第59話 【追記】神社

 上田正昭(京都大学名誉教授)によれば、古代の神社には「もり」、つまり建物はなく、森あるいは巨石を神の依り代として祀った。人工の建物を神域内に設けることは神意にそむくことであった。社殿を含め、形あるものを嫌うことは神社信仰の一つの大きな特色である。たとえば、神社には神像というものは存在しない。必ず常設の社殿の在るものでなければ神社ではないと考えたのは明治以降のことである。古来人びとは、神はときには天、あるいは海の彼方から来臨するものと信じていたのであり、今でも多くの神社で神迎え、神送りの行事を行うのは、その証拠である。このような心意は今なお多くの人びとの心の底にひそんでいると思われる。社殿のない聖地や森だけの神社が存在することはそのあらわれである。

 神社といえば本殿があり、拝殿のある鎮守のもりを想起するが、本殿という建物が具体化してくるのは、5世紀の古墳時代中期のころからであり、もともとは、社殿はなく、神の鎮まる山、すなわち神奈備かんなび(神体山)、聖なる樹木や柱(神籬ひもろぎ・神柱)、神聖ないわ(岩)や巨石(磐座いわくら磐境いわさか(環状列石))などが、神が降臨して鎮まる依り代であった。こうした信仰は縄文・弥生時代の木柱列や環状列石(いわゆるストーンサークル)にさかのぼる。神聖な木柱にカミが宿るとする信仰があった。また環状列石は墓地の可能性もあるが、なんらかの精霊と交流する場であったと思われる。

 神社や社を「もり」と呼ぶのは、聖なる樹林が神のやしろと見なされたことを物語る。その聖なる森が鎮守の森であり、人と神の接点であった。瑞垣みずがきは神殿や神地を囲み、聖域を区画・保護するための垣で、玉垣・斎垣・神垣ともいう。鎮守の森は寄り合いの場所であり、村のおさを中心にして自治をし、神の前で村の掟なども定めた。鎮守の森の手入れは村の人間で行うのが原則で、同時にそこは芸能の場所でもあった。鎮守の森は日本文化の基層を形づくり、それ故に守り生かされてきたのでもある。「出雲国風土記」の中で、秋鹿あいか郡の女心高野めごころたかのの条には、「上のほとりに樹木在り。これ即ち神のもりなり」とある。北側に樹木があって、その樹林そのものが神社であるという意味である。

 奈良県桜井市三輪の大神おおみわ神社には本殿はない。神奈備(神体山)は三輪山となる。この山には奥の磐座・中の磐座・の磐座の磐座群があって、今も山そのものが「お山」として祀られている。諏訪大社も本殿のない古社のたたずまいを今に伝えている。上社本宮の神奈備は守屋山である。また、諏訪四社の御柱祭は有名である。現在は本殿がある天理市の石上いそのかみ神宮、奈良市の春日大社、京都市の伏見稲荷、京都市の松尾大社などの古社も律令体制以前には本殿はなかった。本殿があり、拝殿のある神社が誕生したのは7世紀の天武の時代である。なお、京都市の伏見稲荷、松尾大社は渡来系のはた氏による建立であるが、祀っている神は在来の神で、その神体山「お山」はもりの後ろにある。渡来系だからといって渡来の神を祀っているとは限らないのである。


[神社の起源]

