第六話:転身! 風戯鬼の従騎士

幼馴染を狙う黒い影


「プールといえば、草薙が立夏を誘いに来たときもおかしかったんだ。あのとき新川、お前は確かこう言ったよな? 『あっちへフラフラ、こっちへフラフラ、見当外れの方向にばかり逸れて行って』と。今にして思えばあの口ぶりは、あらかじめ喫茶店の場所を把握していて、お前が草薙を道案内したってことになる。立夏は誰にもペルペルのことを教えていないはずなのに、だ」


 外界から切り離された白い空間の中、浩介は実彦と対峙する。

 糸の壁で磔にした立夏を取られまいとするかのように、両腕を大きく広げて浩介の前に立ち塞がる実彦。こちらを睨みつける目に浮かぶギラギラした殺気は、自分たちが知る王子様スマイルが、上っ面だけの嘘っぱちだったとわかるほど感情的だ。

 この余裕が剥ぎ取られ、負の感情に満ち満ちた表情こそ、新川実彦の本当の顔。


「偶然見かけたのでなければ、立夏の後を尾行して突き止めた以外に考えられない。それに立夏にも気づかれないほどの隠密系スキルを隠し持っていたのなら、プールでパニック状態とはいえ人が大勢いる中、誰にも武器を抜いた瞬間を目撃されなかったことにも一応の説明がつくしな」

「……ハッ。偉そうにペラペラと、名探偵気取りかい? 全部答えがわかってからの後付けじゃないか」

「それは最初に俺が自分で言っただろ。生憎と俺には地球の記憶を閲覧できる相棒も、喋る上に車の運転ができるベルトもいないんでね。だが、お前が俺を殺そうとして、ローザを刺して、立夏にまで手を出そうとしている悪党だって答えに変わりはねえよ」

「誰が悪党だ! 僕をこんな体にして、よくもヌケヌケと……!」


 半身が怪物に変わり果てた実彦は恨めしげに言うが、勝手に盗んで勝手に使った彼の完全な自業自得ではないか。


《クロスフォース》システムでスキルとアビリティを融合させるとき、マモノ幻素が人体に悪影響を及ぼす懸念は元々あった。

 ゴブリンナイトの場合、スフィアダガーに宿る魔物の霊器回路と変身者である浩介の霊器回路が接続する際、スーツに組み込まれた擬似回路を間に挟む形となっている。これは元々、単に浩介が戦闘スキルを持っていないための処置だった。


 しかしこれで結果として、スーツがマモノ幻素の影響から人体を守る安全装置、いわゆるフィルターの役割を果たすこととなったのだ。

 加えて、浩介が所持する【毒素耐性Ⅹ】の効果で、浩介の身体にマモノ幻素の悪影響が及ぶ危険性は、ほぼゼロに等しい。

 よってゴブリンナイトのモニタリングを通じ、マモノ幻素が人体に及ぼす影響とその対策については慎重に検証する予定だったのだが……まさかこんな形で最悪のケースが明らかになるとは思わなかった。


 おそらく直に接続したスフィアダガーの霊器回路から、マモノ幻素が実彦の肉体を浸食し、この怪人じみた変異を招いたのだろう。

 半分無意識に実彦の変わり果てた半身から目を逸らし、浩介は続ける。


「ゴブリンナイトのことも立夏をつけ回す中で、俺たちとの会話を盗み聞きしたんだろうが……俺たちは外でゴブリンナイトの話題を出すとき、ローザの魔法道具で会話を誰にも聞かれないようにしていた。どうやって会話を聞き取ったんだ?」

「ハン! そんなこともわからないなんて、所詮は偶然に恵まれただけの男だね。無償の愛さえあれば距離はもちろん、声が聞こえるかどうかなんて些細な問題さ。唇の動きさえ見れば、立夏さんの言葉は余さず理解できる」

