第52話 倭王とはどんな存在であったのか?
ここまで倭王の系譜を見てきたが、最後に倭王とは一体どんな存在であったのかを考えたい。
記紀に記された倭王の系譜を振り返ってみると、3世紀後葉~4世紀初頭に北部九州の
水野祐は、“日本の王統というのは、欽明朝以後、アマテラスの信仰が伊勢に結びついて日の神の信仰に統一されるまでは、いろいろな系統の人が大王に擁立されて、そうした緒氏族の葛藤が5世紀、6世紀の歴史をつくっている。日本の支配者というのはただ単なる武力とか、経済力でものをいうのではなく、神聖なもの、それに対する尊敬というものが基本にある。シャーマニズム的な信仰で卑弥呼が擁立されたときも、みんなが黙って従った。神聖なるが故にみんなが承諾し、やがて万世一系の天皇という観念を植えつけていく。だから、皇統が一つでなければならないという観念は欽明朝、6世紀半ばから7世紀にかけて次第に台頭していった。それが「
天武が681年に帝紀と上古諸事の記定を命ずる
「日本に古代があったのか」の中で、井上章一(日本文化研究センター教授)は律令制について、次のような興味深い考えを述べているので紹介する。日本は土地公有が原則の原始共同体である古代国家を経験せずに、3世紀の女王国の時代にいきなり中世(封建)国家に突入したというものである。
“中国ではBC3世紀から2世紀まで秦・漢が中国全土を統一して強大な大帝国を建設する。中国ではここまでが古代で、3世紀の三国時代から地方分権の中世となる。中国史学者の宮崎市定の定義である。そうであれば、飛鳥・奈良時代の日本が手本とした隋・唐は古代ではなく、中世である。ヨーロッパではローマ帝国の最盛期がBC3世紀から紀元後4世紀で、ここまでが古代で、西ローマ帝国の崩壊後(476年)は中世になる。ヨーロッパの後進民族であるゲルマンは、ローマ帝国が衰亡し、中世に移行する4~5世紀にローマ帝国に侵入し、ローマの影響のもとに中世的国家を形成した。日本は東洋において後進国であり、7~8世紀にようやく古代国家の段階に達したと思われたが、実際は3世紀の卑弥呼の女王国の時代から中世(封建)国家が始まり、古代国家の段階を経なかったということである。古代とは土地公有が原則の原始共同体である。共同体は支配のためには便利であるが、武力の増強、収奪の強化のためには不便なのである。律令制は国・評・里の行政組織を整備し、中央集権と公民制による古代国家を成立させたが、実態は地方分権の封建社会であった。”
このことは何を意味するのか? 生活に供する金属器がほとんどなく、石器時代と変わらない弥生時代の素朴な集落に、いきなり鉄の武器と農具を持込んだ人びとがいた。それらの集落は2世紀に小さいながらもそれぞれが「クニ」へと発展した。その「クニグニ」の連合体が3世紀の女王国の倭国である。したがって、その「クニグニ」の連合体は地方分権の封建社会であり、その後の8世紀の律令制国家もその実態は地方分権の封建社会であったということである。これは倭王とはどんな存在であったのかを考えるうえで参考になると思う。
701年の大宝律令の施行から始まった倭(日本)における天皇を中心とした中央集権国家へと至る道は第50代
日本列島において、先住の縄文人と外来の弥生人が混住・混血することによって2世紀ごろまでに誕生した倭人は、その後、4世紀から5世紀にかけて朝鮮半島から先進文化を持って渡来してきた人びとによって支配された形になった。しかし、実際は圧倒的多数の農耕民や漁労狩猟民であった倭人たちの集落は先進文化の恩恵を多少なりとも受けたとはいえ、弥生時代と大差なく日本列島各地に存在し続けていた。では、倭王とは一体どんな存在であったのか? 中国の史書には、中国的な意味の倭王は登場するが、それは中国人が考える「王」である。女王卑弥呼にしても倭の五王にしても、日本列島においては中国人が考える武力で民衆を抑えつけ、絶対的な権威をもった「王」ではなかった。日本における王や天皇は、常にそのときの有力者たちによって担がれ、支えられた存在であった。したがって、外見や体力が人一倍優れ、しかもリーダーシップもある男性である必要は必ずしもなかった。それよりも、その地域のクニグニの人びとがまとまることができる存在のほうが必要とされたのである。
3世紀の卑弥呼の女王国は連合国家だった。古墳時代になってからも連合国家が続いており、卑弥呼から台与への継承のように、そのときの状況により国内的にも対外的にも都合の良い人を倭王としていただけである。実際は、各地の豪族たちはそれぞれが王と称していたのかもしれない。各氏族なり豪族たちはそれぞれ独自の地域で支配権を持ちながら寄り集まり、そのときの最も有力な豪族が実質的な倭王であったと思われる。
5世紀前半の段階では、畿内の大王墓に匹敵するような巨大古墳が吉備にもあり、畿内では葛城地方に大王墓に準ずる200メートルを超える巨大な前方後円墳が代々造られていた。少なくとも5世紀の中ごろまでそういう状況が続いた。5世紀初頭の仁徳の時代から7世紀前半ごろまでにかけて、河内・大和を中心とした一つの王権はあるが、その王権は各豪族の連合体で組織され、
