永遠の罪

りんたろう

第1話

世界には悪が存在し、悪業を行い他人に害を与える者と、害を被る者がいる。しかしこの双方は、この認識に至るのは稀であるが、ただ一つの「世界の罪」に端を発する異なる二つの側面であり、両者は「世界の正義」によって等しく罰せられるのである。

小野道則は自身の行った幾つかの悪事を思い出しながら電車に揺られていた。悪事とは言っても彼は警察の厄介になったことがある訳ではなく、誰もが経験あるような些細な事に過ぎないかもしれない。実際、彼は自分の選択に罪悪感を憶えているわけではなく、ただそれらは自分の本質から流れ出た必然的な結果であると認識していた。それでも今彼が回想しているのは、それらが他人の前にさらけ出された際には非難されるべきものであり、彼はその内の一つを他人に告白すべく電車に乗っているからである。

しばらくすると、見覚えのある風景が現れ始め、昨日から降り続いていた雨も弱くなっていた。雨が止むのなら目的地の一駅前で降りて、昔の通学路を歩いてみようと思い立った。目的地は彼の実家である。今度離婚する事にした、と結婚を祝ってくれた両親に伝えるにはメールよりも面と向かって話すのが筋であると考えた訳ではあるが、本来彼はそのような律儀な性格ではない。結婚式は挙げておらず、親族のみの祝いの席を用意したのはそれでも譲歩の感情からであり、元々は入籍だけで済ますつもりでいた。彼はそれで構わないと言う女を妻として選んだと自負していたが、この離婚は彼女のその性格がまた、彼の身勝手さを引き起こす理由になった。一言で言えば、彼は飽きたのだ。彼女は無口で、自分というものがないとさえ思えた。別れよう、と切り出したときも、はい、わかりましたと答えただけだった。彼の冗談にもクスクスと笑うだけでそれ以上はない。しかし、人を傷つけかねない冗談には困った顔をしてやり過ごす、心の綺麗な女性であると言えた。そんな彼女を飽きたという理由で捨てるのは、流石の彼にもある種の後ろめたさがあった。三十代前半で定職はなく、器量の悪い彼女に再婚の可能性は低い。彼女も今頃実家に帰っているのだろうが、彼と結婚せずにずっと実家に居た人生よりは、バツが付きこそはしたが一度は結婚した身、自分は結婚出来る人間なのだという事実がある今の方がマシであり、彼女にそんな自信を持たせることで今後の人生を豊かにすることに成功した、とすら彼は思っていた。そのため彼の罪悪感は、人助けのための自己犠牲による痛みと同一視されていた。

雨が止んだようなので一駅前で下車し、知ってはいたがあまり馴染みのない街並みを歩く。大学進学とともに地元を離れた彼は、この帰省で新幹線を使う必要があったが、日帰りで済ますつもりなので、荷物は最小限で歩くのに不便はなかった。途中、ウィンカーを出さずに道を曲がった車を見て、彼は飲酒運転をしたことを思い出した。その日彼は妻の待つ家に帰らずにファミレスに入り、ビールを飲んだ。彼女を呼べば良かったが、彼は元々自分を客観視する能力に自信があった。そもそも飲む時は、あえて自分から酔いに向かおうとする自分がいるのを彼は認識しており、酔いを楽しもうという気を起こさず運転に集中すれば、何も問題は無いと思った。実際、もう深夜で人気もなかったことも幸いしたが何事もなく帰宅した。妻は彼が明らかに酒を飲んだ様子なのに車で帰宅したことに苦い顔をしたが、何も言わなかった。電車に乗っていた時から、今や元妻のことを思い出して、離婚理由をどう両親に説明したものかと考えていたが、ただ離婚の報告に来たと言い、自分から積極的に弁明する必要もないのではないかと思った。あまりにしつこく聞いてくる場合のみ、価値観の違い、夫婦間の問題とでも言えば良い。どちらかに不貞があったわけではないと伝えれば納得するだろう。嘘をつく事にも抵抗はなかった。それは以前からも沢山行ってきたことで、他人を自分の意志に奉仕させるという意味では確かに悪行ではあったが、それでも結果的に、長い目で見ればその人の為になるような嘘だった。偽りの愛も、三十分もあれば捏造出来た。

そのうち、小学校の通学路になっていた道と合流した。右に行くと大きな道に出て元々降りる予定だった駅に着くのだが、真っ直ぐ川沿いを進むと小学生御用達の駄菓子屋があるので、彼もまたある日までは専らその道を使っていた。バスを使うなら右に曲がった方が速いのだが、考えに耽っていた彼は真っ直ぐ進んでいた。それに気付いた時点で、半歩戻れば曲がり直せる程だったが、今日は自分と向き合う日なのだろうと自分を諦めそのまま進んだ。雨の影響で増水し、濁ったこの川は、どちらに流れているのか分からない。

