第2話

コバルトブルーとコバルトグリーン、ジンクホワイトを少量パレットに移し、溶き油をふんだんに使って静脈の色を再現していきましょうか。まぁこんなもんだろうと出来た色をキャンバスに置いていきます。この上から薄く溶いた肌の色を重ねていくわけですな。こういう物事の背後にあるものを、他人に伝わるかは分からないのだけど、自己満足で、兎も角それが在るということ、それを表現していくという作業はぼくの性に合いますね。今描いている老人、まぁぼくなんですけどね、彼の年季というんですか、経験してきた苦労、そういうものを次々と重ねて描いていこうと思うんです。背景の青空なんて、もう宇宙背景輻射まで想像して描いておりますからね、宇宙ですよ! ビッグバンの残り香、世界の歴史に思いを馳せる……少しやりすぎな気がしてきました。思えば写実的な絵画というものは感慨深いものですな。というのも、つまり光を描いているわけでしょう。光は干渉や回折をする。これは波の性質ですよ。色んな波長の光が混ざれば白くなるし、何か壁があっても回り込んで来る。そんなものを絵の具で表現するっていうんだから大変ですわ。と言ってもですよ、波ってのは結構弱いんでね、光が波だとすると、夜空の星なんて全然見えないんですね。朝永さんが言ってました。あんなに遠くにある火の玉の光なんてね、目がそれを感じるくらいの光が集まるのに一体何年かかるか! 一生かかっても見えません! そいつは困りますわな。ロマンチックのカケラもない! でまぁ結局光は粒子性も持つ、ということなんですよ。粒子が波より強いのは揺らされるのと殴られるのはどっちが痛いか、ということですね。光が粒子ならとにかく届きさえすればまま効果ありということで。そんな粒子としての光を最も上手く表現した画家は、ぼくの意見ではフェルメールだね。彼の作品は隅々まで光が行き届いていて、全体としては脇に追いやられている物体も、目を向けさえすれば確かな存在感がある。しかし! ぼくのやろうとしている事はもっと現代的な光の理解に基づくものだ。それは人類が手にした中で最も完成された物理学理論である量子電磁力学によって明らかにされた。粒子でもあり波でもあるなんていう明らかな矛盾。結局粒子でも波でもない、量子と名付けられたその≪もの≫は場として理解される。絵の中のある一部が、絵全体に行き渡っている、そんなものを描きたいのだ。素粒子に個性はない。絵の中のぼくはその世界そのものだ。量子というのは不思議なことにどんな所にも存在し得る、そんな確率振幅があると考えて上手くいくのだ。まぁ尤も、目に見えるような大きなサイズではそんな量子効果なんて小さ過ぎて、つまり今まで通りということなんだけど……。となるとぼくの絵は完全には写実的ではないということだ。しかし現実の世界の本質、背後にあるもの、それに対する純粋な認識は、その作品に確かに内在している筈で、あとはどれだけ根気を詰めて作品に向き合えるかにかかっている。それに関しては定年後の二年間で、毎朝八時に起きてゆっくり新聞を読みながら朝食を取り、九時にアトリエでキャンバスの前に座るという習慣を身に付けることが出来たから、大丈夫でしょう。と言っても、こう内観ばかりしていると時間ばかり経って筆は全然進まなかったりしますが、時間は多分にあるのでね……。

そろそろ疲れたので少し散歩に行きますか。もうお昼ですか、早いですね。この時間にリビングでぶらぶらしているとお母さんに色々と文句を言われますんで、外に行かないと。まぁ昼食抜きの一日二食も慣れるもんですな。これも習慣の力なのでしょう。やれやれ、この引き戸は開ける時に変な大きな音がして毎度苛々してしまうのですが、いつか直さないと、と思いつつそのままですな。あれ、雨の音が止んだのでもう降ってないと思ったのですが、ちらほらとまだ降ってますね、まぁ暫くすれば止むでしょう、このまま出ますか。我が家は住宅街にあると言っても少し歩けば直ぐに自然が現れて、散歩に飽きませんな。ありふれた風景ではありますがね、そういうものもフェルメールやロイスダールなんかが描けば立派なものになる。つまり彼らはこういう風景を通して、日常生活の雑踏、面倒ごとから解放されて穏やかな心境に至ったわけで、こういう風景から何も感じない凡人は彼らの作品を通してやっとそれを体験できる可能性の切れ端に触れられるのだね。ぼくが現代アートを好かん理由はその辺にあるかもしれないね。コンセプトやらコンテキストやらいうけども、そんなものこの馬鹿でかい空間にポツンと浮かぶ岩の塊の、表面にへばりつく肉塊が内輪で驚かし大会を開催しているだけで、世界の本質に目を向けてない。結局世界を直観出来ないから、自分達が理解できる偽のイデアを捏造しているのだ。といってもその模造品も、分かる人には分かると悦に浸ったり、全然どうでも良いことを分かったふりし合ったり、実は意味はないのだと逆張りしたり、鑑賞者の想像力に任せる(つまりまた捏造が起きるのだが)ことに使われるのでしょう。と妄想してみたが、そもそもぼくは現代アートに詳しくないので偏見でしかないし、ぼくのやっていることも芸術に興味がない人からすれば同じように感じるだろう。いや、ぼくが世界を純粋に認識し、表現しようとしているその態度は崇高なものだという自負と言い訳があるのだけど。と、思ったところで家に帰って来てしまった。景色を見た記憶が殆どないし、いつのまにか雨が止んでいた事にも気づかなかったなぁ。まぁ、ぼくもまだまだ精進せねば、ということで。

