豪。豪。烈風。


 相手や状況に応じて戦闘スタイルを変化、あるいは全能力を一段向上させる強化変身は、浩介が愛する変身ヒーロ、特にその後期シリーズに於いてすっかりお約束となった要素だ。そして当然のごとく、浩介の趣味をふんだんに盛り込んだ《鬼面騎士》にも、強化変身のシステムはあらかじめ用意されていた。

 ゴブリンナイトの力の要は、スキルとアビリティを融合させる《クロスフォース》システム。故にスフィアダガーの交換で別の魔物のアビリティに切り替えられるわけだが、こちらは同調率の調整が難航していた。


 そこで登場するのが、スキルの擬似回路を増設・追加する盾型のアイテム――名付けて《ジョブチェンジ・エンブレム》だ。

 これには《騎士》《魔法使い》といった、系統ごとにまとめたスキルの擬似術式が組み込まれてある。これをドライバーに装着することで、使用スキルや戦闘スタイルを切り替える転職変身ジョブチェンジが可能なのだ。


 ゴブリンナイトの基本形態が《グレムリン》なのも、様々なスキル系統の擬似回路に切り替える上で、器用貧乏に満遍なく戦闘スキルを覚える《戦士》系統の回路が基盤として最適だったため。

 スキルの方は人工の擬似回路なので、アビリティに合うよう同調率を調整することは比較的容易だった。今日まで完成が遅れたのは、主にバイク開発を優先したのが原因。

 とはいえ結果的に、最高のシチュエーションでのお披露目だ。

 否応なくゴブリンナイトの胸は、子供のような無邪気さで高鳴る。


「そんな虚仮脅しが通じるか! ジャアアアア!」


 叫び、クモ怪人は大きく息を吸い込む。再びゴブリンナイトを拘束しようと、大量のクモ糸を吐く構えだ。

 対するゴブリンナイトは焦りもなく、フォームチェンジによって現れた騎士剣ナイトソードを構える。その鍔元の部分は装飾にしてもやけに大きめで、そこに大小二つのスロットが存在した。なにを差し込むスロットかは言うまでもない。

 新たなエンチャントダガーを取り出し、小さい方のスロットに装填する。


『エンチャント《カマイタチ》』

「ウインドリッパー!」

「ギ!?」


 振りかぶった剣から渦巻く風が、三日月状の刃を形成。それがさらに車輪のごとく高速回転する。剣閃と共に放たれた風の鎌は、クモ怪人が吐いた糸を苦もなく切り裂いた。


《カマイタチ》といえば地球でも日本に伝わる妖怪だが、アンダーヘイムに生息するそれは、前足と尾に鎌を生やしたイタチの魔物。

 風の力で回転しながらの突進攻撃が主な攻撃手段で、突進の際には全身を風の鎌で武装する。エンチャントダガーもその力を再現したものだ。そしてフォームチェンジで加わった【剣術】スキルの戦技【スラッシュウェーブ】と融合することにより、その切れ味は格段に威力を増していた。


 続けざまに剣を斬り払い、風の鎌を連続で射出。網のように広がったクモ糸は瞬く間に寸断されていく。

 クモ怪人は懲りずに糸吐きを繰り返すが、結果は同じだ。


「ジャアアアア! ジャアアア! ジャ……ジ……ゲゲ、ゲェェ!」


 やがて、糸を吐けずに咳き込むクモ怪人。いくら魔物の力を得て怪人に変じても、体力が無尽蔵になったわけではない。同様に、体内で生成できる糸の量も有限なのだ。


「せい!」

「ギギャ!?」


 駄目押しとばかりに放った風の鎌が、クモ怪人の背中に生えた肢を、四本まとめて切り飛ばす。人間のときと変わらぬ赤い血と一緒に、マモノ幻素が黒い霧となって傷口から零れ出た。これで、クモ怪人と化して得た武器は全て失われた。

 勝負を決するべく、ゴブリンナイトはナイトソードで直に斬りかかる。


「ハアアアア!」

「ギ、ギィィ!」


 ガキン!

