第131話

 『マーク・ツー』及び『マーク・スリー』はレステアに到着していた。しかしながら突然何も考えずにただ出撃するのは馬鹿な話である。先ずは外から街の様子を眺め、それから判断する。

 街は見た感じ活気に溢れていた。まるでそこだけが戦争なぞ起きていないように錯覚してしまう。だが、他の地区では紛れもなく戦争の痕跡が残っている。焼き払われた大地や建物、さらには幾重にも積み重なった人間の山、それに火を点け燃やしていく。脂が焼ける匂いがする。それがどの地区でも行われていた。まさに『地獄絵図』であった。

 作戦開始及びその具体的な手段については本人に一任されている。なので、彼女たちがいつ始めても問題ないのであった。

 リフィリアは笑みを浮かべ、兄であるイグネルに告げた。


「時は満ちましたわ……。さぁ、はじめましょう。お兄様」



 ◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇



 唐突だった。

 日が暮れて、夜。人々は内乱の恐怖に怯えながらも食事を楽しんでいた。食事を囲めば、人々は笑顔になる。これがどういうメカニズムによるものなのかあまり解明されない。解明せずとも、現に食卓を囲み、話をすれば、笑顔になるというものである。

 ベクターもアニーと一緒に食事を取っていた。彼女と食事を取るのは二日ぶりのことだったが、ベクターにとっては一週間、或いはそれ以上の時間が経っていたような気がした。

 アニーの作る料理は他人が見ればバランスよく作られてはいるが、バリエーションに富んだものではない。大量に作って保存しているわけではなく、毎日作っている。だから毎日、僅かであるが味付けが違っているのである。

 肉じゃがのじゃがいもを箸で掴み、それを口に入れる。じゃがいもはホクホクしており、それでいて味が染み込んでいる。そしてその味を忘れないうちにご飯を掻っ込んだ。


「……毎回思うが、君の作る料理はこの世界のものとは思えないものばかりだ。味付けも珍しいし……」


 そう言ってベクターは水を一口。

 それを聞いたアニーは頬を紅潮させつつ笑った。

 その刹那、窓が内側から吹き飛ばされた。何が起きたのかまったく解らなかったが、即座に彼はアニーを守るべく自らの身体を盾とした。

 彼の背中にガラスの破片が落ちていく。それを背中で受け止めていく。痛みはあったが、我慢した。我慢するべきだと思った。我慢しなくてはならないと思った。


「先生……!」


 アニーの声がかかって、ベクターは顔を上げた。


「大丈夫だ。とにかく、君は急いで逃げるんだ……!」


 その時、ベクターは初めて選択を間違えた。ここで彼は外を見て様子を確認するべきだった。それさえすれば、もっと冷静な判断をできたのだ。できたはずだったのだ。

 ドドドド、と地面を揺るがす音。

 その音はあまりにも巨大でその音を生み出している源は何かと考えた。


「先生、そんなこと考えている場合ですか! 逃げましょう!」


 アニーは手を取る。

 しかしベクターは動かない。否、動けない。動くことができないのだ。

 何故なら彼は、このタイミングで『あるもの』を見てしまったからだ。

 建物よりも遥かに高い背丈を誇る人形が、二台そこにはあった。一見すると巨大な人間がフルフェイスの鎧を着ているようにも錯覚してしまう。


「何だよあれ……。あれってまさか!」

「先生!」


 アニーはもう我慢出来なくなって、彼のシャツの裾をぐい、と引っ張った。

 それにより、彼の思考はこちらに引き戻される。

 ベクターがアニーの方を見ると、彼女は頬を膨らませていた。


「とにかく! 急いでここを出ましょう! 診療所が破壊されてしまうのははっきり言って痛手ですが、でも、先生が居ます。先生が生きています! 先生さえ生きていれば……たとえどんな場所だろうと、作られた診療所は|ベクター診療所≪せんせいのもの≫になります。そこは先生がいるからそうなるんです。先生が居ない診療所はベクター診療所ではないんです!」

「だが……」

「だがとかでもとか! そんな言葉の類いはあちらには敵いません! 行動で示すほか無いんですよ……!」


 彼女の声はとても力強かった。か細い声であったのは確かだったが、その中に一本の芯が通っているようにも思えた。

 アニーは孤児だ。彼女を初めて見たときの様子を彼は未だに覚えている。父親とともにメインストリートを通っていた時のことでだ。地面に腰掛けていたぼろ布だけを身に纏っていた少女だった。小麦色に焼けた――あるいは汚れていると見ることが出来る。

