【七話】センダツ・下

 視界の全てが、赤と青と緑に明滅を始めた。

 強烈な酩酊感が襲ってくる。

 目に映る何もかもが、ゼリー状にドロドロ溶け落ちて混ざり合っていく。センダツ達すら高温に晒されたアイスクリームのように、姿が崩れていく。異様な光景の中で、自分とベッドだけが形を保っていた。

 仄かに口に甘い味が広がった。

 あらゆる光景が混じり合う。線がなくなる。色がなくなる。境界がなくなっていく。形とは呼べないただの光の瞬きへと変わる。


「おぉぉえぇ……」


 胃から熱い物が込み上げてくる。気管を広げるも、吐瀉物は吐き出されない。


「シナプスの乱れへようこそ」


 反響するセンダツの声。どこにいる。視界のどれが何で、誰がどれなのかも分からない。

 バチっと、静電気に似た音が耳元で鳴る。

 その途端、世界が黒色に包まれる。一瞬、浮遊感に包まれ、背中にあったベッドマットの感触が消失する。

 体が重くなる。粘性の高い沼のような感触。黒い液体が、足掻けば足掻くほど纏わりついてくる。


「このっ……」


 僅かばかり意識を集中して、力を引き出そうと試みる。抵抗としてはあまりに弱々しい。藁にもすがる心持ちだった。

 だが、何の手ごたえもなかった。脳が力を行使する感覚が全くない。黒い空間は、こちらの認知そのものに引っかからないらしかった。


「抵抗しないで。人間は意識の奴隷。認識する世界こそ、まさに真実の実在。あなたが形作る自分も、あなたが形作る他人もあなた自身の感じる現世。目に映る物だけがあなたの本当」


 どこか遠くで、また指パッチンの音が聞こえた気がする。

 黒い沼の世界が、底の方から消失していく。

 温かい淡いピンク色の光が周囲を侵していく。甘ったるい、匂いがした。


「なんだ、これ……どうなってんだ……」


 気付けば、赤い花畑が地平線の果てまで続いている。見た事もない、不思議な形状の真っ赤な花だった。周囲を見回しても、どこまでも同じ光景が続いていた。

 僕はその真っただ中に座り込んでいた。


「若いのに、こういうのはお嫌い?」


 声のした方を見ると、いつの間にか全裸のセンダツが立っていた。薄く余裕を持った微笑を称えている。

 劣情より先に、底なしの恐怖が湧き上がってくる。


「何のつもりだ……」


 ふと見れば、自分も裸だった。着ていた患者着がない。

 いや、更に周囲を見れば、七人の裸のセンダツに囲まれていた。先程まではいなかった。視線を外した一瞬のうちに地面から生えてきたかのように、その出現に何の気配もなかったのだ。


「私達に協力する見返りは天国って事ですよ」


 センダツ”達”がにじり寄ってくる。

 立ち上がろうとして、足が動脈圧迫に似た痺れを起こして立ち上がれない。


「や……やめろ……」


「あなたの望みは何かしら?」


 前にいるセンダツの指が顔に這わされる。

 彼女の、顔が、変わった。

 見覚えのある、顔。

 それは、高校時代の初恋の相手の顔だった。


「さ……サユリ……先輩?」


 センダツが、高校時代の部活の先輩へと変貌していた。体型もまた、それ相応になっている。

 後ずさりしようとして、後ろから組み付かれる。

 それもやはりサユリ先輩だった。全員が先輩の姿へ変貌していた。いや、一人だけ違う。一人だけが、何故かアユカワの容貌をしている。

 彼女達が僕のカラダに群がってきた。

 異常なはずのこの状態に、何故か体も心も大きな抵抗が出来ない。思考ではパニックを起こしているはずなのに、脳が何故か落ち着いていた。意思と意識が齟齬を起こす奇妙な感覚。


 理解した。

 精神感応だ。それもリーディングやサイコメトリーと言った読み取りではなく、相手の心を侵食するマインドコントロール。この世界も、目の前の裸体のかつての想い人も、全ては幻覚だ。

