第52話 倭王とはどんな存在であったのか?

 ここまで倭王の系譜を見てきたが、最後に倭王とは一体どんな存在であったのかを考えたい。


 記紀に記された倭王の系譜を振り返ってみると、3世紀後葉~4世紀初頭に北部九州の伊都いと国から大和に来た崇神すじん、その後、加耶かやにルーツを持ち北部九州を経て、5世紀初頭に河内の難波なにわに来た仁徳にんとくは、百済の将軍であったと伝えられる木羅斤資もくらこんし、すなわち武内宿禰を祖とする葛城系の氏族に擁立された。その河内王権が断絶して、今度は丹波系の氏族が飯豊いいとよを擁立したが、一代で崩壊すると、次は近江の息長おきなが系の氏族が継体けいたいを擁立して、大伴氏と結びついて出てくる。その後には任那みまな系の欽明きんめいが蘇我氏に擁立された。その開明的な蘇我氏を打倒したのが孝徳こうとく天智てんじ天武てんむ兄弟だった。天智は近江に都を遷し、百済王室とも近かった。一方、天武は美濃・尾張・信濃など東国の地方豪族の支持を得て大王位に就いた。その次の持統じとう元明げんめい、この二人の女帝の父は天智である。古事記・日本書紀は主にこの時期に編纂された。このように倭王の系譜は東アジア情勢を反映して目まぐるしく交代している。それでも前の王統を全く無視しているわけではなく、対立・抗争の後には融合を図ろうとした形跡がある。倭王を支えるそのときどきの豪族たちは、古くからの倭王の血筋をひく大王を擁立することによって畿内を中心とした倭国がまとまれるようにしていたと思われる。


 水野祐は、“日本の王統というのは、欽明朝以後、アマテラスの信仰が伊勢に結びついて日の神の信仰に統一されるまでは、いろいろな系統の人が大王に擁立されて、そうした緒氏族の葛藤が5世紀、6世紀の歴史をつくっている。日本の支配者というのはただ単なる武力とか、経済力でものをいうのではなく、神聖なもの、それに対する尊敬というものが基本にある。シャーマニズム的な信仰で卑弥呼が擁立されたときも、みんなが黙って従った。神聖なるが故にみんなが承諾し、やがて万世一系の天皇という観念を植えつけていく。だから、皇統が一つでなければならないという観念は欽明朝、6世紀半ばから7世紀にかけて次第に台頭していった。それが「壬申じんしんの乱」で天武天皇が親政を断行するという段階で、天皇家というのものを神聖なものとして確立した。そこで万世一系の思想も確立した”、と王統について総括している。

 天武が681年に帝紀と上古諸事の記定を命ずるみことのりを発して、古事記・日本書紀の編纂を命じたのは、最初に大和に王権らしきものを打建てた呪術的な崇神の三輪王権にまでさかのぼって、何系であろうと歴代すべての王権を網羅したヤマト王権を創りあげようとしたとしか思えない。万世一系の思想は律令制に基づく中央集権の国を作り、国力を最大化するための最良の方法であった。


 「日本に古代があったのか」の中で、井上章一(日本文化研究センター教授)は律令制について、次のような興味深い考えを述べているので紹介する。日本は土地公有が原則の原始共同体である古代国家を経験せずに、3世紀の女王国の時代にいきなり中世(封建)国家に突入したというものである。

 “中国ではBC3世紀から2世紀まで秦・漢が中国全土を統一して強大な大帝国を建設する。中国ではここまでが古代で、3世紀の三国時代から地方分権の中世となる。中国史学者の宮崎市定の定義である。そうであれば、飛鳥・奈良時代の日本が手本とした隋・唐は古代ではなく、中世である。ヨーロッパではローマ帝国の最盛期がBC3世紀から紀元後4世紀で、ここまでが古代で、西ローマ帝国の崩壊後(476年)は中世になる。ヨーロッパの後進民族であるゲルマンは、ローマ帝国が衰亡し、中世に移行する4~5世紀にローマ帝国に侵入し、ローマの影響のもとに中世的国家を形成した。日本は東洋において後進国であり、7~8世紀にようやく古代国家の段階に達したと思われたが、実際は3世紀の卑弥呼の女王国の時代から中世(封建)国家が始まり、古代国家の段階を経なかったということである。古代とは土地公有が原則の原始共同体である。共同体は支配のためには便利であるが、武力の増強、収奪の強化のためには不便なのである。律令制は国・評・里の行政組織を整備し、中央集権と公民制による古代国家を成立させたが、実態は地方分権の封建社会であった。”

