第6話 図像への階段


 その人を見た時、急に胸の奥がそわそわとしはじめた。湖水の奥で眠り続けていた大魚が目を覚まし、身体を揺さぶって、水面へとある律動パターンを送り込むような感じだった。


 喜び、不安、惑い――いくつかの感情が瞬時にして飛来する。

 しかし精査してみれば、その情動に最も似つかわしい言葉は、“懐かしさ”であった。


「あなたは――」


 僕がその男性のもとに向かおうとした時、また目の前を例の剛速球が掠めた。下卑た笑い声がして振り返ると、今度はやや離れた箇所に巨大な虫が現れていた。


 カナブンに似た姿形をしたその生物は、二本の後肢うしろあしで直立していた。全身を覆う甲殻をある種の甲虫特有の構造色で光らせている。その6つの脚は異様に隆々としてたくましく、そしてやはりというべきか、前肢にはグローブが握られていた。


「俺は来世には蝶に生まれてくるんだ」

 言いながら、巨大カナブンが中肢を突き出してみせる。その肢に握られたボールは、何かをぎゅっと圧縮したものであるように見える。目を凝らすと、それが鮮やかな青みがかった蝶を丸めたものであることに気が付いた。


 僕が不穏な想像をめぐらせていると、それを遮るようにカナブンが言った。

「こいつは蝶が蝶として成立させるための結晶……いわば魂の約束手形って奴さ。ものになるのはこれからさ。わざわざ本当の蝶どもになんか手を出すまでもない。なぜって、いずれ俺自身が蝶になるんだからな!」


 居丈高に宣言する巨大甲虫は、どうやら実際の蝶(ここでの蝶が僕の知っているそれと同じかどうかは分からないけれど)に手を出さないことに、並々ならぬ自信を持っている様子であった。

 その言葉を真に受けるなら、その蝶を圧縮機にかけたような珠は、残酷な背景とは無縁の代物なのかもしれない。

 しかし、だからどうだというのだろう。自然界では、他の生命に手をかけず何かを得ることは、誇るに足ることなのだろうか?

 主張の意図がいまいち掴めず、僕が返答に詰まっていると、まるでその沈黙を不安のあまり軽蔑と見做したティーンエイジャーのように、カナブンは激昂した。


「俺は蝶になるったらなるんだ! 美しい蝶に! 来世にな! それ以外に何があるッ!!?」


 そして、弾丸にも等しい剛球を連投しはじめる。それらを例の二体の阿修羅がすべて拾い尽くし、目まぐるしい速度で投げ返しては、投げ回す。

 気付けば僕は、再びキャッチボールの包囲網に閉じ込められていた。しかも今度は三方向で囲うような陣形だ。わざとらしく鼻先や髪先をかすめて投じられる、しかし暴力というには大袈裟な数限りない嫌がらせに、僕は右も左も分からず、ただ動悸を感じることしかできない。

 すると、その三体だけでも手一杯なのに、広場にまた別の甲高い声が響き渡った。


「美しさと聞いて、あたくしを放り出しておくなんて、無礼じゃありませんこと?」


 不愉快な嵐の向こうに、今度は孔雀の姿があった。扇状に広がる羽のうちの何本かが、鳥の脚と同じ形をしており、そのうちの何脚かには、やはり例の道具が。


「美麗な直線を描く上で、あたくしの前に出る者はいなくってよ! オホホホホホホ!!」


 新たに加わったボールが、サイリウムのように明るい軌道を描く。しかし剛速球であることに変わりはなく、美しいのかもしれないが、僕にとっては檻の柵が一本増えただけに等しかった。


 息つく暇もなく、無数の球が僕を翻弄する。柵の向こうで、クラゲが加わり、カニが加わり、その他大勢の生き物たちが輪を描いて増え続けていく。そして球は立っているだけでも避けることはできたのかもしれないが、僕の体は怯え、勝手に反応した。


 翻弄される僕は、まるでダンスホールで孤独に踊る道化だった。しかし自らの意思で踊っているわけではなく、ただ球の直撃を避け続けようとする恐怖心に従っているに過ぎなかった。彼らが僕の本能を利用していることは明らかだ。かといって、状況を打開する方途を見出せるゆとりもない。