 まずい、と思った。念動力は得意だが、内的な超能力はまったくの不得手だったからだ。僅かに出来るリーディングも、小さな接触テレパスしかない。

 そもそもこれ程、強大な精神感応の力は聞いた事すらない。何の対策もしていない。そもそも自分以外の能力者に会ったのはこれが初めてである。


「やめろ……やめろぉ!」


 羞恥と悦びと嫌悪に塗れながら叫ぶ。

 僕の顔を舐めていた先輩の顔をしたセンダツらしき物体が、見つめてくる。


「あら、お気に召しませんか? なら、こっちなら気に入るかしら?」


 指パッチンの音。その音は本当に現実に鳴っている音なのだろうか。

 先輩の形をしていたそれらが、溶ける。顔が、腕が、胸が、足が、全身がドロドロ溶けていく。皮膚の無くなった溶けた人体模型のような物体が、ケラケラと甲高い声で笑いだす。

 そして、”彼女らの姿をしていたそれら”が僕の体に噛り付いてきた。鋭い歯が、肉に食い込み噛み千切る。


「ああぁあぁぁあぁぁぁ……!!! 痛い! 痛い! 止めてくれ! 止めてくれーーーー!!!」


 それらが僕の体を貪り食らう。地平線の果てから、さらに同じような”それら”の群れがこちらに走ってきていた。悪夢だった。




「うっ……はぁ……はぁ……はぁ……」


 目が覚める。病室にいた。

 黒い沼も、ピンクの空や赤い花畑や初恋の先輩も、消えている。

 どうやらマインドコントロールが解けたらしい。いや、解いてくれたらしい。

 体に異常はない。キスマークも齧られた跡もない。ただ体温が低く全身がガタガタと震えた。


「どうでした、夢の旅は? まどろみの現実は楽しんでいただけましたか」


 センダツとMrs.ハッピーバースデーがそこにいた。最初と同じ場所に。

 何も、言い返せなかった。文字通り、桁外れに強い力と場慣れした手練れの実力。その気になれば、僕が眠っている間に首を絞めて殺す事さえ容易く出来たのだろう。

 センダツは笑顔で言葉を投げかけてくる。


「あなたが私達に加わるか、敵対するか、それとも一生涯静かに暮らすのか。それはお任せします。仲間になるのなら手厚く迎えましょう。それこそ、あの幸せな夢の続きを見せてあげてもいい。でも、そのお物騒な力を振り回してくるつもりなら……続く夢は悪夢の方になるでしょうね」


 どちらかと言えば、勧誘ではなく警告だったのだろう。身の振り方はよく考えろ、という。


「では、またいずれ」


 二人の姿がその場から掻き消える。すーっと、透明人間のように。彼女らも幻覚だったのだろうか。

 いや、確かにいた。センダツが椅子を投げつけた壁は凹んでいたし、彼女らの立っていた場所も靴の形に埃が小さく乱れていた。


「はぁ……はぁ……はぁ……うぅ……どうなってんだ……震えが止まらない……」


 彼女らが消えたにも関わらず、体の震えと脳の怯えが残ったままだ。治まりそうもない。単なる病気や怪我による症状とも違う。マインドコントロールされた余韻か。

 ドアが勢いよく開けられる。アユカワが強張った表情で入室してきた。


「フクユキさん! 大丈夫ですか!」


 彼女の顔を見て、心は幾ばくか落ち着く。その家庭的な丸顔が、日常への回帰を実感させる。非現実から現実へと帰還したのだ。


「ふ……震えが止まらないんだ……医者を呼んでくれ……」


 アユカワは僕の目を覗き込むと、懐から注射器を取り出す。ギョッとするくらい太い注射針が取り付けられている。

 上着の胸元を彼女に乱暴に開かれる。ボタンが千切れた。

 どすっ。そんな音さえ聞こえるくらい、力いっぱい注射器が胸に叩き込まれる。感覚が麻痺していたのか、痛みより衝撃の方が重かった。遠慮のない心臓注射だった。無駄な動きも一切なかった。手慣れている? 同じ状況は何度かあったのか。注射器も事前に用意していた?

 アユカワは注射が終わると、椅子に座って手を握ってくれる。

 注射の成分が効いてきたらしく、震えも怯えも治まりつつある。眠気がぼんやりと渦を巻いている。彼女の手の温かさが恐怖を忘れさせてくれる。

 眠りに落ちる前に、彼女が立ち上がり部屋から出ていく。

 幻覚の中に彼女が出てしまった事を、申し訳なく思った。

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