第50話 律令制への道のり

 天武は大宝令のもとになる飛鳥浄御原令あすかきよみはらりょうの編纂、八色やくさかばね、官位48階制、国の領域の確定、鎮護国家仏教政策の推進、けがれをはらうための国家による大祓おおはらえの開始、など律令国家の体制づくりを強力に推し進めた。また天皇号も定着し、記紀の編纂にも着手し、藤原京の建設も決定した。天武とそれに続く持統の時代には、薬師寺の造営、柿本人麻呂かきのもとのひとまろらが活躍した万葉歌の盛期など、文化史上一時代を画した白鳳はくほう文化が花開き、渡来文化の日本化も大きく進んだ。 

 仏教が畿内から関東・四国・九州に至る日本全域に広がっていったのは天武・持統の時代だった。天武は全国に仏を祀り、経典を置くようにみことのりを発している。持統は一般の人びとに六斎ろくさい、月に六日、戒を守り仏事を行うことを奨励している。今日、全国に白鳳文化を代表する金銅仏や押出仏おしだしぶつなど、像高30~40センチくらいの小さい仏像が数多く伝わっているのは、これらが個人の礼拝対象であったからと思われる。この時代の仏像は子供のような姿や、青年のような像が数多くみられる。また、インド風もあれば、朝鮮半島風、唐風もあり、これらの様式が混在し、しかも技術と造形に巧拙があるのは、全国に造像活動が一挙に広まったことと関係があると推測されている。

 柿本人麻呂は「万葉集」所載の約500名の歌人中で、堂々とした歌で君臨している。人麻呂は「歌聖」と敬われ、天武・持統・文武の三代の天皇に仕えた白鳳時代の代表的な万葉歌人であった。「大君おおきみは神にせば天雲あまぐもの雷の上にいおりせるかも」、この大君は持統のことである。人麻呂は持統のお抱え歌人で宮廷詩人であった。持統は吉野宮へ31回行幸を行っている。そこは「壬申の乱」の前に天武と共に逃避・滞在していた所である。持統は人麻呂を同行させ天皇賛歌の和歌を数多く詠ませた。


 天智・天武の父は舒明じょめいで、その舒明には息長おきなが系、応神・仁徳系、葛城系の允恭いんぎょう継体けいたい系、さらには任那みまな系の欽明きんめいの血もすべて流れ込んでおり、こと血筋に関してはこれほど由緒正しい血統の大王は舒明以前には誰一人として見当たらない大王である。また、天智・天武の母は皇極こうぎょくで、敏達びだつの曾孫にあたる。天武の次の持統(鸕野讃良うののささら皇女)も父は天智である。中央集権国家を目指す7世紀の倭国を治めるにふさわしい血筋である。鸕野讃良うののささら皇女は斉明2年(656年)、大海人おおあま皇子の妃となり、661年、中大兄なかのおおえ皇子が百済救援軍を率いて筑紫に出陣したとき、大海人皇子とともに軍に従い、その翌年の662年、草壁くさかべ皇子を筑紫の那大津なのおおつ(今の博多)で生んでいる。そして大海人皇子が673年に天武として即位すると鸕野讃良うののささら皇女は皇后となった。その時までに、日本書紀に「皇后、始より今に至るまで、天皇をたすけまつりて、天下を定め給ふ。つね侍執つかへまつる際に、すなわち言、政事の及びてたすけ補ふ所多し」と評されたほどの実力者になっていた。


 上田正昭(京都大学名誉教授)は、“天武・持統朝を主軸とする律令体制の仕組みは、大宝元年(701年)の大宝律令の完成に結実したが、飛鳥浄御原あすかきよみはら宮から藤原京の時代は、「日本国」と「天皇」が明確に具体化した時代であり、大和飛鳥の渡来文化を前提としながらも、倭風の文化が具象した、いうならば「和魂漢才」の日本文化が成立した時代であった”、という。

 律令制度も日本的な展開となっている。藤原氏や大伴氏という倭王権以来の氏族や他の豪族を貴族とし、協調しながら政治を行っており、権力もバランスを取りながら行使していたと考えられる。東アジアの大変動の中で中央集権的な国家体制を急いで形成するには、従来の氏族制を包摂しながら律令国家を形成するのが、現実的で自然な道であった。日本の律令国家は「律令制」と「氏族制」との二重構造としてとらえることができる。ところで、男子の天皇で皇太子からすぐに天皇になったのは平安時代の始まりになる第50代桓武天皇(在位781年~896年)で、男子皇太子が天皇になる皇位継承のしくみができたのはその時期からで、天武・持統期の100年後のことである。