 このことは何を意味するのか? 生活に供する金属器がほとんどなく、石器時代と変わらない弥生時代の素朴な集落に、いきなり鉄の武器と農具を持込んだ人びとがいた。それらの集落は2世紀に小さいながらもそれぞれが「クニ」へと発展した。その「クニグニ」の連合体が3世紀の女王国の倭国である。したがって、その「クニグニ」の連合体は地方分権の封建社会であり、その後の8世紀の律令制国家もその実態は地方分権の封建社会であったということである。これは倭王とはどんな存在であったのかを考えるうえで参考になると思う。


 701年の大宝律令の施行から始まった倭(日本)における天皇を中心とした中央集権国家へと至る道は第50代桓武かんむ天皇時代の長岡京への遷都(784年)、その後の平安京への遷都(794年)までには一応の完成をみたようである。それはどのような中央集権国家で、倭国(日本)における倭王、後の天皇とは一体どんな存在だったのだろうか?


 日本列島において、先住の縄文人と外来の弥生人が混住・混血することによって2世紀ごろまでに誕生した倭人は、その後、4世紀から5世紀にかけて朝鮮半島から先進文化を持って渡来してきた人びとによって支配された形になった。しかし、実際は圧倒的多数の農耕民や漁労狩猟民であった倭人たちの集落は先進文化の恩恵を多少なりとも受けたとはいえ、弥生時代と大差なく日本列島各地に存在し続けていた。では、倭王とは一体どんな存在であったのか? 中国の史書には、中国的な意味の倭王は登場するが、それは中国人が考える「王」である。女王卑弥呼にしても倭の五王にしても、日本列島においては中国人が考える武力で民衆を抑えつけ、絶対的な権威をもった「王」ではなかった。日本における王や天皇は、常にそのときの有力者たちによって担がれ、支えられた存在であった。したがって、外見や体力が人一倍優れ、しかもリーダーシップもある男性である必要は必ずしもなかった。それよりも、その地域のクニグニの人びとがまとまることができる存在のほうが必要とされたのである。


 3世紀の卑弥呼の女王国は連合国家だった。古墳時代になってからも連合国家が続いており、卑弥呼から台与への継承のように、そのときの状況により国内的にも対外的にも都合の良い人を倭王としていただけである。実際は、各地の豪族たちはそれぞれが王と称していたのかもしれない。各氏族なり豪族たちはそれぞれ独自の地域で支配権を持ちながら寄り集まり、そのときの最も有力な豪族が実質的な倭王であったと思われる。

 5世紀前半の段階では、畿内の大王墓に匹敵するような巨大古墳が吉備にもあり、畿内では葛城地方に大王墓に準ずる200メートルを超える巨大な前方後円墳が代々造られていた。少なくとも5世紀の中ごろまでそういう状況が続いた。5世紀初頭の仁徳の時代から7世紀前半ごろまでにかけて、河内・大和を中心とした一つの王権はあるが、その王権は各豪族の連合体で組織され、葛城かつらぎ大伴おおとも物部もののべ蘇我そがというような有力な外戚や豪族の力で動かされていた。大王自身の権威や武力は初めからそれほど強くなく、豪族連合の上に乗っている象徴のような存在であった。したがって、外戚や豪族同士の抗争により頻繁に大王は交代させられた。そのときの外戚や豪族が強ければ、蘇我氏が崇峻すしゅんを暗殺したようなことは起こりえた。 

