ラベルの海
はし
夏のおもいで
バイトの帰り道、街路樹沿いにあるベンチで、挙動不審な男性を見つけた。
ベンチをじっと見つめた後、しゃがみ込み、ベンチの下や背の裏を見ている。
「あの、何か探してるんですか」
声をかけると、男性は驚いたようにこちらを見た。街灯にさらされた顔は少しほてっていて、目が少しうるんでいる。
「あ、ああ、失くしものをしてしまったようで…」
照れたように笑い、頬のほくろを爪で撫でる。穏やかな声色に親近感がもてた。
「一緒に捜しましょうか?」
そっと腕時計に目をやる。まだ九時前だ。夕飯の時間は遅れるが、困ったときはお互い様だ。私は男性のもとに歩み寄った。
「いえ、大丈夫ですよ。ありがとうございます」
男性は申し訳なさそうに言いながら、右手を顔の前で振った。
「そうですか。見つかるといいですね」
「はい、あなたも気を付けてください」
断られてしまったので、もとの家路につく。少し離れてから振り返ると、彼もちょうどこちらを見たようで、ぺこりとお辞儀をしてくれた。私もお辞儀をし、もうそこからは振り返らずに帰った。
アブラゼミの鳴き声が耳に響き、疲れた体をさらにだるくさせる。イヤフォンで耳を塞ごうとした時、昨晩と同じベンチにあの男性を見つけた。今日はベンチに腰掛け、座面を撫でながらベンチの周囲を見渡している。
「こんばんは」
声をかけると、男性は昨日と同じように肩を少し揺らし、こちらを見た。
「あ、こんばんは」
「昨日いらっしゃった方ですよね?」
「はは、また見られちゃいましたね」
男性は頬をかく。昨日も見たしぐさだ。彼の癖なのだろう。
「まだ見つからないんですか」
「はい、なかなか見つからなくて…ここら辺にある気がするのですが…」
「やっぱり、私も捜しましょうか?」
言うと、少し悩むように視線を宙にさまよわせ、こちらを見た。
「いえ、大丈夫です。たぶん見つかると思うので」
「そうですか。でも、早く帰ったほうがいいですよ。近くで事件があったみたいなので」
先ほどバイト先で聞いた情報だ。一昨日、近くのマンションで殺傷事件があったとか。ニュースにもなっていたそうだが、最近はツタヤで借りたDVDを見るのに夢中で知らなかった。
「そうなんですか、物騒ですね…お姉さんこそ早く帰ったほうがいいですよ」
「そうですね、じゃあ失礼します」
「はい、気にかけてくれてありがとうございました」
今日でバイトの四連勤が終わる。明日一日休みだから、今日の夜から、借りているDVDを見終えてしまうつもりだ。
いつもより少しご機嫌に帰り道を歩いていると、最近見慣れた背中が見えた。
今日はベンチの背もたれの少しの厚みに座っているようだ。私が近寄ると、足音に気づいたのか、彼もこちらを見た。
「あ、こんばんは」
言うのと同時に立ち上がる。背は高いようで、ベンチの背から飛び降りてもそれほど目線の位置は変わらなかった。
「こんばんは。今日も捜してるんですか?」
「はい…ちょっと見つからなくて」
オレンジ色の街灯に照らされながら、彼は力なく笑った。三日も捜していて見つからなければ元気もなくなるだろう。
「…今日こそ手伝いますよ。早く帰らなきゃいけない用事もないし」
私がベンチのそばに立つと、男性は困ったように眉を下げた。
「でも申し訳ないです」
「いえ、一緒に捜させてください」
私が言うと、彼は心底嬉しそうに頬を緩めた。
「ありがとうございます。実は心細かったんです」
頬をかくしぐさに既視感を覚える。確かにここ最近、毎日見ているしぐさだが、なぜだか違和感がある。
「何を捜してるんですか?」
気を取り直して質問すると、男性は目線を下げた。手首に巻いた黒いリストバンドをいじっている。
「とても言いづらいのですが…」
「はい」
「決してふざけているわけではないんですよ?」
「わかりました」
「あの…何を捜しているかわからないんです」
男性の言葉に、一瞬頭が真っ白になった。何を言っているか理解できなかったわけではないけど、想定外の捜し物に思考が停止してしまった。
「はい?」
うまく聞き取れていなかったのかもしれない。私は彼に聞き返した。
「何を捜しているか、忘れてしまったんです。ここで失くしたことは確かなのですが…」
声はだんだん小さくなり、最後の文字はほぼ聞き取れなかった。
彼の顔をまじまじ見つめる。目の焦点はあっているし、言動に不思議なところは今までなかった。態度から冗談と言うわけでもなさそうだ。
面倒なことになってしまった。とは思ったが、協力を申し出た手前、引き下がるわけにもいかない。
とりあえず捜して、時間が経ったら帰ることにしよう。
「そうですか。じゃあ、その失くした時のことを思い出してみましょう」
その言葉で私が彼の言ったことを信じたと思ったのか、男性は嬉しそうに頷いた。
「いつ失くしたことに気づいたんですか」
「このベンチから立ち上がった時です。何か忘れてるなあって思って」
なるほど、呟きながらベンチに座る。つられたように男性も隣に座った。初めてこんなに近づいて気づいたが、もしかしたら歳はそれほど離れていないんじゃないだろうか。日焼けした肌に程よく引き締まった筋肉。白い歯から、若さが感じられる。
「その時の持ち物って覚えてますか」
「え、うーん…」
悩みながら顎に手を添える。視線は宙をさまよっていた。
「すみません、思い出せません」
「そうですか…どうしてこのベンチに座ってたんですか」
「えっと、休憩でしょうか」
「待ち合わせとかではなかったんですね」
「はい、それは違うと思います」
男性の返答はまるで他人事で、おぼろげだった。言いたくない、というわけでもなさそうだ。
「ここで休憩してから、その忘れ物に気づくまで、このベンチは離れなかったんですよね?」
「え、っと…すみません、忘れてしまいました」
様子がおかしい。しかし、表情は真面目そのものだ。
「このベンチに座ってたのは三日前なんですよね?私と会った日の」
「いえ、捜し物を始めたのはその日の前の四日前からです。それからずっと捜していました」
「ずっと?」
「はい、お恥ずかしいです」
頬をかく。このしぐさを何度見ただろう。でもなぜか、そのしぐさは毎回全く一緒のように見える。なぜだろう。この照れた笑顔と、頬をかくしぐさ。それ以外に共通点があるんだろうか。
そこでハッと気が付いた。服だ。この人は初めて会った時から服が変わっていない。
黒いポロシャツにジーパン。もしかしたら気に入っている服装で、同じような装いが何着もあるのかもしれないが、角のとがったえりも、胸にいているロゴも同じだった。
