第51話 律令体制後の倭国(日本)の意識変化
日本の律令国家が日本版中華思想を内包していたことは、大宝令(701年)や養老令(718年に撰上、施行は757年)が記すように、大唐は隣国であり、
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倭王
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天智・天武期の中央集権化が推進された時期以降、677年から801年までに18回の朝貢が行われた。南九州の隼人たちは阿多地方・大隈地方に分かれて朝貢を行っていた。しかし、699年~720年の間に少なくとも4回叛乱を起こしており、720年のときは斬首・捕虜あわせて1400余人という激戦であったが、いずれもヤマト王権側が制圧している。800年に薩摩・大隈両国で班田制が施行され、南九州に居住する人びとの公民化が達成されると、その翌年に朝貢は終了した。
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記紀において
ここで、東アジア大変動の起点となった
642年: 1月に舒明の皇后の
643年: 皇極2年、
645年: 蘇我本宗家の討伐(
647年: 大化3年、新羅の
648年: 唐の高句麗遠征が行われたが、その間隙に乗じて百済が新羅西部の10余城を奪い、王都慶州に迫る勢いを示した。窮地に陥った新羅は、翌年倭国から帰国したばかりの金春秋が入唐し唐との結合を強めた。
649年: 新羅は中国風の衣冠を服し、650年には唐の年号を使用する、など一連の唐風化策をとる。656年以降、新羅使の来倭はなくなった。
653年: 百済は倭国と通好して以降、遣唐使を派遣しなくなり、唐との対立の道を選ぶ。
654年: 孝徳死去、655年に皇極が
655年: 唐による高句麗討伐が再開されたが、高句麗は善戦した。唐による攻撃は668年の高句麗の滅亡まで続いた。
660年: 唐・新羅連合軍は3月に百済討伐の作戦を実行した。7月に百済最後の都である
661年: 1月、斉明は海路で出発し、3月に博多の
663年: 6月に豊璋は内紛により百済復興運動の中心人物であった
665年: 倭国は大宰府周辺に朝鮮式山城を造営。高句麗では642年にクーデターで権力を握っていた
667年: 11月に唐の百済鎮将劉仁願、使を遣わして(倭の)遣唐副使を送還。この事例からすると、倭国と唐との国交は回復したようである。中大兄皇子、近江大津宮へ遷都。
668年: 中大兄皇子が即位、天智である。高句麗では、内部抗争により
669年: 10月に
670年: 新羅軍と高句麗復興軍は鴨緑江を渡って作戦を開始したが、唐軍に押され退却した。新羅は旧百済地域を集中的に攻撃し、671年に唐軍を旧百済地域から撤退させた。
671年: 1月に唐の百済鎮将劉仁願が使節を倭国に派遣してきた。7月に帰国している。12月に天智死去。その二日後に
672年: 唐が郭務悰ら2000人を671年11月に倭国に派遣してきたが、672年5月に帰国した。2000人の中には多数の白村江の戦いにおける捕虜が含まれていた。
672年: 6月に「
676年: 統一新羅の誕生。670年に
686年: 天武が65歳で崩御。
690年: 天武の
701年: 6月8日には大宝令が施行された。大宝律は701年8月3日に完成し、702年2月1日に
唐による百済・高句麗の滅亡から新羅による朝鮮半島統一、そして倭国において「壬申の乱」が起こったこの時期の緊迫した情勢について、朝鮮の「三国統一戦争史」の中で盧泰敦(ソウル大教授)は次のようにまとめている。
“660年に百済を攻略した唐は、新羅を属国扱いにし、人質にした百済の王子を百済王にして、新羅と百済の国境線をあらたに決めた。しかし、新羅は唐に抵抗できなかった。660年の百済の滅亡は高句麗にとって衝撃的であった。高句麗では642年にクーデターで権力を握っていた淵蓋(
600年に遣隋使が派遣されるまでの約100年間、倭国と中国の国交はなく、この時期に大陸由来の文物などが日本にもたらされた大動脈は、百済を代表とする朝鮮半島との間にあった。百済は高句麗・新羅との戦争もあって、倭国からの軍事援助を引き出す必要性に迫られ、各種の文物や技術・思想を伝えた。663年、倭国は百済を救援すべく唐・新羅と白村江で戦火を交え、大敗北を喫した。668年に唐と新羅が高句麗を滅ぼすと、今度は朝鮮半島の統一を目指す新羅が唐との対立を強める。新羅と唐は倭国との連携を模索し、倭国が最終的に選んだのは新羅であった。その結果、670年から701年まで遣唐使は派遣されていない。これと対照的に新羅と倭国との間では頻繁な使節の往来があった。つまり、