 神社信仰の成り立ちに朝鮮半島、特に弁韓(後の加耶)・辰韓(後の新羅)地域が深く関わっている。弥生時代から古墳時代にかけて朝鮮半島から渡来してきた人びとの多くは、距離の近さや海流からして、馬韓(後の百済)が立国する朝鮮半島の西部よりも加耶・新羅の国々が立国した朝鮮半島の東南部の人びとであった。したがって、加耶・新羅と倭国の関係は百済との関係よりはるかに古い。朝鮮式無文土器は北部九州や出雲地方の縄文・弥生遺跡から発見されている。このような弁韓・辰韓との古くからの関係を見えにくくしているのは、白村江の敗戦の後に渡来してきた百済人が編纂に参画した日本書紀の新羅敵視観にあるといえる。新羅による金官加耶の併合(532年)から始まり、加耶諸国の滅亡(562年)、そして白村江の敗戦(663年)に至る一連の出来事による新羅蕃国視、さらに下って明治以降の朝鮮蔑視から、新羅系神社の多くが白木・白城・白井・白国・白鬚などと名を変えた中で、今なお新羅神社を名乗る神社は数多くある。日本で最も数の多い神社である八幡神社・稲荷神社も元来は加耶・新羅系のはた氏が祀った神社であった。日本の祠堂しどう、即ち神社が、古代から現代まで国家の庇護を受け、その信仰が全国にわたっていまだに脈々と生き続けているのに対し、朝鮮の祠堂、即ちたんは後世に仏教・儒教が国教となったため、著しく衰退・変貌してしまった。神社の場合と同様、たんでも神樹が信仰の中心に位置する。大樹や古樹は神の依り代であり、神体そのものである。神社の原始の姿である森だけの聖地が、日本海沿岸・壱岐・対馬など朝鮮半島に近い地域にだけ分布していることは、かつて朝鮮半島の方にも同様な信仰があったことを暗示する。

 田中卓(元皇學館大學長)によれば、日本の神社史を考察する上で、最も基本的な課題は天神てんじん地祇ちぎの制度であった。あまつ神・くにつ神という観念は北九州からの東進以来すでに存在していたが、記紀によれば、崇神すじん期にしばしば災害や疫病が起こったため、神託に従って大和の地主の神を祀り、神地じんち神戸じんこの仕組みを新設し、崇神期に神祇じんぎ制度として組織された。例えば、出雲氏は、氏族の祖先神としてアメノホヒを祭っているが、同時にオオナムチも自らの信仰の対象として奉斎している。また、住吉大社の津守氏は、祖先神はアメノホアカリで、奉斎神はツツノヲである。祖先神と奉斎神とを使い分けて、天神・地祇を共存させている。しかし、大神おおみわ神社の三輪氏の場合は、祖先神はオオモノヌシで、奉斎神もオオモノヌシで同じである。


[神社の誕生]

 卑弥呼の倭国連合ができる前、日本列島は群雄割拠状態であり、大小様々な豪族が覇を競い合っていた。これらの豪族たちにはそれぞれ奉ずる神がいた。まさに八百万やおよろずの神の状態であった。この倭国連合が解消された後、それはおそらく台与とよの時代あるいはその後になると思われるが、日本列島は再び群雄割拠の時代に入る。こうしたなか太陽女神たる天照大神を奉ずる大王家が、他の豪族たちを次々と支配下に治め、ヤマト王権として頂点に立った。日本書紀の天武10年(681年)の条に「畿内及び諸国にみことのりし、天社あまつやしろ地社くにつやしろの神の宮(社殿)を修理(新造・修繕)させた」とある。信仰の統合はヤマト王権の覇権の確立でもある。また、皇祖神である天照大神の下に服属した豪族の神々を据え、地位と職能を与え序列化し、ヤマト王権の支配を盤石にした証しでもある。それは天武の時代であった。神社の建造が一般的になるのはこの7世紀後半からである。

 斉明5年(659年)に出雲宮の修造記事があり、これが事実上の出雲大社の造営の初例のようである。天武5年(676年)には大和国の広瀬神社の記事が現れた。古墳の造営が終末に近づくなかで、天武・持統期に氏族の過去にまつわる記事の提出を求め、氏族の祖先となる神々の確立とそれを祀るための常設社殿の造営を進めた。


[神宮と神郡・神階]

 古代において神宮号を持つ神社は伊勢いせ神宮・鹿島かしま神宮・香取かとり神宮のみであった。また、神宮の名称を持つ神社式内社は伊勢神宮と石上いそのかみ神宮のみである。鹿島神宮と香取神宮が厚遇されたのは、対蝦夷えみしの最前線基地を守護する神社であったためである。両神宮を整備し、軍神としての機能を強化したのは中臣なかとみ氏であった。