「唇の動きって……」

「読唇術ってヤツかよ……」


 いっそ誇らしげに実彦は胸を張るが、控え目に言ってドン引きだ。

 立夏も口元をひくつかせながら、困惑した顔で実彦に問いかける。


「けど、どうして? なんであんたは、そこまで私に執着するのよ?」


 確かに、そこが解せない。

 実彦とは高校に入りこちらに召喚されてから、実質四ヶ月間ほどの付き合い。しかしほぼ一目惚れの京太よりも根深い、年季の入った執着が実彦からは感じられた。


「ああ、立夏さんがわからないのも無理はないよ。初めて会った頃の僕は、ひ弱で頭も悪くて見るに堪えない、本当に情けない男だったからね……」


 実彦は変異の影響でズタズタに破けながらも、かろうじて役割を果たしているズボンのポケットからなにかを取り出す。

 それを見た立夏が「あっ」と目を見開いた。


「そのビン底眼鏡……! あんたまさか、中学の頃に私が不良から助けた!?」


 ビン底眼鏡で浩介にもピンと来る。

 中学時代の立夏の武勇伝。他校の生徒を不良から助けた話。その助けた相手が漫画みたいなビン底眼鏡だったと、他ならぬ立夏から聞かされたことがあった。

 どうやら、その人物こそ新川実彦だったらしい。

 理解を得られ、実彦はウットリとした恍惚の笑みを浮かべる。


「ああ、そうだよ立夏さん。貴女に救われたあの日、僕は悟った。貴女こそが僕の運命の人だって。それから僕は影で貴女を見守りながら、ずっと貴女に相応しい男になるべく努力を重ねてきた。徹夜で勉強して、剣道で体も鍛えて、身だしなみだって色んなファッション雑誌で研究したんだよ?」


 つまり、立夏に助けられた数年前からストーカーを続けていたようだ。同じ高校に入学したのも大方、立夏の志望高校をなにかしらの手段で調べ上げたのだろう。

 さも健気さをアピールするように己を語る実彦に、立夏は鳥肌を立てていた。


「そして高校で運命の再会を果たした僕たちは、学園ラブストーリーみたいな最高の三年間を通じて愛を育むはずだった。なのに――」


 芝居がかった口調が突如、軋むような嗄れた声に変わる。


「このふざけた異世界に召喚されてから、歯車は狂いっ放しだ。単純馬鹿の京太が、まるで主人公みたいに持て囃されやがって……この手の話じゃ、勇者なんて主人公の踏み台がお約束だろ!? あいつが調子に乗って問題起こしたのを、僕が解決して立夏さんに惚れ直してもらうのがあるべき筋書きじゃないか!」


 灰髪を振り乱し、背中の肢から伸びる鉤爪で床を叩きながら、実彦は溜まりに溜まった不平不満をぶちまける。


「なのに僕のチートは完全にあいつの劣化コピー! クラスでの僕の立ち位置は、あの考えなし馬鹿の尻拭いをする、地味で目立たない裏方! こんな配役は間違いだ! 僕はあいつの踏み台なんかじゃない! あいつが僕の足元に這いつくばるべきなんだ!」


 これが、後先考えず突っ走る京太をいつも苦笑で宥めていた実彦の、偽らざる本音なのだろう。親友などではなく、自分が主人公となるために邪魔な障害。だから京太に浩介を殺した濡れ衣を着せようとした。

 ……ならば《亀裂》に突き落として間接的な殺害まで図った、浩介に対する敵意と憎悪の念はどれほどのものなのか。


「あの馬鹿もそうだけど、なにより我慢ならなかったのは……お前だよ、八代浩介」


 それは浩介を見る、底なし沼のように真っ暗で濁り切った眼に表れていた。


「お前が。お前みたいな取り柄も協調性もないオタク野郎が。なに僕を差し置いて、なんの権利が、資格があって、僕の立夏さんの隣に我が物顔で居座っている? たまたま隣の家に生まれただけ、ただの偶然で幼馴染になっただけの分際で」


