第3話
何をするにも心の準備が必要な道則は、家を出てからの五時間全てを費やし、ようやく点いた火の勢いそのままに実家の前に着いた。しかし彼は実家の鍵を持って出ることを忘れた事に気付き、精神の躓きを覚えた。明日の朝六時に起きようと思えば目覚ましよりも早くその時間に起きれるし、これをしようと考えた事柄は忘れる前にやっておこうということはなく、しなければならない時に思い出す自信があった彼にとってこれは珍しいことだった。それ程までにこの帰省は思考を圧迫していたのか、と我ながら気の弱さに自嘲した。玄関前でまごついていると、家の脇にある物置から不愉快な音を立てて、父親である倫典が姿を現した。そういえば物置は父のアトリエに改造されていたなと思い出した。倫典の倫の字には人としての道という意味があり、その道に則るということで自分の名前になったらしい。結局その道にはいられないと感じている道則は、気持ちを準備して来たはずではあったが、実際その時が現実になるとその名を持つ父に怖気付いていることを自覚していた。
「おう、帰ったか。このまま病院行くぞ」と父は低い声で意味不明なことをいった。
「佐藤の奥さんが亡くなったって」
一体どうして、と思ったところで義母には心臓に持病があったことを思い出した。きっとそういうことなのだろうと合点した。その時玄関から母親が出てきた。
「あら、今着いたの。美和子ちゃんからもう聞いた?」
「え?」
スマホを確認しても連絡はなかった。別れ話をした以上言いづらいのかも知れない。
「いや、もうおれが実家にいると思ったんじゃないか?」と答えたところで、義母が亡くなったことはもう父から聞いて知っていたので、母に聞かれたとき聞いたと即答するべきだったと思った。なぜおれは今更妻との不調和を隠そうとしているのか。
道則は父の車の助手席に座り、母は後部座席に座った。父の運転する車に乗るのは久しぶりだった。不幸が起きたばかりだからか、車内は記憶にない雰囲気に包まれ、それは彼だけが感じたことではないようで、しばらくは会話がなかった。
「人はいつか死んじゃうから仕方ないことだけど、丁度帰って来てて良かったね。仕事は数日休んで来たんでしょ?」と母が言った。良かったという言葉を使うのはどうかと思ったが、言いたいことは分かったし、別の言い方も思いつかない。本当は今日一日しか休みを取っていなかったが、あぁと答えた。どうにでもなるだろう。
「あぶない!」母が甲高い声で叫んだ。
歩道を走っていた自転車が、道路を横断するわけでもなく車道に出てきたのだった。
「大丈夫だよ」と父がまたか、といった風に答えた。
「大丈夫じゃないでしょうよ。ちゃんと前見ないからいつも」
道則は視界の端で自転車の挙動を見ただけでだった。最初から全てを見ていれば母が言うように父の不注意なのかも知れないが、彼は心情的に父の味方をする気でいた。
「この町は昔から自転車マナー悪いだろ」
「そうだけど、ちゃんと注意しないと」
都会でもビニール傘は盗み盗まれるの繰り返しの結果、最早それは公共の物であり皆の共有物だと考える者がいるそうだが、この町では自転車もそうであった。とは言っても事故を起こして警察を呼んだとき、その自転車が盗難物だと警察に知られるのはまずいのだと思う。よって自転車を轢いてしまっても大袈裟な事態にもならないし、自転車が壊れてもまた調達するのだろう。そのような事情もあるのだが、母は何時も隙を見つけては父を悪者にしようとしているように道則には思えた。その度に父は一言程度、しかも反論と言えるのかも曖昧な返事をしていた。仕事を引退し、家庭内で母からは責められ、姉からは不干渉を決め込まれているこの男が、どうやって孤独に耐えているのか謎だった。元来独りな訳でも、仲の良い人はいるが彼らは自分を真に理解しているわけでもない、というような孤独ではなく、本来味方であるべき家族から拒絶されるという積極的な孤独だった。道則自身も孤独な性質であって、男とはそう言うものだという理解があった。その孤独な時間を使って思索に集中することにより、偉大な仕事というものがなされるのだと考えた。道則の持つ知識や思想も、偉大な仕事とはいかないが、そのような仕方で得られたかけがえのないもので、それ以外の道はないし、やり直せるとしてもごめんだった。孤独にはこのような効能があったが、孤独はいつも隙間風のようなものだった。隙間風の不愉快さというものも、それが気にならないくらいに集中する必要がある、というある種の物差しのような機能を持つことがある。集中は孤独の苦痛から逃れる為にせざるを得ない事だった。しかし父の被っているものは隙間風など生温いものではなく冷水をあびせられているようなものだった。それでは逃避のための集中への導入も妨げられるだろう。道則からすれば気が狂うような状況に耐えている父を彼は一目置いていた。道則はダメ元で噛み付いて歯が欠けるの繰り返しを選択し、父とは違う道を選んできたつもりなのだが、同性では最も自分に似ている人物だという安らぎがあった。