しかし服はたいして関係ないだろう。私は質問を続ける。
「ここで休憩する前は何をしていたんですか」
「休憩する前、ですか。えっと、ここで座る前には…」
彼は少し逡巡したのち、私をまっすぐ見つめた。しかし、眉間にはしわが寄り、眉がハの字に下がっている。彼自身も自分自身に違和感を持ち始めているのかもしれない。
「おぼえて、ません…」
彼の表情は眉を下げたまま張り付いていて、見ていて痛々しい。とても彼が冗談を言っているようには見えなかった。
「ぶしつけで申し訳ないのですが…お名前を聞いてもいいですか」
「…すみません、わかりません」
これはとうとう大変だ。私はことの重大さに気づいた。それは彼も同じなようで、どんどん顔が青ざめていっている。
「あの…最後に一つ、いいでしょうか」
「…はい」
彼は私が何を尋ねようとしているのか、わかっているようだった。震えを抑えるように両手を握りしめ、地面をじっと睨みつけている。
「ご自身のことで、何か覚えていることはありますか?」
「……何も。何も思い出せません」
彼は吐き出すようにそう言うと、両手で顔を覆った。
「ああ、ああ。これって記憶喪失ってやつなんでしょうか。どうして気づかなかったんだろう。四日も。どうして」
「落ち着いてください、大丈夫ですよ」
「なにが大丈夫なんですか。ああ、なんで何も覚えていないんだ。どうして気づかなかったんだ。俺はこれからどうすればいいんだ」
「落ち着いて、落ち着いて」
言いながら彼の震える背中をさする。泣いているのか、、たまに嗚咽が漏れていた。小さな声でごめんなさい、ごめんなさいと謝っているような声が聞こえる。
こんな時に限って蝉は静かで、暗い夜道に彼の鼻をすする音だけが響いた。
しばらくすると落ち着いたようで、彼は顔を上げた。
「…すみません、取り乱してしまって」
「いえ…大丈夫ですか」
「はい、少し落ち着きました。一人だったら、もっと怖かったんでしょうけど」
男性はこちらを見て、うっすら微笑んだ。目元は濡れ、鼻が少し赤くなっている。
「あなたがいて良かった」
「…どういたしまして」
彼の背中から手を放し、膝の上で握った。少しでも役に立てたなら、ここにいた甲斐があった。かもしれない。
泣いた後の男性の顔を見つめるのも失礼だ。私は視線を正面の木々にやった。
「さて…こういう時、どうしたらいいかわかりませんが…病院とか行きます?」
「うーん、俺も初めてなので…たぶん。でも、お金あんまり持ってないんですよ」
だいぶ落ち着いたようだ。受け答えもしっかりしている。
「え、ていうかお金…財布持ってるんですか」
持ち物がないようだから、てっきり一文無しだと思っていた。
「はい。その金で銭湯に行って、コインランドリーで服洗ってました」
記憶喪失でも生活能力はあるようだ。ずっとここにいる、と言っていた割にはちょくちょく移動していたのか。
「その財布に、身分証明書とかはいってないですか」
「ああ」
彼は言うと立ち上がり、ジーンズのポケットから黒い長財布を取り出した。
ベンチに座り直し、財布を開ける。
「うーん…無いみたいです。カードとかもありません。小銭と札だけです」
「そうですか…」
隣から財布を覗き込む。千円札が数枚入っているのが見えるが、カード入れには何も入っていない。
「銭湯で体を洗って、コインランドリーで服を洗って、夜はここで寝てたんですか?」
「はい。…においますか?」
「いえ…家に帰ろう、とかは思わなかったんですか?」
聞くと、彼は寂しげに視線を落とした。先ほどの動揺ぶりを思い出す。
「あ、すみません…」
「いえ、大丈夫です。どうしてか、家に帰ろうって思わなかったんです。とにかく捜し物を見つけなきゃって。それしか考えてませんでした」
彼はぎこちなく笑う。根が優しい人なのだろう。こんな時でも、私に気を遣っている。
「そうですか…うーん、やっぱりここで考えるだけじゃ何も発展しなさそうですね。病院か警察に行ってみますか?」
「でも金が…」
「いまは非常事態ですし、家か家族が見つかればお金もありますよ」
励ますように言うも、彼の表情はさえないままだ。
「ですが…病院に行ったら、ここにこれなくなりますよね?」
「ベンチにですか?…どうなんでしょうか。でも、たぶんそうでしょうね」
「なら、行きません」
「え」
「俺には、病院に行って記憶を戻す努力をするより、捜し物を見つけるほうが大切に思えるんです」
まっすぐに私を見つめながら彼は言った。私には自分の記憶以上に大切なものがあるとは思えないが、本人が言うことだから、尊重すべきなのかもしれない。正直、私自身も、記憶喪失の男性を病院に連れて行って、根掘り葉掘り質問をされたくない。というか、聞かれても私に答えられることはほぼない。
「…わかりました。なら、早く捜し物を見つけて、そして病院に行きましょう。いつかそのお金も無くなっちゃうでしょう?」
「はい、そうですね」
話が一段落すると、忘れていた蝉の声がうるさくなった。時計を見ると、九時半を指している。
「すみません、そろそろ帰りますね。親が心配しちゃうので」
「ああ、長々とありがとうございました。…その、明日も来てくれますか?」
上目づかいにこちらを見る。明日の予定は何だったか。たぶん、くだらない用事だったんだろう。
「はい、もちろん」
「ありがとうございます!何てお礼を言ったらいいか…」
「お礼なら記憶が戻った時にしてください。それじゃあまた明日」
手を振ると、彼は笑って同じように手を振った。
「また明日」
ー8月3日未明、○○県○○市のマンションで起こった父子殺傷事件の犯人は捕まっておらず、未だ逃亡中。金品などが無くなっていたいたことから警察は強盗による殺害の疑いで捜査を進めています。しかし、犯人につながる証拠も事件に関する目撃証言も見つかっていない模様。警察は事件の目撃情報を求めていますー
ー怖いですね、ここらへんで事件なんて。ほら、あのマンションの前なんて、小学校への通り道でしょう?ウチの子も通るのよ。ほんと、早く捕まってほしいわー
ー俺、あの日すごい音聞いたんですよ。え?時間?それ覚えてたらすぐ警察行きますよ。…これ、モザイクかかってますよね?ー
事件は案外、近くで起こっていたようだ。あのマンションの前は私も小学生のころ使っていた道だ。そのうえ、女性の後に出てきた青年は、おそらく中学の友人だ。
「怖いわねえ。すごい近い場所じゃない」