「こっちだ!」


 その時、また例のよく通る男性の声が響いた。球が鳴らす風切り音が、疾風のように五月蠅いなかで、その声は妙にはっきりと、鮮明に胸まで届く。

「まっすぐにこっちを見て、目を逸らさないで!」

 パッパッと、音もなき灯り。高層ビルの航空障害灯のように、男性が頭上に掲げた手の中で、赤い光が柔らかなリズムで明滅していた。

 段々とそのテンポが速くなる。僕は眩暈のする頭で、無意義に汗だくになった身体を引きずり、その方へと歩き出す。なぜだか分からないけれど、身体や、心という言葉では推し量れない何かが、その方へと進むことを疑う余地のない選択として認めていた。


 体の前を、横を、後ろを、すれすれの箇所で大量の球が飛び交っていく。しかしレーザービームという名がお似合いのそれらの攻撃など意にも留めぬまま、僕は一つの衝動――しかし衝動と呼ぶにはあまりに理性的な意欲に随って、その灯台を目指した。


 パッパッパッ――

 赤光は輝き、僕は歩く。時に髪や服や肌を掠りながら飛び交っていた球の様子に、変化が表れはじめた。

 それはおそらく、何体もの投げ手たちが焦り、怒り出したことの反映だった。なぜ僕をこのような無意味な牢獄のなかに閉じ込めておきたいのかは不明だったが、そこからの脱出は彼らを混乱させるに十分だったようだ。

 球の軌道にブレが生じ、球が腕をかすめて服を裂き、頬を掠めて肉が切れる。


 しかし惑うことなく、僕は歩き続ける。気付けば包囲網を抜け出し、いつの間にか男性のもとへとたどり着いていた。

 僕は礼を言おうとして顔を上げ、そこでハッとさせられた。

「塔堂、先生……ですか?」

「久しぶりだね。九条くん」

 それは、僕が学生時代に最も世話になった教師だった。とても、恩があるとの一言では説明しきれないほどに、僕のその後の生き方にも強い影響を与えた人物の一人でもあった。

 しかしながら、僕は今彼と再会するまで、彼の存在自体をすっかり忘れてしまっていた。

 そのことに、僕はひどく動揺した。一時は、この人のように生きたいとまで願ったものだ。教師にとっては大勢の生徒のうちの一人に過ぎずとも、僕にとってはかけがえのない存在だった。

 それが、忘れてしまっていた――

 自分のいい加減さに混乱し、僕は明らかに戸惑っていたのだろう。塔堂先生は僕の肩に軽く手を置くと、柔らかな縮れ毛の下で、あの穏やかな微笑を浮かべて言った。

「その様子じゃ、考え過ぎで身動きが取れなくなる性質は相変わらずのようだね。彼らに弄ばれるのも無理はない。こっちへ、いいものを見せてあげよう」


 僕は塔堂先生に続いて、無数の水晶のような列柱の一つへと近づいていく。その際、ふと辺りを見回すと、例の阿修羅たちには、もう僕を攻撃してくる意思はないみたいだった。ちらちらと視線を向けてこそいるものの、前を往く塔堂先生をなぜか警戒しているようにも見える。

 柱の一本の影に、会談が伸びていた。宙に浮かぶ鍵盤のような階段を昇りながら、僕は先生のまとう不思議な存在感について考えていた。

 彼はこの場所ではあまりにも堂々として、馴染み過ぎているように思えたし、何らの縁もゆかりもない僕をためらわず攻撃してくる、あのヘンテコな生き物たちが警戒するのは、やや不思議なことのように思えたのだ。

 そこで僕は、塔堂先生と過ごした最後の時間について想像しようとした。するとすかさずズキンと頭が鋭く痛み、それ以上考えることを妨げられてしまう。


「さぁ、こっちへ。ごらん、ここからならよく見えるはずだ」

 いつの間にか、階段を昇り終えて、柱の一つの上に僕らはいた。先生の方へと歩みより、下方を見ると、そこではあの生物たちが例の如く超高速キャッチボールを繰り広げていた。

 しかし、そのやり取りがあまりに高速すぎることや、特殊なボールが使われているがためか、球の軌道は無数の線形と化していた。階下に広がるのは、運動の光景ではなく、一種の図像だった。


「高所へ昇れば、あらゆるものは図像と化す。」先生は言った。「そうなれば時間の感覚も違ってくる。何が自分を妨げているのかを、時空を超えて明白に解明することが一つの機会を得ることができる」

 落ち着いた低声が、僕の記憶を揺さぶる。僕はこんな話を、ずっと前に、先生から受けていたはずだった。ふいに、視界の裏側で、一本の朱色の塔が脳髄を貫くように直立している情景が浮かび上がってくる。


 それは、塔堂先生に連れられてはじめて行った、東京タワーの記憶だった。僕の意識は時を超え、その日に至る日々へと遡っていった。

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