 淡々と、しかし腐蝕毒じみた嘲りと不快の色濃い声で実彦は呟く。

 やがて堪えかねたように、呟きは金切り声の叫びに変わった。


「魔物に怯えて引きこもってたくせに! 雑用で日銭を稼ぐだけで、この四ヶ月間なんの活躍もしてなかったくせに! 立夏さん以外の女にもヘラヘラ媚びを売ってたくせに! お前が幼馴染の立場を盾に縛りつけるせいで、僕の立夏さんがいつまでも自由になれないんだ! 挙句に妙なコスプレのインチキアイテムなんか使って京太、ましてやこの僕の上に立ったつもりかい!? ふざけるな!」

「ローザを襲ってスフィアダガーを奪ったのは、俺と草薙の決闘を見たのが理由か」

「そうさ! お前みたいな能なしの雑魚が使って勇者に勝てるなら、この僕が使えば最強で無敵の、真の主人公になれるはずなんだ! ……なれるはず、なのに。なのになのになのに。僕の体カラダカラダダダダガガガガァァァァ!」


 クモの体毛に覆われた片腕を掻き毟り、狂ったように身を捩りながら絶叫する実彦。

 この情緒不安定さ、マモノ幻素の影響で肉体のみならず、精神まで変調をきたしているのかもしれない。

 実彦は異形化した方の腕で、人差し指を浩介に突きつけた。


「全部お前のせいだ! お前が作った道具のせいで僕はこんな、こんな姿に! 戻せ! 今すぐ元に戻せよ! そして死んで僕に詫びろ! 地面に這いつくばって謝れよ人でなしが! この狂人! 外道! 鬼畜! 頭がイカレたマッドサイエンティストめ!」


 勝手なことを言うな。盗人のストーカー野郎が自滅しただけじゃないか。ローザを騙して刺したくせに、被害者面なんてするな。

 ――そう言い返すのは簡単なはずなのに、言葉が鉛のごとく気道に詰まった。

 経緯がどうあれ、自分が生み出した技術によって怪物となった実彦。

 その異形の姿を直視することができず、浩介は目を伏せる。

 だから、


「お前のせいでぇぇぇぇ!」


 実彦が振るったクモ肢から、鉤爪がブーメランのように飛んできたのにも全く反応できなかった。


「え、あ……あ――!?」


 最初に感じたのは、骨の芯に氷柱を差し込まれたような冷たさと異物感。

 自分の太腿を、刃のように鋭い鉤爪が貫通していることに遅れて気づき。

 理解が追いついた脳が、襲いかかる灼熱の痛覚に焼かれた。


「あ、がぁ、ああああああああぁぁぁぁ!?」


 熱い。痛い。燃えるように。熱くて! 痛い!

 顔中から脂汗が噴き出し、ズボンが血で赤黒く染まっていく。

 絶叫を抑えることなどとてもできなかった。喉が枯れるほどの叫びが口から勝手に飛び出す。刺さった鉤爪が妨げになって転がり回ることも満足にできず、陸に打ち捨てられた魚のように手足が跳ねては床を叩く。


 拳や鈍器で殴られた経験はある。内蔵を傷つけて血を吐いたり、ナイフで肌を切られた経験もある。しかし刃物で刺された経験は、生憎とない。初めて体感する鋭利な痛みに、浩介は生理的に溢れる涙を止められなかった。

 泣き叫び、もがき苦しむ浩介の様を、実彦は声の限りに嘲笑する。


「ハハハハハハハハ! 見なよ、この無様な姿! これこそがこいつの本性! インチキアイテムがなけりゃ、情けなくピーピー泣き喚くだけの腰抜けなのさ! こうして僕たちの足元で虫けらみたいに這いつくばるのが、こいつの正しい立ち位置なんだよ!」


