第4話

宙を漂っているような浮遊感………風が顔を撫でて通り過ぎていく


ブワッときつい突風が体を襲いギョッと意識が冴えた、景色が目にも止まらぬ速さで疾走していく



「うわっっ!?」


「わっ!!隆也!!暴れるな!コケる!!」


「わっ?!わっわっ!!」


希望通り夢で納めてもらえなかった


知らない間にどうやら自転車に乗っている、訳が分からず前傾になった体を起こしてしまい細いタイヤのロードバイクがユラユラ揺れた


「危ないな!今車が来てたらぶつかられてるぞ」


「瑞希?!」


「もう暫く寝てるか、せめてじっとしててくれ!もうすぐ着くから!」


「どこ行くんだよ!」


「俺はこう見えて忙しいの!大学とバイト2つ!!一緒にいれば筋トレしようなんて言わなくなるよ」


「…………じゃあ起こせよ」


「どうやって?」


「………さあ………」


いつ瑞希が起きて一人で動いて………いや当たり前なんだけど……いつ部屋を出たのか分からない

体が勝手に動いてるのにその間寝ていられる俺も俺だ


「わっっ!」


進む方向が分かって無かった身体がグンッと振られた、石造りの古い門柱から滑るように入った敷地は……多分お利口さんが集まる瑞希の通う大学だった



ワラワラと集まってくる他の学生の中で瑞希は滅茶苦茶目立っているんじゃないだろうか


廊下を歩くと女は勿論だが男からもチラチラ見られる

友達はいないのか誰も声をかけて来ない



「大学………退屈だと思うんだけど……いいかな?」


「………仕方ないだろ………」


「うん………」


教室に入ったのは時間ぎりぎりだったらしい、席についてすぐに授業が始まり、目の前に出てきたテキストは何が書いてあるのか意味不明で退屈そうだな、と覚悟した


「どうしても外せない授業だけ出たら……今日は引き上げるから………ごめん………」 


瑞希が口を覆い小さな声で呟いた



昨日会ったばかりだけどこの変な状況の為か何でも遠慮なく言い合って来たのに、やけに遠慮がちな話し方をする瑞希は、昨日口をきかなかった事を気にしているらしい


恥ずかしくて鏡を見なければ顔を合わせないで済む事にホッとしていたのは事実だが、瑞希だけが悪いんじゃない、二人でやった事だ



むしろ瑞希のプラベートにお邪魔しているのはこっちだし、文字通り一心同体の相手と気まずいのはやりにくい




「俺こそごめん……瑞希………気を使うなよ」


「………うん………ごめん」


「いいって」


「良くない……隆也に……嫌われたくない」


「へ?」


嫌いも好きもないだろう、強制的に一緒にいなければならないわけだし、いやでも相談しなきゃならない事が山程ある


ゲイに惚れられても答えられないが感覚の中ではセックスしたも同然…………いやいやいや………そこは否定したい、初体験が男で、しかも殆ど夢の中なんて嫌だ


目とムネが大きくて、足が綺麗でミニスカートが似合って笑顔が可愛くて優しいくせに生意気で、時たまちょっと頼りない女子とがいい


私……初めてなの………優しくしてねって顔を赤らめて…、始まったら積極的………


この教室で言えば…………キョロキョロ見回すと教室の一番後に坐ったせいで殆ど背中しか見えないが少なくとも可憐な感じの女子は…………


いないな………


…………気が付けば肩がフルフル震えていた………



「あっっ!!瑞希!!聞くなよ!!」


「だって…………」


瑞希の独り言に前の席に座っていた乱雑に髪を縛り上げた眼鏡女子が振り返ったが…やはり好みじゃない


怪訝な顔をされたにも拘わらず瑞希はツボった笑いを抑える事が出来ずに必死で声を噛み殺し笑い続けていた


そんな大きな声で(?)考えたつもりもないが心を読まれては堪らない、瑞希が目を落としているテキストは何が書いてあるか全く分からないがお経を読みあげるように目で追った



そのせいか瑞希も集中しだしたのが分かる



ここ聞いとけよ!