母はパールのネックレスを首にかけながら言った。服はもう着替えられていて、出かける寸前だ。私は焼いたトーストにマーガリンを塗っていた。テレビの右上には七時三十分とデジタル表示されている。
「そういえば、あんたの中学校のお友達が自殺しようとしたんだって!物騒ねえ」
「自殺?誰が」
聞き返したが、母は準備に夢中なようで、返事はなかった。
もう一度ニュース画面に目を向ける。見知った光景にキャスターたちがいるというだけでも何か胸が不安になる。
「あんたも気をつけなさいね。じゃあ行ってきます」
母が出ていき、人の気配が減った部屋に鼓動が少し早くなる。
身近に起こっていた出来事に少し恐怖を感じた後、浮かんできたのはベンチの男性のことだった。
「夜はここで寝ていたんですか?」
「はい。」
あのベンチは街路樹沿いにあり、その裏には緑の小道という森林がある。その奥に件のマンションがあるのだ。
「大丈夫かな…」
急に心配になってきた。私はテレビの電源を落とし、玄関に急いだ。財布とスマートフォンをだけトートバックに詰め込み、肩に提げる。靴を履きながら扉を開けると、ムシムシした空気が流れてきた。
「行ってきます」
返事のない家の扉を閉じ、彼のもとへ向かった。
「あ、おはようございます!」
不安な気持ちが馬鹿馬鹿しくなるほど爽やかな挨拶に、私はホッと胸をなでおろした。
「おはようございます」
「昼間に会うのは初めてですね」
彼の笑顔はここ最近で一番輝いているように見えた。太陽のせいだろうか。
「そうですね。今日その捜し物を見つけちゃいましょう」
「はい!あ、でも」
彼の瞳がふっと暗くなる。
「どうしたんですか」
「今日は少し体調が悪くて…頭がぼーっとするんです」
気づけば、少し顔色が悪い気がする。目の下のクマが目立つ。
「そうですか。なら、今日はやめときますか?」
尋ねると、彼は辛そうに目をつむり、ふるふると頭を振った。
「いえ、少しだけ…すみません。折角来てもらったのに」
「たぶん、きちんと眠れてないからじゃないでしょうか…ベンチじゃ」
ちらりとベンチを見る。木製の座面は一見しただけで睡眠に向かないと分かる。
「そうですかね…いや、俺は大丈夫です、心配かけてすみません」
力ない笑顔は明らかに無理をしているが、休ませるにもこのベンチじゃ回復しないだろう。
早く彼の捜し物を見つけ、家に帰すべきだ。
「そうですか。じゃあ、捜しましょう」
「はい」
とりあえず私たちはベンチ周辺を捜すことにした。彼がもう何度も捜したようだけれど、二人でやれば何か違うかもしれない。
「ベンチの下とか」
「どうでしょうね」
独り言のような会話を続けながら捜索を続ける。しかし何も見つからない。
数十分捜し続け、ベンチ周辺五メートル程に捜し物は無いと判断し、二人でベンチに腰掛けた。
じりじりと照りつける太陽がかすんで見える。汗が頬を伝った。自然とため息が漏れる。
「見つかりませんね」
「はい…せめて何を捜しているかわかれば…」
言うと彼は静かになり、うつむいた。リストバンドで必死に額をぬぐっている。ちらりと見えた顔は先ほどよりも青くなっていた。やっぱり眠れていないのだろう。ベンチという固いベッドの上に、記憶喪失という不安まで重なっている。
「やっぱり、今日はもうやめときましょう?暑くなってきましたし」
今日はアブラゼミに加え、ヒグラシまで鳴いていて、会話は自然と大声になった。
ベンチに腰掛け、スマートフォンを出す。いつの間にか一時間近く経っていたらしい。
友達から数件のメッセージが届いていたので、適当に返す。内容はお互いの近況だったり、会う約束であったり、他愛ないものばかりだ。
中学の友人に返信を打っているとき、今朝の母の言葉を思い出した。私の旧友が自殺をしたとか。果たして本当なのか、ついでにそれも聞いて、私はスマートフォンをしまった。
容赦ない日差しが降り注ぎ、Tシャツが汗で滲む。ペンキの禿げたベンチは熱を吸収したように熱く、暑さに溶けてしまいそうだった。夜の涼しさもつかの間、湿気の多いこの国はすぐに熱を持つ。
そんな蒸し暑い夜に、ベンチで眠れるものだろうか?
見上げた空はどこまでも青く、白い雲はフワフワと大きい。一つ、小さな飛行機が飛んで行った。
「俺、飲み物買ってきます。麦茶でいいですか?」
「はい。ありがとうございます」
ちょっと行ってきますね。そう言って歩いて行った彼は、その日、戻って来ることはなかった。
*
ヒトの肉体は毎日変化している。皮膚は二十八日、赤血球は約二百八十日。胃なんかは早いもので、五日もあれば新しいものに変わってしまう。一年もすれば、私たちの体はすべて入れ替わっていて、もとの体はかけらも残っていない。変化は私たちにとって時代に対応する進化なのだ。
*
あれから数日。バイト帰りに彼の姿を見ることはなくなった。彼がいなくなってから、大した変化はない。少しだけ帰る時間が早くなっただけだ。
ただ、記憶喪失、という点で彼のことは心配だった。もしかしたら、あの日記憶を取り戻して、家に帰ったのかもしれないが、それ以外の可能性もある。例えば…事件に巻き込まれたとか?
大の男性の心配をするのも無意味な気がしたが、気になってしまうのは仕方ない。
今日も電灯に照らされた無人のベンチを見て、小さく息をついた。
「あの」
突然真後ろから話しかけられた。予想だにしなかった声に驚き、振り返る。
「すみません、ここらへんで僕と同い年くらいの男、見ませんでしたか」
そう言ったのは、茶髪に白いワイシャツを着た男性だった。ぱっちりした目から幼い印象があるが、身長と声色から青年の年代だとわかる。
彼が探している男と言うのは、もしかして私が数日前まで会っていた、ベンチの彼のことなのだろうか。
「…どんな感じの人ですか」
「えっと、黒髪に、目が二重で、口はちょっと大きくて、身長は僕より少し高い位かな。ああ、ほっぺにほくろがあります」
挙げられた特徴はすべてベンチの彼と合致していた。彼の関係者なのだろうか。もしそうなら、一刻も早く彼を保護してもらうべきだ。
彼に会ったことを告げようと口を開き、急いで閉じた。
もし、この人が彼の関係者ではなかったら?
先日観たニュースを思い出す。この場所のすぐ近くで起きた殺傷事件。
「捜し物を始めたのは四日前からです。それからずっと捜してました」
彼がこのベンチで生活を始めたのと、あの事件の日にちは一致する。
もし、もしも。その時、彼が犯人を目撃していて、その犯人が口封じのために彼を捜していたら?