 ひとしきり腹を抱えて笑った後、実彦は立夏に近づくと猫撫で声で囁く。


「これでわかったでしょ? 立夏さん。こいつに立夏さんの幼馴染でいる資格なんかない。視界に入ることもおこがましいゴミクズなんですよ。だから、ね? 今度こそ、僕の告白を受けてくれますよね?」


 実彦の人側の指が、立夏の頬を舐めるように這いずり回る。

 浩介は反射的に立ち上がろうとして、しかし痛みに耐えられず崩れ落ちた。

 今度こそ……というのは、おそらく浩介が研究室でへこんでいた頃。あのとき立夏は実彦に呼び出されたと別行動を取った。どうやらその要件が告白だったらしい。

 そして、立夏は一度それを断った。


「好きです。立夏さん。貴女を愛しています。貴女を守れるのも、幸せにしてあげられるのも僕だけだ。単純馬鹿の京太や、ましてやそこのゴミクズなんかじゃない。貴女のいるべき場所はただ一つ、僕の隣だけ。だからどうか、どうか僕のものに――」


 自分に酔った声音。立夏を見つめているようで焦点の合っていない目。

 王子様フェイスでも隠し切れない偏執的な狂気に、半身の異形とは無関係におぞましさを感じた。過去、立夏に付き纏ってきた輩の中でも群を抜いている。


「…………」

「なんだい、立夏さん? 恥ずかしがらずに聞かせてよ」


 俯いた立夏の口が、ボソボソと聞き取れない声量でなにか呟く。

 それを肯定と欠片も疑っていないのか、実彦は満面の笑みで立夏に顔を寄せた。

 そして、


「寝言ほざいてんじゃないわよ、この脳ミソ腐れブドウ変態ストーカー男ォォォォ!」

「げほぉ!?」


 手足を拘束された状態から、立夏は渾身の頭突きを実彦の顔面に喰らわせた。中国拳法で言うところの寸勁。ゼロ距離から最大限の威力を相手にぶつける技だ。 

 実彦は折れた鼻から血を噴いてたたらを踏む。

 そこへ、立夏が畳みかけるように叫んだ。


「ふざっけんじゃないわよ! 誰があんたなんか好きになるか! 自分が一番頭良いみたいな顔で周りを見下して! 思い通りにならなきゃ全部他人のせいにして! 浩介やローザのことまで傷つけた! あんたみたいな卑劣で陰険で性根の腐り切った自己中ナルシスト男なんて、カードや時計使って何度時間逆行を繰り返そうが、永久にお断りよ!」


 麻痺が未だ抜けない体から、なお小さな雷を迸らせて、立夏は怒りで猛る。

 対して、実彦は頭が真っ白になった様子で硬直。拒絶はおろか、罵倒されることさえ想像だにしていなかったとわかる反応だ。どれだけお目出度い頭なのか。


「あんたもあんたよ、浩介! なにこんな悪党の言いたい放題にさせてるわけ!? こいつがバケモノになったのなんて、全部ただの自業自得じゃないのよ!」


 轟くような叱声が、浩介の思考から痛みを遠ざけた。『お前のせいだ』という実彦の言葉が反響する頭に、立夏の声は雷鳴のごとく突き刺さる。


「確かにこいつがこうなったのは、浩介が生み出した技術が原因。そういう意味じゃ、あんたにも責任があるかもしれない。でも! だったら尚更! あんたがするべきことは、自分が招いた事態から目を背けて蹲ることじゃないでしょ! 間違えたなら、過ちを犯したなら、自分の罪は自分できっちり数えて向き合う! それがあんたの信じる、私たちが憧れた《ヒーロー》ってヤツじゃないの!」


 ドクン。ドクン。ドクン。

 電気ショックでも与えられたように、立夏の言葉一つ一つで、心臓の鼓動が強く脈打つ。血液と一緒に見えないなにかが全身を駆け巡り、力が湧いてきた。


「私のヒーローは……私が知ってる、私が惚れた八代浩介は! 迷って悩んで疑って、鬱陶しいくらい自問自答を繰り返して! それでも自分じゃない誰かのために戦える、本当に優しくて強い男よ! だから、立ち上がりなさいよ、馬鹿ぁぁぁぁ!」


 ――ドクン!