また、律令国家以前には、有力な豪族たちは独自に朝鮮半島諸国と交流し、渡来系氏族を取り込みながら先進文化や技術を取り入れていた。古墳時代前期の4世紀から5世紀前半までは
直木孝次郎は「大化以前の都」のなかで次のように述べて、豪族の力の強さを論じている。
“古代の都というのは、5世紀から6世紀にかけては、河内にもあり、大和にもあり、大和でも
6世紀末から7世紀に隋・唐という強大な中国の統一王朝ができたことは倭国にとっても大きな脅威であったが、国家体制を中央集権化していく契機ともなった。倭国は5世紀後葉の倭王
中央集権的な専制君主を目指したとされる天智・天武・持統の時代になってからも、そのときの一番有力な豪族や貴族がリーダーとなり、群臣と協議し、政治を動かしていた。したがって、大王家とはいったい何であったのか、実態はあったのか、はなはだ疑問である。そのときの有力な豪族や貴族が、自分の家系を大王家の系譜に入れ込むため、自分の娘と結婚させ、男子を生ませ、その子に大王を名乗らせれば、その豪族や貴族は大王家になれたのでないかと考えられる。
古代の日本(倭国)は男が女の家に通う
文献に名が残っている最初の倭王は、漢の
水野祐によれば、万世一系の思想が形を整えたのは、中央集権的な律令制が「
このように、日本の天皇の血筋は一系であり、天照大神の直系裔孫が皇位を継承することこそ古来の法であるという考え方は、天武・持統のころに形成された。この思想の上に日本書紀は編纂された。日本の歴史の推移の中で、いかなる社会的・政治的激動にあっても、その事態に耐え、厳然として天皇家がその地位と身分が保持されてきたのは、単に天皇の権力によるものとしては理解できない。日本人自身がその権威と地位を公認し、必要性を承認していたからに他ならないのである。
平安時代後期に入って摂政・関白が政治を執行するようになると、宮中は祭祀を中心とする場となり、1192年に源頼朝が征夷大将軍となってからは幕府政治が日本の政治をリードした。王道は天皇、覇道は幕府という体制は鎌倉・室町・江戸の各幕府に受け継がれた。
司馬遼太郎は歴世の天皇の非政治性について次のように語っている。
“天皇のあり方と武家(将軍・大名)制度における君主とは当然違っているが、形としては平安朝以来、君臨すれども統治せずという伝統が続いてきた。「天皇とはなにか」、少なくとも摂関(摂政・関白)政治以後は、神もしくは神主である性格がより濃厚になった。だから、いかなる動乱の世でも京都の御所だけはおかされなかった。応仁の乱前後、京都で盗賊が横行し、あらゆる物持ちの家や倉は常に脅かされているのに、盗賊は塀一重の御所にだけは入らない。天皇だけでなく
織田信長は日本列島内で中央集権的な絶対君主を確立し、当時世界一といわれる鉄砲隊を武器に、その後に朝鮮半島、そして中国大陸への進出を目指していたといわれるが、その信長でさえ自分が天皇になろうとは考えていなかった。その意志を継ごうとした秀吉も関白にはなったが、天皇にはならなかった。信長も秀吉も倭人以来の一人の日本人であった。
次の徳川期における天皇の地位は、各地の大名を統制し、監視する「武家諸法度」を補完するものとして出た「禁中並公家諸法度」によって行動を制限され、縛りつけられた山城の国の小大名であった。天皇は一切の政治から切り離され、一般社会からも孤立させられて、何事も幕府の指示・指令・干渉によって、その限りで行動した。例えば、栄典の授与、暦の制定、元号の制定がそうであった。わずかに、学問と技芸、皇室自体の神事などが許されていた。その天皇が徳川を征夷大将軍に任ずるという形で合法化し、その天皇が今度は逆に徳川によって権威づけられるという形で生き残った。幕末の一時期を除けば、徳川時代の政治的・宗教的最高権力と権威は徳川にあり、天皇や伊勢神宮にはなかった。伊勢神宮は、一部の国学者によって持ち上げられ、また伊勢の
しかし、江戸末期になり、西欧列強によるアジア諸国の植民地化に直面した日本は、またしても古代の豪族連合ともいえる薩長土肥の連合軍が主体となって明治新政府を創り、西欧列強に対抗しようとした。そのとき、日本人を一つにまとめるために7世紀に天武が創った天皇親政という皇親政治を利用した。7世紀の皇親政治確立の背景には、663年の白村江の大敗後の唐・新羅連合軍による倭国侵攻という脅威に直面して、倭国が一つにまとまって唐・新羅連合軍に対抗しなければならなかったという切実な状況にあった。明治新政府も西欧列強による日本侵略の脅威という同じような状況にあった。だから日本の国を一つにまとめるために7世紀の皇親政治を利用したのである。7世紀の皇親政治も、19世紀の明治新政府も、その天皇の実態は河内・大和・近江・越・伊勢・尾張・美濃の豪族連合や、薩長土肥という地方の有力藩の連合政府の上に乗っている象徴的な天皇であった。しかし、それは水野祐が述べているように、日本人自身がその権威と地位を公認し、必要性を承認していたからに他ならないのである。
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