彼は昔の事を思い出していた。はっきり言ってそれは屈辱的な思い出だった。彼は小学校の卒業の日、最後のホームルームで担任の先生から、佐藤さんと仲良くしてくれてありがとう、と言われた。佐藤美和子は小学校最後の年のクラスメイトで、何をやってもダメで周囲から浮いていた。男子からはお前の入るべきクラスは他のところではないかと陰で言われ、実際に直接ちょっかいをかける者も数人いた。女子達とも話が合わないのか、友達はいなかった。彼はその様子を見かねて、同じ班になったついでに話かけた。

「あいつらまた掃除サボってるな」同じ班で同じ掃除場所を任された連中は、そこが先生の目から離れた場所だったので、遊んでばかりいた。

「……」彼女は答えなかったが、僅かに頷いた気がした。

確かにこの様子では、人間関係において忍耐というものを考えたくない人にとって面倒な人だった。彼もまだ若く、彼女に対して初めはイライラしたが、話を聞いていない訳ではないのは分かっていたので、下手に反論されて自分が傷つくよりはマシである、と半ば目的が達成されたと彼は考えていた。痩せこけて、小枝のような指で箒を握り、俯いて黙々と掃除をする彼女を見ていると、ある種の拒絶反応のような感情を抱いたことは確かだった。その日から彼は、最も醜い女は太った女ではなく痩せた女だ、という価値観が芽生えた。それでも彼は彼女に対して共感があり、侮辱的な思い出として真っ先に彼女が思い浮かんだのは、担任の先生が皆の前で、彼女は惨めな存在であり彼がそれに施しを与えたと公言した、と彼は解釈したからである。彼女に対する侮辱はもはや彼に対するものになる。彼女がクラス内で惨めな身分に落ちていることが皆の共通認識になれば、彼もまた同じ層に属するのだと感じた。

彼は学校が終わると、教室でチンタラと駄弁っている同級生を尻目に、さっさと教室を出た。そしてゆっくり何を話そうか考えながら歩く。丁度今、大人になった彼が通りかかった道の辺りで、教室で駄弁っていた同級生が彼の歩みに追い付くのである。

「おーい、みちのりー、駄菓子屋行くぜー!」

追い付いた四人の同級生の内、自分の名前を呼んだ彼は寺田慶といい、算数以外の勉強はダメだが運動神経に恵まれた活発な奴だった。

「今日お金持ってない」 そう答えたのは重田であり、給食時の荒ぶり様からこうはなるまいと道則が密かに反面教師にしていた、卑しい奴だった。

後の二人は顔の感じの朧げな印象だけは記憶にあるのだが、名前は出てこない。彼らとは結局のところ違う中学校に進んで、それ以来会っていないので、当然と言えば当然だった。後ろから話しかけられた道則は、仕方ないな、といった風を装い彼らに同行した。

駄菓子屋の前まで来ると、そこは自販機が増え、中の様子を見と昔は五十代後半のおじさんが店番をしていたが、今は中年のおばさんがいる、くらいの違いしかなかった。駄菓子屋と言っても昭和をイメージする昔ながらの駄菓子屋という訳ではなく、トレーディングカードゲームも取り扱う今風の店で、偶にトレーディングカードゲームの大会を開いていた。万引きしようと言い出したのは誰だったか思い出せないが、四人は万引きの常習犯だった。重田は意外にも最初の一人ではなく、ただ流れに任せて偶に参加するだけで、普段はちゃんとお金を払っていたことを覚えている。参加する時も、重田は二三何かをお金を払って買い、一つ万引きするという手口だったので、お金のないその日は参加しないようだった。じゃあ代わりに、と言った具合で道則は万引きに誘われた。ついに順番が来たか、と内心興奮した。いつもはお前らダメだぞと断って、皆が店から出て来るまで店前で待っていたが、いつか参加するのだろうと予感していた。万引きに臆病な重田を差し置いて、自身の勇敢さを皆に示せる絶好の機会に思われた。

