第2話 ゼフとアドエン
「──
導師が書をパタリと閉じた時、終業を知らせる鐘が鳴る。上質な午後だ。埃っぽい教室は陽だまりで溢れていて、睡魔の泳ぐ実に良い空間だった。授業の終わった教室は活気を取り戻し開放感で満たされていた。
俺はまだ微睡みから覚めない目を擦りながら教室を見渡した。次の授業のため、教室を慌ただしく出て行く者、友人と親しく話している者、俺と同じように睡魔から解放された者、その中に俺が探していた者は見つからなかった。
そういえば今夜、誰かの家でパーティを開催すると聞いた。誰だったか思い出せないが、必ず俺は招待されているはずである。何故なら俺はエセンなのだから。
「─エセン!寝坊助エセンよ、私と一緒に来なさい、話がある」
導師の声に身体を起こした俺はうんざりしながら、声を上げた。
「導師」
導師は俺を一瞥すると、教室から出ていってしまった。抗議の声を漏らしながら、その老いぼれの後姿を追いかける。導師は別校舎に繋がる渡り廊下を進んで行く。困ったな、そちら側にはあまり行って欲しくない。俺は慌てて導師を呼び止める。
「導師」
漸く導師は振り返った。
「エセンよ、まったく、祓魔師の授業くらい真面目に受けてくれ。おまえにとってこれは自己防衛の術にもなる。いつまでも血に頼っていると寝首をかかれるぞ」
どうやら居眠りしていたことを咎めているようだ。俺は肩をすくめる。
「まさか、真面目に受けてますよ。えっと悪魔は棺に入れても死なない?」
「悪魔祓いしても死なない」
「そう、そうでした。でも俺の血は特別です。使い方さえ頭に入っていれば完璧ですよ」
「愚か者よ、おまえの過去にとやかく言うことはしないが、やはりアドエンが可哀想だ。こんな奴が」
「アドエンは関係ない」
「関係ないだと?巻き込んだのはおまえだ。いいか、アドエンの扱いもその優秀な血統もおまえが正しく使えてこそ、おまえは安心して眠れるのだ、いつまでもママに抱っこされているつもりか」
「酷い言い様ですね、家に守ってもらうつもりなんてありませんよ導師」
導師は深い溜息を吐いた。おまえと話していると頭が痛くなるという風に眉間を親指で押した。
「だったら、悪魔祓いした後処理くらい空で言えるようにしてくれ。少しでもいいから、悪魔と自分の血筋に興味を持ってくれ」
俺は笑って応えた。まさかこの老いぼれ導師は、俺を自殺願望者かまぬけだと勘違いしているようだ。
「大丈夫ですよ導師。我が血に誓って色々と頑張ります」
「……おまえの何世代か前のエセンもそう言って死んだのだ」
「何世代前って、いつの時代です?魔法使いが箒に乗ってた頃ですか?老いぼれ導師の記憶違いですよ」
導師は、まるで青筋を立てるように、頬骨のあたりから鱗をサッと浮かべた。黄金虫のような光沢と彩色を帯びた鱗は1つ1つ大きく浮き出た雫型をしており、導師の感情を表したかのように震えていた。
導師は古い龍の生まれである。
俺は自分の頬を指差しながら、導師の鱗を指摘した。
「あなたは穏やかでありながら心は熱いのでわかりやすい」
「エセンの愚か者よ、今度会った時は鍋の具にしてやろう」
「いいですね、是非招待してください」
導師は鼻で笑いながら、鱗を隠した。人間の皮を被っているようなものなので、頬の皮の再生はゆっくりかつ的確に行われた。表情筋、毛細血管、皮膚が形成される頃には、鱗だったものは見る影も形もなくなっている。この光景を見るのは初めてではないが、毎度見るたび眉をひそめざるを得ない。
非常に不思議な現象だ。
「では導師、次はボルク導師の授業があるので」
俺は導師に背を向けて歩き出した。悪魔祓いの教室から、次の授業の教室は遠い。午後の日差しで煌びやかに彩られたステンドグラスの長い廊下を足早に通り過ぎる。大きく広いこの廊下は黒のローブを身に纏った生徒たちでごった返す。色彩鮮やかなステンドグラスの陰影が黒のローブを美しく染め上げていた。まるで賑やかな朝の市場を彷彿させる。
「ハイ、エセン。今日ハルゼルフの家でパーティやるっての聞いてる?」
すれ違い様にブロンド髪の美しい女の子が話しかけてくる。ステルジーという名前だった気がする。ブロンドと美人の名前は忘れないようにしているから、きっとそうだろう。
「聞いてる、きっと行くよ」
「待ってるわ」
彼女へ手を振り、進むべき方向へと足を運ぶ。その時、誰かにぶつかった。その拍子で相手の持ち物をぶちまけてしまったようだ。
「すまない」
「いえこちらこそ」
人の多い廊下の途中で物を落としてしまうなんて厄介なと思いながら、急いで拾い集める。
「
「その誰かさんとは一体誰のことだ、ゼフ」
聞き覚えのある声にはっと顔を上げる。
鳶色の髪を顎下できっちり切り揃え、透き通るような肌の色、太い眉、長い睫毛の奥にはめられた金色の双眸が俺を睨みつける。形の良い薄い唇を歪ませ、外見からは想像出来ないような舌打ちをした。
オリエンタルな顔つきだが、端正で麗しく、口を開かず着飾っていれば、どこかの国の王子のようだと誰もが噂をする。
この人物こそ、教室で探していた者だった。
「アドエン!」
落としたものを渡すと、すぐには受け取らず彼は少し上半身を前に傾け、左の手のひらを顔に当てた。これは呪い師がよくする仕草で、自分の幸運を溜めるという意味がある。彼はよく「おまえのせいで自分の幸運が減った」という皮肉めいた意味で使う。