倭国(日本)が律令体制を構築するなかで、唐と統一新羅に対する倭国(日本)の支配層の意識の変化について盧泰敦(ソウル大教授)は次のように述べている。
“日本は唐の膨張を防いでくれる新羅の防波堤の役割によって侵攻を被る危機を免れられ、また律令国家体制を構築する時間的余裕を得られたことで、唐・新羅戦争の受益者となった。7世紀後半、日本は天皇を頂点とする中央集権体制と理念を構築した。その一環として、中華意識と唐の儀礼を受容して、皇帝国としての意識と儀式を整えようとした。日本を皇帝国と想定することは、自ずとその対称点として蕃国の存在を必要とする。すなわち、新羅は下位の蕃国(朝貢国)であり、唐は対等な隣国であるというのである。以前、7世紀前半に、新羅や百済に倭国を大国とする意識があった。当時、倭国は客観的に新羅や百済より大きい国であった。そして、百済と新羅が争っていた状況で、互いに倭国の支援を受けるため、倭国を大国として礼遇した。そうした中で、倭国も百済や新羅に比べて自国を大国と考える意識を持ったと思われる。天智天皇は661年に百済復興軍を支援して扶余豊(豊璋)を帰国させる際に、彼を百済王に封じた。白村江の戦いでの敗北によって、倭王が冊封した「諸候」である百済王は消滅したが、664年に扶余豊(豊璋)の弟である善光が百済王の称号を使用しており、その後も「百済王」や「高麗王」という氏を持つものが朝廷に臣下として仕官していることによって、日本王は皇帝としての位相をもつことになる。”
さらに、この律令国家体制は、今日の日本人と朝鮮人(北朝鮮と韓国)の意識にまで影響したという。
“7世紀末から8世紀初めに
このように、相手をそれぞれ隣国と蕃国とみなす認識は、その後の時期を通じて両国支配者層意識における基底を貫流しており、それは時によって表面に浮上して、激烈な摩擦を引き起こしたとも述べている。
司馬遼太郎との親交が深く、在日朝鮮人作家で古代史研究家でもあった
さらに言えば、日本の古代史は高句麗・百済・新羅の三国に加耶・倭国連合を加えた4ヶ国の関係史である。そこには当然人の移動が伴っていた。
815年に編纂された
[
815年に
① 皇別(神武天皇以降、天皇家から別れたもの):
葛城・巨勢・平群・阿部・紀・吉備・車持・源・橘・清原・など合計335氏
② 神別(神武天皇以前、神代の神々から別れたもの):
物部・大伴・出雲・大中臣・藤原・佐伯・菅原・弓削・など合計404氏
③ 諸蕃(渡来系氏族):
④ 未定
上記に属さない出自のよくわからない氏族、合計117氏。そのうち渡来系と称するものが46氏。
皇別や神別の諸氏も本来は渡来系の出自とみられる氏族が少なからず認められる。したがって、平安初期の畿内における渡来系氏族の占める割合は三分の一を超える。しかし、応神・仁徳の河内王権の時代にまで遡れば、皇別や神別の大半は渡来系となる。そうなれば、渡来系と土着系とを区別する意味がなくなってしまう。皇別・神別氏族の実態は、支配層として渡来した男性が土着の女性と結婚して子を儲けた、その子孫と見るべきである。それは容姿にも現れている。源氏物語絵巻に描かれている人物は男女ともに色白で、細い目、小さな鼻と口、
このような支配層の構成で明らかなように、律令国家は渡来文化によって成立している。それは上田正昭(京都大学名誉教授)がいう大和飛鳥の渡来文化を前提とした倭風の文化であったが、今日の日本人からみればまるで外国のようだ。本当の意味で日本文化となるのは、13世紀の武士の誕生まで待たなければならなかった。
司馬遼太郎はその随筆の中で、“日本の13世紀はすばらしい時代だった。仏教に日本的な新仏教が生まれ、彫刻においても強いリアリズムが打ち出された。それ以上に強烈だったのは開拓農民の政権(鎌倉幕府)が関東に成立したことである。農地はそれを管理する者の所有になった。「武士」という通称で呼ばれる多くの自作農は「家の子」と呼ばれる小農民を従えて大きく結集し、律令制という古代的な正統制を「たて」とする京都の公家・社寺勢力と対抗し「田を作る者がその土地を所有する」という権利を勝ち取った。日本史が中国や朝鮮の歴史とまったく似ない歴史をたどりはじめるのは、鎌倉幕府という素朴なリアリズムを拠り所にする「百姓」の政権が誕生してからである。私どもはこれを誇りにしたい。かれらは京の公家・社寺とはちがい、土着の倫理をもっていた。「名こそ惜しけれ」、恥ずかしいことをするなという坂東武者の精神は、その後の日本の非貴族階級に強い影響を与え、今も一部のすがすがしい日本人の中で生きている”、と述べて、鉄製品が農民や一般庶民にまで普及した13世紀をもって真の日本文化が誕生したとする。
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