『暁花薬殿(きょうかくすどの)物語』特別ショートショート

佐々木禎子/富士見L文庫

特別ショートショート編

 わたしの名前は命婦みょうぶという。

 帝の住まう内裏で暮らす猫である。


 命婦という名前は、今上帝につけられた。帝というのは偉い人らしいが、どれだけ偉かろうと、わたしの尊さに比べれば塵芥のようなものである。現に今上帝はこのわたしのもふもふの毛と、たっぷりとふくよかな腹肉の揺れの前に跪いている。

 しかしそんなわたしに、ぴくりとも心を動かさない男が内裏にやって来た。

 その男の名前は――秋長あきながという。


 昼が長くなりはじめ、お日様が心地よく毛をあたためてくれる季節になった。

 内裏の門を抜け道を少し歩き、ほどよい感じにぬるまった石の上で、どてっと足を広げて横たわっていると、


「あら、命婦。今日はここにいるの? 猫っていうのはそのときどきにあわせて、過ごしやすい場所を見つけるものねえ。本当に賢い」


 とわたしに話しかけてくる声がした。

 暁下きょうか姫だ。

 わたしによく仕えてくれる下僕のひとりである。


 ――なぁん。


 わたしはそう返事をし、沓を履いて立つ雑仕女ぞうしめ姿の暁下姫を見やる。

 姫さまと呼ばれる人たちは本来ならば十二単衣のきらびやかな衣装に身を包み、几帳の向こう側から出てこない暮らしぶりのはずなのに、この姫は、いろんな服に着替え、頭の毛の長さを変えてみたりしてあちこちを走りまわっている。

 犬のように庭に穴を掘って、典侍ないしのすけという怖い女官に叱りらつけられたりもしている。

 さらにこんなふうにときによっては内裏の外を出歩いたりもしているのだ。


「ああ……ぽっかぽかじゃないの。ちょっともう……そのあたたまった毛の匂いを嗅がせてよ~」


 暁下姫は目を細めてつぶやき、いきなりわたしの下腹に顔を埋めた。くんくんと匂いを嗅いで「いい香り~」と言う。

 くすぐったいし、あまり好きではないのだが、この下僕にはいつも世話になっている。たまには褒美として匂いを嗅がせてやるのもよかろうと少しだけ我慢をしてやった。

 すると――。


「わっ」


 と声をあげ、下僕がわたしから身体を離した。

 その後ろには――秋長がいた。

 この男、いつもつるりとした顔をしている。容姿端麗だが、毒にも薬にもならなさげな健全な美貌で、なんだかつまらないとわたしなどは思う。しかし女官達には秋長の、正当派な美形ぶりが人気らしい。


「秋長かー。……誰に肩叩かれたかと思って、慌てちゃったじゃない。秋長だったら、まあいいか。うん、どうしたの!?」


「僕だったらまあいいかじゃないですよ。あなたはどうしてこんな昼に、雑仕女姿でうろうろとしているのですか。どの門から抜けられたんです? 典侍にまた怒られますよ。見つかったらどうするんですか。お立場をお考えください」


「秋長も、足音させないで歩くんだねえ。母譲りの忍び足……ちょっとうらやましい特技だね」


「話、聞いてます?」


「聞いてる。聞いてる。立場考えてるから変装してるんだよ。姫装束で顔を出してひとりで外歩きしてたらまずいでしょ?」


 言いながら暁下姫はわたしの腹をもふもふと撫でていた。気持ちのこもらない撫で方である。そろそろ、頃合いだ。ちょいっと姫の頭を前足で押しのけ「ぶみゃ」と不服の声を投げてから、石から飛び降りる。

 どちらにしろもうここで寝ているのは飽きた。登花殿に戻って食事をしようかと思っていたところだったのだ。暁下姫と共に内裏に戻ってやってもかまわないし、わたしを抱きかかえて移動する喜びを与えてやってもいいかと思う。


「うちの女官のひとりがね、耳を患っているようなのよ。そういうときは“ゆきのした”だよなあと思って探してまわってたの。ちゃんと見つけたから、あとはもう帰るだけよ。安心して」


「安心できません」


 このふたり、いつもこんなふうなやり取りをしている。

 わたしは地面に座って前足をぺろりと嘗めてから、暁下姫の足もとにそっと置いた。軽く引っ掻き「なぁん」と鳴く。

 下僕はこちらの気持ちを察し、屈んでわたしを抱きあげた。

 その瞬間――秋長という男はなんともいえない目つきでわたしを見る。いつも、そうだ。わたしのことを邪魔者めと思っているだろう顔をするのは、この男くらいなものだ。

 わたしを抱いて暁下姫が歩きだす。その少し後ろを秋長がついて歩く。彼らは並んで歩かない。秋長が暁下姫の前を歩くことも、ない。


「そういえばさあ、秋長ってわりといつも不健康ぎりぎりで健康だよね……。睡眠時間が足りてなさそうな生活してるのに倒れない」


「病気よりはよろしいでしょう」


「病気になったら私がいろいろと診てあげるよ」


「全力で拒否します」


「……なんでよ。私、薬草についてだけは自信あるんだけどなあ」


「知ってます。だからこそ僕はあなたに診られるような状態にはなりたくないんですよ」


「ふぅん?」


 ぐるぐると喉を鳴らす。こうしていればそのうち内裏に辿りつくだろう。

 ふたりの会話を聞きながら、わたしはゆっくりと目を閉じた――。


※本編は『暁花薬殿物語』(富士見L文庫)でお楽しみください

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