「わっ何?………あれ?」


講師のその言葉と共にポイッと横に放り出された


「あれ?あれ?瑞希?」


隣に座る瑞希が見える

並んで座っている


「瑞希?!…瑞希!…聞こえないのか?どうなってんの?おい!瑞希ったら!」


聞こえてない?……………


さすが国公立の大学に入れるだけあって集中力が凄い、声が届かなくなって意識から放り出されてしまったらしい




「…………こんな事もあるんだ……」


カリカリとシャーペンを走らせる内容は高校とは違う、何かポイントらしきものがテキストに書き込まれていく


今の所完全に別れていて体は動くが隣の瑞希には影響してない


他の人からどう見えてるのかは分からないが、多分何も見えてない、離れるのは消えてしまいそうで怖い


瑞希が気付くまで隣で勉強してる横顔をじっと見ているしかやることは無かった



「睫毛…………長いな………」


並んで座る瑞希を眺めて気がついた、こんなに客観的にじぃっと見るのは初めてだった

華奢な印象は綺麗に切れ込んだ顎のラインが深いからだ、ガリガリだと思っていた体は細いが痩せていると言うよりしなやかで………どこがどうとは言えないが中性的だった


ガッチリ筋肉が付いている綺麗な細マッチョは山程見ているがその誰とも違った


男に言い寄られていても違和感なく似合う………と言うか………


汚くない………


「………何考えてるんだ………俺………」


見ているだけで恥ずかしくなって、目を逸し隣に放り出されている事を思い出してくれるのを待っていた




「あれ?!隆也?!!」


ポキンッと折れて飛んだシャーペンの芯を追った瑞希と目が合い、シンとした教室で突然素っ頓狂な声を出した


「なんでそこにいんの?!」


「何故って…………」


「隆也?!!」


講師も生徒も教室にいる殆ど全員から注目を浴びていたが瑞希は構わずに机に乗ったプリントやテキストをかき集め鞄に入れる時間も惜しいと手に持ったまま教室を飛び出した


「隆也!……隆也!!」


ダァッと走りながら名前を呼ばれて瑞希が何を慌てているのかようやく分った、多分姿が見えた途端に消えたらしい


「落ち着けよ!瑞希!俺はいるよ!」


「隆也…?!……良かった………外に出てるからいなくなっちゃったかと思った」


「俺も1回あるよ、歌ってたら瑞希が外に出てた」


「そうなんだ…ビックリした…忘れてて…」


「まだ授業あるんだろ?戻れよ」


「もういいよ、出席付いたし」


瑞希は足を止めずに自転車置き場までそのまま来て柱に括り付けたチェーンを外した




「隆也…行きたくないだろうけどもう一件だけ付き合ってよ、その後好きなだけ飯食えばいいからさ」


「行きたくないって……どこ?」


「麦ん所、ちょっと用事あってさ」


「………おい、変な事すんなよ」


「しないって」


しないと言われても相手もある、エッチな事へのハードルは瑞希と俺ではあまりに高さが違い、跨げばいいだけの瑞希とハーネスとロープが必要…………トランシーバーで気象条件を実況してくれるスタッフも欲しい………そんな俺では話が通じるとは思えない


「変な事の意味分かってる?」


「分かってるよ、セックスすんなって意味……」


「言うな!馬鹿」


「ハハ………そんな心配すんなよ、行くぞ?いい?」


「お前が用事あるなら行くしかないだろ」


こんなにも言いなりって……度を過ぎる密着度なんだからそれはそうだけど、ヒラヒラ振り回されて強引な彼氏に連れ回されているみたいだ






「麦って奴……も大学生?どんな知り合いなんだ?」


「麦はあのライブハウスで管理人してる……んだと思う、ハハッあんまり知らないんだけどさ、バンドやらないかって誘われて何年か前からチョコチョコライブやったりしてるだけだよ」