 ありったけの想いが込められた言葉が、心臓よりも深く魂にまで響き渡る。

 苦痛とは全く別種の熱が心を満たし、浩介は蹲る体を、床に突き立てた腕を支えにして起き上がらせた。

 一方、実彦は脳裏に描いていたであろう、全ての妄想妄言が完膚なきまでに粉砕。

 呆けた顔が、次の瞬間にはドドメ色の狂気に染まった。


「な、んで。なんでなんでなんで。なんでそんなデタラメを言うんだ。嘘だ。嘘でしょ。嘘に決まってる。僕じゃなくてアアアアあいつを選ぶなんて。ナンデナンデそんな酷いことを言うんだ。ああそうか、僕が奴隷なんて買ったのを怒ってるんだね? 違うんだ、アレは浮気じゃない。あんな駄犬ども、立夏さんの代わりにはならなかった。僕は改めて立夏さんが何物にも替え難い唯一無二の存在だって気づけたんだ。だから僕は悪くない悪くないのにニニニニ。そうか、立夏さんはあいつに騙されてるんだ。洗脳されてるんだ。そうだ、そうに違いない。それ以外アリエナイ。待ってて、今いまイマ僕が誓いのキキキキキスで呪いを解いてアゲアゲアゲゲゲゲゲゲギェェェェ!」

「ひっ――!?」


 実彦の口が壊れた録音テープのように、一切抑揚のない言葉を垂れ流す。やがてそれは凡そ人体から発せられるとは思えない奇声に変わった。

 実際、実彦の口は鎌状の鋏角が生えた、クモそのものの異形に変じている。立夏は二重の生理的な嫌悪感から悲鳴を漏らした。

 正気を失った実彦が、唇を奪うというより獲物に噛みつくような剣幕で立夏に顔を寄せ――その横顔を、鉄塊のごとく握られた拳が打ち抜いた。


「ぎゃ、ば!?」

「俺の女に、触るな」


 睨む瞳に殺意を光らせ、浩介は冷たく吐き捨てる。

《ゴブリドライバー》の装着で【身体強化】の力を得た拳は、実彦の体に柵と糸の壁を突き破らせ、隣の集合住宅の屋上まで殴り飛ばした。

 浩介はいつの間に引き抜いたのか、太腿に刺さっていた鉤爪を使い、糸をブチブチと切って立夏を拘束から解放する。

 自由になった手首を擦りながら、立夏は真っ赤な顔で浩介を見つめた。


「浩介、今あんた、お、お、俺の女って……」

「ごめん、立夏。今、俺を動かしたのはヒーローらしい正義感でもなんでもない。一人の男としての、ただの独占欲だ」

「独占欲!? そ、それってつまり……」

「だから、今の下りは全部ナシで頼む」

「ちょっと!?」


 愕然と抗議の声を上げる立夏に、浩介ははにかんだ笑みを見せる。

 吹っ切れた、と言うほど迷いを拭い切れてはいない。それでもその目は俯くことなく、真っ直ぐ前を見据えていた。


「『誰かのため』だなんて、本当はそんな大層なこと言えやしない。それでも俺は立夏を守りたい。立夏の幼馴染として。同じ背中に憧れた仲間として。なにより……俺が信じる、立夏も信じてくれている《ヒーロー》として」


