第2話 仮面の車掌


 ふと、気配を感じて振り返ると、すぐ後ろに大男が立っていた。濃い灰のコートに身を包んだ、細身の偉丈夫で、頭が天井に届くほどに背が高い。さらに身体に比べて小さめな顔全体が、異質な作りをした仮面に覆われている。

「離陸して間もなく、もう目的地が気になりますか」

 覆いかぶさるように、頭上から重みのある声が降り注ぐ。

 とっさのことに、僕は目の前の人物が声を発したと気づくのに時間を要した。磨きかけの蛋白石オパールに、ただ丸い穴をくりぬいただけのような、不思議な仮面がすぐ目の前にある。

 呆気にとられ、上手く対応できずにいると、男が続けて言葉を発した。


「あなた、はじめてでしょう。認証を出しなさい」

「認証ですか?」

「ええ。認証がなければ、睡眠が義務付けられます。この列車で起きていたければ、それを見せなさい」

 妙に甲高く、重い声。その不可思議なイントネーションに、僕はこの人物が列車の運行に携わる人物であることにようやく気が付く。切符が主流の時代であったら、これはきっと切符切りにあたる人物に違いない。

 再三急かされて、僕はあわてて鞄から磁気定期を取り出す。しかし乗務員はつまらなそうに首を振ってみせた。

「これが、あなたの認証ですか」

「足りませんか」

「よく考えなさい」

 さらに財布を開いて、運転免許証を見せる。今度は明らかな侮蔑の視線を向けられた。

「恥ずかしい人だ。宇宙まで来て、こんなものを信じようだなんて。これまでずっと、そういう約束ばかりして生きてきたのか」

 淡々とした調子で、平然と唾棄するその言葉に、僕は妙にいたたまれない気持ちになってくる。冷静に考えてみれば、こんな風に不可解な状況に投げ出された僕に、否はまったくないといえるだろう。しかし男の毅然とした態度には、妙に他人を委縮させる凄みがあった。


「ビッグバン論者が、宇宙の呼吸を奪ったことをご存知ですか?」彼はいった。「あれは永久性を放棄したがる自暴自棄の末路ですよ。宇宙にはじまりなんてありません。あなたの渦をお見せなさい」

 いうや否や、医者や占い師、また教師などに見られるがちな、友好的な大胆さで僕の手をとる。そしてその指先の上に、より白く、太く、細長い絹のような指を、機械的な速度で這わせはじめた。

 事務的だが、一応体温がある。その妙に癒しの効力を持つ動きに油断していると、ふいにビリッと指先に高圧電流を受けたような痛みが走った。

 何事かと見ると、指紋の真ん中から、男が白いひも状のものをずるずると引き出していた。まるで皮膚の下から神経線維が引き抜かれたかのようである。事実、乗務員はそのような言葉を口にしてから、居丈高に続けた。


「これはお預けです。保険のようなものだ。こんな例外、めったにあるものじゃありませんよ。その子に感謝しなさい」

 指さす先、あのいかにも無邪気だった子供が、神妙な面持ちで僕の上着の裾に触れていた。いや、触れているのではない。その子供の指先から伸びる、線虫のように白い糸が、裾の先にほつれた糸と絡み合い、より糸のように繋がり合っているのだった。

 その様は、一瞬、鮮魚の臓物の生臭さを嗅いだような、不快な情を僕に与えた。にっと子供が白い歯を見せて笑う。それですぐに、少なくとも不愉快さがいくらか薄らいだ。

 良く分からないが、助けてくれたことは確かなのだろう、そう思って内心で感謝すると、少年はほつれた指を服の裾から外して、代わりにまたぴったりと窓に張り付いた。


 溜め息をついて、あの乗務員の姿を探す。彼は車内をめぐって他の客とやり取りしていた。頭を低くしているが、それは客への礼儀というよりも、天井にぶつけるのを避けようと腰を軽く折っているためだけのように見えた。


 一人、また一人と乗客が何かを差し出し、乗務員がそれを受け取っては次の客へと向かう。人々が渡したものは、帽子だったり、写真、ペン、化粧バック、携帯だったりと、各人まちまちだった。中にはいきなり服を脱ぎだし、パンツを脱いで渡す人もいた。まつげを抜いて、ふっと息で宙に飛ばす者もいた。物ではなく、その動作が認証になっているらしく、乗務員は何事もなかったかのように次の客の応対をする。

 どうやらここでの約束事を知らないのは、僕だけのようだった。そしてまた身体から紐を引き抜かれたのも僕だけだった。


 指先がちりちりと痛む。見ると、指紋の中心に赤い点があった。その指をずらすと、今度は窓の向こうに太陽が輝いていた。渦の中心で煌々と、熱と無音の轟きを闇の世界へと放出している。


 そこで僕は気が付く。銀河なのに、星々は渦の中心から押し出されているのだ。比喩ではなく、僕らの乗る星のレールは、虚空に浮かぶ熱球から迸り流れる、無数の大河の一本なのであった。


「帰りたくないのでしょう?」貫通扉の前で、乗務員がこちらを見ていった。「我々は抗っている。それを知らないから、偶々紛れ込めたところで、ほら、鈍感でしょう? 学んで帰りなさい」

 扉が閉まる。僕は改めて、窓の外へと視線を向けた。


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