「付き合ってる…んだろ?」


「違うよ……それはもういいから、取り敢えず黙ってろ」


スタンドのないロードバイクを電柱に向って投げるようにガンっと立てかけ暗い階段を駆け下りた、廊下の先には50人も入れば満杯になりそうな小さなホールが見える、前に来た事のある控室を通り過ぎて奥のオフィシャルと書かれた汚いドアのノブに手をかけた



「瑞希?!………どうしたんだ?今日はライブ入ってるから練習は出来ないぞ」


「麦……いてくれて良かった、午前中に出勤してるなんて真面目にやってるんだな」


「ムギじゃなくてバクって呼べよ」


事務机に座っていた"麦"が立ち上がるとウッと気圧された


瑞希の目線から見ると麦は意外とでかい


黒いランニングに細いパンツ、ゴツいミリタリーブーツは、いかにもバンドをやっていそうな鉄板の服装をしていた




麦夫むぎおのくせに何言ってる、俺週末のライブ出ないからそれを言いに来ただけ」


「は?何言ってるはお前だろ、もう瑞希の曲やるって宣伝したから前売りは殆ど捌けてんだぞ」


「そんなのいいじゃん、どうせ何組か出るんだから影響ないって」


「影響ないわけ無いだろ、何だよ理由を言えよ」


「理由は何でもいいだろ、歌いたくない時は歌わない」


「瑞希……」


麦は困った顔をしてポリポリ頭を掻いたがどうしてかあまり強く言わない、傍から見ていると我儘を言う瑞希に振り回されるのは慣れている様子だった



「……それってどういう事なんだ……」


「隆也は黙ってろ」


思わず口を出すと瑞希が口の中だけでモゴモゴ止めた

その小さなやり取りが聞こえたのだろう、麦は眉を釣り上げ高い位置から肩にドンッと手が置かれた


「隆也?まさかまた隆也か!誰なんだよそいつ!俺が1回話つけてやる!鳥取の次は広島か?岐阜か?隆也のせいでメジャー振っといていい加減にしろよ!」


「誰でもいいだろ、麦には関係ない」


「お前の作る曲は演奏が難しくて隆弘も俺も滅茶苦茶頑張って練習してるんだ、関係ないはないだろ!真面目にやってくれよ!俺達は本気なんだよ」


「本気なら自分でやればいい、俺に構うなよ」


「俺達はいいんだよ!どうせお前には追いつけない!瑞希を送り出したいんだ!勿体無いんだよ、こんな所で!」


「俺は別に売れたいなんて思ってな………わっ」



瑞希の腕を掴んで後ろに押しやるように前に出た




「約束は守ります、ちゃんとライブ?………かなんか知らないけど出るから、麦さん、すいません言い方悪くて」


「へ?……何言ってんの?…瑞希…お前昨日から何か変だぞ?」


瑞希が暴れたが押さえ込み放り出した

事情は分からないがどうやら無関係ではない、瑞希はライブに出られないじゃなくて出ないと勝手に決めたようだった


「変な事言ってすいません、ちゃんと出ますから」


「疲れてんの?だからちゃんと食えって言ってるだろ、いい加減あのボロいアパート出て俺の所に来いよ、学校とバイト詰め込んで無理しすぎなんだよ」



「来いって…………来いって?」


「お前の面倒くらい俺が見てやるって何回も………瑞希?」


来いって、「遊びにおいで」じゃないよな?

一緒に暮らそうって事だよな?