 しかし振り下ろした剣は、甲高い金属音と共に阻まれた。

 クモ怪人が咄嗟に切り落とされた肢の一本を拾い上げ、その鉤爪でゴブリンナイトの剣を防いだのだ。

 容易に受け止められた剣の手応えに、クモ怪人は口元に歪んだ笑みを取り戻す。


「ギ、ギギギ! ド素人の剣なんか、僕に通じるわけないだろおおおお!」


 そう。フォームチェンジによって《騎士》系統のスキルを得たところで、剣の扱いは専門外。ゴブリンナイト自身は騎士を名乗れど剣の使い手ではない。剣で競えば、多少であれ四ヶ月間の習熟もあるクモ怪人に軍配が上がるのは当然のことだった。

 肢の喪失も人間のときの感覚に近づいた分、却って思うように剣を振るえるようになったようだ。

 一振りで、あっけなくゴブリンナイトの手から剣が弾き落とされる。


「ギギギギギギ! 死ねええええ!」


 思いがけず転がり込んできたチャンスに、クモ怪人は哄笑を上げながら鉤爪を大上段から振り下ろす。――それが誘いだとも気づかず。


「剣で仕留める気なんて最初からない。お前は、俺の一番強い必殺技で斃す」


 剣の不利は元より想定済みだ。動揺もなく、ゴブリンナイトはクモ怪人に動きを合わせる。目先の有利に軽々に飛びついたクモ怪人の動きは見え透いていた。

 鉤爪を振るう右腕を外側に弾きつつ、左手で首を掴む。一本背負いの要領で懐に体を潜り込ませると、右手を下腹部に添えてクモ怪人を抱え上げた。しかしそのまま投げ飛ばすのではなく、頭上でクモ怪人の体を回し始める。

 ゴブリンナイト自身も回転し、【疾風躯】による風の力が加わって回転は加速。

 木の葉を、石を巻き上げ、やがて風は渦巻く激流に変じた。


「ゴブリィィン……たつまきスロ――――!」

「ギッ、ギギイイイイィィィィィィィィ!?」


 叫ぶ技名の通り、小さな竜巻を起こした投げが、クモ怪人を天高く吹き飛ばす。

 手足を引き千切らんばかりの遠心力でもがくこともできず、回転しながら高く高く宙を舞い上がっていくクモ怪人の体。

 それを追ってゴブリンナイトも跳躍する。


「トオオオオ!」


 竜巻の上昇気流も味方につけたジャンプは、渦巻く風の真ん中を突き抜け、あっという間にクモ怪人を追い越した。

 夜空を背に、ゴブリンナイトはスフィアダガーのグリップを三度、回す。


『《グレムリン》《エスクワイア》』『サード=イグニッション!』


 騎士兜を被ったゴブリマークに三度噛みつかれ、バックル中央の宝玉が燦然と輝いた。

 風車の魔法陣が回り、迸るエネルギーが右足に集中。一回転から右足を突き出し、空中で避けようがないクモ怪人目がけて、風の推進を得て一直線に突撃する。

 ダンジョンで巨大な魔物を一撃で屠った必殺の一撃。しかし、フォームチェンジした今度の技には続きがあった。エメラルドグリーンに輝く蹴り足から、さらに風の刃……否、風の『剣』が形成されたのだ。


