独り言

あずき

第1話

のどかな散歩の途中、つつがない日常の流れに、不意にぽっかりと昏い穴が開く。僕はその前に、何気ない素ぶりで立ち止まる。僕は建前、なんだろうと頭に疑問符を浮かべておく。そして人目を憚りながら、答え合わせをするようにその穴を覗く。そこには期待通り夢の続きがある。昨晩一人寂しく、夜の闇に解き放った欲望が実現している。その瞬間、僕の中に、二つの相反する感情が顔を出す。僕はしばらくその場で動けなくなる。僕はその二つの感情を手のひらに取り出し、その正体をじっくり伺う。一方はおおよそ普段の僕だ。普段よりは幾分か強固にされた、この忙しない現代を生きるために、その見かけを社会によって作られた兵士のような僕だ。そしてもう一方は、これまた普段の僕だ。普段より幾分かどす黒い、僕が心の隅でこっそりと飼っているグロテスクなペットのような僕だ。両者は次第に肥大化し、僕の腕は重く沈む。混乱する僕を、穴は冷ややかに見つめている。僕はそいつらを、決められた儀式として、腹の上の天秤に乗せる。そしてその行く末を努めて中立に眺めようとする。しかしそれは極めて困難な作業だ。次第に僕は、心のうちで、根源的な二つの何かに分裂していく。それらはそれぞれに、自分の庇護すべきものの後ろにつく。白い何かは、まっすぐ明日の方向を指差し、「あなたを守る」と僕に語りかけている。また黒い何かは、先の見えない暗闇に体を半分ひたしながら、「お前を楽にしてやる」と叫んでいる。それらの声を耳に残しながら、僕は一度、強く耳をふさぐ。僕は、ここから逃げ出さなければと強く思う。あるいは、ここから抜け出せたらと強く願う。しかし僕の脳みそはもう疲れはてている。その時、穴が不意に縮小を始める。途端に僕の目はそこから離れなくなる。心臓の鼓動が、急かすように早くなる。”彼ら”は着実に僕の前に迫って来ている。僕はまたひどく混乱する。あるいは、混乱したフリをする。それがフリであることは、そこにいる誰もが知っている(あるいは初めから知っていた)。気づけば、僕の口元は歪んだ笑みを浮かべている。目は執拗に見開かれ、体は不気味に軽くなっている。ペットが僕の足元に擦り寄る。その後ろで、いつの間に元の大きさに戻った昏い穴の中から、一本の腕が差し出される。「おいで」と黒い何かは静かに呼ぶ。「行ってはいけない」と、白い何かが最後に、儀礼的に僕を呼び止める。しかしその声ももう笑みを隠しきれていない。その前で、鎧を脱ぎ捨てた兵士は夜のベッドを軋ませている。僕は飢えた野犬のように、その邪悪な手にかじりつく。穴がにんまり口を開いて、僕は快楽の闇に飲み込まれていく。

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独り言 あずき @azukisakuramoti

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