 その一瞬だけを見て、ベクターの父親は彼女がどういう存在かを見極めたらしかった。だから彼女はベクターの父親には頭が上がらない。自分の人生を激変させた人間だ。だからその子供であるベクターにも、その感情は残されている。直接的に彼女の人生と関わっている彼の父親よりその感情は薄れてしまうが、それでも彼女はただ忠誠心だけでベクターと共に居るのだ。

 だから、アニーにとってベクターは大切な人なのだ。愛情にも友情にも似たその感情を、彼女はずっと持っていたのだ。


「逃げましょう、先生」


 すっかり話さなくなったベクターにアニーは問い掛ける。

 アニーの話は続く。


「敵に背中を見せてもいいんです。生きていれば……生きてさえいれば、いつか必ずいいことが起きます。いつか必ず報われます……! ティパ神様も……きっと私たちに『試練』を与えているだけなんです!」


 ティパ教の信者は苦行について『神が与えた試練』であると認識している。死後、また人間に生まれ変わり幸せになりたいのならば、試練を乗り越えなくてはならない。そういうルールめいた何かがあった。

 そして、アニーはこの状況を試練と認識した。試練と解釈した。そうすることを、認識することを、彼女は昔から刷り込まれていた――そう言ってもいいだろう。

 しかしティパ教を理解出来ない他者からすれば、それは立派な現実逃避ではないのだろうか――そう思うに違いない。

 思考が誰しも必ず一致するわけではない。寧ろ、全員が全員一致する方がおかしな話だと言ってもいいだろう。思考が完全に一致するならばそれは洗脳を疑ったほうがいい。


「ティパ神……か」


 落胆しながら、ベクターは言った。

 ベクターは未だ動こうとはしない。このままでは二人共死んでしまう可能性すらある。何故彼は逃げないのか。何故彼は逃げようとするアニーを無視しているのだろうか。疑問が膨らんでいく。

 だが、それでも彼はぶつぶつと話を続ける。


「神とは何だ? 宗教とは何だ? 信じることで救われるのか? そんなことがほんとうに有り得るのか? まったく解らない……解らないんだよ」

「そんなことを考えなくたって、ティパ神様はみんなを救ってくれます……救ってくださいます……! だって、これは神様がお与えになった試練なのですから……!」


 ベクターにはアニーの言っている言葉の意味が理解できなかった。試練、救う、ティパ神……。ほんとうに神は試練を与えているだけなのだろうか? ほんとうに神は存在し得るのだろうか? ということに、疑問を抱き始めたのだ。

 確かに、神はいるのかもしれない。だが、それを見たことのある人間はいない。しかしそう言うと決まって彼らはこう言う。神は人間が見ることのできない世界に住んでいる、と。ならば人間は視認できない存在をわざわざ崇拝しているというのだろうか?

 彼には解らなかった。そして、その問は人間に答えられるものでもないだろう。人間が答えて、それが正しいと誰もが言える答えを導けるはずがない。なぜなら人間の考えはどれも同一ではなく、違っていくからだ。違いがあるからこそ、人間は人間と長く共存出来るのかもしれない。

 ベクターはアニーとともに行くことを選択した。それが神の啓示だとかそういう理由ではない。自分でそれを選んだからだ。それしか道がないからだ。

 そして、ベクターはゆっくりと歩き始める。

 並んで二人で。




 マーク・ツー及びマーク・スリーのレステア殲滅作戦も半分以上が終了していた。


「意外にもあっさり終わってしまいそうだね」


 イグネルは言った。

 リフィリアは答える。


『当然ですわ、だって私がずっと戦ってきたんですもの。あのミジンコ程度にしか見えない人間など動くだけで勝手に潰れて消えていってしまいますし、武器などたかが知れていますから攻撃してきても蚊が刺してくるよりも反応が悪い。だから攻撃された認識が無いんですよね。厄介なところです』

「……概ね、順調ということだね」


 リフィリアの言葉を一言でまとめあげるイグネル。それについてリフィリアは頬を膨らませる。納得いっていないようだが、彼にとって長い言葉を聞く予定はなく、一言でまとめあげて欲しかったので彼にとってはこうする方が都合良かったのである。


