第58話 【追記】日本の基層文化
基層文化とは日本文化の根幹をなしていて、今もなお大きな影響をもっている文化である。日本の文化は、混合文化とか、雑種文化とかいわれる。アジア大陸の東縁に位置している日本列島には、先史時代以来アジア大陸から押し出されてきた人や文化の波がいくつも押し寄せてきた。この幾重にもかぶさった文化の波が日本列島の中で、重層し合い累積してゆくなかで日本文化の特色が形成されてきたものと考えられる。
佐々木高明(元国立民族学博物館館長)によれば、稲作以前の日本列島には、中国江南・華南の山地から照葉樹林文化が伝来し、主として西日本を中心に展開した。さらに、中国東北部から北方系農耕文化が加わり、稲作以前の日本の農耕文化の基層を形づくった。これは日本文化の深層の一部を構成するものではあるが、日本の農耕文化の中核ではない。日本文化の中核は水稲稲作文化であることに変わりはないが、その文化の基層には焼畑に基礎を置く別種の農耕文化が存在する。稲作以前も以後も、日本の一般庶民の間ではイネとともにムギや雑穀やイモ類などが食糧として重要な役割を演じてきた。村の鎮守の秋祭りでも、イネの豊作ばかりではなく、常に五穀豊穣が祈願されてきたのも、アワ・ヒエ・ムギなどの雑穀や豆類・イモ類がイネと並ぶ重要な作物とする認識が広く農民の間に存在していたために他ならない。それは「餅なし正月」の慣行その他の民族例で実証されている。日本における田の神信仰の中には、稲作以前の縄文時代の焼畑農耕民のもつ山の神信仰にまでその源をたどることができるものもある。日本文化は稲作文化と非稲作(畑作)文化という二つの異質な文化によって構成され、長い歴史の過程の中で対立・抗争し、最終的に非稲作文化は稲作文化の中に同化されていった。
民族の結びつきの絆として重要な役割を果たす日本語の形成、水田稲作を基盤とする村落社会の成立、鉄器の製作と使用や機織などの生産技術の発達、そして稲作をめぐる新しい宗教観や世界観の創造など民族文化の原型は、稲作以前の縄文文化と融合しながら弥生時代に形成されたと考えられる。
このように、日本列島の歴史と文化は、内なる人びとのみによって形づくられてきたのではなく、縄文・弥生の時代から、大陸の北や南からから渡来した人びととの交わりによって展開され、変革や発展を経て、長い年月にわたって継承されてきた。稲作・青銅器・鉄器なども中国大陸や朝鮮半島から伝播したものである。しかし、我々の祖先は外来のものをすべて受容したのではない。例えば、儒教は書物による学問として受け入れたが、民衆を飼い馴らす能力を持つ普遍的思想(儒教・キリスト教・イスラム教など)として展開することなくおわった。都城制は中国の長安や洛陽に倣ったが、藤原京・平城京・平安京でも羅城(都城の城壁)は構築しなかった。地方の都市にいたるまで高い城壁に囲まれた中国、戦時に逃げ込む山城が広く分布する朝鮮の人びとにとって、城壁のない都は異様であった。中国の「随書」や「旧唐書」も、倭国には「城郭無し」と特筆している。官吏登用の試験の
また、日本の家庭では、神棚と仏壇が共存して祭られている。神社の氏子でお寺の檀家である。さらに別の宗教の信徒となっている人さえいる。一人一宗ではなく、一人多宗である。こうした現象は古くから存在した。日本では一つの宗教が他の宗教と習合する重層信仰が基本的な流れであった。「神か仏か」ではなく、「神も仏も」である。これは、日本人の主体性のなさを表すという言い方もされるが、その本質は、対決よりも調和を求める日本人のこころの
日本人は山川草木・人間・鳥獣などに神の存在を認め仰いできた万有生命信仰があった。あらゆるものに生命があるという信仰だが、それは多神教というより
日本文化には中国の江南地方に代表される南方的要素と中国東北地方に代表される北方的要素があるが、それぞれの要素が主にいつの時代にもたらされたのかは、すでに明らかになっている。
[縄文時代]
北方の要素:
主に東日本において、縄文時代の生業は落葉広葉樹林からのクルミ・トチ・クリ・ナラなどの堅果類の採集とサケ・マスなどの漁撈、あるいはシカ・イノシシ・クマ、海獣類などの狩猟がその中心である。その他には、竪穴住居、動物の毛皮の衣服、竪穴住居、縄文土偶、石