【疾風躯】+【飛蹴脚】+【ナイトストラッシュ】……本来は剣でなければ使えない《騎士》系スキルの突進系戦技をも、《クロスフォース》で融合させた必殺キック。


「疾風の……ナイト・ストラッシュ・エンド――――!」


 雄々しい叫びが大気に響き渡り、その大気を緑の閃光が貫いた。

 風の剣を纏った急降下キックが、クモ怪人の腹に突き刺さる。着弾の時点で、クモ怪人の体を蹴り足が爪先まで穿っていた。

 さらにブチブチと、ビキビキと、肉が千切れ骨が割れる感触が伝わってくる。

 それに臆することも迷うこともせず、ゴブリンナイトは吼えた。


「オオオオリャアアアアアアアア!」

「ギ……ギギ…………ギェェアアアア!」


 断末魔の叫びと共に、クモ怪人の体が二つに両断される。

 突き抜けたゴブリンナイトは風の推進を逆向きに吹かして減速。ゆっくりと降下して、屋根の上に着地する。

 カツンと響く小さな音が、戦いの決着を告げた。







 悪の怪人をやっつけ一件落着。これでめでたしめでたし――とはいかないのが現実だ。

 ……尤も浩介が愛する仮面の戦士も多くの場合、「一件の落着」こそあれ「めでたしめでたし」で物語が締め括られることはないのだが。


「ギギギギギギ。ちくしょう。くそっ。くそぉ……。こんなはずじゃ。こんなの、なにかの間違いだ。なんで、なんで僕がこんな目にぃぃ……」


 ゴブリンナイトが降り立った先の路地裏。

 そこには、下半身を丸々失い、残った上半身を引きずるように両腕で這いながら呻くクモ怪人――実彦の姿があった。

 体を引きずった後には夥しい量の血が流れている。まだ息があるのは、マモノ幻素によって肉体そのものが変異したが故のしぶとさか。生命力だけで言えばゴブリンナイトを大きく上回っているのかもしれない。


 それでも時間の問題だ。このままいけば、一時間と経たず力尽きるだろう。

 実彦はこちらの存在に気づくと、消耗のためかまた半分だけ人間のそれに戻った顔を、怨嗟と憎悪に歪めた。


「なんだ、オイ。なんだよ、その目は。僕を、僕を見下すんじゃない! 僕は負けてないぞ! 僕はお前なんかに負けてない、何一つ劣ってなんかいない……!」


 喚き散らす声を右から左に聞き流しながら、ゴブリンナイトは考える。

 躊躇いはない。同情もない。ただ、迷いはあった。

 実彦はローザを殺そうとし、立夏を害そうとした。しかし結果論だが、どちらも未遂に終わった。スフィアダガーの悪用についても自業自得と言える結果となり、それでも怪人化したことついて、管理が不十分だったこちらに責任がないとは言えない。

 ならば命は助け、元の体に戻してやり、その上で後は法の裁きに委ねるべきではあるまいか。ヒーローとして今、どう判断することが一番正しいのか。


「勝ったなんて思わないでよ。これで終わりなんかじゃない……そうだ! 皆に洗いざらいぶちまけてやる! お前らの正体を! お前らの悪事を! 人をバケモノに変える道具を作った悪魔だって言いふらしてやる!」


 ゴブリンナイトは考える。正しい判断をしようと。

 しかし――


「僕は人気者だ、皆から信頼されているんだ! ボッチでオタクで引きこもり野郎のお前がなにを言おうが、皆僕の方を信じるに決まってる! 他にもあらゆる罪をでっちあげて押しつけて、お前もあのクソガキも破滅させてやるぞ!」


 その思考を、怒りが真っ黒に塗り潰した。

 衝動が指先の末端まで全身を満たす。突き動かされる、というほどの激しさはない。

 むしろそうすることが当たり前のように穏やかな心地で、それに従った。


「そして邪魔者が全部消えた後で、僕は今度こそ立夏さんを手に入れ――」

「もういい。喋るな」


 実彦の首を片手で掴み、引っ張り上げる。硬質化して尖った指先が、皮膚を突き破り肉に深くまで食い込んだ。

 その握力と、アイレンズ越しにも伝わる冷たい眼差しの意味を悟ったらしい。

 実彦は現実逃避が入った哄笑を引っ込め、声を裏返らせながら喚いた。


「ま、待て! なにする気だよ!? まさか……まさかお前、僕を殺すのか!? ヒーローのくせに、人を殺す気なのか!? ぼ、僕がこんな姿になったのは全部、全部お前のせいじゃないか! それなのに……!」