「……それにしても粗方人は死んでしまったかな? 建物を潰すのも何かあれな気がするし……」

『いいじゃない、建物を潰しても。病気を潰す時も建物ごと燃やしてしまうのが一番の方法だって言うでしょう? だったら潰してしまったほうが楽なんじゃない?』

「生憎病気のヤツじゃないからなあ……。一応残しておいてもいいんじゃないか。殲滅とは言われたけれど、大半の人間は生きていないことはこのセンサーで確認済み……おや、」

『どうしたんですの、お兄様?』

「……まだ二人残っているようだね」


 イグネルはニヤリと笑みを浮かべる。

 センサーが指していた場所は――ベクターとアニーがいる病院だった。



「先生、走ってください! 急いで……」

「そうはいうがね……。私だってあまり走っていないのだよ! 病院で待機して患者が来るのを待っていたからね……!」


 ベクターとアニーは走っていた。急いで隠れられる場所まで向かうためだ。


「急いで、急がなくちゃ……!」


 隠れられる場所。それは各地区にひとつずつある寺院だ。ティパ教の寺院は各地区に一箇所づつ存在しており、どんなときにも人がやってくる。さしずめ災害時の避難場所と言ってもいいだろう。


「しかし寺院に隠れられるという保証はあるのか? 僧も流石に逃げてしまっているだろうに」

「僧は逃げませんよ。ティパ教の教えに背くことになります。僧は最後まで神と一緒にその運命を共にする……そう教典に書いてありますから」

「そうか」


 ベクターは俯いて、アニーの後を追った。

 その時だった。

 ベクターの背後に、リリーファーが立っていた。リリーファーは外部スピーカーをオンにしているのか、声が聞こえてくる。


『みーつけた♪』


 女性の声にも聞こえるそれだったが、聞いただけでベクターは恐怖を覚えた。あれは人間の声ではない。死神だ。人々に恐怖を叩き込む悪魔の声だ。いや、そのどちらでもないからもしれない。

 ベクターは怖くて動けなかった。しかし、それでもリリーファーは歩を止めない。


「先生っ!! 早く逃げて!!」


 逃げる。考えている。解っている。

 だが、肝心の足が動かないのだ。そこから逃げたくても、まるで根を張ったかのように動けなくなってしまっているのだ。それがどういうメカニズムによるものなのか、彼にも解らなかった。

 リリーファーに乗っている女性は呟く。歌うように、言った。まるで今からやることを遊戯だと思っているように。これから行われるのは紛れもない殺戮だということを、ベクターは解っていた。だから、逃げたかった。でもそうしようと思うたびに身体の硬直が解除できない。


『もしここにいるのが私ではなくお兄様だったら……助かったかもしれないわね。少しくらい慈悲は与えられたかもしれない。でも、私は無駄。はっきり言ってそんな甘えが通用するわけがないし通用しない。私のパイロット・オプション「真紅の薔薇」に敵う人間は居ないのだから』

「この硬直させているのが……お前の言う、パイロット・オプションだというのか……!」

『おまえぇ?』


 女性は言うと、リリーファーの腕でベクターを掴み、そのまま持ち上げた。コックピットと同じ高さまで瞬時に持ち上げられたが、ベクターは動転することもなくただそのままにしていた。


『あなた。今「おまえ」といったわね? 立場わかってて言っているつもりかしら? だとしても、そうでなかったとしても、私はあなたを殺すつもりでいるけれど。どちらにしろ殺せと命令されているわけだし』

「無慈悲にも人を殺すことが……それほどまで簡単に出来るというのか……。心が痛まないのか!!」

『心? そんなものあったらとっくにこんな仕事出来ないわよ。起動従士はそういう常識めいたものが崩れていて、なおかつ狂っている人間である。だからこそ階級も違っていて、特殊な存在ばかり集まる。それが起動従士であり起動従士たる所以。それ以上でもそれ以下でもない』


 とどのつまり起動従士は狂っている。女性はそう言っている。起動従士は人間として、一般人としての常識を既に持ち合わせておらず、その常識が欠如しているのだ、と言う。それを自覚しているのであれば何故治すことが出来ないのか。治そうとしないのか。ベクターは考えた。