南方の要素:
ヒマラヤから中国南部を経て日本列島に達する照葉樹林帯に住む民族には共通した照葉樹林文化要素がみとめられる。主に西日本において、狩猟・漁撈・採集に加え、クワ科・エゴマ・シソ・ヒョウタン・ゴボウ・ウリ類などの半栽培植物の利用を行う。縄文後期になると、焼畑農耕によるアワ・ヒエ・シコクビエ・モロコシ・オカボ・イモなどの雑穀栽培が行われ、さらに、絹の製作、漆器の技法、飲茶の慣習、麹酒の醸造、納豆などの大豆の発酵食品、コンニャク、エゴマの利用、モチ種とモチ製品、ナレズシ、
[弥生時代]
南方の要素:
主に西日本において、水田稲作(温帯ジャポニカ米・稲作)が伝播した。その他には、貫頭衣、入れ墨(水中動物からの危害を避けるため)、鵜飼、など。
[古墳時代]
北方の要素:
朝鮮半島経由で東北アジアの青銅器・鉄器・馬文化が代表する支配者文化が伝来した。5世紀以降には、東日本の平野部にも畑作・牧馬文化が広く展開した。牧畜民が農耕民を征服・支配することで社会階層が発達し、国家形成に導かれるというプロセスがユーラシア大陸やアフリカ大陸では繰り返し起きたが、日本列島でも古墳時代にそれが起きている。但し、日本列島に伝来したのは、純粋な牧畜民ではなく、半農化した騎馬民族であった。具体的には、5世紀に到来した騎馬文化(応神・仁徳の河内王権)である。
民俗学者岡正雄はかつて日本列島に存在した種族社会を古い順に次の4つに分類・分析している。
1)母権的社会-Ⅰ
村落共同体・母系的な家族・母処婚・多婚的・血縁禁婚単位、これらを特質とする。したがって、血縁外婚が行われた。非公開的な成年成女式が行われたかもしれない。石器時代の抜歯風習も含まれるかもしれない。栽培民的・村落的母系社会であった。南中国・東南アジア・メラネシアの古層に存在した栽培民母権社会と関係している。秘密結社や仮面舞踏について、東北地方のナマハゲ・コトコト・バカバカという習俗や琉球におけるこれに類似する風習は、メラネシアとの驚くべき一致を否定しえない。
=> これらは縄文時代の南方の要素と思われる。
2)母権的社会-Ⅱ
村落共同体・母系的大家族・母処婚・過渡的な大家族外婚・一般的でなくとも女酋制度。父権的影響を多少受けている。栽培民的・村落的母系社会であった。南中国・東南アジア・太平洋の古層に存在した栽培民母権社会と関係している。
=> これらは弥生時代の南方の要素と思われる。
3)父権的社会-Ⅰ
村落共同体・年齢階級社会・若者宿・月経小屋・
=> これらは弥生時代後期の邪馬台国時代であり、南方の要素の上に北方の要素が入った初期段階と思われる。
4)父権的社会-Ⅱ
大家族・三段社会組織・ハラ外婚同族組織・五組織・職業団・父長権的種族長制・種族連合・種族的会議・軍隊組織・奴隷制・種族的王朝の発生・王朝的種族階級制・
=> これらは明らかに古墳時代の支配者文化の要素である。
また、岡正雄は記紀の神話を分析した結果、北方系と南方系に分けられるという。
北方系:
タカミムスヒを主神とする高天原神話の主要素の一つは、天神タカミムスヒが孫を山の峰に降下させて地上を統治させるということである。これは古朝鮮の檀君神話や六加耶国の祖が亀旨(きし・くじ)峰に天降ったという開国神話その他にも見られる。
南方系:
アマテラス神話、特に天岩戸神話のモチーフと同じ話は南中国の
タカミムスヒ神話は天孫(天皇)族に固有な種族祖神神話であり、アマテラス神話は天孫種族が朝鮮半島を経て日本列島に進入してきた以前にすでに日本列島に住み主として農業社会を形成していた民族の神話であったと思う。また、月神話とスサノオは多くの点で類似しており、両神話はおそらく同じ文化圏、それは農耕文化圏の産物であることは明瞭である。祖先崇拝は、死者崇拝・母系的色彩をもつ血縁的祖先崇拝の傾向が著しい。崇拝の対象は非常に具体的であり、神か人か、表象の分離が明確でなく、死者~祖先の形において表象されていることが多い。その出現は水平的に考えられている。また、巫女によるシャーマニズムは南方母権的農業社会に地盤があると思われる。
こうした南方的要素と北方的要素が長い時間をかけて混合・融合して、現代にまで伝わった文化をいくつかあげてみる。
1)森の文化
