使って、僕が初めて出会う人であるかのように紹介しようとしている。長らく言葉を交わしてこなかった祖父に、肉親としてかける言葉が思い浮かばなかった。祖父の記憶の中に母はいるのだろうかと、ふと不安になった。
「それで、そちらの人は、いったい…?」
「彼は
「そうですか、そうですか。私もAN……ああ……あなたの研究に数か月前から出資をさせていただいています」そういいながら、祖父は奇麗な姿勢で、ゆっくりと頭を垂れた。「どうぞよろしくお願いします。私が遺せるものは、このぐらいしかないでしょうから。
ここ数か月、どうも私は記憶が曖昧なのです。靄にかかったようで、顔や名前を聞いても思いだせない人がいる。私の知り合いだと訪ねてくる方もいるが、私の方はてんで覚えがない。
このままでは私はいつかくるってしまう。その前に、このピアノを誰かに引き継いでほしいのです」
そういう祖父の言葉は、けれど僕の記憶の中にある祖父より、ずっと明晰で、明確だった。確かに記憶は欠落している。祖父の記憶が曖昧になったのは数か月ではなく十何年も前からで、僕や父のことをみても誰かを思いだすことさえできない。
けれど、こうしてピアノと向き合う祖父はどうだ。指に力があり、言葉は明確で、視線はしっかりと僕の方に向けられている。
祖父がそこにいる。
確かな輪郭をもって、
確かな運指をもって、
確かな言葉をもって、
確かな自我をもって、
僕と向き合ってくれている。
「……一つ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
祖父は頷く。
「なぜ、僕たちの技術を使おうと考えたのですか。音楽というものは、これまで人から人へ、職人が長い年月をかけて、その技術を教え伝えるように、受け継がれてきたものだったはずです。あなただってそうだったと思う。それなのに、なぜその技術を手放して、誰かに渡すようなことを許すのですか」
「簡単なことです。これは全て借り物だからです。過去に存在した天才たちの叡知、技巧、表現を、私は少しだけ借り受けて演奏をしていたにすぎない。借りたものは誰かに返さなきゃならない。けれど私には弟子がいない。このままでは、返せないまま死んでしまうでしょう」
僕は黙って、祖父の言葉を聞く。
「私はこの楽器に、この楽器だけに真剣に向き合った。向き合い続けて、向き合い続けて、とうとう他に並ぶ人がない、と言われる高みまできた。
けど、私の後を継ぐ人間が、私と同じスタート地点から始めたんじゃ、結局私と同じか、それ以下のとこまでしかいけないでしょう」
決して驕りからいうわけではないですよ、と祖父はいう。
「人間ってのは、数千年もの時間を積み重ねて、あらゆるもんを進化させてきました。よりよい未来へ、よりよい世界へ、よりよいモノが、人を幸せにすると信じて。科学も、医学も、数学も、政治も、経済も、社会も、音楽の理論だってそうだ。なのに、演奏の世界だけが何度も同じスタート地点から始まってたら、結局は同じところまでしか行けないじゃないですか」
より善いものが、より善い世界を作る。
過去をただ繰り返すのではなく、過去を踏襲してその先へ進むこと。より前へ、より高きへ進み続けること。
僕たちの世界はそうあってきた。数多の先人が積み重ねてきた知識の世界は、そうやって前に進んできた。
なら、技術の世界だってそうあるべきだと、そう祖父は言う。
「私たちの後に続く人は、私より高く、遠くへ飛ぶべきだ。そのためには、私が今いる土台から飛んだ方が、ずっと高く、遠くへ飛べる筈だ」
ならば、きっとそこから飛び立ったその先に、新しい世界が広がっている。
祖父が辿りついた虹色の音楽の、きっとさらに先の世界が、広がっている。
「私は、もっと高く飛びたいと願う子ども達を助けてあげたい。彼らに私がみた景色をみせてあげたいし、その先にもきっと飛べるのだと、その翼があるのだと教えてあげたい。もっとも、私の手は大きすぎるから、私のように弾ける子はそうそうでてこないでしょうが……けど、それもきっと、そう遠くない将来に克服されるでしょうから」
そういいながら、祖父はピアノの鍵盤に指を走らせた。そのメロディは言葉以上に雄弁だった。祖父が幾度となく弾いてきた曲、何度も何度も、語り、弾いてくれたあの曲。その歌詞は、そう、その歌の意味は、
「――虹の彼方の何処かに、青い鳥は飛び行きて」
「そう、そう。よくご存じですね。そうだ、確かそういう歌詞でした」
祖父は踊るように、歌うように、鍵盤に指を走らせる。もう何時間も弾いて疲れ切っているだろうに、嬉しくて嬉しくてたまらない、という様子で音色を奏で、僕たちに笑顔を向けてくれる。
ああ。
虹だ。
あの日みた虹が、また、僕の前にある。
祖父が至った音楽が、僕の目に、僕の耳に、僕の心に、万色の色をみせてくれる。
父が張りのあるバリトンで、静かに、穏やかに歌い始めた。先ほどの歌声は父のものだった。新たに加わった音色に合わせて、ピアノの音色も変化する。高音のメロディラインがビブラートのように歌い、父のロングトーンに調和する。寸分違わぬ運指は、きっと祖父が、何年もの間奏で続けて、手続き記憶に染みついたもの。
「私はこの曲が、一番好きなのです」
祖父と、そして父の合奏は続いた。僕もまたそのメロディを口ずさもうとしたとき、目元に何か、熱い塊が流れ落ちるのに気がついた。
虹の彼方の何処かに
青い鳥は飛び行きて
鳥は虹を越えたのに
私はなぜいけないのだろう
僕は歌う。
僕は歌う。
感情のままに歌を歌う。
歌は卑怯だ。簡単に人の心を共鳴させて、心の中身を溢れさせてしまう。
溢れてくる。僕が何年間も蓋をしてきたものが溢れてくる。
決壊する。
震えを抑えきれなかった。僕は父とは比べ物にならないほど無様な声で歌った。
決して褒められた音楽ではなかったのに。それすらも祖父は、笑って受け止めて、音楽を奏で続けた。
僕らの歌は虹にはなり得ない。けれどそれでも。僕は、僕たちの初めてのセッションを、忘れることはできないだろう。
ありがとう。
ありがとう。お爺ちゃん。
今でも、僕が好きだったお爺ちゃんでいてくれて。
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