 女性の話は続く。


『まあ、それをあなたのような人間に言ったところで何も変わりませんし変わることも無いのですが。……しかし残念なことねえ、見つからなければ死ぬこともなかったのに。どうしてわざわざ外に出たのかしら? 死にたかったの? 自殺志願者?』

「そうかもしれないな……。私はリリーファーを見て怖かった。心が恐怖に染まってしまったんだ。だから、逃げるのを躊躇ってしまった。あんなものに敵うわけがない……そう思っていたよ」

『思っていた? ならば今は思っていないというのか。人間は新しい思考を続けないと、頭が腐ってしまう。別に実際に腐ってしまうわけではないけれど、少なくとも脳細胞の動きは如実に変わっていくでしょうね』

「そもそも年をとっていけばそれは経年劣化として変化を及ぼすものだよ。それ以上でもそれ以下でもない。さりとて、人間というのは進化を続ける必要がある。それを拒んだ人間は大きく考えるならば人間という存在を自ら捨てた立場になっているのかもしれない」


 ベクターと女性の会話は至極哲学的なものだった。それを地上から見ていたアニーはどうにかしてベクターを救おうと策を考えていたが、しかしリリーファーに人間が適う訳もなく、結局はその場で立ち往生するほかなかった。

 どうすれば彼を救うことが出来るのか。どうすればあのリリーファーを倒すことが出来るのか。倒さずともベクターを助けて、そのままリリーファーには気付かないで逃げるなんてほぼ不可能に近い。

 ほんとうに不可能なのだろうか――? ふと彼女はそんなことを思いリリーファーを見つめた。まだリリーファーとベクターは話を続けている。余程話が長いのかベクターが興味を持っているからかもしれない。何れにしろ、少なくとも未だ多少は起動従士から目を離させることが出来た。


「やるなら今しか無い……!」


 そう言って彼女は駆け出した。

 だが、はっきり言ってそれが失敗だった。

 ズシン、と何かが着地したような音が、あろうことか彼女の背後から聞こえてきたのだ。

 それを聞いて、彼女は立ち止まる。ふと思い出したのはコックピット内部に居るであろう女性が言っていた、ある一言だ。



 ――お兄様でなくて私に出会ったということ



 これが意味することに早く気づいていればよかった。少なくとも言葉を聞いていただけでそんなことは容易に想像ついたはずだというのに。

 背後から音の正体が姿を現す。そこに居たのは目の前にいる、ベクターを掴んでいるリリーファーと瓜二つのリリーファーだった。

 それを見て、彼女の心はある一言で覆い尽くされた。それは『絶望』だ。希望よりも暗く希望よりも脆く希望よりも冷たい。そんな感情で埋め尽くされたのだ。


『まだ「終わってない」じゃないか、リア。君らしくも無い』


 リリーファーはベクターを掴むリリーファーに告げる。


『あら、お兄様……。申し訳ありません、私がもう少し頑張れば良かったのですが……、いや、それ以上に面白い存在に会いましたもので。少しだけ話をしていた……というのもありますが』

『君が持っているその人間のことかい?』


 ベクターを指差して言った。

 リリーファーは頷く。


『その通りです。起動従士には心が無いのか……そう言われました。珍しいですわよね? このような状況だというのにそのような質問をしたのです。まったく、面白いとは思いませんか?』


 確かにそうだとリリーファーに乗っている男は思った。彼はそれを口に出すつもりは無かったが、かといって否定するつもりも無かった。結局、誰が異端かということは誰かが基準を設けなくてはならない。そこでその基準がどちらかといえば異端寄りだったならばそれを異端と定義することは無理だろう。異端とはそういうものだ。違うとはそういうことだった。


「何が面白いんだ……! 人が死んでいるんだ。リリーファーに乗って、それを操縦することで結果としてたくさんの人間が死んでしまった……。その意味を理解しているのか!!」

『理解しないといけないのかしら?』


 女性の解答は淡白だった。あまりにも純粋で、真っ直ぐで、濁りの無い言葉。だがそれにはそんなことなど関係無いと言いたげに、考える必要性など無いと思っているかのようだった。