 成すべきことから目を逸らさないままに、浩介は立夏に向けて拳を突き出す。


「だから見ててくれ。俺の――」

「……全く。わかったわよ」


 その拳が求めるところを理解した立夏は、呆れたような顔で笑いながら応じてくれた。

 拳を軽く突き合わせ、彼女から少しだけ勇気を分けてもらう。


「しっかり見ててあげるから、私の分も思い切りぶっ飛ばしてやんなさい。――行け、私のヒーロー」

「ああ!」


 太陽のような笑顔と言葉に背中を押されて、浩介は隣の屋上へと飛び移った。

 纏わりつく自分の糸を引き剥がしながら、実彦が怨嗟の呻き声を上げる。


「く、そぉぉ……! お前さえ、お前さえいなければ……!」


 湧き上がる負の情念に呼応してか、実彦の人間に戻っていた半身が、ジワジワとクモの異形に浸食されていく。

 自分が生み出した技術による変貌を、今度は正面から受け止めながら浩介は問うた。


「一つだけ答えろ。――なんでローザを刺した? あいつは最初からお前にメロメロだった。刺して奪ったりなんかしなくても、お前ならどうとでもローザを言いくるめて、俺と同じドライバーを提供させることだって簡単だったはずだ。なのになんで……」

「はあ? そんなの決まってるでしょ。目障りだったからさ」


 まだかろうじて残る王子様顔を、実彦は不快と嫌悪に歪める。


「目つきは陰険だし笑い方は気色悪いし、あんな暗いチビブス成長したって生理的に無理だって。大体あんな暗くて薄気味悪い地下に棲んでるとか、キモイんだよ。それにせっかくのチートも他の雑魚どもにまで渡ったら意味ないでしょ。まあそのチートも欠陥品のゴミだったけどさ。どうせ学者とかいうのも親の七光りで――」

「もういい。お前がクソ野郎だってことは十分わかった」


 それ以上は聞くに堪えない実彦の言葉を、浩介は低く震える声で切って捨てた。実彦に対する同情や罪悪感じみた感傷など、とうに消え去った。

 別人のような変わりようには、確かにマモノ幻素の……浩介が生み出したスフィアダガーの影響も少なからずあるだろう。しかし――ローザを欺き、ナイフで心臓を刺したのは、紛れもなく新川実彦自身の悪意だ。

 そう確信するに至り、浩介の瞳は静かに炎を燃やす。


「は? なんだよ、その目は? まさかお前、自分が正義の味方かなにかのつもりか? カッコつけたいだけの偽善者が、ヒーローごっこに酔ってんじゃないよ! どうせ仮面の下は、醜いゴブリン面のくせしてさあ!」

「……否定はしないさ。俺もお前も、心に浅ましくて醜い、それこそゴブリンみたいに醜悪な『鬼』を飼っているロクデナシだ。いや、人間なんて誰しもそんなものかもな。誰だって多かれ少なかれ、自分本位な欲望や負の感情を抱えて生きている」


 浩介は性善説も性悪説も信じていない。誰かの幸福を願う気持ち、誰かの不幸を嗤う気持ち、どちらも人間は生まれつき持っている。ただ生きていく中で正しさを持ち続けることは難しく、悪に流されるのはあまりに容易いだけ。それが浩介の持論だ。

 強い意志を持たなければ……ただ漫然と生きるだけで正しくはいられない。

 楽な方へ、自分が傷つかない方へと逃げ続け、良心をチリ紙のごとく捨て去って悪意に溺れる。そんな人でなしのロクデナシを、浩介は大勢見てきたのだ。

 そしてその逆も。


「だけど、俺は知っている。人が傷つくこと、人を傷つけることに心を痛められる優しい人を。力のない人たちの助けになりたいと願う正しい人を。俺はそいつらには笑顔でいて欲しいし……それを嘲笑って踏み躙ろうとするヤツは、絶対に許さねえ!」


 破壊を疎み、人を傷つけることに涙できるだけの正しさ・優しさは浩介の中にない。

 それでも、正しい人たちの幸福を願い、その笑顔を理不尽に害そうとする悪意に憤る心は持っている。仮面の戦士と、大切な幼馴染から教わったこの怒りが浩介を、実彦や他のロクデナシたちよりも少しだけマシな人間にしてくれた。