病院に着き、エントランスを進む。義父は地下の霊安室の前に居るということだった。その時ラウンジに妻の美和子と義弟の裕之を見かけたので両親に先に行かせ、二人のもとに向かった。背を向けて椅子に座っていた美和子よりも、向かいに座っていた裕之の方が先に道則に気付き、目を見開いて立ち上がった。その様子を見て美和子は振り返った。美和子が何か言うよりも先に裕之が大声を出した。
「おい!お前!ちょっとこっち来い!」
道則は歩みを止めず、立ち上がった美和子の肩を抑えて暗に待っていろという意味を込め、そのまま義弟について行った。通路を進み角を曲がって美和子に見えない位置に来ると、裕之は怒りを込めて話し始めた。
「姉ちゃんに何言ったんだよ。帰ってきて泣いてたんだぞ」
道則は病院に来るまでに最も心配していた問題、どういう顔をして義父に会えばいいのかということが解決したと安心した。どうやら離婚するということを美和子はまだ話していないようだった。
「おい、なんとか言えよ!」
この義弟は何かと姉である美和子の事になると煩かった。確か亡くなった義母と美和子は血が繋がっているが、こいつは義母の再婚相手である義父の連れ子だった。ある日美和子が旅行のパンフレットを見ていた。新婚旅行は行っていなかったので、行きたいなら行こうと提案した。結婚後数年で新婚旅行と言うのは小っ恥ずかしかったので二人での家族旅行という体で話を進めていると、この義弟は姉から聞いて、おれは家族じゃないのか、と大学生にもなって泣いて暴れたと言うので、結局旅行に連れて行ったことがあった。
「お前、本当に気持ち悪いよ」とおれは軽蔑を込めて言い放った。
「な、なぃがだよ!」
どこがどう気持ち悪いのかは説明しない方が効果的だと判断して道則はその場を去った。思い当たる節があるから口籠るのだろう。曖昧な言葉で的確に指摘することが出来たと満足した。
美和子の所に戻り左隣の席に座って、太腿で両肘を支え指を組んだ。
「大丈夫か?」と右後ろを振り返る形で聞いた。
「……わからない」
「何があったの?」
「一昨日救急車で運ばれて、今日悪化して……」
「そう……」
どのようにしたい話に持って行こうかしばらく悩んだ末、そのまま切り出すことにした。
「まだ言ってないの」
「……」
「いや、いいんだよ。今は」
この先美和子はどう生きていくのだろうと考えた。道則の目からは義父は、美和子にとっても義父なのだが、彼女と仲が良いとは思えなかった。虐待こそないけれど、特に関心もないように思えた。実家にいて肩身の狭い思いをするのではないだろうか。
「お義父さんのとこに行くよ。来る?」と言って立ち上がると美和子もまた立ち上がった。
霊安室の前にはある程度の空間があり、テーブルと椅子がいくつか配置されていて、奥の方に皆集まっていた。
「お悔やみ申し上げます」と義父に話しかけた。
「おお、いやいや、恐れ入ります」と以前通りの快活な調子で、思ったより堪えてなさそうだった。
「道則くんに色々聞こうと思ってたんだけど、ここは病院に葬儀社が常駐しているんだね。ここの人に頼んで良いものかね」
「ちょっと待ってください」
その場を離れ、少し離れた所にいた葬儀屋風の男に声をかけた。
「救成会の葬儀は経験ありますか」
「はい、承っております」
「どうも」
義父のもとに戻り、多少騙すような心持ちで、
「まぁ値段は少し張りますが、他の救成会と摩擦が起きない所を探すよりは良いと思います。時間がかかりますので」と言った。
「そうか」決定したようだった。
「では皆さん、通夜は翌日、葬儀は分かり次第連絡致します。今日は和子のために来てくださってありがとうございました」
親戚一同の隣のテーブルに付いていた五十代から六十代の婦人二人も礼をして、初めてこの二人も関係があることを知った。おそらく義母の友人で救成会の会員だろう。解散というところでもう一度義父に声をかけた。
「あの、今日美和子を借りて良いですか」
