第125話
その頃、場所は変わってヴァリエイブル連合王国、ヴァリス城。
第六十四代国王レティア・リグレーは王の椅子に座り小さく溜息を吐いていた。
「どうしたレティア……陛下。疲れているのか?」
宰相を務めるイグアス・リグレーはそう言ってレティアを労った。対してレティアは立ち上がり、頬を膨らませる。
「元はといえばお兄様がリリーファーに乗るなんてことをして、さらに王位継承権を破棄したのが悪いんです。だから、大きな戦争が起きていない今は宰相として私の手伝いをしてもらうことが、せめてもの罪滅ぼしになるの!」
「罪滅ぼし、ねえ……」
頭を掻いて、イグアスは言う。
そして、何かを思い出したらしくイグアスは指を鳴らした。
「そうだ、レティア。昔の話をしてあげよう。……と言っても僕がするのではないけれど。面白い話ではないが、為になる話とも言える」
「お兄様が利益のあるというのであれば、私はどんな話でも聞きます」
「そうか」
イグアスは頷く。
そして彼は語り始めた。
かつて、亡くなった前王であり父、ラグストリアル・リグレーから語られた昔話。
それは彼が『最悪』と表現したある紛争。内乱と言ってもいいかもしれない。
内乱の発端となったのは、軍が一般市民を殺害してしまった、そんな『些細』な出来事だった。しかしそれはスケールを増していき、結果としてティパモールという一帯を破壊し、今の状態を創りだすまでとなってしまった。
「父さんがティパモール内乱に参加したのは、十八年前。もちろんその頃にはもう王になっていたし指揮を取っていた。宰相に国を任せ、ティパモールだけを破壊するように命じていた。今からすればとてもおかしな話なのかもしれない。そしてティパモールは、君も知っているとおり砂漠に出来た街。セレナ・コロシアムの周りを覚えているだろう? あの周りは砂だらけだった。もともと砂漠のオアシスに出来たのがティパモールだったからな。そして、ティパモール内乱を止めたとされる大きな一手が……『女神』マーズ・リッペンバーだった」
◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇
八年前。
ティパモール地区、サラエナ。
ティパモールは今のような寂れた土地ではなく、人々の活気が溢れ、モノが溢れていた。それも凡てティパモール一帯に|滾滾(こんこん)と湧き出る水のおかげとも言えるだろう。ティパモールはオアシスが発展した形で村となり、街となった。大きな街は十五の地区に分かれており、サラエナはその一番南に位置していた。
ヴァルト・ヘーナブルは頭にスカーフを巻いて走っている。手に持っているのは、少なくとも彼のものではない財布だ。
ティパモールは当時、水という資源を欠くことはなかったが、犯罪が減ったわけではなかった。ブラーシモ商会がオアシスを無断で買収し、水を売買するようになったのだ。
それに憤慨するのは、当然のこととも言えるだろう。しかしブラーシモ商会は水の売買を止めるどころか値段を釣り上げていくのだ。
このままでは水も飲めずに死んでしまう人間が続出する。現に水を子供に分け与えて親が死亡するケースが多くあった。
ブラーシモ商会は設立当初はヴァリエイブルの様々な地域から商品を仕入れ、適当な値段で販売する業者だった。その商品にはブラーシモ商会を介さないと手に入らない商品も多くあり、人々が|挙(こぞ)って利用していたのだ。
しかし、内乱が凡てを変えてしまった。
内乱の発端となったのは単なるいざこざだった。軍と一般市民が対話をもって課題を解決しようとしていた。
そんななか、兵士が一般市民を射殺してしまった。兵士は間違いであると断言したが、その兵士は目の前にいたほかの一般市民によって撲殺されてしまった。
明らかに手を出したのは国、ヴァリエイブルであった。しかしそれだけで済めばよかったが人々の不平不満が爆発した。
そして僅か数日で、|諍(いさか)いは内乱へと発展していった。
思えばその時からブラーシモ商会はオアシスを買い占め、水を売るようになった。だから、いつしか人はこう思うようになった。
ブラーシモ商会は、ヴァリエイブルと繋がっているのではないかと。
そう思うのももはや当然のこととも言えるだろう。内乱が始まり、タイミングよくブラーシモ商会は行動に出たのだ。ブラーシモ商会を叩く人間もいた。攻撃する人間もいた。だが、それよりも前にやってくるヴァリエイブル国軍に打つ手はなかった。