 故に、浩介は戦う。そうすることが正しいからではない。

 自分が正しいと信じる人たちを、ただ守りたいから。


「だから――俺は悪鬼アクを討つための悪鬼オニと成る!」


 虚空に手を伸ばし、アイテムボックスより出現したスフィアダガーを掴み取る。

 ドライバーのバックル部分を斜めにスライド。バックル内部の差し込み口にダガーを装填し、バックルごと横に倒す。

 ダガーの音声が、ドライバーとの霊器回路の接続完了を告げた。


『《グレムリン》』『《ソルジャー》』

「馬鹿が! テレビの茶番じゃあるまいし、大人しく待ってなんかやるもんか!」


 哄笑を上げながら、実彦は変身動作中の浩介に向けて鉤爪を飛ばす。

 その全身が異形に変じて最早、完全なクモ怪人と化していた。体毛に覆われ六つの複眼が並ぶ顔の中で唯一、二つの眼だけが人間のときと変わらず、それが逆に一層のおぞましさを際立たせていた。

 四本の鉤爪は無防備な浩介を串刺しにせんと一直線に飛来し――

 浩介に届く直前、見えない壁に弾かれて明後日の方向に飛んでいった。


「な、なんで!?」

「へっ。そんなこと、俺が知るかよ」


 もちろん本当は知っている。

 ドライバーにスフィアダガーを差し込んだ際、浩介を中心として《アイテムボックス》の異空間が球状に、現実空間と重なる形で展開された。これによって異空間に収納したゴブリンナイトのスーツ一式が、直に浩介の体へ転移し瞬間的に装着できる。

 そして重なった空間と外との間には次元のが発生し、外からの攻撃を一切受けつけなくなるのだ。

 中からも攻撃は通らないし、重なった空間は僅かな間しか維持できないが、邪魔されずに変身を完遂するには十分すぎる時間だ。

 戦う意志を抜き放つ抜刀の動作で、右手を左上に振り抜く。

 次いで右手を腰に引き寄せ、入れ替わりに左手を斜め前方に付き出す。

 それと同時にバックル右側から突き出たダガーのグリップを右手で握り、回す。

 最後に告げるは、己が肉体と精神を戦うためのモノに変える、決意の言葉。


「――変身!」

『《グレムリン》《ソルジャー》』『クロスアップ!』


 バックル中央の宝玉が輝き、浮かび上がった魔法陣の風車が回る。

 人間と魔物、本来相容れぬ二つの異能がドライバーの中で融合。昇華された力を受け止めるための装備が、異空間より光の粒子となって転移する。


 まず首から下を黒地のレザースーツが覆う。その上から各部に深緑色に染まった胸当てや金属プレート、手足には同じく深緑のグローブとブーツが装着された。光の粒子から実体を形作った革鎧は、勇者や英雄のような華やかさは皆無で、しかし力強い。

 最後に現れた鬼面の兜が、頭上より降って浩介の素顔に被さる。兜の内側から下顎部分のパーツが展開され、素顔を口元まで完全に覆い隠した。

 昆虫の複眼を思わせる結晶の眼が、額にある第三の目と共に真っ赤に輝く。目覚めの風が吹き荒び、首に巻かれた赤いマフラーをはためかせた。


 かくして変異――否、「変身」を果たした姿は鬼面の騎士。

 英雄でも怪物でもない、異形でありながら毅然たる佇まいの戦士を人々はこう呼ぶ。

《鬼面騎士》と。


一鬼闘千いっきとうせん――の怒りで悪を断つ!」

「この……雑魚ゴブリンごときガァァァァ!」


 地を蹴り、風を切り、拳と爪が火花を散らす。

 アンダーヘイムの如何なる英雄譚にも例がない、異形と異形の激突が始まった。


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