第7話 契約


 悪魔は俺を抱きしめた。アドエンが俺の袖を弱々しく引っ張るのだけ感じる。俺は動かなかった。悪魔の抱擁は暖かくて心地よい。人の体温を感じる。悪魔の肩に顔を埋めると懐かしい匂いがした。どこかで、昔、嗅いだことのある、愛おしくて懐かしい──


「裏切り者がよく俺のエセンの隣で今日ここまでのうのうと生きてきたな、ツェルユングアドエン=シエル」


「やめろ!!!」


 アドエンの怒鳴り声が聞こえる。俺以外に、激しく怒鳴っているアドエンを珍しいなと頭の隅で思った。悪魔がなんて茶化してアドエンを怒らせたのだろう、いいなあ、楽しそう。頭がふわふわしている。思考がどんどん鈍くなるのが気持ち良い。悪魔の体温がもっと欲しくてたまらない。両手でその身体を抱きしめようとした。

 その時、袖を強く引っ張られて、一瞬思考と行動が止まった。

 ─強い硫黄臭がする、むせ返るような熱が首に取り巻いて離れない、埋めていたモノから顔を離すと、見据えた先には腕から流れる血の海に突っ伏し怯えたハドエがいた。

 我に返る。抱きしめていた悪魔を突き放すと、悪魔はふわふわと宙に流されてゆく。


「エセン、思い出した? 6年前に君と契約した悪魔だよ」


「君があの時の……」


「そうだよ、俺だよエセン」


 悪魔は目を細めて愛おしそうな眼差しを送る。角や羽のない悪魔は初めて見たし、顔にも見覚えがない。しかし先程抱きしめられた時に感じた体温と、この強い硫黄臭は懐かしいと感じた。

 だが、どうしてあの時の悪魔が、こうして現れるんだ。しかもここはシーラの家だぞ。祓魔師の家だ、その敷地に入って来れるわけがない。


「おい! レーヴィ!おまえを喚び出したのはこのおれだ!! ここにエセンが2匹もいる!! 誘き寄せたのはおれだ、契約しろ悪魔!!!!!」


 ハルゼルフの怒号に耳を疑った。なんだって! 名だたるシーラの祓魔師跡取が、悪魔を喚び出したのか! しかも、悪魔の真名を喚んでいる。改めて部屋を見渡すと黒魔術の道具でいっぱいだった。特に血の入ったあらゆる形の瓶が床や棚に並んでいてゾッとした。きっと瓶自体に保存魔法がかかっているのだろう。血清の凍結保存ものや遠心分離中で渦を巻くもの、新鮮な血液を保つもの、そのいくつかが、扉から入るシャンデリアの光で照らされ、ギラギラと反射していた。


 ハルゼルフはハドエの頭を押さえながら、スポイトで流血したものを採取し始めた。


「やめろ! やめろ! ハドエをはなせよ! 何の権限があってエセンの血を奪うんだ!」


 俺が近寄ろうとすると、すかさずハルゼルフはナイフを振り回した。


「近づくな!!エセンは所詮、こうやって血を売らないとシーラから見放されちまう弱者なんだよ!おまえの父だってそうやってシーラに血を売って守ってもらっていた! この部屋の血の瓶を見ろ。これは全部エセンの血だ! 何の権限⁈ シーラにはその権限が十分にあるじゃないか! 」


 ……これが全てエセンの血! 絶句した。瓶の蓋や側面にラベルが貼ってあるのは、いつ誰から採取したか記録されているものだろう。エセンの血は万薬であり、対悪魔聖水なのだ。悪魔はもちろん、同業者やそれ以外の魔法使いがその血を欲しているとされる。だからエセンは血を持たぬ親族と協力し、自らの血を守っているのだと、いや守られているのだと過信していた。

 エセンは血を売らないと、同胞さえ敵なのか。

 そしてその血はストックか、それとも商品か。

 俺が今まで誇ってきたエセンは、何だったんだ。



「おまえらエセンはシーラを虐げる。エセンとシーラの見分けのつかない同族にこれまでどんな被害があったかをおまえらは知らないだろう。血の効力も持たないシーラは、ズタズタに切り裂かれた後、ハズレだと言われて無惨に殺されてゆくことだってある。エセンにはハズレとアタリがあるって、おまえらはハズレだと、何度同族に言われたか!シーラであることに誇りなんか一切ない!呪われた血族から外れたのに、なぜ呪いが解けない!!シーラなんて名前は要らないんだ!


 だから悪魔を喚び出した。おまえらエセンを根絶やしにしてやるために!!!!」


 憎悪の目線が全身を突き刺したような気がした。エセンである俺を、翡翠色の瞳が揺るぎのない悪意で睨みつけてくる。その眼差しに耐えられなくて目を背けた。耐えられなかった。エセンとシーラの関係なんて教科書に書いてあるようなざっとした概要しか知らない。エセンであることに、目を背けてきた俺には耐えられなかった。無知でのうのうとエセンの下で生きてきた俺にその目を受け止める資格なんてない。


「6年前は、君の父だったね。俺を喚び起こし"ゼフを殺せ"と命じたのは」


 悪魔の一言で戦慄が走る。

 ハルゼルフの父、ハインゼが俺を殺せと?その時からこのシーラは黒魔術に手を出し、悪魔を召喚し、契約まで結んでいたのか。いや、それほどシーラが抱くエセンへの恨みの念は強いのかもしれない。


