30日の白昼夢

紅雪ささめ

完璧な後輩が見せた突然の隙に陥落した先輩の報告と勇気

「抱え込む」「無表情」「澄み切った」


季節:初冬(11月)/中学3年生/犠牲者:先輩(高校1年生)/女性/香月薫


 目を引いたのは、膝を抱え込む背中が、知っている彼女よりもひと回りちいさく映ったせいだ。

 遠く、公園に入る数段の階段にしゃがみ込んで座っている彼女は、部内でも一番を争うほど騒がしくて、だから、こんな寒い日に公園にひとりきりで座っている姿は、私からすると、端的に言って「異様」だった。


「野咲」

「ん、」


 背中に声を掛けると、ぐりん、と彼女の首が伸びて直上の私を見上げた。さらりと伸ばしたままの彼女の黒髪が、頬を滑り落ちていくのが美しい。私の声を覚えていない彼女は同輩と勘違いでもしていたのか、無造作に低い声で返事をした。表情は抜け落ちたような無表情で、彼女は――野咲乃々は、大きな目をしっかりと開いていつも輝いていた黒い瞳を、投げ出している。その目に映り込んだ興味津々の私の顔がふたつ。彼女はみるみるうちに表情を取り戻していった。


「香月先輩!」

「お、やっと思い出したか」

「香月先輩を忘れれるやつなんかいませんって」

「相変わらず調子いいんだから。そんなこと言って、あんたさっき私の声わからなかったでしょうが。わかるんだからね」


 ぽんと背中を叩いて私が隣に座ると、野咲は照れくさそうに笑った。私の知っている野咲は、言葉遣いははっきりとしていて、部活への姿勢も前向き。無駄な衝突は避けて、後輩の面倒もよく見る。まさに完璧と言って差し支えないほどよくできた後輩だ。いいところしかないところが逆に隙を見せなさすぎて不気味がられることもある。そんな声すら上手に懐柔してしまうような、そんなしたたかささえ兼ね備えていた。

 だから、気の抜けた野咲の視線に、私はどきりと胸が跳ねたのだ。


「いやー、ちょっと」


 野咲はバツが悪そうに、言葉を濁して視線を逸らした。それが、私の好奇心に火をつけることにすら気づいていない素振りだった。


「部活で嫌なことでもあった?」

「部活は順調ですよ。というか、私もう引退してるし」


 そういえば野咲はもう三年生だ。こんな冬目前の季節に部活をしていようはずもなかった。部長や副部長ももう二年生に引き継がれてしばらく経つくらいだろう。


「うーん、じゃあ、なんだろう。この季節だから、進路のことかな?」

「……うんと、まあ、そんなところですね」


 首肯する野咲に、更に高校決めてないの、と畳み掛けた。私の知っている野咲なら、ここでそうなんですよ、と大袈裟に頷いて、それから訊いてもいないような彼女の事情や、最近のつまらない先生のエピソードまで面白おかしく話してくれるところだ。けれど野咲は真剣に悩んでいるのか、そうなんですよねえ、と生返事を返したきりしばらく黙り込んだ。彼女の唇から漏れる吐息が、無言のまま澄みきった空気に溶けていく。


「公立受けるほど成績が芳しくない、とか?」

「いや、公立は狙えます」

「あんた成績いいもんね。じゃあ、難関私立を薦められて担任ともめてる?」

「まあ、そういう話もありますね」

「あ、じゃああれだ。候補が多すぎて、困ってる」


 私は部活にかまけすぎて受験勉強が追いつかなかったクチだ。けれど、家から通える公立高校のなかでも一番制服が可愛い今の高校にどうしてもはいりたくて、先生にしがみついてどうにかこうにか成績を持ち上げた。

