第5話 阿修羅たちのキャッチボール
急くほどに軋む車輪のように、早足で道を進んでゆく。電車を降りてからというもの、頭が鈍い熱を帯びていた。僕は時にもつれる脚に転びそうになりながら、その焦燥がもたらす罠を自覚しつつ、自分を上手く制御することができずにいる。
街路には石ではなく、淡い色とりどりの分厚い色ガラスが敷き詰められていた。周囲には似た色をした細長いオブジェが林立し、それが道を作っている。
ガラス畳の奥には墨のような漆黒が満ちており、星に降り立ったはずなのに、まるで孤独に寄る辺なき宇宙へと投げ出された気分にさせられる。
さらには視覚による印象に反し、ガラス板に響く足音は鈴の涼しく危うげで、薄氷の上を進むように心もとない。
一体僕はどこへと向かっているのだろう? 行き先も分からないのに、留まることは恐ろしく、それは何を目的とした焦燥なのかも分からなかった。あの双子の幼い方の言葉が、あるいは一種の永遠性を連想させたのかもしれない。
こういうことは、地上でもしばしばあった。本来であれば自分には縁遠く気にも留める必要のない、そんな情報群の波に翻弄され、脳震盪のさなかに重要な契約書にサインでもするみたいに、日常を慎重に検討するゆとりもないまま自分の位置が定まってしまうのだ。
そうしてある時、何の前触れもなく自分の置かれた状況を自覚させられ、唖然とし、道半ばにて立ちすくむ。そんな自分を気にも留めず、人は、世界は流麗に流れていく。
そして長く一所に留まった分だけ、今度はまた歩き出すのが辛くなる。それでもその場所に倒れ込むこともできないまま、歯を食いしばって一歩一歩を踏みしめ、ようやく“普通”を手に入れる。
そのようにして、僕は未熟なまま大人になり、日々電車に揺られるようになった。
そして今、気が付けば僕はまた別の、新しい流れのなかに取り込まれていた。不可思議な列車で地上を離れて旅をはじめ、さらには知らない星で理由も分からぬまま歩き続けている。
自分でもまったく意味不明としか言えなかった。理由があるとすれば、やはりあの奇異な同乗者たちの助言がきっかけということになるのだろうが、それは根本的な理由とは程遠いようにも思える。
そんなことをあれこれと考えながら、およそ意志というよりかは忙しない惰性によって先へ進み続けていると、ふと自分のすぐ傍をなにかが掠めた。
球体のような、その物が何だったのかと考えている間に、もう一つ横切る影。紅の野球ボールのように見えた。
辺りを見回すと、いつの間にか小さな広場にたどり着いていた。淡い色ガラスでできた、剣のような巨大なオブジェが四方八方に生え、その真ん中だけがぽっかりと開けた作りをしている。
この星、あるいは銀河にあるものは、どれもこれも自分が注視することではじめて実体化するらしかった。あるいはすでにそこにあるものに僕が気付けずにいるだけなのかもしれない。しかしいずれにせよ、白いキャンバスに精緻な油絵が浮かび上がってくるみたいに、突如としてそれまでありもしないと信じていたものが目の前に出現するわけだから、僕はオブジェクトにしろ、広場の作りにしろ、見るものすべてに一々驚かされてしまった。
シュッ、と空気を切り裂く音を立て、またボールのようなものが目の前を横切る。その方を向くと、今度はパシィッ!と小気味よい音があがった。見れば、そこに一人の阿修羅が屹立していた。
六本の腕に、大柄な体躯は筋骨隆々としてたくましく、見上げるほどに高い顔は一面でこそあったが、双眸は燃えるように炯々とし、じっとこちらを睨み付けている。そしてその腕の四本には、大きそうな手のサイズに合った四つのグローブがはめられていた。
僕がいくらか怯んでいると、阿修羅は無言のまま、さぞ興味なさそうに目を逸らし、腕を振るだけの軽いモーションで投球した。放たれた剛球に微風が起こる。頭の横を掠めた軌跡をたどり、僕が振り返ろうとすると、それよりも早くもう一頭が後頭部で風を起こした。
投球した阿修羅とちょうど対角線上に位置するところに、また別の阿修羅がいた。こちらも体のつくりは頑強そうだが、どちらかといえば横に広く、事実四手のうち二手にはキャッチャーミットがはめられているのが分かる。二球が時間差でキャッチされ、投げられたかと思うや否や、今度は別の手に新しい球が収まっている。
思考の余裕もなく、超高速のキャッチボールが始まっていた。目の前、後頭部、頭上を鋭い風鳴りが吹き荒れる。僕はまるで近代的な戦場に投げ込まれた仔馬のように、ひたすらたたらを踏んでうろたえ続ける。
髪先を切る擦過音に鼓動を弄ばれつつ、ようやく状況を理解し始めると、ひとまず頭を低めて球の通路をくぐろうとした。
しかしそれを見越してのことか、阿修羅たちはガラスの床にワンバウンドする球を混ぜてきた。おかげで周囲はどこもかしこも見えない制御網で張り巡らされ、僕はまったく身動きができなくなってしまった。
「ハハハハハハハハハハハッ!」
「HAHAHAHAHAHAHAHAHAーー!!」
二人の阿修羅が豪快な笑い声をあげる。驚異的なキャッチボールを繰り広げながら、屈強な体躯はビクともせず、顔だけで大笑いしていた。
僕がうろたえるごとに、彼らの笑い声はより一層強みを増していく。めまいがして、倒れかけそうになったところを、またギリギリのラインで目の前を球が掠めていく。
彼らの球はどれだけ際どい投げ方をしても、僕に当たることはなかった。言い換えればコントロールは精確だということで、きっと彼らの笑い声の源はそこにあるのだろう。
しかし自分が耐え難い状況に置かれていることは、どうしようもない事実だった。倒れかけ、転びかけ、それすらできず球の脅威に怯えてあとじさり、また背後で姿勢の修正を迫られる。
僕は臆病すぎるゆえに踊っていた。狂ったようにコマ送りのせせこましいダンスを繰り広げながら、それでもやはり僕は風鳴の牢獄に閉ざされ、笑いの的であった。
阿修羅たちは笑う。その凄まじい身体能力をこんなことに使うだなんて…と僕は怒りと情けなさでいっぱいになる。
そしてさっきまでとはまったく質の異なる焦りに、気がおかしくなりかけたその時、どこかから声が投げかけられた。
「阿修羅の方に向かって進むんだ!」
その響きのよい低音に、僕はどこか聞き覚えがあった。そしてその声には、心中の動乱を鎮める力があった。
言われたことを理解するなり、僕の体は勝手に動き出していた。阿修羅の一体――より横幅の大きな方に向かって突進する。彼は球の軌道を修正できぬまま僕の接近を許してしまう。
そして僕は、大柄な身体をカナヘビのように這い上がり、頭を越えてその向こう側へと転げるように飛び降りた。さすがの阿修羅といえども、自分の身体を犠牲にするまでには至らなかったようだ。
鈍重そうな方の阿修羅が、首を170度ほど回した状態でこちらを見て、わざとらしく舌打ちした。しかしそれ以上もう嫌がらせをしてくるような様子もなく、僕はほっと胸をなでおろし、そして先の声がした方角を見た。
そこには一人の利発そうな男性が立って、穏やかな瞳でこちらを見ていた。
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