そんな偶然はありえない、と思いつつも、妄想を止められない。
例えば。彼は事件の日の夜、このベンチのあたりをたまたま散歩していて、事件の犯人に出くわしてしまった。彼に見られた犯人は、彼に証言されないように彼を消そうとする。犯人から逃げる彼。そして、ふとした拍子に頭を打ち、気を失う。犯人はその様子を見て、すぐ逃げ出す。彼は死んではいなかったが、記憶を失っていた。
数日後、犯人は事件の証拠が残っていないか、この辺りを闊歩する。そこで、生きている彼を見つけてしまった。目撃者が生きていることを知った犯人は、もう一度彼の殺害を実行する…。
そんなドラマみたいな偶然はありえない。そうわかってはいたが、先日観たニュース映像が頭をちらつく。
見知った光景がテレビで流された。まるでドラマだ。フィクション。リアル。
だから、もしも、そんな事情があったとしたら。この男性に彼のことを言うのは彼の殺害を手伝うのと同じだ。
「知りません」
嘘を吐いてしまった。目の前の男性は目に見えるほど落ち込み、小さくそうですか、と呟いた。
「どうしてその人を捜してるんですか」
もし妄想が合っていたとしたらこの人は殺人犯なのに、そんな能天気なことを聞いてしまった。しかし、あんな妄想をして、嘘を吐いてしまったというのに、目の前の男が人殺しには見えなかった。
「え…いや、ちょっとね。すみません、僕はここで」
男性は早口にそういうと、その場を去っていった。あの男性が、殺傷事件を起こした犯人だとしたら。犯人だったら。
「失くしものをしてしまったようなんです」
「なかなか見つからなくて」
彼がここで捜しているのは、事件に関する何かなのではないだろうか。犯人がここで何かを隠しているのを見てしまった、とか。
だとしたら、この捜し物は彼だけでなく、警察の助けにもなる、ということだ。
腕時計を見る。時刻は九時前。
鞄をベンチに置き、私はあたりを見渡す。この周辺は彼と何度も見て回った。きっとこの辺りには何も無いだろう。だが、彼はここにあると言っていた。この場所で、まだ捜していない場所があるということだ。それはどこか。
今までと考え方を変えなくてはいけない。今まではずっと地面に目を向けてきた。だが、何もなかった。なら、その上は?
私はベンチの裏にある、大きなポプラの木に目を向けた。
太い幹にはところどころくぼみや突起があり、どうにか登れそうだ。
木肌に手を当て、一歩上る。注意しながら足を引っかけ、太い枝まで辿りついた。
葉をかき分け、目を凝らしながら枝を見る。茶色い枝の中に、灰色を見つけた。それは、枝のぐるりに絡みついている。蛇だろうか。
一瞬身構えたが、何も起こらない。蛇にしては動かないそれをもっと見ようと身を乗り出す。それは地面に向かってタランとぶら下がっていた。
その先端にあるものを見て、私は思わずヒッと声を漏らす。
わっかがくくりついたそれは蛇なんかでなく、首を吊るために下げられたロープだった。
*
記憶はあいまいだ。自分に都合の悪いことは忘れ、良いことは誇大化する。それは意思によるものではない。
大切な一瞬一瞬を忘れることで、ヒトは新しい記憶を脳に入れる。記憶も体と同じで、日々変わるものだ。
*
不思議な男性との遭遇、ロープの発見。私は不可思議な世界にでも迷い込んだ気持だった。
八月も半分を切り、小学生たちは残りの夏休みを満喫しようと町を賑やかす。残りの命が少ない蝉たちのように大騒ぎしては、夏の終わりを楽しんでいた。
借りていたDVDの返却ついでに、ベンチを見る。汗だくのおじいさんがぐったりと椅子になだれ込んでいた。
彼にはいまだ会えていない。無事なのかそうでないのかもわからない。せめて事件の犯人が捕まっていたら良いものを、犯人は未だ逃亡中。それどころか、事件は殺傷のみでなく殺害事件になった。生き残っていた被害者が亡くなってしまったのだ。
記憶喪失の彼は何者なのか、今どうしているのか。その彼を捜しに来た男性は何者なのか。あのロープは何なのか。
気になることばかりなのに、手がかりすらつかめない。なにか私にできることはないだろうか。
悩んでいるうちに家に到着し、クーラーをつける。冷蔵庫の麦茶をコップになみなみ注ぎ、一息に半分飲み干す。
なんとなくスマートフォンを取出し、メッセージアプリを開く。しかし、そこに連絡したい彼の名前はない。そもそも名前を知らない。
友人から連絡が来ていたが、返事をする気にならず、電源を落とした。
ノートパソコンを開き、近所の殺傷事件のことを検索する。いろいろページが出てきたが、書かれていることはほぼ同じだった。
ー八月三日、○○県○○市のマンションにナイフを持った何者かが侵入。父親は首と胸を切られ死亡。四歳の息子も胸を切られ重傷。病院で集中治療を受けていたが、努力の甲斐むなしく、事件から七日後に死亡。発見者は隣に住む女性。コンビニに向かおうとマンションの廊下に出た時、被害者の父親が血まみれで横たわっているのを発見した。被害者の部屋から大量の血が続いていたため、父親が助けを求め部屋の外まで這って出たものとみられる。
指紋など手掛かりは見つかっておらず、凶器も持ち去ったものと考えられる。目撃者はおらず、捜査は難航している。
だいたい、情報としてはそのようなことが書かれていた。最後に、被害者の写真が載っていた。
ー大石宏和さん(四十五)、大石宏くん(四)
二人の笑顔の写真は見ているだけで胸が苦しくなった。どんなに怖かっただろう。どんなに苦しかっただろう。
麦茶を口に含み、ぬるくなったそれを飲み込む。こんなことをした犯人は許されるべきではない。少しでも、犯人逮捕の役に立てたら。
かすかな期待を胸に、またあのベンチへ向かった。
「あ、お久しぶりです」
懐かしい彼は満面の笑みで私を迎えてくれた。前に比べて少し顔色がいい。
「え…あ、お久しぶりです」
「すみません、あの日、急に気を失ってしまって…」
申し訳なさそうに頬をかく。そんな彼に歩み寄る。
「すみません、怒ってますよね…?」
「いえ。最近はどこにいたんですか」
「え、ここら辺にいたと思います…けど…」
彼は自信なさげに言うと、眉を下げた。私が怒っていると思っているようだ。とたんに罪悪感が沸き、急に詰め寄ったことを後悔した。
「すみません、本当に怒ってるわけじゃないんです…。怖がらせてごめんなさい」
彼から少し距離を置き、頭を下げる。すると彼は慌てて両手を振った。
「そんな!俺を心配してくれてたんですよね?俺が悪いんです!」
私と同じように頭を下げ、二人でお辞儀をしあう。数秒後、同時に顔を上げて、二人で笑った。
彼のここ数日の行動が気になるが、先ほどの態度から、あまり深くは聞きづらい。彼がベンチに座ったのを見て、私も隣に座った。
「あの、言いたいことがあって」
「何ですか?」
「俺、名前を思い出したんです!」
彼の言葉に驚いて顔を見る。嬉しそうにほころんだ顔は、母親に褒められた少年のようだった。
「俺、タカミリョウヘイっていうみたいです!」
「それはどうしてわかったんですか?」
「寝てるとき、フッと思い出したんです!誰かが俺のことを呼んでて…男の声がタカミ、タカミって言ってて、女っぽい声がリョウヘイ、って言ったんです」
少し…結構、信ぴょう性に欠けるが、本人がいいならそれでいいだろう。
「じゃあ、これからはタカミさんですね」
「はい!」
「では、早く捜し物見つけて、家に帰りましょう」
やる気を出そうと伸びをする。ふと、視線を上に移した。
その時、先日見つけたロープを思い出した。寒気が背筋を襲う。
もし、事件が関係なく、彼の捜し物があのロープだったとしたら。彼、タカミさんはここで自殺をしようとしていたことになる。
もしタカミさんが自殺志願者だったとしたら、彼の記憶は戻らないほうが彼にとって幸せなのではないか。自殺するほどの苦しみ、それを彼が思いだしたら。
そっと隣の彼を見る。彼はにこにこしていて、とても自殺しそうな雰囲気ではない。
でもそんな彼の首元に、私はひっかいたような赤い線を見つけてしまった。赤いような、黒っぽいような跡はすぐに襟で隠されてしまった。
もしあれが首つりに失敗した時にできた怪我だとしたら?自殺に失敗して地面に落ちた時、記憶を失ったんだとしたら?
