第51話 律令体制後の倭国(日本)の意識変化

 日本の律令国家が日本版中華思想を内包していたことは、大宝令(701年)や養老令(718年に撰上、施行は757年)が記すように、大唐は隣国であり、新羅しらぎ渤海ぼっかい蕃国ばんこく(朝貢国)と見なしたことで明らかである。国内でも律令による「教化」がおよばない、すなわちヤマト王権に反抗する蝦夷えみし熊襲くまそ隼人はやと、屋久島・奄美などの人びとを夷狄いてきとして設定した。これを華夷かい思想ともいう。中華思想は皇帝を天下の唯一の統治者とする徳治の観念であって、民衆の間に育まれた自然観とはなじまない。こうしたディフォルメされた中華思想は為政者や知識人の間に長く生き続け、近代の脱亜入欧の思想と類似する。 


蝦夷えみし

 倭王(雄略)の宋への上表文には、「東は毛人けひとを征すること55国、西は衆夷しゅういを服すること66国、渡りて海北を平ぐること95国」と記される。東は毛人けひと55国の関東、西は衆夷しゅうい66国の九州、北は新羅・百済・任那・加羅・秦韓・慕韓など6地域95国の朝鮮半島南部を意味した。5世紀において、朝鮮半島諸国と凌ぎを削っていた倭王権には、中国に対し国としての体裁を示すために夷狄いてきを征服する物語が必要だった。その対象として創られたのが蝦夷えみしであった。毛人けひとから蝦夷えみしに変えたのは、7世紀後葉に倭国から日本に変えたときである。8世紀の律令国家の時期の実態は、東北地方には弥生時代からの移住者でやまと言葉を話す人びとと、先住の縄文系の毛人けひとあるいは蝦夷えみしと呼ばれる人びとが混在し、北海道の蝦夷えみしぞく縄文人、すなわちアイヌの祖先の人びとであった。

隼人はやと

 天智・天武期の中央集権化が推進された時期以降、677年から801年までに18回の朝貢が行われた。南九州の隼人たちは阿多地方・大隈地方に分かれて朝貢を行っていた。しかし、699年~720年の間に少なくとも4回叛乱を起こしており、720年のときは斬首・捕虜あわせて1400余人という激戦であったが、いずれもヤマト王権側が制圧している。800年に薩摩・大隈両国で班田制が施行され、南九州に居住する人びとの公民化が達成されると、その翌年に朝貢は終了した。

南東人なんとうじん

 記紀において華夷かい思想の下、種子島・屋久島以南の南西諸島の人びとをこのように呼んで「異民族」扱いしていた。 


 ここで、東アジア大変動の起点となった舒明じょめい崩御の翌年の642年から、倭国(日本)の画期となった701年の大宝律令完成までの重要な出来事を振り返ってみる。このほぼ60年の間に起こった出来事は、今日まで続く倭国(日本)という国の形を決定づけたといっても過言ではないと思う。


 642年: 1月に舒明の皇后のたから皇女が即位、皇極こうぎょくである。蘇我蝦夷えみし入鹿いるかの専制政治が始まった。高句麗では唐の圧力と朝鮮三国の抗争の中で生き残るために、権力集中を目指し642年に泉蓋蘇文せんがいそぶんがクーデターで栄留王を殺害し、王の弟の子である宝蔵王を擁立して、自らは莫離支ばくりしとなって全権を握った。前年に即位した百済の義慈王(在位641年~660年)は新羅に奪われた旧加耶地域に侵攻し、新羅の大耶城など40余城を奪った。

 643年: 皇極2年、厩戸うまやど王(聖徳太子)の長男の山背大兄やましろのおおえ王は蘇我入鹿いるかに攻撃されて自害した。新羅が百済・高句麗による侵略を訴えて、唐に救援を求めた。

 645年: 蘇我本宗家の討伐(乙巳いっしの変)。唐が新羅と共に高句麗に攻め入ったのが5月であり、「乙巳の変」は6月に起り、同月に孝徳こうとくが即位。「乙巳の変」の原因の一つはこの緊迫した国際情勢にあった。