「わかった、やるよ」とそこまでいうなら、という体で道則は同意した。

珍しく万引きをするという道則に皆は大喜びした。気分を良くした道則はいざ、と店に入って行った。どうやら道則の万引きを皆は集中して観戦したいらしく、彼らは店に入らなかった。店に入ると大きなポテトチップの袋が目に付いたので、これなら皆んなと分けあえると思い、それを持って店を出た。その時、大きな力で頭を鷲掴みにされた感覚があった。その力は道則の、前に進もうとする意志を妨げていたが、振り向く方向へは許した。そこには店主のおじさんの、皺だらけで、大きく、強い目があった。道則は何が起きたのか分からず、その皺の一本一本を、頭の中でなぞっていた。

「どうしてそのまま出て来るんだよ!」と寺田が笑い、皆も笑って、走ってその場を去って行った音がした。

道則が自分は万引きで捕まったのだと理解したのは、ちょっとこっちに来なさい、とおじさんが言った時だった。足は一歩も動かず、声も出なかったが、嫌だという感情が道則の顔を俯かせた。

「す、すみません。うちの子が……」と背後から声がして、道則の視界には汚いスニーカーとぶかぶかのジーンズが写った。

「いや、何かこの店で買ってやろうとこの子に言ったところ、さっさと走っていって私のところまで持って来てしまったんです。すみません。ちゃんと払いますんで……」と言った声の主は、色の薄いサングラスをかけ、白いワイシャツを着た、小太りの髪型が重田に似ている男だった。この男は偶にこの川沿いで見かけたことがあった。

「まぁ、ちゃんと金払ってくれりゃあ、いいんですどねぇ」少しの間の後、店主はめんどくさそうに言った。

道則の目には店主は、この見男とこの子が本当に親子であるとは信じてない様に見えたが、どうでもいいことなのかも知れない。今思えば、あの男は実際は見た目よりも若いのかもしれない。第一小学生が帰宅する時間帯にこの辺にいるのが謎だった。

「はい、ありがとうございます。すみません」と言って男は会計を済まし、二人で店を出た。 道則はこの怪しい男が怖くなり、店を出るなり走って逃げた。ポテトチップは男の手にあったままだった。

例の四人の話題はしばらくおれの万引きの話で持ち切りだった。あの後どうなったのかと聞かれたが、何とか逃げ切ったよと答えた。おれの万引きの素人っぷりが彼らのツボを押さえたようだ。おれはその話題が嫌で彼らの視界に入らないよう過ごした。早歩きで帰路に着くようになったことを覚えている。犯罪者は現場に戻ってくるというのは本当のようで、おれはあれから数日は川沿いを歩かなかったが、ある日例の駄菓子屋の前を通り過ぎてみた。特に何も起きなかったことに安心した。

駄菓子屋を通り抜け、郵便局の前を通り過ぎたところで、坂道を登った。あと十五分ほどで着く、と少し時間を長めにとって両親にメールした。その後昔のように雑木林を通るのだが、大人になって来てみると、随分と狭く小さな道だった。ここを抜ければマンションの横道に出る。雨の影響でぬかるんだ土や落ち葉の所為で足が重かった。何とか通り抜け、実家の方向へ向かう歩道橋の前まで来た。様子を見に行ったあの日、ここで駄菓子屋で庇ってくれた男と再会したのだった。あの日おれは男を見てお辞儀をした。何かお礼の言葉を言うという考えはなかった。助けてくれと頼んだわけではないし、男が勝手にやったことだ。お辞儀の一つで済むと思っていたが、男は手招きした。男の手にはあの日のポテトチップがあった。何か言わなければいけないのだと観念したおれは、歩道橋を渡らず男について行った。そして近くの公園に差し掛かった。今おれはあの日と同じ道を歩いている。公園のブランコは椅子が支柱に括り付けられていた。安全柵の前に出来た水溜りで靴が濡れた。おれはあの日男が座ったベンチの位置に、雨で濡れている事にも構わず座った。

「あの、ありがとう…ございます。あの時、庇ってくれて」ここまで来るまでに考えた台詞をおれは絞り出した。

「いや、いいんだよ。食べな」と言ってた男はポテトチップをおれに差し出した。

「私はね、昔虐められてたんだ」男はおれが聞いているのかどうかは関係ないといった風だった。

「いつまで待っても助けてくれる人は居なかった。なんでこの世はこんなに悪い人ばかりなんだって絶望したよ。そして思ったんだ。私が待っていた人、そんな人が居ないなら、私がその人になってやろうってね。今では私を虐めた人に感謝すらしているんだ。彼らが私をずっと被害者の立場にしてくれたおかげで、私は加害者の立場には回らず、罪を犯すこともなく済んだからね」男は歯をむき出して笑った。

「私は徹底的に良い行いをしてこの世にかつて存在しなかった唯一の善人になりたいんだ。それが、世界に対する、私の復讐だ!」


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