 ベクターは舌打ちして、それに答える。


「子供を殺しても、君たちは何の感情も抱かないというのか……! いや、それだけじゃない! 大人もそうだし妊婦もそうだ! 君たちは人間を殺しても何の感情も」

『あぁ、抱かないね。抱く必要性がまったく感じられないから。皆無と言った方がいいかもしれないけれど』


 言葉を言い切るまでもなく、男がそれに答えた。

 その返事はベクターが予想していた中のひとつに入るものだった。しかしいざその発言を聞いてみると内から怒りが込み上げてくる。


『……さて、リア。そろそろ時間だよ、もう「あちら」は待ってくれない。急がないと今晩はレーションすら食べることを許されないかもしれないね』


 それを聞いて女性は小さく舌打ちをした。


『そうですか。なかなか楽しいものだったのですが』

『僕にとっては暇でしか無かったよ。会話の途中で参加したからかもしれないがね』

「終わりって……どういうことだ」


 ベクターが訊ねる。それを聞いた女性は高らかに笑った。


『あぁ、簡単なことですよ。この地区はもう完全に崩壊しました。人間はもうあなたくらいしか生きていません。さしずめティパモール最後の人間……とも言えるでしょう。まぁ、実際ティパモールにはたくさんの抜け道があると言われていますから、逃げている人間ももしかしたら居るかもしれません。そうなったら、その人たちは我々に「勝った」ということになりますがね』

「勝った、だと……!? やはり君たちは人命を軽視し過ぎているじゃないか! そんなこと、人間がしていいわけ……」


 ぐちゅり、と音がした。その音はベクターの身体を思いきり握り潰した音だということに気付いたのは、それから少ししてのことだった。

 パイロット・オプション『真紅の薔薇』によって未だ身体が硬直されている彼女だったが、どうにかしてそれから脱け出したかった。早く、早く、早く、早く。逃げたかった。本当ならばベクターとともに安全な所へ逃げたかった。

 それが。どうして。


『あーあ、さっさと終わらしたかったからこの手段を取りましたが、はっきり言って最悪ですわね。血がこびりついてしまいます』

『どうせ作戦が終われば高周波洗浄機で直ぐ綺麗になるさ。さぁ、あと一人だ』


 この状況で拘束の状態が解かれていないアニーを逃がすほど、彼らも甘くはなかった。

 男はつまらなそうに言葉を呟いて、アニーの頭上にリリーファーを動かした。

 そして、そして、そして。

 アニーの身体がゆっくりと踏み潰され――彼女は痛みと苦しみを味わいながら、死んだ。



 ◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇



「先ずは作戦完了といったところかな。ティパモールも無事に紋を刻むことが出来た。あとは未だ時間がかかるから仕方ないが……それに」


 ニヤリ、と笑みを浮かべて帽子屋はそちらを向いた。

 そこにいたのはアニーだった。しかし彼女はソファに横たわっており、すうすうと寝息を立てている。


「副産物も手に入った。まさか……まさかねえ、『彼女』の子孫がティパモールに居るなんて思いもしなかった。ちょうど欠員もあるし、そこに入れてしまおう」


 そう言って彼はあるものを取り出した。

 それは液体だった。重力に逆らうことなく、粘り気はあったが落ちていく液体だった。赤い液体は、鈍い光を放っていた。どちらかといえば悪いものに見える。くすんで見える。

 帽子屋はその液体を躊躇することなく彼女の口に流し入れた。彼女の身体が一瞬大きく震えたが、それは彼にとって至極どうでもいいことだった。別に何も関係ないことだったからだ。この液体を体内に入れることで発生する当然の対価と言ってもいい。

 今帽子屋が入れたものは、『シリーズ』の証となるモノだ。人間に使うと人間の中にある白血球が病気だと思い込み抵抗する。その抵抗と証が戦うため、身体はダメージを受ける。しかしシリーズは生命体を超越した存在であり、それゆえに人間では考えられないほどの回復力を持っていることから瞬時に身体は回復される。それが繰り返され、証が身体に定着するのを待つのだ。

 時折身体が震え、それを艶美な表情で見つめる帽子屋。その光景は滑稽というよりも不気味に思えた。

 震えが収まり、彼女は再びすうすうと寝息を立て始める。それを見て彼は笑みを浮かべた。


「成功だ。……おめでとう、『白ウサギ』、君が今日からその名前を引き継ぐんだよ」


 その声は安らぎというか優しさが含まれているように思えた。

 そして帽子屋はアニー――白ウサギの顔を撫でた。

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