だが、ティパモールの人間はそれで諦めるつもりなど毛頭無かった。ティパモールはオアシスを中心に構成されているとはいえ、その大半は砂漠で構成されている。そこで育つ人間もまた、砂漠に鍛えられ強靭な民族が生まれ、戒律の厳しい『ティパ教』のもと、人々は生活していた。
もとより、ティパモールに住む人間は僧が大半を占めている。男は僧になり、女性は僧である男を支える。ティパ教の教えに基づき、そういう風に生活をしているのだ。
しかしながら、少年と少女は違う。
ティパ教の教えには子供は自由に動くことと決められている。理由は広い世界を見るためだとも言われており、戒律にそう定められているのだ。
そして、この少年――ヴァルト・ヘーナブルは人から奪った財布を持って走っていた。誰から逃げているのか? それは言わずとも知れている。その財布の持ち主からだ。
息も絶え絶えに、彼は走る。走る。走る。
しかし、それは――あるものに制された。
「こらっ!」
走っている(この場合は動いている、と言ってもいいかもしれない)ヴァルトの頭を正確に捉え、その女性は拳をぶつけた。
当然拳はクリーンヒット。ヴァルトはそのまま地面に転がり込んだ。
「まったく。あんたって子は……」
まるで母親が子供に言うようなセリフを口にして、女性は――顔を見るからにヴァルトと同じくらいに見えるから少女と言い直した方がいいのかもしれない――ヴァルトの頭をもう一度殴った。
「おー、グレイシアちゃんじゃないか。こいつのお守りは大変だろう?」
遠くから駆けてきた、財布を盗まれたであろう人物がグレイシアと呼んだ少女の顔を見て笑顔で言った。
対してグレイシアは仏頂面を保持したまま、
「もー、アリティクおじさんもきちんとして? じゃないとこんな唐変木に財布をまた盗まれちゃうよ?」
「アハハ、でも君が居るから問題ないだろう? まあ、少しは注意することにしよう」
そう言ってアリティクは奪われた財布をグレイシアから受け取り、立ち去っていった。
さて、残ったのはグレイシアとヴァルトだけだ。グレイシアは笑顔で手を振ってアリティクを見送ると、踵を返してヴァルトの背後に立った。
「あんた、いつまでこういうのをやっていくつもり? スリ稼業がいつまでも続くと、いつまでもやっていけると思っているの?」
「だって……こうまでしないと食っていけないし」
「それはあんたが職を探さないだけ! 別にあんたが目を向ければ至る所に仕事はある! 今から僧を目指すために寺院に入ったっていい。アリティクおじさんみたいにキャラバンに入ったっていい! 仕事は幾らでもあるのよ! なのにあんた、そんなこと続けていたらもう……死んだお母さんとお父さんに顔を合わせることも出来ないわよ!!」
そう言って彼女――グレイシア・ヘーナブルは涙を零した。
そう。ヴァルトとグレイシアは血を分けた姉弟だった。
「よう、姉貴、それにヴァルト。どうやらお前たちはまた諍いを起こしているみたいだな?」
そんな時だった。
頭上から声が聞こえた。
それを聞いてヴァルトとグレイシアは頭上を見る。そこに居たのはひとりの青年だった。ヴァルトとグレイシアに比べれば幾分年が上のようにも見える、そんな青年が建物の上に足をぶら下げて座っていた。
その人物を彼女たちは知っていた。
「「兄さん!」」
だから二人はほぼ同時に言った。
彼こそがこのヴァルトとグレイシアの兄、ブレイブ・ヘーナブルだった。
ブレイブはひとり働いている。まだ働くことの出来ないヴァルトとグレイシアを養っていくために必要なことだ。ヴァルトたちの親は一年前――ティパモール内乱の直接的原因となったと言われているあの諍いで死亡した。二人共、だ。その死を悼む人はいた。しかし殆どが、この内乱の直接的原因になったとして祭り上げられている。
なぜかといえば、もともとティパモールの住民はヴァリエイブルの不当な地位の押し付けに耐えかねていたのだ。税を増やし、兵を増やし、ヴァリエイブルの『養分』へと化してしまった。
それを止めなくてはならないと立ち上がったのは若い僧とその妻たちで構成された部隊だった。名前はない。だが、彼らの死以後、こう名付けられるようになった。
『|砂漠の燧石≪デザート・フリント≫』と――。
そんな両親をブレイブは蔑もうなど思わなかった。彼自身もまた、不当な差別に苦しんでいたからだ。差別と言っておきながらも、ヴァリエイブルはティパモール人を兵として徴収し、税を増やし私腹を肥やしていく。それが耐えられなかった。だから、両親の活躍は寧ろ褒め称えるべきであった。