駄目だ。最近は考えがおかしい。すぐにいろんな妄想をしてしまう。そもそも、私が可能性を疑い始めた時に都合よくそんなものが見つかることが、ありえない。
日に当てられたんだ。暑さのせいだ。
「よし!俺、今日はもう少し広い範囲を捜そうと思うんです!この林とか」
楽しそうに言うと、彼は立ち上がった。彼の高い身長で見上げたら、首つりのロープが見えてしまわないだろうか。
「タカミさん!」
彼の腕をつかむ。驚いた彼は、大きく肩を揺らした。
「え、と。こう少し、このベンチ周辺を調べませんか」
「でも、この辺りにはもう…」
「小さくて見逃してたのかもしれません!最後にもう一度捜しましょう!」
半ば強引に話を進めて、ベンチ周辺の捜索が始まった。林のほうはまた後日調べることになるだろう。その前に、あのロープを外しておきたい。だが、このベンチにほぼずっといる彼にバレずにロープを外せるだろうか。
そう云えば、コインランドリーと銭湯にはいくと言っていたな。
「あの、ここ見てください」
考えの途中に話しかけられ、ぎこちなく返事をする。
「あ、どうしたんです」
「ここの土、少し変じゃないですか」
ベンチの右の手すりから一メートルほど離れたところで彼は土を見つめている。
「どういうことですか」
「ここの土、一度掘ったんじゃないかな。ほら、色が少し違うし、雑草が生えてない」
彼の言葉通り、そこだけ土の色が黒く、草が生えていなかった。
「掘ってみます」
ぼおっとその風景を見る私を置いて、彼は傍に落ちていた太い木でそこを掘り始めた。
「やっぱり、掘りやすい。誰かが掘って埋めたんですよ」
「なにを?」
「それは…ああ、何か出てきました」
三十センチほど掘ったところに、何か白いモノが見えてきた。彼が取り出して見ると、それは新聞を丸めたもののようだった。
「どうして新聞が?」
「これ、何かを包んでるみたいです」
土を払い、新聞紙の切れ目からそれを開く。
中にはナイフが入っていた。
「これ…」
刃渡り十五センチほどのそれは、刃に赤い汚れがある。
「…これが、俺の捜し物だったんでしょうか」
こちらを振り返る。ぎこちない笑いだった。
何か言わなくちゃ、と口を開いたが、アブラゼミがうるさくて、私は何も返せなかった。
ベンチに座り込む彼に麦茶を差し出す。うなだれた彼は私を一瞥し、それを受け取った。
「前に、事件が起きたって言ってましたよね」
覚えていたのか。私は内心舌打ちした。
「はい。ここの近くのマンションで」
「いつです?」
食い気味に聞かれ、一瞬口ごもる。言うべきか、言わないべきか。ナイフ、それに日付まで知ってしまったら、私と同じ考えにたどり着くのは必至だろう。
「いつなんです」
彼の目がまっすぐ私を見つめている。イラついているのか、リストバンドの下の肌をかきむしっていた。
「…八月三日のことです」
「それって」
「はい、あなたが記憶を失ったと言っていた日です」
隠すのをやめ、真実を告げると、彼は目を伏せた。
「もしかして、俺のこと犯人だって疑ってたんじゃないですか」
彼の握ったペットボトルから、水滴が一粒落ちて、枯れた地面にシミをつける。
「正直、少し考えてました」
「…ですよね。怪しすぎますもん、俺。記憶喪失のくせに病院にも行かない」
「それは…まあ変わった人だなとは思てましたけど」
突然彼は姿勢を正し、ペットボトルのキャップをひねった。喉を鳴らし麦茶を半分飲み干すと、大きく反り返る。
「あーあ!何してんだよ俺!ほんと…何して…はあ…警察行かなきゃかなあ」
「そうですね、でも」
彼を見る。首筋を汗がつたった。
「あれは本当にあなたの捜し物だったんですか」
「…というと?」
「いえ、すごく気にしてたじゃないですか、捜し物。だから、それを見つけたら記憶も戻るくらいインパクトのあるものなのかな。とか、考えてたので…」
しどろもどろに考えを告げる。記憶の回復がそんなに簡単なものには思えないが、大きく関連したものを見れば思い出すんじゃないか、と小さく期待してしまっていた自分がいた。
「それ!」
彼ががばっと起き上がる。その反動でベンチが大きく揺れ、心臓が止まるかと思った。
「俺もそうだと思ってたんです!きっとこの探し物が見つかれば、記憶も戻るんじゃないかって。でも」
「でも?」
「正直、このナイフを見てもいまいちピンと来ないというか…」
ベンチの裏に置いたナイフを見る。刃の部分には乾いた血がこびりつき、少し欠けている。鈍い光が反射した。
「俺の捜し物は別にあるのかも」
堰を切ったように蝉の大合唱が始まる。騒がしすぎて種類もわからないほどだ。
青い空は高くなるにつれ濃くなり、雲は生き物のように空を泳いでいる。
「なら、捜しますか?」
彼は動かない。もしかして蝉のせいで聞こえなかっただろうか。
「タカミさん?」
「え、捜すって言いました?」
目が驚いたように見開かれている。
「言いました」
「幻聴かと思った。お姉さん、事件の犯人かもしれない俺とまだ一緒にいれるんですか?」
「いや、まあ…だって、覚えてないんでしょう?」
「そうですけど、でも」
「それに、あなたが犯人だったとしても、無差別に人を傷つける人じゃなかったかもしれないし」
「そう、ですけど」
「もしもの時は逃げますよ。私、合気道やってたし」
ささやかながら力こぶを作って見せると、彼は口をへの字にした。
「さっき俺のこと変わってるって言ってたけど、あなたもちょっと変わってますよね」
そう言うと、彼は頬をニッとあげた。いたずらっ子のような笑顔に、私もつい笑みを漏らした。
*
体は日々新しいものへと進化し、記憶も都合よく姿を変え、消えていく。私たちはそれほどか弱くはかない生き物で、そんな私たちが明日も同じ人間であることを証明するすべはあるのか。
*
「期限を決めましょう」
「期限、ですか」
弱まってきた日差しのおかげで、蝉の騒々しさも少し弱くなったように感じる。遠くの空は少し赤みを帯び、雲も薄らいできた。
「このナイフは警察に届けなくちゃいけません。でも、このナイフを届けることになれば私たちは警察に取り調べを受け、そのうちあなたの記憶喪失もばれるでしょう。そうなれば捜索どころじゃなくなります」
「そうですね」
「だからといって、このナイフを届けないわけにもいかない。なので、期限を決めて、その期限が過ぎたら捜し物やあなたの記憶が戻るかどうか関係なく、このナイフを警察に届けましょう」
いいですね?と尋ねると、彼は頷いた。
「じゃあ、期限はいつにしましょうか」
「そうですね…短すぎちゃ捜せないし、長すぎるとだめですし」
「とりあえず、五日間くらいでどうでしょう」
「そうですね。それくらいで」
それまでに彼の捜し物が見つかるといいけど。想いとは裏腹に、見つかる気がしない。