水田稲作を基本とした日本の農耕社会では、規模を拡大して粗放的にするよりも、労働集約的にした方が収量は多い。水田の背後の丘陵や山地に家畜を放牧するよりも森林を保存し、その森林の資源を水田の肥料や土木用材として利用する方が土地生産性を活用することにつながる。温暖で湿潤な気候においては、照葉樹林やブナ林が破壊された後には、二次林としてアカマツ・コナラ・クヌギなどの雑木林が再生する。こうした雑木林を里山と呼び、森林の再生力に強く依存する循環の地域システムを維持・発展させた。日本の基層文化には、縄文時代以来の森を核とする自然・人間循環系の文化の伝統が現在でも息づいている。たとえば、日本の山村にはトチモチやドングリ団子など縄文人と同じ方法で木の実を利用する伝統がつい最近まで残っていた。
2)
弥生文化の性格として、稲作農耕が前提になっているが、海人の漁撈文化も重要な要素である。時代が下って律令時代、海人集団がいた紀伊・豊後・尾張・隠岐には
3)稲の文化
日本の縄文時代の貝塚の数はヨーロッパにある新石器時代の貝塚の数より多いことから、世界各地と比較しても住みやすかったといえる。稲が朝鮮半島よりも日本列島で発達したということは、モンスーン地帯としての条件が朝鮮半島よりも適していたといえる。したがって、稲の種を持ってくる目的地として魅力的であったともいえる。稲は秋の収穫があって、その次の春までに植えなければ発芽率が激減するので、移住者は適地と知っていたからこそ、海を渡る危険を冒してでも朝鮮半島あるいは琉球諸島経由で日本列島にやって来たと考えられる。
4)モチの文化
ネバネバするモチ澱粉をおいしいと思うのは照葉樹林文化の特徴である。木の幹をくり抜いた
日本
① 多神教であり最高神がない
② 偶像やモーゼの十戒のような戒律が相対的にない
③ 霊の概念的認識や霊の人格化が弱い
④ 来世(死後の世界)の状態を認識していない
⑤ 深く熱心な信仰が一般的にない
しかし、神道は多様であり、②の戒律が相対的にない、④の死後の世界の状態を認識していない、以外は必ずしもその通りであるともいえないとする。例えば、①の多神教とされることについては、日本の神道は天地創造の神々をはじめ、尋常ならず
また、アストンは鎮守の森を中心とする民俗神道について、「民間伝承や慣習のなかに長い間生き続けるだろうし、日本人の特徴である最も単純で、最も物質的な神の側面への生き生きとした感受性のなかに長らく生き続けるだろう」と結論づけている。
民族学者谷川健一は、「日本の神の源流をたどってみると、西洋の神にみるような、意志をもち人格をそなえた存在からはなはだ遠いものをカミと呼んでいることを知る」と指摘している。本居宣長は「
司馬遼太郎は神道について次のように述べている。
“古神道というのは、真水のようにすっきりとして平明である。教義などはなく、ただその一角を清らかにしておけば、すでにそこに神がおわす。元来、神道は、神名や神体があろうがなかろうが、成立する。神職が一切洩らさないということも、神道の不文の教義らしい。伊勢神宮の20年毎の建替え(式年遷宮)が制度として、初めて実施されたのは、持統4年(690年)で、以後、今日に至る。伊勢信仰には、新しいものに命が宿るという思想がある。正月元旦の朝に初めて汲む水のことは若水とされる。若松が正月のめでたさをあらわし、松の若葉のことをとくに若緑と呼ぶのが、年の始めの
これら古い時代から長い年月にわたって引き継がれてきた四つの文化と神道を具体化したものが神社であり、日本の基層文化を代表するものといえる。
梅原猛は、“寺は必ずしも森を必要としないが、神社には必ず森がある。これは日本において神様のいるところは必ず森でなくてはならないということを意味する。それは縄文の神と弥生の神との連続性を示し、神道というものはこの縄文の山の神・森の神の崇拝にもとを発するものである。そして弥生時代以後に山の神・森の神が田の神にもなるが、このことは縄文の神が弥生時代にも生き残り、現在の日本人にも神として崇拝されていることを示すものである”、として、縄文文化は日本の基層文化の中に今も強く生きているという。
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