 その証拠の黒セーラー。二本の白い線がショーウィンドウのガラスに反射して風に翻るたび、私の心は浮き足立つのだ。

 あのときがんばってよかった。今でも、心底思う。

 嫌いな先生が居ても、ソリの合わない同級生と隣になっても、可愛い制服に袖を通すだけで、私にとっては些末な問題になってしまうのだから。


「まあ、どこでも選べるのは楽なんですけど」

「持てる者の悩みだね。持たざる者にはまぶしい」

「からかわないでくださいよ」


 いやでも、と野咲は続けた。


「別に行きたいところはないっていうか、あるんだけどわかんないっていうか」

「あるけどわからないってなに?」


 純粋な疑問だ。野咲はしばらく視線を彷徨わせたあとで、そっと私に口元を寄せて、頬に右手を添えた。


「一緒に行きたい人がいるんです。高校も、一緒に進みたい子が。けど、志望校聞き出せないんです」


 恥ずかしそうな野咲の俯いた顔を見下ろして、私はゆっくりとまばたきをした。



「すき」


 念仏のような古典の授業を右から左に聞き流して、私はくるくるとシャーペンを回して考えた。

 あの野咲が恋。

 恋なのだろうか。昨日は直感的に恋だと思ってしまったけれど、もしかしたら単に仲がいい友達なのかもしれない。むしろそちらのほうが「野咲らしい」気がする。彼女に「恋」なんて、あまり想像がつかない。けれど、野咲みたいななんの衒いもなく他人と話せるタイプが、仲のいい友達の志望校ひとつ聞き出すのであれほど苦戦するのだろうか。

 いっしょに、と音に出した唇を思い出す。小さくすぼまった桃色の唇から、白い吐息が漏れて、髪からはほんのり甘い匂いがした。伏せられた睫毛は長くて、日の光にきらきらしていたし、黒髪が透き通っていた。照れくさそうな表情は女の子のそれだった。からりと笑い鋭く言葉を返す、闊達な野咲らしい態度ではなかった。だから、きっとその日の野咲はいつもの野咲とは別人、と思ったほうが自然だし、野咲がそんな重要な話を私にしてくれるはずはないのだった。

 野咲と私は仲が良くも悪くもなかった。チームメイト。部活の後輩と先輩。必要なことは話す。冗談も交わす。でも、重要なことはなにひとつ共有しない。私は野咲の親友も知らないし、野咲の悩み事も知らない。私の悩み事も秘密も、野咲には伝えたことがない。私たちは重ならない。そのままきっと、記憶の隅の思い出のひとつとして埃をかぶっていく関係だった。

 私は、野咲に相談されるような先輩であったはずがないのだ。

 教室のガラス、きれいな青空に透けて、間抜けな私の顔が浮かんでいる。


「お、先輩! きてくれましたね」

「来たよ来たよ。約束したからね」


 ひらひらと手を振ると、返すように白く細い手首が揺れる。昨日と同じ公園の階段。もう卒業した中学校の、素っ気ない黒のブレザー。細すぎる黒のプリーツ。寒いのにふくらはぎ中程で切れている白のソックス。肩からこぼれる柔らかな黒髪。

 野咲が、去年と変わらない元気な笑顔で、私を待っていた。


「ここはほら、ここの数字を代入するんだよ」

「なるほど」

「こっちはえーと、なんだったかな。たしか規則性を見つける問題だったのは、覚えてるんだけど」


 教科書と問題を交互に睨みながら、思わず髪に手が伸びた。

 高校受験を間近に控えてうちの高校を志望校のひとつに入れている野咲に、家庭教師代わりを頼まれたのだ。かと言って、さほど地頭がいいわけでも、努力家でもない。一年前の記憶を引っ張り出しながらうんうんと悩む私の向かい側で、野咲も同じ問題に頭を悩ませている。野咲の癖なのか、野咲は眉根に皺を寄せながら、シャーペンを下唇にあてがってぽたぽたと叩いている。自然と、私の視線は野咲の唇に吸い寄せられた。


「香月先輩? それ、わかりました?」


 よそ見してますけど、と野咲は不満そうに唇を尖らせる。は、と我にかえった。


「ごめん。なんかさ、昨日も思ったんだけど、野咲、唇綺麗だなとか、思っちゃって」


 私の言葉に野咲はきょとんとして目を瞬かせた。

 何言ってんだ、私。言ってから、自己嫌悪に陥る。自分から唇を観察していたことを口走るなんて、気持ち悪がられても文句が言えない。

 そんな居たたまれなさを感じている私には気づかないで、野咲は首をかしげる。


「そんな珍しくないと思いますけど」

「そうでもないよ。この季節じゃん。油断すると唇割れちゃってさ」

「あーたしかに。そういうのありますよね。私はほら、リップクリーム持ち歩いてるんで。女子力高いので!」

「自分で言わないの」

「へーい」


 ふふん、とポケットからリップを取り出す野咲を嗜めながら、私は目敏く野咲の使っているリップクリームを記憶していた。桃の甘い香りのする、最近流行りのリップクリーム。色はついていない、透明タイプ。かわいい感じの女優さんが宣伝に起用されていて今年初めて発売された、中学生にも手に取りやすい価格帯のリップだ。二本入りで三九八円。バス停前の薬局に行けば三五〇円。