「喋るなと言った」


 不愉快なだけの叫びを、喉を締め上げて黙らせた。

 呼吸できずに喘ぐ喉へさらに力を込める。肉が、骨が軋む音。


「や、やめ……やめで……ごめんなざ……たず、たずげ……」


 命乞いの言葉にも心が揺れることはなく、もう一方の手も首に添える。

 もがく力も残っていないのか、泣き喚く声を除いて抵抗らしい抵抗はなかった。

 代わりに最期の瞬間、実彦は泣いているのか嗤っているのか判断し難い、無残に崩れ果てた顔でポツリと呟く。




「この、ヒトゴロ、シ」

「知ってるよ。先に地獄で待っていろ」




 ゴキン。




 決定的な音は思ったより鈍く、しかし致命的な手応えは想像より遥かに軽かった。

 力を失い弛緩した実彦の体を放り捨てる。首が不自然な角度に折れ曲がり、その顔は苦悶の表情を浮かべたまま固まっていた。光が消えた瞳は濁ったガラス玉のようだ。開きっ放しの口からは血と唾液を垂れ流すばかりで、もう悪意に満ちた言葉を吐くことも、そうでない他の言葉を口にすることもない。


 ――死んだ。当然だ。殺したのだから。

 人は、殺したら死んでしまうのだから。

 自分が、ゴブリンナイトが、八代浩介がこの手で新川実彦を殺したのだから。


 初めて命を砕いた感触を反芻するように、手を何度か開いたり閉じたりして見る。

 やはりと言うべきか……なにも感じなかった。越えてはいけない一線を踏み越えたという意識こそあれど、後悔も罪悪感も何一つ、感情の上ではまるで動じていなかった。実彦はローザと立夏を脅かす害敵であり、必要があったから排除しただけ。その命に動じるだけの価値などない。心情的にはそんなところだ。


 ただ……人殺しとなった自分を見たら、立夏はどんな顔をするだろうか。

 そう考えて初めて、この胸は痛みを覚える。

 どこまでも自分本位な感傷。高揚や快感を抱かなかっただけ、マシと言えばマシかもしれないが。改めて自分は、正義や善良といった言葉から程遠い人間らしい。

 これからどうするべきか。

 咄嗟にはなにも考えつかず、ゴブリンナイトはその場に立ち尽くす。


「いやあ、素晴らしい性能ですねぇ。私、心から感服致しましたよぉ」


 なんの前兆もなく、唐突にその声は降ってきた。

 背筋が凍りつき、己の手に落としていた視線を上げる。


 屍となった実彦のすぐ傍らに、ピエロが立っていた。カラフルな衣装はゆったりとしたデザインで、長身である他は体型を曖昧にしている。首から上も帽子と仮面に隠され、性別も年齢もわからない。ヤギの角のように枝分かれした、とんがりの一方に王冠を引っかけた帽子。それと笑顔の形にラインが入った仮面だ。


 血の匂い漂う殺人現場にはあまりに不釣り合い。ピエロは、これまた場に似つかわしくない陽気な口調でゴブリンナイトに語りかけてくる。


「本当に素晴らしいぃぃ……。なによりその破壊力! その質! 非情なる意志と無慈悲なる本能の融合! これこそそ我々が、あの御方が求めてきたもの……!」


 クルクルとご機嫌に回りながらステップを踏むピエロ。

 間延びした声音には、老若男女の声をいくつも重ねがけしたようなエコーがかかり、やはりどうにも実体が掴めない。

 しかし、そんなことは些事と思えるほどの戦慄がゴブリンナイトを襲っていた。


 この目で姿は見えている。この耳で声は聞こえている。

 それなのに……スキルとアビリティの双方から与えられた第六感は、目の前に誰もいないと告げているのだ。そのくせ幻覚・幻術の可能性は否定するかのように、内臓を締め上げる不気味なプレッシャーを肌で感じる。