瑞希の奴……付き合ってないなんて言いやがって……麦はバッチリカップルのつもりじゃないか


「あのあのあのさ、その話は後日ちゃんと話し合って……だな、取り敢えずライブには出るから!」


「話し合うって………なんかやっぱり変だぞ?」


「アハハ………ちょっと色々あってさ」


「………隆也様ってな…何ハイになってんだよ……明るいお前なんて珍しい、気持ち悪いぞ、ちゃんと歌ってくれるならいいけどさ…」


人の色恋には口出せないが雰囲気盛り上がっても困る!ここは逃げなきゃこの密室で変な事が始まっても押しのけた瑞希の戻し方もわからないし、また叩きのめしてしまってもマズい




「じゃあ俺帰るから」


「あっ!瑞希!土曜は五時にスタジオに入れよ」


「え?あ………うん……分かりました」


まだ背中から麦の声が聞こえたが瑞希の圧が高くなってぎゅうぎゅう押し合いになり、事務所を飛び出て階段を駆け上がった、気を抜くとすぐに瑞希がニョキッと顔を出した



「勝手な事すんなよ、どうなっても知らないからな!俺は制御出来ないぞ?」


「約束したんなら守れよ、人に迷惑かけんな、それに何だよ俺って何なの?俺のせいでメジャー捨てたってどういう意味?」


「どうって…………隆也が…勝つから……」



「え?………勝つって…………まさか麦が言ってた鳥取って………まさか………試合の………事?


年明けに行われた空手の県大会に勝ち残り、全国大会は一ヵ月後に鳥取で開催された、行ってすぐに年下の原田に負け、予約していたホテルはキャンセルしてその日に帰ってきた


原田は段位も下で空手を初めてそんなに長くないのにあっと言う間に追い付いてきて…………追い抜かれた


惨めで悔しくて……その日から道場に顔を出していない



「ハハッ………一月の大会で終わりだと思ってたら続きがあって………」


「俺が勝ち残ったから全国大会まで見に………来たって事?」


 

「………………ああ恥ずかしい………」


そこまで?


空手の試合を見に来たとは聞いていたがそこまでしているなんて知らなかった




麦の奴………とブツブツ文句を言いながらも瑞希は背中を向けている


「瑞希………ちゃんと言ってくれよ、メジャーって何?大切な事じゃなかったのかよ」


「違うよ、なんかプロデュースしてやるって変な奴に追い回されてて迷惑してたんだ、ライブの後に話をしようって押し込まれて……逃げただけ………」


「それってCD出したりテレビで歌ったりって事?」


「さあ?聞いてないから分からない、どっちみちそこまでやる気ないし俺なんかに出来ないよ」


「でも麦さんは勿体無いって……」


「麦の言う事は身内の欲目だろ、他のバンドの奴らだって自分が一番だって思ってんじゃないの?上にいる奴らは特別なんだよ、俺達のレベルでどうこうならないよ」



「あのさ…………俺…………」


何故そこまで好いてくれるのか知らないが答え方も知らないし心の中には異常に高い壁がある


答えてくれと要求してはこないが昨日の事もある 


ここでハッキリさせた方がいいとは思うが言いかけて言葉を飲んだ


「隆也……気にしないでいいよ…」


「瑞希……」


メジャーの事か………もしかしてまた心の声を聞かれてしまったのか分からないが瑞希は困ったように笑った






「それよりさ、俺はせっかく隆也がここにいるんだからやってみたい事があるだけど付き合ってよ」


「え?え?何?怖いんだけど」


「隆也なら怖くないよ」



そう言って引っ張られて行ったのはビルとビルの隙間に立つ平屋に一間しかない粗末なプレハブだった

外から丸見えのサッシに通常の民間と同じくらいの低い天井、ビニールの床材が貼られただけのどうやら空手の道場…………まあ、ボロいが本山以外どこもこんなものだ


仕事を引退した後の道楽なのだろうか初老のおっちゃんがどうやら師範らしく瑞希を見て驚いた


「葉山君…………どうした珍しいな」


「今週末試合あるでしょう?今からエントリーしてもいいかな?」


「え?何言っての?お前………」


「こら!喋んな」



「なんだ一人でブツブツと……お前稽古にも顔出さないくせに試合なんて言い出してどうしたんだ、それにお前初めてだろう?今どき小学生でも強いぞ」


「いいんだよ」


「瑞希!やめろよ!」


「こら………抵抗すんよ……」


グググっと腕の掴み合いになり、紙に向かってウロウロする腕に師範の目が吸い寄せられハッと手を引いた


試合に出るって……無理だと思う


団体に所属して、大会によるが段位を持っていないと無関係な奴が興味本位で参加出来るものではない、瑞希が名前を書こうとした申込書には4級から茶帯の一級までとある、今から入会しても白帯では出られない