「しかも交換条件なんて言ったと思う? 悪魔ならエセンを殺せるだけで満足だろうって。見返りなしで殺せってフェアじゃないんだよね。だからハインゼにもう少し頑張ってもらった」


 ハルゼルフは怪訝そうに聞き返した。


「どういうことだ」


「今宵はハインゼと契約して丁度6年目の夜なんだ。ハインゼは息子の魂を売ったのさ」


 悪魔は言い終わらないうちに、ハルゼルフのナイフを取り上げ、そのまま喉元に刃を向けた。


「やめろ!」


 思わず叫んだ俺を、悪魔はちらりと見ると

「こわいなら見なくていいよ」と心の中に語りかけた。次の瞬間、俺の視界が真っ黒になったと同時に悲痛な叫び声と血飛沫の音が聞こえた。


「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」


 ハドエの甲高い声、アドエンが隣で立ち崩れる音がして、不意に視界が戻る。目の前には喉を掻っ切られているハルゼルフが倒れていた。大動脈をスパリと切られ、大量の血飛沫が壁や近くにいたハドエ、ソファに飛び散っていた。


「ハドエ!」


 急いでハドエに駆け寄った。目を見開いたまま、静かに涙を流し、震えている。自分の血とハルゼルフの生暖かい血が混じって、彼女の顔や髪を染めていた。


「ハドエ、ハドエ、こっちをみて」


 ハドエの頬についた血を拭いながら、焦点の合わない目線をこちらに向ける。翡翠色の瞳に俺が映る。ハドエは顔を歪めた。


「ごめん」


「守るって……」


「ごめん」


 ハドエを抱きしめると、彼女の小さな肩が震える。肩に顔を埋めながら、しゃくりをあげて泣き始めた。背中をさすりながら、そっとハドエの右腕の傷をみる。手首から縦に10センチほどの切り傷だ。血は止まっている。薄っすらと切り傷が盛り上がり、細胞の再生がすでに始まっている。もう数分経てばこの傷は完全に消えてなくなるだろう。ハルゼルフの瞳が脳裏に浮かんだ。


 ─これは呪いだ。



「さてと邪魔者は減った。本題に入ろうか」


 カランとナイフの落ちる音が響く。見上げると悪魔がこちらに近づいてくる。急いでテーブルに付着したハドエの血を指先につけ、床にまっすぐ線を引き境界線を作った。悪魔は顔色1つ変えず、血の境界線の上に降り立ってみせた。予想外の出来事に驚いてハドエを抱えたまま後退る。エセンの血の上だぞ!ソファの下に転がる血の入った瓶を取り出し、中身の血をかける。悪魔は真っ正面から血を浴びる。反応がない。怖くなって次々と瓶をそのまま投げつける。悪魔は振り払いもせず、境界線の上に立ったままだった。瓶は悪魔の身体に当たっては転がり、床に落ちて割れ、そこらはガラスと血の海と化していた。


 悪魔はやれやれといった風に真っ赤に染まった顔を拭った。


「俺はエセンの血なんて効かないのさ。君たちの祖先である天使を殺した悪魔だからね」


「天使を……」


「エセンの血、悪魔は"天使の血を引く者"と呼ぶ。エセンは忌々しい名前だから俺以外誰も呼ばない。そもそもエセンなんて血族は、天使が死んだ日からいつ誰かに滅亡されてもおかしくないんだよ。ただエセン家が同族やそれ以外の種族の入れない堅牢な城塞になっていなければの話だけど」


 悪魔は壁に並んだ2リットル程の大きな瓶を浮かび上がらせて、自分の頭上から血を注ぎ始めた。

 この時、不意に血の匂いに吐き気がして、鼻と口を覆った。


「君の嗅覚を戻したんだ。さっき視界をオフにした時、一緒に嗅覚もきっちゃったみたい」


「おえぇ……」


 気持ち悪い。何かが身体からむせ返るような気持ち悪さだ。ぞわぞわして手先や足先の力がふっと抜けてゆくような気がした。悪魔から目を背ける。血も見てられない。


「エセンの血なんて効かない。みんなは俺のことをレーヴィと呼ぶ。俺はエセンとの契約を更新しに来たんだ」


「契約って何の事?アドエンと結んだ契約魔法のことかい?」


 微笑みを浮かべていた悪魔の表情が消える。


「それ以外にも俺とエセンだけで結んだ契約があるのさ。忘れちゃったの? 薄情だなあ。まあ俺の支配下で結ばせたから意識がないのも当然か〜」


 アドエンとの契約魔法以外にも何かまた結んでいたのか?ふとハルゼルフの死体が視界の端に入る。もしかして、6年後俺の魂を貰うとかそういう契約か……?

 強張った表情を浮かべる俺に、悪魔は再度、優しく笑いかけた。春の麗らかで温かい眼差しをこちらに寄こすのに、奥底から溢れる禍々しい何が、俺の心臓を握っている感覚に怯えた。そのひれ伏したくなるような圧力が、何となく神を想起してしまって恐ろしくなる。

 浅く呼吸しながら、俺はまっすぐ悪魔を見つめた。悪魔は血の滴る髪をかきあげる。この部屋の惨状を写したように真っ赤な瞳が、外の橙の照明で光り、燃えるように輝いた。美しい悪魔の唇がゆっくりと言葉を紡ぐ。


「ゼフ、俺の天使になって欲しいんだ」

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