 また、律令国家以前には、有力な豪族たちは独自に朝鮮半島諸国と交流し、渡来系氏族を取り込みながら先進文化や技術を取り入れていた。古墳時代前期の4世紀から5世紀前半までは和邇わに・葛城政権、5世紀後半からは大伴政権になり、渡来人を積極的に取り込んだ。また、大伴氏は親百済の立場で積極的外交を推進し、軍事拠点の港や津の掌握を目的として河内を重要視した。6世紀半ばには大伴氏に代わって物部氏・蘇我氏が勢力を有した。蘇我氏は葛城氏から分立した勢力と考えられている。


 直木孝次郎は「大化以前の都」のなかで次のように述べて、豪族の力の強さを論じている。

“古代の都というのは、5世紀から6世紀にかけては、河内にもあり、大和にもあり、大和でも磐余いわれ石上いそのかみ泊瀬はつせという所にあった。継体の6世紀以降は磐余とその周辺の地域に固まり、6世紀の末からは飛鳥あすかのほぼ数キロ以内に固まってくる。ということは政権が次第に安定してきているということになる。都が転々と移動するのにはいろいろな事情があるが、大王の母親、すなわち前の大王の妃を出している豪族の力が左右して、大王は母方の豪族の勢力に依存する必要から、大王の母親の出身地に宮を置かなければならなかったという説がある。ところが、権力が集中されてくると、制度や財政機構などが整ってきて、宮を遠い所へ遷すことが難しくなってきた。したがって、飛鳥の地域に宮が集まってきたと考えられる。また、豪族も次第に淘汰されてきて、5世紀末か6世紀の初めには平群へぐり氏が滅び、6世紀に入ると継体の擁立を推進して勢力のあった大伴氏が勢力を失い、6世紀末には物部氏が力を失い、蘇我氏だけが残った。そして蘇我氏と大王家の二頭政治となり、それによってさらに権力の集中が行われ、律令制の前提となる官司制的なものも取り入れられて、制度的にも固まってきた。そうなると道路の整備も必要となってきた。日本書紀の推古21年(613年)の条に、「難波なにわより京に至る大道を置く」という記事がある。6世紀末に隋という強大な国が中国に現れ、倭国も朝鮮諸国と連絡を密にして、大陸の情報を得る必要に迫られたので、「大道を置く」ということになったと思われる。7世紀に入って、朝鮮諸国や隋との交渉が盛んになると、外洋航行をする大きな船では大和川をさかのぼれないので、難波は飛鳥の都の外港として栄えるようになった。そして7世紀初めから中葉にかけて、難波と京をつなぐ道路が整備され、645年の大化の改新の時に都が飛鳥あすかから難波なにわへ移ってゆく前提をなしたと考えられる。”


 6世紀末から7世紀に隋・唐という強大な中国の統一王朝ができたことは倭国にとっても大きな脅威であったが、国家体制を中央集権化していく契機ともなった。倭国は5世紀後葉の倭王(雄略)以来、約100年ぶりに対中国外交を再開した、600年の遣隋使である。その後、唐・新羅連合による百済滅亡(660年)、白村江の敗戦(663年)、高句麗滅亡(668年)、新羅による朝鮮半島統一(676年)という国際情勢のなかで、白村江の敗戦後に日本列島でも中央集権的な国家を作るという意識が急速に働いた。その結果が701年の大宝律令、718年の養老令となり、中央集権の律令国家の樹立となった。しかし、日本には現在に至るまで中国のような専制君主国家はついに出現しなかった。なぜだろうか? 中国では秦の始皇帝にしろ、漢の劉邦にしろ、魏の曹操にしろ、自ら中央や地方の豪族を打ち破り皇帝の地位を勝ち取った。したがって、国の全権を握っている。しかし、日本の場合、豪族間の派閥争いや話し合いの結果、その時の一番有力な豪族にとって都合の良い者が大王に擁立されているため、大王が全権を掌握するということはなかった。