 647年: 大化3年、新羅の金春秋きんしゅんじゅう(後の武烈王)が倭国に「質」として来訪。この2年後、金春秋は唐にも赴き、唐との同盟を確実なものとした。

 648年: 唐の高句麗遠征が行われたが、その間隙に乗じて百済が新羅西部の10余城を奪い、王都慶州に迫る勢いを示した。窮地に陥った新羅は、翌年倭国から帰国したばかりの金春秋が入唐し唐との結合を強めた。 

 649年: 新羅は中国風の衣冠を服し、650年には唐の年号を使用する、など一連の唐風化策をとる。656年以降、新羅使の来倭はなくなった。

 653年: 百済は倭国と通好して以降、遣唐使を派遣しなくなり、唐との対立の道を選ぶ。

 654年: 孝徳死去、655年に皇極が重祚ちょうそして斉明さいめいとなる。新羅の金春秋は即位して武烈王となる。

 655年: 唐による高句麗討伐が再開されたが、高句麗は善戦した。唐による攻撃は668年の高句麗の滅亡まで続いた。

 660年: 唐・新羅連合軍は3月に百済討伐の作戦を実行した。7月に百済最後の都である泗沘しひ(今の扶余)が包囲され、百済は滅亡した。その後、唐・新羅の主力は高句麗討伐に向った。百済を攻略した唐は、新羅を属国扱いにし、人質にした百済の王子を百済王にして、新羅と百済の国境線を新たに決めた。新羅は大いに不満であったが抵抗できなかった。旧百済では百済遺民による復興運動が始まり、10月に百済復興軍は倭国で人質になっていた百済最後の王である義慈王の王子「豊璋ほうしょう」の帰国と軍事的支援を倭国に要請した。

 661年: 1月、斉明は海路で出発し、3月に博多の那大津なのおおつ(今の博多)に到着し磐瀬行宮いわせあんぐうに入った。この遠征には中大兄なかのおおえ皇子や大海人おおあま皇子ら多くの王族・貴族も同行している。7月、斉明死去、9月に中大兄皇子は5000の兵と共に豊璋を帰国させた。

 663年: 6月に豊璋は内紛により百済復興運動の中心人物であった鬼室福信きしつふくしんを殺害。8月、倭国は白村江の戦いで唐軍に大敗。

 665年: 倭国は大宰府周辺に朝鮮式山城を造営。高句麗では642年にクーデターで権力を握っていた泉蓋蘇文せんがいそぶんが665年に死亡。

 667年: 11月に唐の百済鎮将劉仁願、使を遣わして(倭の)遣唐副使を送還。この事例からすると、倭国と唐との国交は回復したようである。中大兄皇子、近江大津宮へ遷都。

 668年: 中大兄皇子が即位、天智である。高句麗では、内部抗争により泉蓋蘇文せんがいそぶんの3人の息子の長男が唐に自ら投降した結果、唐・新羅連合軍によって668年9月に平壌は落城し高句麗は滅亡した。高句麗滅亡後、新羅は旧百済地域の確保を目指して唐軍を追い出そうとした。新羅は倭国に和解を提議し、倭国ははそれに応じた。

 669年: 10月に中臣鎌足なかとみのかまたり死去。

 670年: 新羅軍と高句麗復興軍は鴨緑江を渡って作戦を開始したが、唐軍に押され退却した。新羅は旧百済地域を集中的に攻撃し、671年に唐軍を旧百済地域から撤退させた。

 671年: 1月に唐の百済鎮将劉仁願が使節を倭国に派遣してきた。7月に帰国している。12月に天智死去。その二日後に大友おおとも皇子が即位、後の弘文である。

 672年: 唐が郭務悰ら2000人を671年11月に倭国に派遣してきたが、672年5月に帰国した。2000人の中には多数の白村江の戦いにおける捕虜が含まれていた。

 672年: 6月に「壬申じんしんの乱」が始まった。この乱の後に大海人皇子が即位、天武である。この後、30年間唐との国交は途絶した。天武は675年に部民制を廃し、684年に「八色やくさかばね」で天皇を中心とするかばねの新秩序を作った。さらに685年に新冠位制度を定め、天皇を頂点とする官人社会の序列を確立した。 

 676年: 統一新羅の誕生。670年に吐蕃とばんが唐の西域18州を攻略したことに対処するため、唐は676年に安東都護府を平壌から遼東半島の新城に撤退させた。この機会をとらえ、新羅は対唐戦争を勝ち抜き、ついに676年に新羅は大同江(平壌ぴょんやんはその中流域の北岸に位置する)以南地域を領有した。しかし、それは完全な独立ではなく、唐への朝貢国であることに変わりはなかった。