「もちろん、夫婦だろう。今回はどうしたんだい。喧嘩でもしたか? 珍しい。君も帰って来てたんだね。忙しいとこ悪いね」
どれについて答えたら良いものか分からなかった。
「えぇ、まぁ、ともかく明日二人で伺いますので、それでは」
「わかった」
両親は先に上の階に上がっていたようだが、美和子は少し離れたところで待っていた。
「少し話そう。ホテルとるから」
「はい」
一階に着き、両親にその旨を話した。
「それにしてもあんた、見るたびに痩せてるねぇ。ちゃんと食べてるの」という母の台詞の中に、美和子を非難するような意味が含まれている気がした。
「あぁ」
実際は美和子がある日菜食主義に目覚め、食事は全て肉抜きにしたいと言い出したので、道則自身付き合いの焼肉以外では殆ど菜食主義といっても良かった。珍しく美和子がやりたいと主張した意見であるし、菜食主義の何たるかを二人でセミナーに参加し知った結果、道則はそれに賛同した。それにしても世の母親は嫁に厳しいという話は聞くが、道則と母は性格的に全く合わないといって差し違えなく、昔から口こそ出せど行為で干渉してこなかったので、息子を取られた嫉妬で、という理由は考えにくかった。もしかしたら母が父に厳しい理由と同じかもしれない。美和子ニアリーイコール倫典という図式が道則の頭に浮かんだ。
「とにかく、おれらはタクシー拾うからここで」
「わかった。喪服あるの?」
「明日買う。丁度新調しておきたかったし」
父と母が潤滑油である道則抜きで帰るのは危険な気がしたが、彼らも夫婦であると思い直して病院を出た。辺りはもう日が落ちかけていた。
「仕事はいいの?」タクシーで市の駅前のホテルに向かう途中で美和子が口を開いた。
「あとで連絡しておくよ。どうでもいい」
車内でホテルに着いて何を話すか考える予定だったが実際何も考えていなかった。仕事のことを聞かれ、今回なぜ地元に帰ってきたのか両親にいずれ説明する必要があることを思い出した。
「親には本当に何も話してないの?」
「お母さんには別れるかもって少し話したけど、誰にも言わないでって言ったから、お母さんしか知らないと思う」
駅前に到着して、コンビニで下着とビール、あと強い酒をとウォッカを買った。美和子はサラダ等を選んでいた。そんなに飲んで明日大丈夫なのと聞かれたが、水を沢山飲めば大丈夫と答えた。
ホテルの部屋に入り、二人して窓際のテーブルに付いた。窓からはそこそこの夜景が見える。道則はすぐさまビール三五缶を一本開けて飲み干した。仕事柄急な呼び出しがあるので、真面目な人以外は滅多に飲めなかった。
「お義母さん残念だったね」
「うん」
彼は義母に気に入られていたという自覚があった。実母からは愛されてはいるのだろうが好かれてはいない気がしていたが、義母からは娘である美和子に比べれば愛されてはいないのだろうが好かれてはいた。生理的に嫌悪している人をも人は愛せる。純粋な愛というものは本来そういう性質であって、好き嫌いとは関係のない概念であるから、嫌いに愛を重ねるということは可能であると考えた。
「どうして私と結婚したの?」
どうして私と離婚するの、という質問ではなかったことに驚いた。そもそも結婚しなければこんなに苦しむ事はなかったという非難なのか。
「可哀想だったから」ウォッカを一口ラッパ飲みして水を飲んだ。
「あの時お前の周りにいた女連中は恋愛に躍起になっていた。そこでお前がいち早く結婚すれば何か変わると思っていた」
タバコに火を点けて箱とライターを彼女の方に差し出した。彼女もビールを開けていた。彼女に酒とタバコを教えたのはおれで、健康に悪いことは認めるがそれが悪であるかどうかは曖昧にしていた。彼女にとっては分からないが、おれにとってはそれらは必要なもので、瞑想であり、儀式ですらあった。
「それに、お前はおれに似ている。一緒にいる時が一番気楽だよ。そこが結婚した理由だし離婚を考えた理由だわ。ぬるま湯に浸かっているのはどうかと思った。けどおれが間違ってたよ。おれとお前は違う人間だ。思い込みばかりでちゃんと向き合っていなかった。今からはちゃんと向き合うよ」
「私はどうしたら……」
「許して欲しい。どうしたい?」
彼女はタバコを咥えたままおれの横に来て、煙をおれの顔に吹き付けた。
「許します」
そう言って笑った彼女が可笑しくなっておれも声を出して笑った。こうして夫婦の離婚騒ぎは終わった。
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