「明日から五日間でいいですよね?」
「はい」
そして、今日はそこで別れた。明日はバイトがあるので、彼に会うのは夜頃になるだろう。
帰り道を行きながら、私の足は自然と小学校のほうへと向かっていた。その途中には、事件の現場になったマンションがある。
久しぶりに通るその道はいろいろ変わっていた。前よりも狭い感覚に街灯が置かれている。街路樹も増え、反対によく通った駄菓子屋がなくなっていた。
マンション前につく頃には空の赤が強くなっていた。それでも小学校の時よりは短く感じる。
マンション前は警察や記者はいないものの、黄色いテープで覆われていて近づけそうにない。
「ねえ、もしかしてこのマンションの方?」
話しかけられ振り返ると、年配の女性が私に手を伸ばしていた。少しふっくらしており、髪は上品に巻かれている。最近話しかけられることが多い気がするな、何てくだらないことを思った。
「あら、あなたもしかして」
私の名前を言いながら女性が近寄ってくる。目元の笑いジワに見覚えがあった。
「あ、もしかして広木くんのお母さんじゃないですか」
「そうよお!久しぶりねえ!」
小学校の旧友の母親だった。おばさんは買い物かごを背負い直し、豪快に笑う。
「んもう、事件の関係者さんかと思ったじゃない!」
つまり、おばさんも野次馬のようだ。
「怖いですね。こんな田舎で事件なんて」
「ほんとよねえ。私、実は殺されたお父さんと顔見知りだったから、すごくショックでぇ」
その様子は全くショックそうには見えない。どうせ遠い昔に少し会ったのを、話のネタにしたいだけだろう。
「へえ。お通夜には行かれたんですか」
「ううん、行ってないわ。ちょうど忙しい時期で…で、その事件のことなんだけどぉ」
ほぼほぼ初対面の私にこの態度。事件のことを話したくて仕方ないようだ。
「私、実は犯人に心当たりがあるのよねぇ」
耳元でおばさんが言う。小声にしたつもりなのかもしれないが、たぶんあたりに人がいたら聞こえていただろう。
「へえ」
「誰だと思う?」
おばさんはにやにやと口元を緩めている。口の端に少し泡が溜まっていた。
「さあ、見当もつきません」
「もう、そっけないわねえ」
「すみません。私はあったこともない人なので」
「そっか。そうよね。で、犯人なんだけど」
おばさんはさらに距離を詰め、今度こそ小声でこう言った。
「大石さんの、不倫相手じゃないかと思うの」
ちらりとおばさんを見ると、誇らしげに鼻の穴を膨らませていた。この話を何人の人にしてきたのだろう。
「不倫相手ですか」
「ええそう…何年前かしら。近くの家の奥さんと不倫して。子供も…できたんじゃなかったかしら。それが大石さんの奥さんにばれて、離婚。不倫相手も引っ越したみたい」
大石家族が父子家庭だった理由が分かった。ありがちと言えばありがちだが、身近で起きていいことではない。
「その不倫相手のお名前とか、知ってるんですか?」
そこまで聞かれたことはなかったのか、おばさんは少し驚いたようだった。
「名前ねえ…えっとぉ…タがついたような…」
「タ…ですか」
とっさに、彼が言っていた名前じゃないことを願った。彼は、事件とは無関係。
「そう!タカミさん!タカミヨシコさんだったと思うわ!」
「俺、タカミリョウヘイっていうみたいです!」
ふわり、頭が揺れた気がした。足がおぼつかなくなる。
「あら!大丈夫?ごめんね、暑い中長話しちゃって!もう帰りましょ!」
「はい…そうですね」
言いたいことを言って満足したのだろう。おばさんは足早に帰って行った。それを見送り、私も家へと急ぐ。
「タカミヨシコ」
「タカミリョウヘイ」
たまたまだ。たまたま同じ苗字だった。それだけ。それだけだ。
それにしても、なんて暑いんだろう。
*
自分の目の前に自分が現れる。いわゆるドッペルゲンガー現象が起こったとする。ドッペルゲンガーに会った者は死ぬと言うが、もしその人物が自分と全く同じ人生、記憶を持っていたとき、死ぬのはどちらなのだろうか。
*
タカミヨシコの家は七個離れた駅に見つけた。古びたアパートの二階、隅にある部屋に、表札を見つけた。
ー田上ー
扉をノックする。返事はなかった。一階に下り、管理人室に向かう。
「なんですか」
無精ひげの老人が出てきた。Tシャツは色あせ、すすれている。
「二階の田上さんのことが聞きたいのですが」
「田上さん?ああ、田上ヨシコさんね。なに、知り合い?」
「ええちょっと。息子さんと知り合いで」
嘘をついた。顔はこわばってなかっただろうか。うまく騙せているだろうか。心臓が早鐘のように打っていた。
「ふうん。まあ、会いたいならまた今度にしな。夜は仕事らしいから。息子さんはいるんじゃないの?リョウヘイくんだっけ」
「俺、タカミリョウヘイっていうみたいなんです!」
偶然が偶然じゃなくなってしまった。
ここが、彼の家だったんだろうか。ふらつく体を必死に支え、平静を装う。
「リョウヘイくん、最近会えないんですよね。お会いしてないですか?」
「ああ、確かに俺も会ってないなあ。夕方にバイトから帰ってくるとでけえバイクの音がうるさくてさ、困ってたんだけど」
管理人の男は部屋の隅のスチール机の上のごみをかき分け、何かを取り出した。
「奥さんのほうは結構見てないなあ。元気にしてんのかね」
「ええ…それは?」
管理人は本を差し出した。ハードカバーだったが、子供用の本のようだ。
「リョウヘイくんが昔に俺の部屋に置いてったんだ。母子家庭だろ?小さい頃は俺も面倒を見てたんだ」
もし会ったら返しといてくれ。それだけ言うと彼はパタンと扉を閉めた。
本の裏表紙には田上良平、とぎこちない文字で書かれていた。
その日のバイトは早く終わっていたが、いろいろ調査をするうち、陽はすっかり暮れてしまっていた。そのため、彼のいるベンチについたのは今までで一番遅い十時頃になった。
「今日は遅かったですね。バイト、長引いたんですか?」
ベンチのそばにはいつものようにタカミさんがいた。座ってコーヒーの缶を持っている。
「ええ、まあ」
少しづつ彼に近寄る。タカミさんは不思議そうに首を傾げた。
「どうしました?」
「いえ、何でもないです」
言いながらベンチの端に座る。私たちの間には人一人座れそうなほどの距離があった。
初めに出会ったとき、捜索の協力の申し出をしたとき、私たちの距離はこのくらいだっただろう。それが、いつの間にか近づいていたのだ。この距離感に違和感を持つほどに。いつのまにか、他人である彼に心を開いてしまっていたのか。
彼もこの距離感を不思議に思ったようで、少し眉を寄せた。そして、少しこちらに詰める。
「今日はもう遅いですし、帰りますか?」
「はい、そうしようかな…」
近づく距離に胸がなる。いつもはこうだったはずなのに。彼に怯えている自分がいた。