 686年: 天武が65歳で崩御。

 690年: 天武の鸕野讃良うののさらら皇后が即位、持統じとうである。その翌年に藤原京の造営を始め、3年後の694年に遷都した。藤原京は中国の都城制にならった日本初の大規模な都であった。

 701年: 6月8日には大宝令が施行された。大宝律は701年8月3日に完成し、702年2月1日に頒布はんぷされた。


 唐による百済・高句麗の滅亡から新羅による朝鮮半島統一、そして倭国において「壬申の乱」が起こったこの時期の緊迫した情勢について、朝鮮の「三国統一戦争史」の中で盧泰敦(ソウル大教授)は次のようにまとめている。

 “660年に百済を攻略した唐は、新羅を属国扱いにし、人質にした百済の王子を百済王にして、新羅と百済の国境線をあらたに決めた。しかし、新羅は唐に抵抗できなかった。660年の百済の滅亡は高句麗にとって衝撃的であった。高句麗では642年にクーデターで権力を握っていた淵蓋(泉蓋せんがい蘇文そぶんは665年に死亡する前に3人の息子に後を任せたが、内部抗争により、長男の男生なむせんが唐に自ら投降した結果、唐・新羅連合軍によって668年に平壌は落城し高句麗は滅亡した。高句麗を滅亡させた唐は、平壌に安東あんとん都護府を設置し、唐の官吏が統治した。668年に新羅は倭に和解を提議し、新羅が唐と交戦することに反対する理由はなく、天智てんじはそれに応じた。670年に新羅軍と高句麗復興軍は鴨緑江を渡って作戦を開始したが、唐軍に押され退却した。新羅は旧百済地域を集中的に攻撃し、671年に唐軍を百済地域から撤退させた。そして、670年に吐蕃とばんが唐の西域18州を攻略したことに対処するため、唐は676年に安東都護府を遼東半島の新城に移した。そしてついに、676年に新羅は大同江以南地域を領有した。統一新羅の誕生である。しかし、唐は新羅の大同江以南地域の領有権を認めなかったので、唐と新羅との緊張は続くことになった。この間、倭(日本)は669年に唐、670年に新羅に使節を派遣し、新たな情勢を把握した。671年には、2000人にのぼる唐の大規模な船団が倭を訪れた。その中には、相当数の白村江の戦いのときに捕虜となった百済人と倭人がいたと推定される。唐は旧百済地域の劣勢を挽回するため、倭(日本)に軍事援助を求めたが、倭(日本)は天智てんじから天武てんむに移行する前の混乱期であったから、物資の援助をするだけであった。668年に国交が再開されてから700年まで新羅はほとんど毎年、倭(日本)に使節を送った。672年に新羅が倭(日本)に使節を派遣したときには、倭(日本)は船一隻を与え、新羅との友好的関係を維持するようにしていた。これ以降702年に倭(日本)が遣唐使を再開するまで、倭(日本)は唐との交渉を途絶して新羅と緊密に交流した。この時期、新羅・倭(日本)両国は内的体制の整備に力を傾けた。新羅は687年に中央官署の整備を終え、全国を州郡県制に編成した。倭(日本)は天武即位以降、唐の制度を典範とした律令体制の構築に努めた。”


 600年に遣隋使が派遣されるまでの約100年間、倭国と中国の国交はなく、この時期に大陸由来の文物などが日本にもたらされた大動脈は、百済を代表とする朝鮮半島との間にあった。百済は高句麗・新羅との戦争もあって、倭国からの軍事援助を引き出す必要性に迫られ、各種の文物や技術・思想を伝えた。663年、倭国は百済を救援すべく唐・新羅と白村江で戦火を交え、大敗北を喫した。668年に唐と新羅が高句麗を滅ぼすと、今度は朝鮮半島の統一を目指す新羅が唐との対立を強める。新羅と唐は倭国との連携を模索し、倭国が最終的に選んだのは新羅であった。その結果、670年から701年まで遣唐使は派遣されていない。これと対照的に新羅と倭国との間では頻繁な使節の往来があった。つまり、天武てんむ持統じとうの時代は主に朝鮮半島に出自のある渡来人の子孫、白村江の敗戦による百済からの亡命人、そして新羅との直接交渉を通じて、国づくりが進められた。ところが、7世紀末の藤原不比等ふじわらのふひとの台頭とともに親新羅路線から唐風化路線への転換が行われた。701年の遣唐使の任命はこうした方針を大きく転換させる契機となった。701年は画期となった。1月23日には669年以来の遣唐使が任命された。天候不順のため出発は翌年に延期されたが、国号を「倭」から「日本」への変更を唐に承認してもらうことを達成した。3月21日には「大宝」という最初の日本独自の恒常的な年号の使用が始まり、現在の「令和」まで続いている。6月8日には大宝りょうが施行された。大宝りつは701年8月3日に完成し、702年2月1日に頒布はんぷされた。 