 神郡とは、中臣氏の申請により大化5年(649年)の孝徳期に朝廷から認められ、設置された神社の領地である。神郡を持っていたのは伊勢神宮・鹿島神宮・香取神宮・杵築きずき(出雲)大社・などごくわずかな神社に限られていた。それは畿外の特定神社の八神郡と推定されている。伊勢国度会わたらい郡の大神宮だいじんぐう度会わたらい宮、安房国安房郡の安房います神社、下総国香取郡の香取神宮、常陸国鹿島郡の鹿島神宮、出雲国意宇おう郡の熊野います神社、出雲郡の杵築大社、紀伊国名草郡の日前ひのくま神社と国懸くにかかす神社、筑前国宗像郡の宗像むなかた神社三座の八郡である。これら畿外の八神郡の神社と畿内の大和飛鳥を守護した大神おおみわ神社、難波宮に直結した住吉すみよし神社の祭神は、記紀神話の高天原・出雲神話に基づいて日本列島に配置された。

 神階とは神社の位である。奈良時代まで「伊勢神宮」、紀伊の「日前ひのくま国懸くにかかす神宮」、出雲の「杵築大社きずきのおおやしろ」には神階が与えられていなかった。別格であった。


 神社は律令国家大和朝廷による日本列島統一の前線基地であると同時に、畿内の文化を発信する場でもあったといえる。特に常陸の鹿島神宮と下総の香取神宮は、伊勢を出発地とした関東・東北地方の蝦夷えみし討伐の最前線基地としての役割を担わされた。入海であった霞ヶ浦や北浦、鬼怒きぬ川水系などに船で交通のし易い鹿島の地を根拠地にして香取と共に関東開拓に努めた。また、西日本・瀬戸内海地域については、住吉神社、紀の川河口を領域に治める紀伊日前ひのくま国懸くにかかす神社と、瀬戸内海航路を確保して玄界灘につながる宗像神社とが一帯となった海上安全、大陸との交流・防衛のための海の道であった。


大神おおみわ神社]

 奈良県桜井市。日本最古の神社と喧伝されている。2~3世紀ごろ奈良盆地に成立した初期ヤマト王権により最初に祭られたのが三輪みわ山(三諸みもろ山)の神霊であったことによる。三輪山を神体とし、本殿がなく、神体山を直接拝するという太古の神社の有り様を今に伝えていて名高い。朝廷からは伊勢神宮と並ぶ崇敬を受ける。大物主(オオモノヌシ)を主祭神とし、大己貴(オオナムチ)と少彦名(スクナヒコナ)を配祀している。出雲の神を大和の三輪山で祀るということは、弥生時代に出雲の勢力が大和に進出し、大和の国づくりをしたということと思われる。大物主の妻はヤマトトトヒモモソ姫(その墓は箸墓はしはか)。現在の祭祀形態は平安後期以降に成立したものである。出雲系の神社は全国に拡がっているが、とりわけ大和に多く、スサノオ、オオナムチ、事代主(コトシロヌシ)といった出雲の神々を祀る神社が「延喜式」に記録されている216社のうち3割以上を占める。三輪山周辺には出雲に関する地名も残っている。三輪山の南西麓に出雲という村があり、東麓の纏向まきむく遺跡の低地部はかつての出雲庄であり、遺跡からは出雲を含む山陰系の土器が多量に出土する。大和における出雲の色濃い痕跡は弥生時代まで遡るのは確かである。また、三輪山の東方一帯は都祁つげと呼ばれ新羅系渡来人の居住地であった。


石上いそのかみ神宮]