 中央集権的な専制君主を目指したとされる天智・天武・持統の時代になってからも、そのときの一番有力な豪族や貴族がリーダーとなり、群臣と協議し、政治を動かしていた。したがって、大王家とはいったい何であったのか、実態はあったのか、はなはだ疑問である。そのときの有力な豪族や貴族が、自分の家系を大王家の系譜に入れ込むため、自分の娘と結婚させ、男子を生ませ、その子に大王を名乗らせれば、その豪族や貴族は大王家になれたのでないかと考えられる。

 古代の日本(倭国)は男が女の家に通う妻問婚つまどいこんであったことも有力豪族が大王に自分の娘を嫁がせた大きな理由であった。妻問婚つまどいこんは女系制の伝統のある社会など母権の強い民族に多く見られる婚姻形態で、普通、子は母親の一族に養育され、財産は娘が相続する。かつてこうした婚姻形態を持っていた民族として有名なのは、インド南部ケララ州に住むドラヴィダ人、中国東北地方南部から朝鮮半島北部を領有した高句麗、古代の日本といわれる。高句麗は夫餘ふよの一派なので夫餘も妻問婚つまどいこんであったと推測される。


 文献に名が残っている最初の倭王は、漢のの国王、または漢の委奴いと国王、その次は卑弥呼ひみこ台与とよ、そして大和の崇神すじん、次に筑紫の景行けいこうから河内の仁徳にんとく雄略ゆうりゃくへと続いた後に、越から来た継体けいたい、さらに任那みまな系の欽明きんめいへと続いた。倭王として真の実力者は、支配地域は限られてはいたが、伊都いと国王、崇神、景行、仁徳、雄略、そして天武てんむであったと思われる。しかし、その実力者においてさせ、有力な豪族たちの協力は必須だった。畿内での倭王権を支えたのは河内・大和・近江・越・伊勢・尾張・美濃の豪族たちであった。ここから大王の生母が多く出ている。しかも、三種の神器は、記紀では天孫降臨の際に天照大神がニニギに授けたとされるが、八咫やたの鏡は伊勢の伊勢神宮に、草薙剣くさなぎのつるぎは尾張の熱田神宮に、八坂瓊勾玉やさかにのまがたまは大和の天理の石上いそのかみ神宮にと分散されている。このことからも現在にまでつながる万世一系の天皇家という存在に疑いが生じる。継体の本拠地は近江であり、「壬申じんしんの乱」のときに天武を支えたのは、大和・伊勢・尾張・美濃の豪族たちであった。また、畿内の倭王権の大王たちは、今来いまきの渡来人を支配下において利用し、官位を与えたがそこまでであった。やがて今来いまきの渡来人たちは倭人として吸収されてしまった。飛鳥時代以降、大和朝廷となってからもこの河内・大和・近江・越・伊勢・尾張・美濃の豪族連合体が天皇家を支えて平安時代まで続いたと思われる。この有力な豪族連合体による支配が、倭人そして、その後の日本人の気質には合っていたのである。


 水野祐によれば、万世一系の思想が形を整えたのは、中央集権的な律令制が「乙巳いっしの変」と「大化の改新」を通して成立し、その後の「壬申じんしんの乱」を経過して、天武の皇親政治下において初めて古代天皇制が確立されるという二段階を経てからのことである。日本の万世一系は、天照大神あまてらすおおみかみと一体となるということが日本の天皇の地位の定立であり、血統がたとえどうであろうが、そういう儀式を行って天照大神の神霊を天皇自身が身に体して天照大神と同体となるということで、天皇として万人が承認することになる。それが即位の大嘗祭だいじょうさいにおける儀式である。天武の治世下において万世一系の思想が固定化され、それまでばらばらであった帝紀や系譜が天照大神以来一つの血統として完全にまとめられてきた。それが完成されたのが古事記であり、日本書紀である。それによって確実な形となって今日に残されたものである。

 このように、日本の天皇の血筋は一系であり、天照大神の直系裔孫が皇位を継承することこそ古来の法であるという考え方は、天武・持統のころに形成された。この思想の上に日本書紀は編纂された。日本の歴史の推移の中で、いかなる社会的・政治的激動にあっても、その事態に耐え、厳然として天皇家がその地位と身分が保持されてきたのは、単に天皇の権力によるものとしては理解できない。日本人自身がその権威と地位を公認し、必要性を承認していたからに他ならないのである。 