 倭国(日本)が律令体制を構築するなかで、唐と統一新羅に対する倭国(日本)の支配層の意識の変化について盧泰敦(ソウル大教授)は次のように述べている。

 “日本は唐の膨張を防いでくれる新羅の防波堤の役割によって侵攻を被る危機を免れられ、また律令国家体制を構築する時間的余裕を得られたことで、唐・新羅戦争の受益者となった。7世紀後半、日本は天皇を頂点とする中央集権体制と理念を構築した。その一環として、中華意識と唐の儀礼を受容して、皇帝国としての意識と儀式を整えようとした。日本を皇帝国と想定することは、自ずとその対称点として蕃国の存在を必要とする。すなわち、新羅は下位の蕃国(朝貢国)であり、唐は対等な隣国であるというのである。以前、7世紀前半に、新羅や百済に倭国を大国とする意識があった。当時、倭国は客観的に新羅や百済より大きい国であった。そして、百済と新羅が争っていた状況で、互いに倭国の支援を受けるため、倭国を大国として礼遇した。そうした中で、倭国も百済や新羅に比べて自国を大国と考える意識を持ったと思われる。天智天皇は661年に百済復興軍を支援して扶余豊(豊璋)を帰国させる際に、彼を百済王に封じた。白村江の戦いでの敗北によって、倭王が冊封した「諸候」である百済王は消滅したが、664年に扶余豊(豊璋)の弟である善光が百済王の称号を使用しており、その後も「百済王」や「高麗王」という氏を持つものが朝廷に臣下として仕官していることによって、日本王は皇帝としての位相をもつことになる。”


 さらに、この律令国家体制は、今日の日本人と朝鮮人(北朝鮮と韓国)の意識にまで影響したという。 

 “7世紀末から8世紀初めに渤海ぼっかいが登場して唐との関係が改善すると、新羅は日本との関係を見直すようになった。唐とは事大関係(大の中国に仕える)、日本とは交隣関係と設定された。こうした対外政策の基調はその後、高麗こうらい・朝鮮を経て、朝鮮半島諸王朝の対外政策の基本的枠組みとなった。一方、日本は引き続き新羅を朝貢国と見なしたため、両国の関係は8世紀後半以降、事実上断絶となった。以降、朝鮮半島の王朝を蕃国ばんこく(下位の国)とみなす意識が、日本支配層の内面に貫流した。朝鮮半島における三国統一戦争は、古代の朝鮮半島と日本列島の住民と国家の間にあった頻繁な人的交流と深い政治的相互関係が最終的に整理される過程であった。戦後、両国とも強力な中央集権国家体制が成立したことによって、両国の住民や地域勢力の間の交流は統制された。両国支配層が想定する相手国の性格はそれぞれ隣国・蕃国であった。これは、その後も両国関係に影響を与え、ある面では、今日でも両国人の意識に作用していると思われる。”

 このように、相手をそれぞれ隣国と蕃国とみなす認識は、その後の時期を通じて両国支配者層意識における基底を貫流しており、それは時によって表面に浮上して、激烈な摩擦を引き起こしたとも述べている。


 司馬遼太郎との親交が深く、在日朝鮮人作家で古代史研究家でもあった金達寿きむだるすは、“日本人、朝鮮人双方が好むと好まざるとにかかわらず、日本の古代史というのは朝鮮との関係史である。その視点で向かわない限り、日本の古代史は正確にとらえることができない”、と述べている。

