4.Don't Get Around Much Anymore.

 僕たちのチームのプロジェクトリーダーから呼び出しを受けたのは、時計技師の実験から数日が経ったある日のことだ。


「あなたの祖父の名前が実験参加希望者リストに入っている」


 リーダーの言葉の意味を、最初僕は理解できなかった。


「あなたの祖父はジャズピアニストよね。ムジカなんて稀有な名字、そうそういる筈がないし」

「ええ、そうです。でもなぜ祖父の名前が? 祖父はアルツハイマー症でまともに会話できないんです。僕が十歳の頃に、孫の顔さえ覚えていられなくなった」

「そうでしょうね。でも、あなたのお爺さんの名前が、技術を残したいと思っているのリストに入っているのは事実よ」「そして今その話をしているのは、三日前に急遽実験参加の打診があったからよ」


 聞くところによれば、すでにニューラルネットワーク記録のため入院中で、必要な検査は全て終わっている。本来なら手続き記憶提供者は無作為の抽選となる筈だったが、祖父の場合は特別な力学が作用した。


「私はあなたさえ望むなら、あなたにこのフィードバックテストを任せてもいいと思っている」


 僕は彼女の言葉をうまく消化できない。僕の中に浮かぶ言葉は一つだけだ。

 なぜ。

 そう、なぜだ。

 確かに、祖父なら資格があった。僕たちのプロジェクトでは、手続き記憶に関するニューロン配置パターンの記録までは技術が確立していて、障害となっているのはその再現に伴うエラーだけ。しかし、そこで停滞していれば、高齢化した文化人や技術者の技術を棄損してしまう可能性がある。だから、僕たちは各界のプロフェッショナルに対して、実証実験への使用に同意することを条件に、手続き記憶に関するニューラルネットワークの保存を先行的に受け付けていた。

 祖父の名は、音楽の世界なら誰もが知っている偉大なピアニストだ。実験参加者の候補として選ばれるのも当然だろう。

 けれど、アルツハイマーになった祖父が実験同意書にサインできる筈がない。そもそもプロジェクトについて理解できているのかどうかすら怪しかった。

 何かの間違いか、あるいは家族の関与があるとしか考えられなかった。

 先日送られてきた父のメールを確認する。祖父が入院することになったという簡潔な一文。メールには、祖父の入院先はおろか、入院の目的も一切触れていない。

 一度、家族と話をさせてください。その場ではそう返答するのが精一杯だった。




 僕は父のもとに向かった。

 SNS《バイオローグ》に父の居場所を尋ねると、僕の研究所と提携している都内の大学病院に位置情報が表示された。リーダーの言葉の通りであれば、検査入院している祖父と一緒にいるに違いなかった。自動運転車を捕まえ、病院まで運送を手配する。走行する間、拡張現実ARの広告や表示に彩られた街並が高速で流れていくけれど、その風景は今の僕にはノイズのようにしか映らなかった。

 病院に到着し、祖父の病室を確認して、父に訪問情報を通知する。父は僕に、面会室で会おうと言ってきた。入院している祖父に負担をかけたくなかったから、僕は面会室で父を待った。

 面会室に父がやってきた。父は昔から僕より一回り背が低かったけれど、この数年でまた少し老け込んだように感じた。

 あらゆる価値の共有シェアリングが当たり前になった時代に、父は祖父がかつて演奏し、あるいは作曲した楽曲の著作権を管理する会社を運営している。僕は法律に関する話にはてんて縁がなく、父がどうやって会社を運営し、利益をだしているのかは聞いたことがない。今、父が何を考えていて、どうして祖父をこのプロジェクトに参加させようとしているのか。ここにくるまでの道中で必死に考え続けたけど、答えは結局でないままだった。僕に答えは出せなかった。

 僕が今まで、わざと家族と疎遠にしてきたからだ。

 僕は今になって、そのことを初めて後悔した。

 肉親なのに、父を非難する言葉一つさえ浮かばないのだ。


「……父さん、いったい何を考えているんだ」


 ようやくその言葉を口にしたときには、すでに僕の中に渦巻いていた怒りの感情は、ことごとく霧散してしまっていた。


「何を、というのは、お前の会社のプロジェクトに、お祖父さんが参加していることかい」

「そうだよ」


 わざわざ聞くまでもないことを問い返してくる父に腹立たしさを覚えた。けれどそれは同時に、僕たちの相互コミュニケーションの断絶が原因だった。そんな当たり前のことすら問い訊ねなければわからないほどに、僕たちは互いを知らなさ過ぎた。「爺さんはアルツハイマー症なんだぞ。プロジェクトへの参加同意書に署名なんてできるはずがない」


「……そうか。お前はANMTEC先進脳医学技術研究センターに勤務していたんだったね。不思議な縁もあったものだ」


 父はそういい、少し迷ってから、面会室の自動販売機の前まで歩いて行った。戻ってきたとき、父の手には缶コーヒーが二本握られている。

 それはきっと、長話になるというサインだった。




 ――まずサインの件についてだが、本人の意識障害・病状等により署名が難しい場合は、その法的代理人が手術同意書等に署名できる。

 ――ましてやこれは手術ではなく、手続き記憶を記録・再現するという医療研究に、自らのニューラルネットワークとシナプス発火パターンを提供するという同意書だ。

 ――お前が心配しているような問題は一つもない、法的にはね。

 ――そんなことはわかっているよ。俺がいいたいのは道義的なことだ。父さんはまともに判断ができない爺さんを実験に参加させようとしている。

 ――何も問題なんかないよ。だってこれは、お前のお爺さんの望みだからだ。

 ──なんだって?

 ――お爺さんはね、前たちが生まれてくるよりずいぶん前から、このプロジェクトのことを知っていたんだ。

 今度、プロジェクトの出資者名簿を調べてみるといい。父の名義で出資が行われているはずだ。その財源は、お祖父さんの楽曲の著作権管理会社――つまり、私の会社から支払われている。

 ──お祖父さんはね、遺伝子検査で、将来自分がアルツハイマーを発症することをよく知っていた。だからこの研究に出資し続けてきたんだ。

 ――そうだとしても、爺さんのアルツハイマー症はだいぶ進行しているはずだ。僕は、爺さんの脳のどれだけの領域が生きているか知らない。けれど、手続き記憶を取りだせる状態だとは思えない。

 ――いいだろう。まず、アルツハイマー症がどういうものか確認しようか。

 ――アルツハイマー症は、脳の中のβアミロイドが過剰分泌され、それによって神経細胞の萎縮・神経原細胞回帰を経て高度脳機能障害へと至る病だ。

 ――けれど、アルツハイマー症になった人間は、物忘れやそれに伴う記憶の辻褄合わせを行うことはあるが、歩行や会話といった運動系に障害が出るのは末期段階に入ってからだ。アルツハイマー症は海馬という、陳述記憶を司る領域から始まる症状だからね。なぜ海馬から先に欠落していくのかは今の医療技術でも明確な答えは出ていないが、発生源さえ特定できるなら、ほかの場所に拡散しないようにすることはある程度可能なんだ。現在のアルツハイマー患者は、発症しても寝たきりになることがほぼなくなり、在宅看護することもだいぶ容易になっている。

 ――加えてお祖父さんは、症状の進行が比較的遅い人だった。アルツハイマーはお爺さんの記憶を蝕んでいたけれど、お祖父さんの音楽までは奪えなかった。


 ――お祖父さんは今、毎日ピアノを弾いている。若い頃と何一つ変わらずに。

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