窓の外の銀河海溝

cue

第1話 離陸

「只今より、当車両は銀河海溝に魅入られました。離陸の準備に入りますので、吊革にお掴まりの方は血圧にご注意ください」


 重量感のある割に、どこか間の抜けたイントネーションをしたそのアナウンスを耳にした時、ちょうど僕は吊革にぶら下がり、まどろみの淵で舟を漕いでいた。

 だからまずもって音の連なりが何を意味するのかが理解できなかったし、意味を掴めたあとでもやはり、その言葉の目的が分からなかった。


 銀河海溝、ギンガカイコウ――

 口のなかで小さく呟いてみる。

 その響きが持つ膨らみは、ふと僕に昔逃がした金魚を連想させた。

 それはひどく幼い頃の記憶だ。


 祭の帰り道、家族への仲間入りを拒絶された一尾を連れて、僕は近所の林間公園にある広い泉を目指していた。大して未練はなくとも、それとなく惜しい気持ちを一握り、不安定なビニール袋を押し出すように絞って、僕は昏い朱色に光沢する金魚を、水のなかへと解き放った。

 金魚は尾をひらひらと動かし、蒼の重なりに自分を溶かしこんで何事もなく消えていった。僕という人間がそこにいることなど気にも留めずに、ましてやお礼など言うはずもなく、夜の水底に幻影のようにあとかたもなく消え失せた。


 あの時の僕は、金魚がその巨大な水たまりを求めるがゆえに、あえて僕という無垢な少年に目をつけ、策を弄して自分を捕まえさせたんじゃないか、などと本気で思い込んだものだ。

 僕は祭り用に売られる業者専門のペットショップを知っていた。人通りの多い店先では、大量の人という人が視界を横切る。退屈な金魚たちには、日ごろから人間観察くらいしかすることがない。

 ならば本舞台の祭りの時にも、自分のことを家に連れて帰れないであろう子供の弱みを見抜くことくらい、彼らにとってはお手のものなのではないのか。

 飼われたい金魚は掴まり、逃げ出したい金魚は選び抜く。金魚界にもそれくらいの処世術が広まっていても、決して不思議なことではないだろう。

 子供ながらに、あるいは子供ゆえに、そんな風に思ったものだった。


 だからその時、魚影の失せた水辺に佇みながら、残酷な自由を見せつけられた気がして、僕はひどく自分を惨めに思った。

 それほど遠くないところで、祭りの賑わいや、同年代の子供たちの歓声が響き続けていた。

 当時感じた無償の切なさは、きっと子供ながらの柔軟さでたちまち記憶の底に押し込まれたに違いない。

 それでも僕は、その時ひとつだけ学んだはずだ。


 大きさではない、広さではないのだ――と。


「当車両は、間もなく 銀河の腕に突入します。お立ちのお客様も、お座りのお客様も、重力酔いにご注意ください」


 再び響き渡った声で、僕の意識は現実へと引き戻される。とはいっても、アナウンスの現実味のなさのせいか、一瞬僕は自分がどこに立っているのかも分からなかった。それでゆっくりと周囲を見回してみた。

 車内にはそれなりに乗客がいた。混んでいるというほどでもなく、かといってゆとりがあるというほどでもない。席はいくつか開いているけれど、隅や扉の前はほとんど埋まっている。携帯をいじったり、眠りこけたり。疲れた生活を嘆くに嘆き切れない、そんな半端な倦怠の一景が広がっていた。

 しかし誰もが例の車内放送に無関心のようであった。あるいはその声は自分の聴き間違い、ただの空耳だったのだろうか――


 そんな風に思い込んだとき、車体が大きく揺れ、砂を洗い流すような涼しげな音が反響した。

 倒れかけそうになりつつ、ステンレスの手すりに摑まる。つんのめった勢いで、出入口の扉の付近に移動すると、ふと目についた窓外が不穏に明るいことに気が付いた。


 窓辺へ寄り、外を覗き込む。すると確かに先の放送の通り、列車は地上を離れていた。しかし車体が傾いても自分を含む乗客に影響はまるでない。

 また過ぎ去った方角では、光の灯る町が、ある時点から切り取られたような不自然さで置き去りにされているのが見えた。

 さらに目下では、蒼銀の星を散りばめたような大粒の光の砂流。キラキラと、宝石を投げ打つように、神秘的な激流となって夜の空へと流れ去ってゆく。


「わぁ! あれが先生の言っていた大鰐座だよ!」


 いつの間にか傍らにいた子供が、瞳をいっぱいに開けて叫んでいた。幼さならではの無遠慮と大胆さで、あれ、あれ、と赤の他人である僕を見上げて忙しなく指をさしている。

 僕はその方に目をやった。そしてすぐに、心臓を鷲掴みにされてしまった。

 そこに広がっていたのは、圧倒的な闇だった。等身大の狂った宇宙の、幻想的な星の粒で構成された大河が、それと同じ幅かあるいはいくらか広さのある闇の谷のなかへと、目まぐるしい勢いで掃除機のように吸い込まれていく絶景だった。


 つばを飲み、僕は一度、子供を恐怖した。あまりにも無邪気すぎる。しかしすぐに、純粋な好奇心を失わないその姿勢によって、僕と少年が見ていたものが食い違っていたことに気が付いた。

 彼が見ていたのは闇の谷ではなく、さらにその向こうに広がるまた別の大河であった。その異種なる天の川が、深淵に雪崩れ込む時に生まれる、赤と青の構造的なきらめきが、およそ終わりの見出し難い巨大な滝の連なりを築き上げている。


 そこで僕はようやく例の放送を思い出す。

 腕とは渦の一部、つまりは渦を巻く銀河の曲線たる渦状腕の上を、この列車は走っているのだろう。

 そして深淵は、その腕と腕の間にかかる虚無の橋梁であった。


 こんな尺の崩壊した銀河は馬鹿げている――内心ではそのように批判しつつも、新たな未知を言葉にしては、喧しくはしゃぐ子供が隣にいる。僕はわずかな胸の高鳴りに意識をゆだねようと試みる。

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