 平安時代後期に入って摂政・関白が政治を執行するようになると、宮中は祭祀を中心とする場となり、1192年に源頼朝が征夷大将軍となってからは幕府政治が日本の政治をリードした。王道は天皇、覇道は幕府という体制は鎌倉・室町・江戸の各幕府に受け継がれた。


 司馬遼太郎は歴世の天皇の非政治性について次のように語っている。

“天皇のあり方と武家(将軍・大名)制度における君主とは当然違っているが、形としては平安朝以来、君臨すれども統治せずという伝統が続いてきた。「天皇とはなにか」、少なくとも摂関(摂政・関白)政治以後は、神もしくは神主である性格がより濃厚になった。だから、いかなる動乱の世でも京都の御所だけはおかされなかった。応仁の乱前後、京都で盗賊が横行し、あらゆる物持ちの家や倉は常に脅かされているのに、盗賊は塀一重の御所にだけは入らない。天皇だけでなく大神主だいかんぬしである天皇の眷族けんぞく(親族)である公卿くげの家にも入らない。驚くべきことである。盗賊すら神聖血族集団ということを認めていた。神であることの無害さは、なまぐさい現実の政治をやらなかったことにある。これが日本的な、そうあるべき自然の姿だったと思う。”


 織田信長は日本列島内で中央集権的な絶対君主を確立し、当時世界一といわれる鉄砲隊を武器に、その後に朝鮮半島、そして中国大陸への進出を目指していたといわれるが、その信長でさえ自分が天皇になろうとは考えていなかった。その意志を継ごうとした秀吉も関白にはなったが、天皇にはならなかった。信長も秀吉も倭人以来の一人の日本人であった。

 次の徳川期における天皇の地位は、各地の大名を統制し、監視する「武家諸法度」を補完するものとして出た「禁中並公家諸法度」によって行動を制限され、縛りつけられた山城の国の小大名であった。天皇は一切の政治から切り離され、一般社会からも孤立させられて、何事も幕府の指示・指令・干渉によって、その限りで行動した。例えば、栄典の授与、暦の制定、元号の制定がそうであった。わずかに、学問と技芸、皇室自体の神事などが許されていた。その天皇が徳川を征夷大将軍に任ずるという形で合法化し、その天皇が今度は逆に徳川によって権威づけられるという形で生き残った。幕末の一時期を除けば、徳川時代の政治的・宗教的最高権力と権威は徳川にあり、天皇や伊勢神宮にはなかった。伊勢神宮は、一部の国学者によって持ち上げられ、また伊勢の御師おんしは暦を持って農村と都市の住民の中に広く入っていた。そして、講のようなものを作り、お伊勢詣りを組織した。それは民衆のレクリエーションであり、天皇家とは別個の役割を持っていたというものである。

 しかし、江戸末期になり、西欧列強によるアジア諸国の植民地化に直面した日本は、またしても古代の豪族連合ともいえる薩長土肥の連合軍が主体となって明治新政府を創り、西欧列強に対抗しようとした。そのとき、日本人を一つにまとめるために7世紀に天武が創った天皇親政という皇親政治を利用した。7世紀の皇親政治確立の背景には、663年の白村江の大敗後の唐・新羅連合軍による倭国侵攻という脅威に直面して、倭国が一つにまとまって唐・新羅連合軍に対抗しなければならなかったという切実な状況にあった。明治新政府も西欧列強による日本侵略の脅威という同じような状況にあった。だから日本の国を一つにまとめるために7世紀の皇親政治を利用したのである。7世紀の皇親政治も、19世紀の明治新政府も、その天皇の実態は河内・大和・近江・越・伊勢・尾張・美濃の豪族連合や、薩長土肥という地方の有力藩の連合政府の上に乗っている象徴的な天皇であった。しかし、それは水野祐が述べているように、日本人自身がその権威と地位を公認し、必要性を承認していたからに他ならないのである。

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