「それ、私も買おうと思ってたんだよね。去年使ってたやつと悩んでたけど、そんなキレーになるならやっぱ買おうかな」

「いいですよ、これ。超おすすめ。かわいいし。使ってみます?」


 ふいに、差し出された。綺麗な指先から伸びる、ピンクのリップクリーム。どきりと胸が跳ねた。


「い、いよ。クチに使うやつだし、悪いじゃん」


 思わず言葉が詰まった。そんな私に、にやりと野咲は笑う。


「えー、先輩気にするタイプですか?」

「気にするよ!」


 思わず頬に、熱が集まった。


「野咲も少しは、気にしなよ」


 それは、負け惜しみのように、か細く情けない声だった。



「まだ聞き出せないの、『一緒に行きたい子』の志望校」

「うーん、多分、香月先輩の高校っぽいんですよね」

「うちなの? 丁度良かったじゃん」

「でもあいつ、成績ギリギリだし、緊張するとやらかすタイプ。だから心配で」


 へにゃりと野咲が相好を崩した。分厚いカーディガンで隠れた丸い肩が揺れる。なにそれかわいい、と私が一緒に肩を震わせれば、野咲はそうですよね、と自分のことのように喜んだ。私は、野咲が同じ学校に来てくれる可能性が高いことに、内心で喜んだ。黒いセーラーの大きな衿を翻して私に微笑む野咲が、ふと脳裏によぎった。丁度今の、はにかんだようなかわいい笑顔。黒セーラーの野咲が、私を通り抜けて、誰かのもとに走り抜けていく。

 誰かもわからないその人に感謝をしながら、当日失敗してくれればいいのに、とも思った。

 自分の中にこんな気持ちがあることに、驚いていた。


 合格発表の日、私は三階にある自分の教室から張り出された模造紙に群がる中学生たちを見ていた。

 詰め襟の男子服は、私の出身中学だけだ。あのなかに、居るのかな。ぼんやりと、順番に嬉しそうな男子を観察していく。


「――野咲、」


 四人くらいの女の子たちが固まって、ゆっくりと掲示板に近づいていく。さらりとした見覚えのある黒髪に、私は頬杖をやめて乗り出してしまった。さらりとした黒髪が、薄手のマフラーにまとめられてたわんでいる。白い指先が受験番号を確認するようにゆっくりと上から下へ、降りていった。

 やがて、わっと女子たちが沸く。お互いに押しくら饅頭のようにぎゅうぎゅうと抱き合って喜んでいた。

 受かったんだ、とその姿を見てほっとする。

 野咲の視線がどの男子にも向かっていないことにも、少しだけ安堵した。


「先輩のおかげです!」


 喜んで報告してきた野咲に、私は笑った。今日は、野咲の卒業式だ。いつもの公園には、早咲きの桜がちらほらと咲き始めていた。


「片思いの相手には告白できた? 結局その子受かったの?」

「片思いって、先輩」


 野咲は面食らったように驚いて後ずさった。その反応が面白くて、私は吹き出す。


「違った?」

「ちがわ、ないです」

 

 野咲がきゅっとスカートを握りしめた。その胸元を飾る白い花が、とても似合っていた。


「あいつは受かったんですけど、でも、告白とかは別に」

「しないの?」

「する気はないです。困らせちゃうので」


 とても優しい声で、野咲は言った。ぎゅっと胸が握りしめられたように痛む。誰かに夢中の野咲はきらきらと光っていてまぶしい。

 私、そっか。野咲のことが。


「告白しないなら、私と付き合ってみない?」


 ざあ、と風が吹き抜けた。再会したときよりも少し伸びた黒髪が、舞い上がっては落ちていく。いきいきと輝いていた野咲の表情が、凍りついたようにするりと硬いものになっていくのが、見ていてよくわかった。


「香月先輩、私、」


 言いかけた野咲の言葉を遮って、私は彼女の小さな手を、やっとの思いで捕まえた。縛り付けるような胸の痛みからもがき、逃れるように、強くつよく握りしめた。


「一ヶ月、試してみない?」


 食い下がった私に、野咲は言葉を失った。


「一ヶ月。一緒にいるだけ。何もしないよ、キスとか、それ以上のこととか。ただ、私じゃダメかどうか、一ヶ月試してみてほしいんだ」

「恋人ごっこ、しようよ」


 スカートのポケットで、リップクリームが揺れた。そんな、気がした。

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