しかも日付はライブに出ると約束した日だった



「葉山君は痛いから嫌なんじゃなかったのか?小学生に負けるぞ」


「うるさいな、俺勝つから……見てろよ」


「え?……」


……………つまり試合に出るのは瑞希じゃなくて俺って事?しかも帯は緑って初心者とほぼ変わらない


参加費3000円を投げ出し、ポイッとボーペンを投げて瑞希は道場を出てしまった



「ちょっと待てよ、お前空手やってんの?」


「隆也の真似して入会したけど子供とかさ、稽古の時手加減しないだろ?痛くて殆ど来てない、隆也なら勝てるだろ」


「お前な………それ卑怯だろ」


「ライブに出る代わりにご褒美くれよ、こんなチャンスないだろ?1回くらい勝ちたい………駄目?」


「駄目って………うーん」


やけに甘えた声で………つくづく卑怯だ……


空手の段位はただ強ければ上がるわけではない

あまり知られていないが空手の昇級には筆記もあり、型を覚えて精神的に的確と認められる審査に通る必要がある


反対に言えば弱くても続けていればある程度までは段位が上がる筈だが緑帯って事は始めたばかりか昇段試験を受けていないか………幽霊会員……




「ある程度まで勝ったら途中で棄権するぞ?」


「いいの?やった!」


フルに叩きこんだりは出来ないが低段者の大会は舐めているととんでもなく強い奴もいる、大人がちんまりした小学生にボコられるなんて日常茶飯事だ、卑怯と言っだが体は瑞希…………ちょっとワクワクした


「面白そうだな」


「だろ?」


シュッと繰り出された正拳突きは遅くて弱い、拳が身体に戻る間に脇をやられる


「調子にのんな、瑞希の体じゃ一発食らったらアウトだろ、拳も首も出来てない」


「当てないでよ、痛いの嫌い」


「向いてないんだよ」


「だから行ってないじゃないか」


瑞希は約束のご飯を食べに行こうと笑いながら立ち食い蕎麦のチェーンに入って行った


約束だからと瑞希は引っこんでしまい、券売機でいつもの量から半分を目安に蕎麦とオニギリ……考えた末に煮卵だけにしたが勢いで蕎麦を食べた後オニギリの一個目目で気持ち悪くなってきた




「ほら………言ったろ………」


「ほんとひ弱だな……うう…あと一口が食べられない」


「バイトがあるんだからその一口は諦めてくれ」


「勿体無い………」


諦めるも何も、まだイメージとしては前菜を食べただけの筈が皿に残ったオニギリの欠片がどうしても口に運べない、こんなちょびっとだけ残すのも気持ち悪いがどうしょうもなくお箸を置いた