 奈良県天理市。伊勢神宮と並ぶ最古の神宮である。かつては本殿がなく、明治7年まで拝殿後方の禁足地に主祭神が埋納されていた。主祭神の第一の布都御魂ふつのみたまは神武東征のとき、カケミカヅチが天上から地上に下した神剣である。第二の布留御魂ふるのみたまはニギハヤヒが降臨する際に携えてきた天璽瑞宝十種あまつしるしみずたからとくさの神格化で鏡・剣・玉・比礼ひれ(布)からなり、鎮魂の儀式に用いられた。第三の布都斯魂ふつしみたまはスサノオがヤマタノオロチを斬った剣である。これは仁徳の時代に吉備から移されたといわれる。大伴氏とともに大連おおむらじとしてヤマト政権を支えた、ニギハヤヒを祖とする物部氏の氏神である。ヤマト政権の武器庫の役割も果たしていた。この神宮には七支刀しちしとうや鉄盾などの武器類も伝えられている。八坂瓊勾玉やさかにのまがたまが神武東征以後、どうなったかは記紀では説明されていない。それにたいして、丹波国のミカソが垂仁天皇に献上した八坂瓊勾玉は、物部氏が神宝を管理している石上いそのかみ神宮にあると述べている。石上神宮の十種の神宝はニギハヤヒが地上に降臨するとき天神が授けたとされるもので、瀛都おきつ鏡・辺都へつ鏡・八握剣やつかのつるぎいく玉・たり玉・死反しにがえし玉・道反みちがえし玉・蛇比礼ひれ・蜂比礼・品物くさぐさのもの比礼である。比礼はスカーフのような長い布である。その内容は天日槍あめのひぼこの神宝に近い。


鹿島かしま神宮・香取かとり神宮]

 鹿島神宮は茨城県鹿嶋市に鎮座し、祭神は武甕槌(タケミカヅチ)大神である。香取神宮は千葉県佐原市に鎮座し、祭神はフツヌシである。フツヌシもタケミカヅチも、火の神であるカグツチの子孫とされるが、本来は同一神であったと思われる。ニニギによる天孫降臨の成就以前に、アメノホヒ(出雲氏の祖先)の系統の神々(アメノワカヒコ等で、最後はアメノトリフネとタケミカヅチ)による葦原の中つ国(出雲)への降臨が次々と繰り返されたと伝承されている。鹿島神宮と香取神宮は霞ケ浦の入江付近に利根川を軸として対称の位置にあり、鹿島・香取の神と並称されるように両社の関係は深い。物部氏は、大和の東南部および河内の渋江を勢力拠点とし、フツヌシを奉斎する。したがって、最初は物部氏が鹿島・香取とも武神として祀っていたといわれる。6世紀後葉、仏教公伝を機に、崇仏をめぐって物部尾輿おこしと蘇我稲目いなめとの間で氏族をあげて対立が起こった。両氏の抗争は次の物部守屋もりやと蘇我馬子うまこへと引き継がれ、最終的には蘇我馬子が587年の丁未ていびの役で物部守屋を滅ぼして、蘇我氏が絶大な権力を掌握するにいたる。物部氏の勢力が弱体化すると、それに替わってタケミカヅチを奉斎する中臣氏が台頭し、当地を治めるようになった。鹿島・香取の宮司職には代々中臣氏が就任し、奈良の春日大社は当初、常陸の鹿島社の封戸ふこ(そこから徴収した税が俸禄として与えられる)で運営されていたといわれる。春日大社は、中臣鎌足かまたりの子、藤原不比等ふひとを初代とする藤原氏の氏神を祀るため768年に造営されたとされる。


 平安時代中期(905年~927年)に編纂された延喜式えんぎしきは一種の法典だが、この中に神名帳じんみょうちょうと呼ばれる巻があり、全国の官社が地域別に記載されている。一番上の伊勢神宮は別格で、その下に官幣大社198所、官幣小社375所、国幣大社155所、国幣小社2133所、がある。これらの官社は式内社しきだいしゃと呼ばれ、古代から篤く祭祀されていた由緒ある神社とみなされ、式内社であるかどうかが、一種の社格として機能することになった。対馬には式内社が29社もある。対馬は神々の島である。この神名帳に出てこない神社は「式外社」と呼ばれる。

 平安時代後半になると、諸国の官社は、中央から任地に赴いた国司が神拝する順序に応じて、一宮・二宮・三宮・・・と称されるようになり、これも社格になった。特に一宮はその国の総鎮守に位置付けられた。それは諸国一宮制である。このランク付けは天皇を頂点とし、貴族・豪族がその下にあって全国を統治する古代日本の政治システムをそのまま反映させたものであった。


 やがて畿内の文化を発信する場であった神社は、日本の独自文化となった。一方、日本において、儒教や仏教は文字を伴った新しい思想や技術の受容に重きを置くものであった。今日のキリスト教と同様、仏教の仏は外来神であり続けた。

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