今日は息子が突然帰ってくるという話だったなぁ。いやぁ、あの子にはいつも驚かされる。あの子はついぞ友達を一人も家に呼んだことはなかったが、一人女の子を連れてきたと思ったら結婚すると言うのだから。今度は子供が出来たという話だろうか。ぼくは子供を教育する職に長年就いていたにも関わらず、良い父親であったかと言われれば自信がない。ずっと若い年齢の人たちに囲まれて生きてきたわけで、ぼく自身ずっと子供だったのかも知れん。あの子に絵を教えたとき、あの子があまりに上手く、子供に似つかわしくないほどの絵を描くもんだからあれやこれやと悪い点を批判すると、ぼくに向かって無言で筆を投げつけて部屋を出て行ったことがあったっけ。あれは大人気なかったと今になって思うし、あれっきりあの子は絵を描かなくなってしまって後悔がありますな。そんなぼくに育てられたにも関わらず、あの子は奇跡のように、正義感の強い良い子に育って驚いたね。何やらいじめっ子からいじめられっ子を庇って殴り合いの喧嘩をした挙句、いじめっ子は鼻血が出たとかで担任の先生は事を大きく見て喧嘩両成敗ということにするし、お母さんはいじめっ子の家に謝りに行ってこいと言った事件があったっけ。結局ぼくと二人で謝りに行くフリをして外食したのは良い思い出ですな。まぁお姉ちゃんのほうは少し素行が悪かったけども。父親は不条理に娘に嫌われ、母親は無批判に娘の味方をするということでしょうか。まだお姉ちゃんが小さかった頃は好かれていたと思うのだけど……。思えばお姉ちゃんを溺愛していた様子が、息子の方に不公平を感じさせて幼いながらぼくに一線を引くようになったのかも知れん。簡潔な意見の交換はあっても、日常的な雑談は全くない。それにお姉ちゃんの方もぼくのその干渉がしつこかった結果嫌われたのかも知れん……。

これ以上この事を考えると気分が悪くなるので、絵の続きを描きながら息子の帰宅を待ちますか。人物の側に川でも描こうか。水面に映る緑や日光の強い反射は絵をより美しくするだろうし。いや、作品の出来のためにこんなに都合よく追加して良いものでしょうか。人間がものを作ろうとすると直ぐに意味をそこに入れようとしてしまうし、偶然を作ろうとした中にも意味が入ってしまう。人間は意味が好きで生きる事にも意味を見つけたがる。これは人間に主観があるからだろうね。あんまり主観的なもんだから、生まれた年で性格が決まると思ったり、因果応報やハッピーエンドを期待するんでしょう。世界の法則が自分と関係があると思っている。自分自身から離れて客観的に世界を認識しようと努めると、この世に意味なんて全然無い、という考えが正しいように思えてくる。いや、勿論人間である以上、主観と客観は切っても切れない関係にあるわけで、そんな考えはぼくでも恐ろしいのだけど、寧ろだからこそ世界は素晴らしいのではあるまいか? 神様の作るアートには意味が介在しないから自然は素晴らしく、だから神様はえらい。神様が気を利かせて人間を贔屓しようものなら意味が入ってしまってダメなのだ。そんな考えをしているから、ぼくが無神論者なのか有神論者なのかは、微妙な問題だね。神様がいるのかいないのかは、ドーナツに穴はあるのかという表現の話になってしまう。穴という≪無いということ≫をあると表現するような。ドーナツには穴に向かう方の円と穴の周りの円の二つがあるわけだけど、穴に向かう人、つまり神を求める人はぐるっと回って気づいたら穴から遠い位置に来てしまう。そりゃあ失望しますわな。こういう仕組みだと思うから、ずっと神様を信じてますという人はぼくの中では怪しくて、信仰心がある善い人という体面のためか狂信者に思える。真に神と関わりのある人は無神論と有神論を繰り返す苦悩の多い人生を歩む事になるでしょう。穴の周りの円を回る人は生まれて死ぬまで大した変化もない生き方でしょうな。神なんて問題に真剣に悩んだことがない。まぁそういう人間の認識の外側にあるような問題だから考えるだけ損だ、という効率的な考えもありでしょう。でもそういう問題を考えてしまうのが人間性ってもんでしょうとぼくは思うのですね。とは言ってもぼくは寺の息子なので神を考える必要もなかったりするのだけど。ん、メールが来ていた。息子があと十五分程で帰るらしいというのが十分前で、もう一つ、お母さんから佐藤の奥さんが亡くなった、道則が帰って来たら病院に行くから支度して。なんと!どうやら忙しくなりそうです……。

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