 さらに言えば、日本の古代史は高句麗・百済・新羅の三国に加耶・倭国連合を加えた4ヶ国の関係史である。そこには当然人の移動が伴っていた。


 815年に編纂された新撰姓氏録しんせんしょうじろくに収録された氏族を見てみると非常に興味深い。倭国(日本)の支配者層は、いかに朝鮮半島からの渡来人と土着の倭人の混淆によって構成されていたのかよく分かる。


新撰姓氏録しんせんしょうじろく

 815年に桓武かんむ天皇の第5皇子である万多親王らによって奏進された古代氏族の系譜書。全三十巻・目録一巻からなり、京(右京・左京)・山城・大和・摂津・河内・和泉の5畿内居住の1182氏を皇別(335氏)、神別(404氏)、諸蕃(渡来系)(326氏)、未定雑姓(117氏)に分類し、その系譜を記載。完本は伝わらず、現存は抄録本。うじ族政治から律令制へと移行した時代にあって、仏教の伝来によって古代の神々は薄れゆくなかで、もう一度古代の秩序を復興させようと編纂された。 


① 皇別(神武天皇以降、天皇家から別れたもの):

 葛城・巨勢・平群・阿部・紀・吉備・車持・源・橘・清原・など合計335氏

② 神別(神武天皇以前、神代の神々から別れたもの):

 物部・大伴・出雲・大中臣・藤原・佐伯・菅原・弓削・など合計404氏

③ 諸蕃(渡来系氏族):

 あや(実態は百済・加耶出身)163氏・百済104氏・高句麗41氏・新羅9氏・任那みまな9氏、さらに秦・百済・高麗・筑紫・大原・内蔵・多々良・など合計326氏

④ 未定雑姓ぞうしょう

 上記に属さない出自のよくわからない氏族、合計117氏。そのうち渡来系と称するものが46氏。


 皇別や神別の諸氏も本来は渡来系の出自とみられる氏族が少なからず認められる。したがって、平安初期の畿内における渡来系氏族の占める割合は三分の一を超える。しかし、応神・仁徳の河内王権の時代にまで遡れば、皇別や神別の大半は渡来系となる。そうなれば、渡来系と土着系とを区別する意味がなくなってしまう。皇別・神別氏族の実態は、支配層として渡来した男性が土着の女性と結婚して子を儲けた、その子孫と見るべきである。それは容姿にも現れている。源氏物語絵巻に描かれている人物は男女ともに色白で、細い目、小さな鼻と口、面長扁平おもながへんぺいでふくよかな顔である。それが当時の美の基準であったようだが、典型的な中国の東北地方の人びとの特徴を示している。下膨れでふくよかなのは裕福な皇族や貴族であったからと推察される。


 このような支配層の構成で明らかなように、律令国家は渡来文化によって成立している。それは上田正昭(京都大学名誉教授)がいう大和飛鳥の渡来文化を前提とした倭風の文化であったが、今日の日本人からみればまるで外国のようだ。本当の意味で日本文化となるのは、13世紀の武士の誕生まで待たなければならなかった。

 司馬遼太郎はその随筆の中で、“日本の13世紀はすばらしい時代だった。仏教に日本的な新仏教が生まれ、彫刻においても強いリアリズムが打ち出された。それ以上に強烈だったのは開拓農民の政権(鎌倉幕府)が関東に成立したことである。農地はそれを管理する者の所有になった。「武士」という通称で呼ばれる多くの自作農は「家の子」と呼ばれる小農民を従えて大きく結集し、律令制という古代的な正統制を「たて」とする京都の公家・社寺勢力と対抗し「田を作る者がその土地を所有する」という権利を勝ち取った。日本史が中国や朝鮮の歴史とまったく似ない歴史をたどりはじめるのは、鎌倉幕府という素朴なリアリズムを拠り所にする「百姓」の政権が誕生してからである。私どもはこれを誇りにしたい。かれらは京の公家・社寺とはちがい、土着の倫理をもっていた。「名こそ惜しけれ」、恥ずかしいことをするなという坂東武者の精神は、その後の日本の非貴族階級に強い影響を与え、今も一部のすがすがしい日本人の中で生きている”、と述べて、鉄製品が農民や一般庶民にまで普及した13世紀をもって真の日本文化が誕生したとする。

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