「な、んだ。何者だ、お前は」

「おお! これは失礼いたしましたぁ! 自己紹介が遅れてしまいましたねぇ」


 かろうじて絞り出した言葉に、ピエロは大袈裟な仕草で天を仰ぐ。

 そしてこれまた大仰な、芝居がかった優雅な一礼を披露すると、首を斜めに傾けながら告げた。


「そうですねぇ。名乗らせて頂くのなら……

《悪の組織》の大幹部にして、偉大なる《大首領》の眷族が一人。

 ――《王冠道化師クラウン・クラウン》と申します。以後、お見知り置きを」

「悪の組織、だと?」


 明らかにゴブリンナイトの姿の由来――《ヒーロー》のことを意識した言い回し。

 それを問い質すより先に、驚くべき現象が起こった。


 王冠道化師が手をかざすと、実彦の亡骸から黒い粒子が漏れ出す。黒い粒子が全て抜け切ったの実彦の体は、クモ怪人から完全な人の姿に戻っていた。

 そして王冠道化師の手には、球状に渦巻く黒い粒子。その中には一〇の環と二〇の線を中心に構成された、見覚えのある記号列と図形の集合体が確認できた。


 アレは……《霊器回路》だ。信じ難いことに王冠道化師は、魔法道具も使わずに実彦の体内から霊器回路を摘出したのだ。それもおそらく、スキルとアビリティが融合した状態で。それはつまり、《クロスフォース》の技術を手中に収めたことを意味する。


「我々が待ち焦がれたこの素晴らしき技術、是非とも研究を推し進めて頂かなくては! しかし、どうやら貴方は道理と倫理に拘りがあるご様子。ならば、は我々が担当するとしましょう。さあ、この儚くも醜い箱庭を実験場に、存分に破壊と闘争の限りを繰り広げようではありませんか! 争い合い、奪い合い、破壊する! そう! それこそが生命の、宇宙の本質なのだから!」

「ま、待て!」


 一方的に口上を並べ終え、王冠道化師が背を向ける。

 すると、またも信じ難いことが起こった。王冠道化師の前で空間が裂け、《亀裂》が発生したのだ。まるで扉を潜るかのような気楽さで、王冠道化師は裂け目の中に飛び込む。裂け目が閉じて、そのまま影も形も残さず消えてしまった。


 ……そういえば一つだけ、実彦の犯行で説明がつかない疑問が残っていた。

 プールでの一件、浩介を《亀裂》に落とすという殺害方法。《亀裂》の発生を防ぐ誘導装置は実彦が壊したにせよ、アレは《亀裂》が発生すると事前にわかっていなければ狙えない犯行だ。おそらく、あの道化師が裏で手を貸していたのだ。

 つまり彼奴は、自在に《亀裂》を発生させる力を持っているというのか。あの道化師は、そしてその背後にいるという《悪の組織》とは、《大首領》とは一体――?


 とても理解が追いつかない事態に混乱する中、迫る足音。

 路地の入口から現れたのは、ファムを筆頭とした警備隊だ。当然と言えば当然の登場か。クモ怪人との戦いは路地裏で展開したとはいえ、壁や家屋を破壊する騒ぎになってしまった。それに最後の必殺キックも少なからず人目についただろう。


「な、んだ……これは。一体これはどういうことなんだ、ゴブリンナイト!?」


 問い詰めるファムの表情は険しく、瞳には色濃い困惑があった。

 無理もない。彼女の目の前にあるのは、どう見たって惨殺死体が転がる殺人現場だ。実彦が異形の怪物と化した事実は、もうどこにもその証拠が残っていない。


「……この男は霧島立夏という少女の拉致を企み、俺はそれを阻止するために戦った。しかしこの男はEXスキルの持ち主で、生きたまま捕らえる余裕がなく、結果的にこうなった。詳しくは霧島立夏に訊け。おそらく、まだ集合住宅の屋上にいるはずだ」

「待て!」


 目を合わせていられず、ゴブリンナイトは一方的に会話を切って背を向けた。

 呼び寄せたビーストチェイサーに跨り、警備隊を飛び越えて表通りに出ると、一気に加速させて走り去る。


 実彦のこと。立夏のこと。道化師のこと。人を殺したこと。これからのこと。

 思考は風車よりも目まぐるしく回転し、何一つ定まらない。

 ただ――全てが始まりに過ぎないという確信だけが、胸をざわつかせ続けていた。


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