でも、殺されたこととそれは同義ではなかった。殺したのはヴァリエイブルに悪意があったからだ。今までやってきた行動を『悪い』と思う意志があったからだ――ティパモールの僧はそう思うようになった。ブレイブだってそうだった。両親が亡くなって直ぐ僧となった彼は、同じ仲間である僧の考えに感化され、そう思うようになったのだ。そして、その兄を尊敬するヴァルトもそう思うようになっていた。
ただひとり、グレイシアだけはそれに反対だった。
「ねえ、兄さん。まだティパモールが内乱を続けていくことに賛成なの?」
ブレイブは建物から降り、グレイシアの前に立つ。
そして笑みを浮かべ、答えた。
「当然だろ。父さんと母さんはティパモールの地位が良くなる為に戦った。だけれど、ヴァリエイブルはそれを隠すために殺した。……そして内乱は始まった。結果として父さんと母さんは死んでしまったけれど、この内乱によって世界にヴァリエイブルがティパモールにしてきたことを大々的に発表することができる。そう思うと、」
「父さんと母さんが死んでもよかった、とでもいうの!?」
グレイシアは肩を震わせ、激昂する。
対してブレイブは肩を竦める。
「そうは言っていないだろ。母さんと父さんは犠牲になってしまった。でもそれが結果的にいい方向に……」
「違う! 兄さんは父さんと母さんが死んだのを、合理的に見たいだけ! 『内乱が始まった』ことの原因に結びつけたいだけなのよ! 私は違う! きっとそんなものじゃ、解決出来ないと思っている! 内乱は、いいえ、もう戦争と言ってもいい! 戦争はこんなものじゃ簡単に終わるはずもない。けど、きっかけはどんな些細なものだっていいのよ!」
「……そうか」
グレイシアの声に、ブレイブは怒りもせず、かといって笑いもせず、ただ頷いて小さく溜息を吐いた。
そして、ブレイブは踵を返しゆっくりと立ち去っていった。
ドーン、ドーンと銃火器の音が聞こえる。それを聞くとグレイシアは自分が紛れもなく戦場の一歩手前に住んでいるのだということを嫌でも実感させられる。実感したくないのに。今すぐここから逃げたいのに。
彼女はそう思いながら、ヴァルトとともに家路についた。
ティパモール地区、クロウザ。
ティパモールの一番北方に位置している地区は既に陥落、そこにはヴァリエイブル軍の基地が建っていた。簡易的なものではあるが、そこにはもう立派な設備が整っており、普通の基地と遜色無かった。
汚れが落ちきっておらず若干茶色めいているコーヒーカップに入っているコーヒーを啜りながら、二人の兵士が会話をしていた。
「お前さん、今日は終わり?」
「ティズと呼んでくれよ。俺は昼だけだからな。夜はゆっくり……眠ることすらできないけれどな。ま、火薬の匂いを嗅がないだけでも平和な夜を過ごせるのかもしれないけれどね。そちらは?」
「ロスでいい。俺はこれからだ。夜戦ってやつだな。ティパモールのこのクロウザ、だっけ? ここにもまだ残党が残っているからな。そいつらを殲滅するのが俺にくだされている命令、ってわけよ」
「命令、か……」
ティズはコーヒーを啜る。そのコーヒーは旨くないのか、一瞬表情が強ばった。
「……にしても、国はどうしてここまでティパモールに躍起なのかねえ。ロス、って言ったか? あんた、国は?」
「俺はヴァリスだよ。ティズは?」
「俺もヴァリスだ。というか今回はヴァリス軍が大半を占めているらしいぜ。ここまでティパモールを潰す理由があるのかね。ただでさえここはヴァリスじゃなくてエイブルのものだっていうのによ」
「そこだよな。どうしてエイブル王国領のティパモールを、わざわざヴァリス軍中心に構成してまでヴァリエイブル全体で取り締まるのか……。ま、そんなこと考えても俺たちが変えることなんぞ出来るわけがねえんだけどな」
「違いねえ」
そう言ってティズは残っていたコーヒーを一気に口の中に放りこんだ。
「嫌だ! 嫌だ……もうやめてくれ……」
その静謐な空間に似つかわしくない怯えた声が聞こえたのは、ちょうどその時であった。お互いにコーヒーを飲んでいたティズとロスもそれを聞いてそちらを向いた。
そこに居たのは兵士だった。一般兵士とも言えるだろうが、しかし腕章をつけているのを見てティズはロスに囁く。
「あの腕章、ありゃあきっと起動従士だな。リリーファーを乗って戦っていたんだろうが、やられちまったんだろうよ」
