【掌編】サクラソウ

遠野 歩

サクラソウ

 青と黒の闇がじわじわと全身を包み込む。

闇のゆったりした呼吸に身をまかせ、私はすとんと眠りに落ちる。



********



 ここ数年、不眠に悩まされ続けている。

薬を飲んでも寝つけない日があり、そんな夜は開きなおるほかすべがない。静かめの曲を神経を逆撫さかなでしない程度のボリュームに落とし、朝まで闇とたわむれる。


夜の闇と聞くと、ふつう暗く恐ろしいイメージを思い浮かべるが、不眠症の私にとって、闇は、良い時はそっと夢のなかに運んでくれ、悪い時でも一晩中寄り添っていてくれるたのもしい存在だ。

この晩、彼等かれらの機嫌は上々だったようで、私をすんなり眠りへと導いた。



********



 周囲には、薄ぼんやりした空間が続いている。

物質の気配がおよそ伝わってこない青白い広がりを見渡しながら、私はふとあることに気が付いた。


肩が軽い…肩だけでなく、始終つきまとっていたあの忌々いまいましい頭痛も一切感じられない。


きっと これは夢なんだ…と思う。


ただ、かりに夢だったとしても、こんな風に体全体が軽いのは嬉しいことに違いなかった。


「何年ぶりだろう…この感覚」


 手足をはずませ、いまの自分ならバク転ぐらいやってのけるのではないかと空想にふけっていると、目の先に、突然人だかりが現れた。


恐る恐る近づいてみる…

後方に大きな河川敷が広がっているのが目に映った。


人々は一様いちようにスーパーの袋のようなものを手にぶら下げていて、

袋のふちからは、小さな葉や茎のようなものがはみ出している。


 気になって、前を歩いている灰色っぽいパーカーの背の高い男性に声を掛けてみた。


「ああ、これですか。これは、“サクラソウ”と言って、せんじて飲めば、その晩からぐっすりですよ」と得意そうに教えてくれた。


「ぐっすりって、その…不眠症にも効果があるものなんですか?」


「そりゃあ、もうぐっすり。お姉さんも夜あまり寝られないんですか?」


「ええ、ここ数年ずっと…」



********



 先ほどの青年は、寝つきがわるい母親のために、時々ここへみに来るのだと言っていた。


別れ際にもらった半透明のビニール袋を片手に、私はいま、知らない河川敷で、知らない野草を無心に摘んでいる。


 花は、赤・白・ピンク・紫と多彩で、いずれも淡くてやさしい色合いをしていた。


袋がいっぱいになったところで、私は川岸に下りていき、人々の列に加わった。


サクラソウを川岸に持って行き、係りの人に渡せば、その場ですぐに煎じて飲ませてくれるのだと、青年が親切に教えてくれていたからだ。



********



 小一時間は待っただろうか。岸辺を吹く風が冷たく肌に刺さる。確かに冷たいし、体が寒いと感じている。


やっぱり これは夢じゃないのかもしれない……


ともかく、いまはサクラソウのお茶を飲んで、不眠を治すことが先決だ。



********



 ようやく自分の番が回ってきて、“係り”とおぼしき少女が、私を薄紫色のテントの中に案内してくれた。


「こちらです。袋の中身をにお渡しください」


 私は言われた通り、束ねておいたサクラソウを、大きなかまの前に座った、と呼ばれる年配の女性に手渡した。


「お茶の支度をしている間、このお花をゆっくりでていてくださいな」と言って、女性は、瑠璃色るりいろに輝く小さな一輪を私に握らせた。

「キレイなお花ですね…宝石みたい。これは、何て言うお花ですか」


 女性は目を細めて、


「それもサクラソウの一種ですよ。さあ、よ~くご覧になっていてくださいな」

と言って、ふたたび釜の方へ向き直った。


 サクラソウをてのひらに乗せ、じっくり眺めてみる。ほんとうに綺麗なお花。これもさっきの原っぱに生えていたのかな……と、ぼんやり考えていると、

次の瞬間、

掌の瑠璃色は

青と黒の二色に色を変え、

固体から液体へ、液体から気体へと変化した。

ふくれ上がった気体が、私の全身を包んでいく。

二色の気体に包まれながら、私は思う。


ああ、闇が迎えに来たんだ。夢の終わり……と (終)

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【掌編】サクラソウ 遠野 歩 @tohno1980

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