「まったく!君の運はこれくらいで逃げやしないよ!」
「うるさい、これはわたしの癖だ。貴様は不運の塊だからな」
アドエンは受け取った本をさっと指先で払った。どうしてこう呪い師は意地悪で潔癖が多いのだろうか。アドエンは俺に目もくれず、腕を引っ張り歩き出した。
「探していた」
「奇遇だね」
「貴様から離れ過ぎたせいで壁が現れて次の教室に向かえなかったのだ」
俺は苦い顔をしながら受け答えた。
「……あ〜えっーと壁ね…あの
「契約魔法の!」
契約魔法。俺たちが六年前におかした禁忌魔法のことである。俺はどうしても呪いにしか思えないのだが、アドエンはこの言い方を嫌う。
「そう、そうでした、契約魔法の壁な!君と俺しか見えない魔法の壁!」
「…貴様は先程、ケイン導師の悪魔祓いの授業だったろう、わたしは
「まじないが本業だもんな」
「家業だと言ってくれ」
アドエンの家は代々続くまじないの一家だ。家々に受け継がれるまじないは、一般に広く知られているまじないより、効力が強く、その工程や材料は複雑で、まじないの種類は千差万別だ。
呪い学と言っても、まじないの一家には初歩的な授業だと思われるのだが、この真面目ちゃんはそんなことは重要ではないのだろう。「自分の家のまじないと一般的なまじないの違いを知りたい」とかなんとか、きっと生真面目溢れたお考えの上だ。
皮肉を本人に言うと、倍返されるので、俺は笑って受け流す。話の腰を折ってしまった。
「で、規定範囲ギリギリだったのかい」
アドエンは眉をひそめる。知っていたなら、なぜ注意を払わない、わたしのために!と言いたげな表情だ。
「君が俺にわざわざ会いにくるなんて、その理由しかないでしょう」
アドエンは鼻で笑い、そうだと相槌をうつ。
彼は俺から直径300メートル以上離れることができない。その規定範囲を超えて進もうとすると、壁が現れて彼の歩みを妨げる。
一度出現してしまうと、壁は俺を中心とした内側に向かってゆっくり迫ってくるのだ。
壁は俺に直接会って呪文を唱えないと解消されない。
アドエンの行動範囲は、俺を軸にした円の中であり、彼はいつも見えない檻の中に閉じ込められているんだ。
やはりこれは呪いだ。
アドエンは歩みを止めて振り返った。
「早く呪文を唱えろ、すぐそこまで迫ってきているのが見えないのか節穴野郎」
はっとして前を見上げる。突き当たり廊下の天井の横断アーチが、まるで風に揺らぐ水面のように、歪みはじめていた。歪みは空間の四隅からはじまり、波紋を広げながらゆっくりとその全体を現す。光の反射で揺らぐ壁はキラキラと光り、壁を可視化するのだ。壁の向こうに取り込まれた天井や生徒たちは、揺らいで見え、向こう側の賑やかさはくぐもって聞こえてきた。
「急いで呪文を、はやく」
俺は目を閉じて早口で唱えた。
「かの王とあなたの血の契りが天使の死する日まで結びますように」
壁はゆっくりと景色に同化していき、消えてゆく。壁や天井の歪みは解消され、くぐもっていた声たちは元の賑やかさを取り戻す。
アドエンは何事もなかったように、俺の腕を引っ張って歩き出した。
「次はボルク導師の授業だろう。遅れる」
「あれ?一緒だっけ?」
「貴様な……こういう魔法にかかってるんだから、わたしの行動範囲くらい把握して欲しいものだな、だから2日に一変は壁が現れて貴様の所に来なくちゃいけないんだろ」
「そういう君の方が、僕の行動範囲くらい把握しとけば壁なんか現れないんじゃない?君、そういうの得意でしょう」
「把握してる!なのに予想外の動きをするんだ!貴様が気をつけていればこんなことにはなっていない」
アドエンは声を荒げながら、俺の腕を掴む手を強めた。彼の悪いところだ。すぐ力で自分の怒りを振り回す。
いつもならスルーするところだが、いまはなんだか歯止めがきかない。身体の内側がグツグツと熱くなるのを感じる。煽った調子で応えた。
「そうだよなぁ、全部俺のせいだもんなあ!壁で制限されるのも、見たくもない顔に会わない為にそいつのスケジュールを把握するのも、君の人生に自由がないのも、全部俺のせいだもんなあ!」
突然、アドエンは引っ張っていた俺の腕を離した。間を置かず、何かに咬まれたような鋭い痛みが腕に走る。今度は俺の腕の皮膚を抓りながら、歩き出したのだ。悪魔め、この悪魔め!
「いっっ──痛っっってえよ!!この」
次の暴言を発する前に、アドエンは放した。立ち止まって自分の腕の様子を見る。彼の爪は鋭く長いから血が出ていないか確認するのだ。皮膚は真っ赤になって悲鳴をあげている。アドエンの爪の跡がくっきりとついたよ!出血はない。良かった。大切な血なんだ、意味もない場面で流したくない。
彼は俺のことをチラリと振り返りながら、迷いのない歩みで、悪態を吐いてゆく。
「干からびて死ね」
「俺が死んだら君も死ね!」
黒のローブたちの群れが彼を隠していく。流れの中、立ち止まってしまった俺は、周りからの文句を被ることになってしまった。
まったく。
離れ過ぎたら壁で囲まれてしまう彼の運命を俺が
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