「……そのようだな」
ロスもそれを聞いて頷いた。
シェル・ショック。爆音や爆撃を絶えず近いところで感じていることにより発生する心理的障害のことだ。それ以外にも戦場独特の空気によって汚染されることもあると言われており、それに警鐘を鳴らす医師も居る。
シェル・ショックに対する治療法は数多あるが、それを戦場で行っている余裕などない。即ち、その時点で兵士は『用無し』なのだ。
「どうして……どうして、リリーファーが人を殺さねばならないのですか!! それも、同じ国の住民を、皆平等ではありませんか!!」
起動従士は叫ぶ。
起動従士の名前も知らないロスとティズはそれを知らぬ様子で聞いていた。
「確かにあの起動従士の嬢ちゃんの道理も理に適っている。それは間違いないだろうな。ただし、それが『戦場ではなく、平和な場所で言ったなら』の話だ」
「そりゃそうだ。平和な場所で物言いなど幾らでも出来る。今頃本国じゃ大慌てなんだろうなあ。ティパモールの内乱が収まらないことについて阿鼻叫喚している上層部、内乱が収まらない、イコール税金が無駄に使われていることだと思い込んでデモ行動をする国民、それによってさらに上層部のストレスは溜まっていき……。考えるだけで胃に穴が開きそうだ」
「何言っているんだ? 俺なんかもう、とっくに穴開いているぜ。医者に『普通ならこれ程まで穴は開かないのだけれどなあ』と笑いながら言うくらいにはな」
そう言ってティズは茶化した。
「貴様、この状況が解っているのか!! ティパモール全域を凡て我らの手に落とす。そのために一致団結しているのではないか!」
「しかし……しかし、このやり方はおかしすぎます! おかしいと思わないのですか! ティパモールはそれほどまでに悪いことをしたのですか! リリーファーまで投入して、その理由が反乱を押さえつける為? そんなの、おかしいとは思わな――」
言葉が唐突に途切れた。
理由は単純明快。彼女が激昂しているあいだに背後から迫り寄った兵士が首筋に何かを打ち込んだからだ。恐らく鎮静剤か何かだろう。
そして眠るように崩れ落ちた。
「そいつを牢屋に閉じ込めておけ」
それだけを言って上官と思しき男は立ち去っていった。
「……善と偽善、果たしてどちらが正しいのかね」
「そんなこと言ったら俺らも仲良く牢屋行きだ。そんなことは言わねー方が身のためだぜ。まだ生きたいと思うのならな」
そう言ってコーヒーカップを持ったまま、ロスは去っていった。
それをティズはただ彼の背中を見送るだけしか出来なかった。
◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇
「陛下。連絡が有ります」
部下のひとりがラグストリアルにこう言った。
対してラグストリアルはリラックスした様子で――まるで戦場に居る指揮官とは思えないほどだ――頷く。
「何だ、言ってみろ」
「はっ。実はティパモール地区クロウザの『処理』中にこのようなものを見つけました」
そう言って部下はあるものをラグストリアルに献上する。それを受け取ったラグストリアルは目を丸くした。
彼が持っていたのは剣であった。そしてその柄には鍔が付けられており、独特な形状となっていった。
強いて言うならば、ヴァリエイブルではない他国で生産された剣であるという絶対的な証拠であるともいえるのだが。
「……柄に紋章が見えるのをご覧いただけますでしょうか」
「紋章? ……ほう、紋章というよりかは国章をあしらったものとも言える。それにこれは……」
そこに描かれていたのは雲の上に居る二人の人間、雲から生える樹、そしてその樹に生っている林檎。
アースガルズ王国の国章であることは、ラグストリアルは見て直ぐに理解した。
「……ティパモールが長年内乱を続けていく体力が無いはずだと思っていたが、アースガルズというパトロンが居たとはな」
「いかがなさいますか、アースガルズにも出撃を?」
「いや、我が国にそれ程までの軍事力は無い。少し時を待とう。確か噂によればクルガードが独立を画策しているという情報もある。クルガードの動きを見ろ。そして、独立を宣言したときは直ぐにそれを支持するのだ」
「かしこまりました」
そう言って頭を下げ、部下は部屋を後にした。
その頃、ヴァルトは街をふらついていた。居なくなってしまったグレイシアを探すためだ。兄のブレイブは僧の修行があるからと言って早々に寺院に戻ってしまったため、彼一人で捜索しているということになる。