「バイトって何やってんの?」


「今日はラーメン屋………夕方から二時まで」


「出来そうなら俺がやるよ、お前は休んでろ」


「半分こしよう」


速く口に運び過ぎたせいか悲鳴を上げた胃の中を整理する為、駅前にある噴水前のベンチに寝転がり空を見上げた


雲ひとつない晴天は綺麗な飛行機雲を伸ばし手で掴めそうだった


「なあ………隆也はどうして空手始めたの?」


「どうしてって………俺には兄貴がいてさ……」


「へぇ知らなかった、兄弟がいるんだ、お兄ちゃんについてったのか」


「違う……俺の兄貴は………」



五つ離れた兄は何をやらせても飛び抜けて優秀だが今思えば何かが欠けていた


一緒に花火をすると意図的に押し付けられた火のついた先っぽが腕を焦がし、母親のピアノに手を置くと明らかに指を狙って蓋が閉められた


砕けた小さな小指の骨は未だに少し変形している


あいつはSだ、なんて流行り言葉で笑えないサディスティックな一面を持ち、それは殆ど幼く弱い弟に向けられていた


頭がよく、周りの評価も高かった兄のやり方は巧妙でイジメを通り越した虐待はチマチマと続き、二人きりになる事からずっと逃げ回っていた


誰にも言えず、誰かに助けを求めるなんて考えついていなかったが、兄の気質に気付いていたのだろう、母親が一線を越える手前で止めた


目に向けられたハサミは目前まで迫り、もう駄目かなと諦めかけると母親が飛び込んできて兄を外に叩き出した


兄は寄宿舎のある高校に進みそれ以降家には戻っていない




「強くなりなさいって、母親がさ………」


「それさ……強く……の意味違わない?」


「格闘だけじゃなくて自信とか精神鍛錬とかも鍛えられる、お前も真面目に通ってみろ、あれくらいのオニギリ食えるようにはなるぞ」


「…………だからかな………隆也は優しくて大きいよね」


「普通だよ、瑞希は?お前ボーカルなんだろ?なんで音楽始めたんだ?」


「俺の家は普通だし暇だからパソコンで音楽作って歌を吹き込んだだけ………野望も背景もないよ………ただ……」


……………届くかなって…………




瑞希が声にしたのかどうかわからなかった


わからなかったが言いたい事は伝わった、あんまりはっきり告白とかされても困る……逃げ場もなければ誤魔化す事も難しい


慌てて話題を変えた


「俺さ…………実はここ最近……何してたのかとか、ぼんやりして分からないんだ、お前何か知ってる?」


「覚えてるじゃん、鳥取行ったのこの春だろ?」


「うん………そうなんだけど大学行ってんのか働いてんのかその辺が………」


「まあ戻れなかったらずっとここにいればいいじゃん、俺は楽しいよ」


「うん、俺も楽しいよ」


「え?…………」



「へ?あれ?瑞…………希?」




ブワッと青空が消えて真っ暗になった

 

「わあ!!何?!また?!」


「隆也!」


ドスッと結構な質量の体当たりに尻餅を付いて、気が付くと瑞希が腹に巻き付いていた


「ほんとに?ほんとに楽しい?!俺といるの嫌じゃない?」


「こら!おい!落ち着け!瑞希!」


グリグリと腹に鼻を押しつけて顔を埋めるのはいいが、この足で足を束ねる拘束技はなんだ


「こんなに近くに隆也がいる、匂いもするもする、触れる」


「おい瑞希………」


押し倒されてキスをされた経験に背中をつける事が出ない、片腕で瑞希を牽制して、もう片腕で体を支え踏ん張っていると、腕の中で暴れまわっていた瑞希がピタリと揺きを止めた


「瑞希?」



「………………こうして………隆也を………誰にも見せないで、触らせないで…俺だけ知ってる場所に繋いで閉じ込めておける」


腹に顔を埋めたままボソリと呟かれた低い囁きに背中がぞくりと冷たくなった


これは………知っている感覚だった




兄のせいか、人の心に黒く湿った感情が見えるとそれが気のせいであっても体が引ける


「なんてね………」


「…っ!……」


ピョコッと顔を上げて屈託なく笑われても生まれてしまった小さな恐怖心で小さい頃からの癖が出そうになった


そんなに深刻でもないがくっと何かが喉に詰まって声が出なくなる、軽いPTSD、心的外傷後ストレス障害だと二三回通った心療内科で言われた


それは空手の段位が上がるごとに収まり最近では全く覚えもない


「瑞…………希、やっぱりお前がこの状況………」


「俺は宇宙人でもエイリアンでも呪術師でもない、ほんとにどうなってんのか分からないのは隆也と同じだよ」 


瑞希が眉を寄せるとフッと青空が戻って来た

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