もし、彼が被害者の父親の不倫相手の息子だとしたら。彼が田上良平であったら。父親と不倫相手の間には子供もできていたという。その子供が田上良平である可能性もある。その彼が、母親を捨てた男に復讐を企てたとしたら。
妄想は膨らむばかりでとどまることを知らない。いや、その妄想をする前に確かめなきゃいけないことがある。
「あの、名前思い出したんですよね?」
「ええ。タカミリョウヘイです」
「その、タカミリョウヘイと言う名前の漢字はわかりますか?」
尋ねると、彼は一拍おいて悩み始めた。考えてもいなかったのかもしれない。
「ああ、確かにな…うーん…」
ここで、もし彼の漢字が不倫相手の息子のものであったとしたら、私はどうすればいいんだろう。警察に連れていく?いや、まず彼の家に連れていくべきか?でもまだ彼の家が見つかっていない…。
第一、もし彼が田上良平だったとしても、彼が殺人を犯したという証拠はない。
「駄目です、思い出せません」
彼の回答に、ひとまずほっとする。でもこれはいろんなことを先延ばしにしているだけだ。彼の正体や、今後のことを。
「そうですか。じゃあ、私は今日は帰りますね」
「もう暗いですしね。近くまで送りましょうか?」
「いえ、大丈夫です。すみません、ろくに探せなくて」
「平気です。俺一人の時もいろいろしてますし。じゃあ、また」
少し寂し気に彼が笑う。その顔にどこか懐かしさを感じたのは、きっと気のせいだろう。
次の日はバイトがなかった。私は中学生時代の友人に連絡を取り、ニュースに映っていた彼の連絡先を聞いた。さっそく電話をかける。
「おお、波野から聞いたよ。なんか話したいことがあるって?」
「うん。この前ニュース出てたでしょ?」
「あ、わかっちゃった?」
電話の向こうの彼は少し照れくさそうだ。久しぶりに聞く声は声変わりして低くなってたが、話し方は変わっていない。何年かぶりの会話に少し緊張していたが、それだけで安心できた。
「俺ほんとにあの事件の日、でっけえ音聞いたんだよ!」
「うん、わかった。それで、その時何か見なかった?」
「なにか?あ、犯人ってことか?」
「まあそうだね」
「うーん、そうだなあ…あの日、でっけえ音が聞こえて…俺、その時マンションの横の森みたいなとこあるべ?あそこの道歩いてたんだ」
おそらくそれは私とタカミさんがあっているベンチの林の向こうに位置する道だろう。
「酔っぱらったおっさんが歩いてて…どかあん、みたいな音がして…おっさんがよろよろして…あ、ああ!」
「なに、どうしたの」
「その時、すごい離れた…百メートルくらい先?を、すごいスピードで誰かが走って行ったな!黒っぽい恰好した男!」
「男?」
「おお、一瞬だったから忘れてたわ…それに、そのあとおっさんが吐いたからさ、介抱してたんだよ」
「それはいいから、その人の特徴は?」
「ええと…黒かったことしか…背が高いと思う」
「背が高いね…どうして男だと思うの?遠かったんでしょ?」
「なんでだろな…走るフォーム?」
少し疑わしいが、背の高い人物が駆け抜けていった、ということだろう。
「てか、これ警察に言ったほうがいいよな!?ああ、やっぱやめよ!」
「なんで」
「まあちょっとな」
彼はヒヒ、と笑い、じゃあな。と言うと、電話を切った。
まだ昼前だ。自転車に乗り、私は田上宅のあるアパートへ向かった。
アパートにつく頃には汗だくになっていた。リュックサックに入れた麦茶を飲む。ぬるくなっていて、あまりおいしくない。
田上家を訪ねたが、誰も出なかった。階下に降り、管理人室に向かう。
「なんだ、またあんたか」
「はい。今日も良平くん、いらっしゃらないようですね」
管理人はにやにやしながら扉を少し開ける。
「カノジョっつうのも大変だねえ」
訂正もせず微笑む。この管理人がいつか田上良平にいらないことを言わないよう願う。
「あの、良平くんのお母さんなんですけど」
「良子さんがどうしたの」
「わたしより身長高かったでしょうか」
「身長?…いや、少し低い位じゃないかな」
それがどうした。と言いたげな彼をいさめ、家路につく。
私の身長は百五十六センチ。これより低いとなると、旧友が見た人物は田上良子ではないということだ。
動機、そして目撃証言からするとやはり田上良平は怪しい。だが、本当にそうなのか。
家に帰ると、珍しく母がいた。
「あら、お帰り」
「…ただいま」
母はキッチンに立ち、湯気の立ち上る鍋のなかをくるくるかき混ぜている。
「お昼たべたの」
「ううん」
「そうめんたべる?」
「うん」
袋からそうめんを大雑把に鍋に入れる母の隣で、私はテーブルの上を拭いた。
「そういえば」
「なに」
「今日お土産もらったの。お饅頭。食べていいよ」
居間のテーブルの上に緑の包みの箱がある。これがお土産のようだ。ひっくり返し包みをはがす。白い箱のふたを持ち上げ中身を見ると、子放送になった茶色い饅頭がいくつか入っていた。一つ取り、食べる。ぎっしりこしあんが詰まって、とても甘い。
「おいしい」
「そ」
棚からコップを二つ取り出し、冷蔵庫の麦茶を注ぐ。同じタイミングで母もテーブルにざるとお椀を二つ置いた。ざるに大量のそうめんが入っている。
席に座ると、母は唐突に言った。
「リョウヘイくんって覚えてる?」
「え?」
「俺、タカミリョウヘイっていうみたいなんですよ!」
「リョウヘイくん。覚えてない?」
彼の表情が脳をかすめる。冷静を繕い、母に聞いた。
「苗字は?」
「苗字?ああ、タカミさんよ」
タカミリョウヘイ。覚えてないわけがない。今さっきまでその人のことを調べていたのだ。でも、なぜ母がその名前を知っているのか。
「私、最近その子のお母さんと仲良くしててね。お饅頭、タカミさんに頂いたのよ」
母は私のことを見もせず話し続ける。
「家族で旅行に行ったんだって。すごいわよね、兄弟そろって名門の学校行ってるらしいよ」
「…へえ。思い出せないなあ」
「小学校の時かな。仲良くしてたでしょ」
やっぱり覚えてないか。母はあきらめたように言うと、豪快にそうめんをすすった。
私はそうめんどころではなくなり、席を立つ。母は咎めなかった。
自室に行き、小学校の卒業アルバムを探す。だが、小学校どころかほかのアルバムさえも見つからない。
「ねえ!私のアルバム知らない?」
そうめんをすする母に尋ねる。
「ああ、どっかやっちゃったかな…見たいの?」
「うん」
「しょうがないな、見つけといてあげるから、さっさと食べなさい」
母に促され、私は席に着く。そうめんをすすり、ぼんやり壁にかかった時計を見た。
タカミリョウヘイ。タカミリョウヘイが知り合いだったなんて。じゃあ、あのベンチに座っていたのは、私の小学生時代の友人?あのアパートに住んでいるのも、あの事件を起こしたのも?