雑踏の中聞こえてくるのは、内乱に関する話題のみだ。
昼間から酒を飲んでいる浮浪者が隣にいる似たような人間に語っている。
「俺さ、昔クロウザの西……確かブロクスってところだったかな。そこにいたんだよな。そんときは俺の友人もいてよ、一緒に軍潰そうぜって躍起になったわけよ」
酒を一口|呷≪あお≫る。
「それで、どうしたんだ?」
「それでよ、その友人が途中で逃げちまったんだよ! 俺の目の前に五人の武装兵士、そして俺。よぼよぼの年寄りが倒せるわけがねえ、って思ったわけよ」
「それじゃ、お前さん幽霊なのかよ?」
「そんなわけねえだろ? 五人全員吹っ飛ばしてやったよ。|肚(はら)くくった意味があったってもんよ」
「マジかよそれすげえな!」
浮浪者の会話がとても耳障りに聞こえて、ヴァルトは足早に立ち去った。
次にヴァルトが立ち寄ったのは墓場だ。墓場はティパモールの内乱が始まってからさらに増えていった。今では墓場ではないただの土地にも埋められている死体も多く、場合によっては雑踏に放置されているものもある。それくらい人が死んでいっているのだ。
それを見ながら、ヴァルトは呟く。
「人々は皆、内乱が起きてから『内乱を止める』ことなんて一切考えちゃいない。姉貴、それでも姉貴はこの街の人々を信じるっていうのかよ」
その頃。
ティパモール地区、レステア。
クロウザが北、サラエナを南とするならレステアは東に位置していた。
そのレステアにある廃墟にて、ひとりの医者が活動していた。しかしながらその医者は白衣を着ていたわけではない。医師の資格は持っていたからこそ、そして、昔からここで活動しているからこそ、彼はずっとここに居るのだ。
「ベクター先生、こんにちはー」
ドアを叩いて扉を開ける。入ってきたのはひとりの少女だった。白いワンピースを着て、赤い髪の少女は身寄りが居なかった。だが、寂しくなど無かった。
「その声は、ルナかな。たっぷり遊んできたかい?」
優しい声だった。その声を聞いてルナは不思議と笑顔になる。
「はいっ! たっぷりと遊んできました! もうとっぷりと日が暮れます!」
ルナはそう言って敬礼する。大方、何処かで見た本の受け売りなのだろう。
ベクター・レジュベイトは医師として長年この地に住んでいるレジュベイト家の当主である。当主とはいえその地位が高いわけではなく、本家の診療所を継ぐという意味であった。
この診療所はティパモールでも有数の名の知れた診療所である。とはいえ正確な名前は無い。皆、『レジュベイトさんの病院』だの『ベクター先生の家』だの自由に呼んでいるからだ。その慣習めいたものは先代も、それからその先代も、さらにその先代も続けてきたことだった。だから、ベクターがここを継いだ時にはもうここの正式な名前なぞ誰も憶えてなどいなかったのだ。
また、この診療所はもう一つ別の側面も持っている。
「ルナ、今日はもう疲れただろう。私もこれが終わったらそちらに向かう。多分アニーがいるはずだから、彼女にご飯を作ってもらおう」
「はあいっ!」
そう言ってルナは駆け出し、診療所の奥へと消えていった。
ルナとベクターは血の繋がった親子でも親戚でもない。単刀直入に言えば、ルナは孤児だった。
ブラーシモ商会が水を売買するようになってから、正確にはこの内乱が始まってから孤児の数は増えていた。理由は様々で、内乱で親を失ったとか、水の売買によって家計が苦しくなり子供を捨てざるを得なかった……などある。理由は違えど、結論から言って理由の殆どは『内乱』に集結する。
内乱によって多くの人間が傷を負った。それは|刃傷≪にんしょう≫や|銃創≪じゅうそう≫のような身体的負傷だけではない。精神的ショックだってあるわけだ。それをどうにか治療して社会復帰までさせるのがベクターの仕事だった。
「とはいえ……最近は増え過ぎだ」
ベクターは独りごちる。内乱が始まって以後、患者が増えているのだ。このままでは一人の患者にかけられる時間も減っていき、助けられるはずだった人間を助けることが出来ない――そんなことに発展しかねない。
生憎この地区にはベクター以外にも診療所は存在する。しかしながら、それでも飽和状態に代わりなかった。
「早く戦争が終わってくれればいいんだがな……」
ベクターのその願いを聞き届ける者など、誰も居なかった。
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