箸はあまり進まず、ざるのそうめんはほとんど母の腹に収められた。
事件に関係してると思われる田上良平、私の幼馴染だというタカミリョウヘイ。二人は同一人物なのか。そして、ベンチに住む記憶喪失の彼は、本当にその人なのか。考えるうち、私の足は自然と公園に向かっていた。
しかし、肝心の彼はベンチにおらず、代わりに他の人が座っていた。それは、先日もこの公園に誰かを探しに来ていた青年だった。
その青年は私が近づいているのに気付くと、気まずそうに立ち上がった。
「あ、どうも」
「こんにちは。捜している人は見つかりましたか」
尋ねると、青年は少し困ったような顔になり、ゆるゆると頭を振った。その顔は少し青くなっていて、あまり触れられたくない話のようだ。
「ぶしつけだとは思いますが、なぜその人を捜しているのですか」
おそらく彼が捜しているのは、私がこのベンチで会っている男性に違いない。だが、もし私がおしえることで彼が事件に巻き込まれたりするようであれば、教えるわけにはいかない。私は彼の存在を教えるべきか迷った。
「…あなたはここによく来るんですか?」
質問を質問で返され少し驚いたが、「はい」ととっさに返事を返した。
「…夢遊病なんです、その人」
青年は言いづらそうにぼそぼそとしゃべる。目は地面を行ったり来たりしていた。
「寝てるときに出歩いちゃうんですけど、たいていこのベンチのあたりに来るんで、もしいなくなってもこの辺りに探しに来ればよかったんですが…最近見つからなくなって」
「以前捜しに来た時から、行方不明なんですか?」
聞くと、彼は首を振った。
「何度か家には帰ってきてます。ですが、最近いなくなる頻度が高い上に、見つけられもしないで…そんな姿を知り合いに見られたら…」
彼は一層顔色を悪くし、ベンチに座った。
「あなたのご家族なんですか?」
「…はい」
うつむく彼の隣に座る。彼は顔を両手でこすり、おもむろにポケットからスマートフォンを取り出した。
「連絡先、教えますので、見つけたら教えてください」
てきぱきと彼は自分の連絡先を私に伝えると、さっそうと帰って行った。
私のスマートフォンには「鷹見孝平」の連絡先が残された。
自室に戻り、ベッドに寝転がる。乾いた眼をギュッと閉じると、じわりと涙がにじんできた。
公園で会った、ベンチのタカミリョウヘイ。最近起きた事件の関係者だと思われる田上良平。幼馴染のタカミリョウヘイ。
タカミリョウヘイ、どれだけこの名前を聞いてきたことだろう。
加えて、先ほどあった青年。名前を鷹見孝平と言うらしい。彼もまたタカミであり、彼の家族となると、当然苗字はタカミなのだろう。そして名前。彼の名前が孝平であるなら、その男関係の親族にも同じように○平となる可能性は大いにある。つまり、鷹見孝平の捜している家族がタカミリョウヘイである可能性も出てきたわけだ。
目を見開く。視界を覆う白い天井に溜息をついた。この後どうするべきか、見当がつかない。
タカミリョウヘイの捜し物を見つける、そんな簡単に見つかるだろうか。捜すものも見つかっていないのに。
タカミリョウヘイの記憶を取り戻す手伝いをする。それはイコール、彼の捜し物を探す、と言うことになるんじゃないだろうか。
最も良いのは、彼が自分の記憶を自然と取り戻してくれることだが…難しいだろう。
なら、彼を早々に病院か警察に連れていくべきか。私が最もすべきなのはこれだろう。
でも、それをどこかで嫌がっている自分がいた。どうして?彼に会えなくなるのが嫌だから?彼の正体が知りたいから?
どれもこれも考えがまとまらない。いらだつ気持ちを押さえつけるように枕に顔を押し付けた。
今更、軽い気持ちで彼と関わったことを後悔し始めた。捜し物、なんて簡単なものじゃなかった。私は彼の助けになれない。
でも。彼と出会って悪いことばかりじゃなかった。彼と過ごした時間を思い出す。夏休みのほとんどを彼に費やした。そういえば、彼はいつも笑顔だった気がする。笑った時の目じりが頭に浮かぶ。
ああ、これはまずい。これは、この感情は。
「ありがとうございます」
彼の声が聞こえた気がした。
深く息を吐き、私は考えるのをやめた。
*
自分が何者なのか。変わりゆく体や記憶で、それを証明することはできない。
私が私であることを証明できるのは、今生きている自分だけだ。
*
天気は相変わらずの晴天で、抜けるように青い空はどこまでも続いていた。真っ白い入道雲は高く伸び、小さな私を見下ろしていた。
初めて会ったあの日のようにベンチの周りを徘徊する彼はどこか懐かしく、私の胸に小さな緊張感をもたらした。
もしあの時、彼に話しかけていなかったらどうなっていただろう。こんなふうに彼のことで悩むこともなく、長い夏休みをバイトに費やして、身近で起きているいろんな出来事に気づくこともなかっただろう。
私にとってどっちが幸せなのか、彼に話しかける選択をした私には、話しかけなかった私の心はわからない。
木の葉の影がベンチを覆う。アスファルトには黒い影の隙間からキラキラと光が覗いている。
「タカミさん」
声をかけると、彼はゆっくり振り向き、嬉しそうに笑った。
「おはようございます」
彼のもとへ近寄り、ベンチに腰を下ろす。彼も隣に座る。
久しぶりに履いたかかとの高い靴のせいで、足が疲れてしまった。家からそう遠くはないのに、これじゃ小走りもできない。
「今日、期限の日ですね」
どちらからともなくそう言った。今日がお別れの日。私と彼の約束の日だ。
「すみません、結局、タカミさんの力になれなかった」
「そんなことありません!あなたがいてくれて、どれだけ心強かったか」
そっと彼を見ると、彼はしっかりこちらを見て、ニッコリ笑っていた。その笑顔に、どれだけ癒されたことか。
退屈な日々から私を助けてくれたのは、むしろ彼のほうだった。
彼にそっと微笑み返し、空を仰ぐ。目の端に移るロープ。足元に埋まったナイフ。
彼は殺人犯なのか、夢遊病者なのか、私の幼馴染なのか、もう考えることはしなかった。〝彼〟といる今があれば、全てどうでもいい気がした。
少し勢いを失った蝉の鳴き声が耳に優しい。そよ風が頬をかすめ、私は目をつむった。
ラベルの海 はし @ksn8
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