 天武が686年に65歳で崩御すると、直ちに鸕野讃良うののさらら皇后が臨時称制され天皇の実権を代行した。皇后称制後20日も経たないうちに、文武に秀で廷臣の人望も高かった大津皇子が謀叛の心ありとして捕えられ、翌日には自害させられた。まだ24歳であった。妃の天智の娘山辺やまべ皇女も殉死している。この事件は鸕野讃良うののさらら皇后が自分の子である草壁皇子を皇位につけるための陰謀であったと推測されている。それは逮捕の翌日に大津皇子を死罪と即決し、他の関係者を釈放したという、そのいきさつからもはっきりしている。しかし、その草壁皇子は689年に28歳で死去してしまった。草壁皇子には阿閇あへ皇女(持統の異腹の妹、後の元明)との間に珂瑠かる皇子があったが、まだ7歳であったため、この皇子が成人するまでと、翌年(690年)皇后自らが皇位を継承した、持統である。持統は「壬申の乱」の軍司令官となって活躍した高市たけち皇子を太政大臣に任じて自分を補佐させ、太政官の官僚には「壬申の乱」での功臣を抜擢した。持統は即位の翌年(691年)に藤原京の造営を始め、3年後の694年に遷都した。飛鳥の地の北側にあたる藤原京は、碁盤目状に配された条坊制を特徴とする中国の都城制にならった半永久的な大規模な都であった。藤原京は律令国家の威容を示す一つのシンボルであり、後の平城京の建設にも大きな影響を与えた。この遷都によって、律令国家の支配体制の最後の仕上げをしたともいえる。藤原宮(694年~710年)は耳成みみなし山・畝傍うねび山・香久かぐ山の大和三山に取り囲まれた場所にあり、持統(在位:690年~697年)・文武(在位:697年~707年)・元明(在位:707年~715年)三代の宮となった。日本の都は、藤原京で初めて条坊制が導入され、さらにその北側に、元明が710年に遷都した平城京において条坊制は完成した。持統の治世は、およそ天武の路線を継承したものであった。


[藤原宮]

 694年に遷都した藤原京は持統から文武・元明と三代の宮となった。平城京への遷都は元明期の710年なので、わずか16年間の都であったが、日本で最初の固定した都であり、初めて碁盤目状の条坊制が採用された。それは唐の長安城の形態を模倣したものだが、城壁は築かれていない。藤原宮の宮名は、持統が即位した時の飛鳥の「藤原宅」に基づくとされる。政治を執る場である朝堂院の規模は、正面35メートル・側面18メートルの大極殿を中心に、東楼・西楼・北殿があり、その南に東西12堂、さらにその南に朝集殿があり、廻廊をもってこれを囲み、その全体の大きさは南北615メートル、東西236メートルで広大である。その造営は当時の国力からすると大事業であった。都全体の規模は平城京より小さかったようだが、よく分かっていない。都が固定化してくると内政が整えられ、都が発展を遂げ、社会も安定してくる。藤原京から平城京への遷都の理由については、藤原京は北西が低く東南が高いという地勢の不都合、近江の田上山で伐採した用材を藤原京まで運ぶのに遠い、宮城が長安のように北ではなく中央に位置していた、さらに旱魃かんばつと疫病が続発して人心を一新する必要があったといわれるが、遣唐使から帰朝した中納言栗田真人くりたまひとらの進言が大きかったようだ。

 古代の日本では一代ごとに宮は移動していた。一代一宮殿制といい、前大王が崩御になると、次の大王は他の場所で即位するのが慣例であった。水野祐はその理由を三つあげている。

 ① 呪教的理由:古代は多霊教であったから、家には家の霊が憑りついていると考える。そこで大王が崩ずると大王の体に死霊が憑りついていると考え、次の大王は前大王の宮に入らず、自らの宮で即位した。

 ② 経済的理由:木造家屋では大体一代一家屋である。古代の家屋は掘立小屋で木造であるから20年~30年しか寿命がない。伝承の中の宮の名称をみても「飛鳥板蓋いたぶき宮」というのは屋根を板で葺いたことを示し、「泊瀬はつせ朝倉あさくら宮」は木材を横に重ねて組み立てた校倉あぜくら式であったもので、「丹比たじひ柴籬しばかき宮」は葉のついたままの木枝で造った垣がとりめぐらされていたことを伝えるものである。伊勢神宮が20年毎に遷宮を行うということは、古代の木造家屋の耐久年数を表していると考えればよい。

 ③ 社会的理由:古代社会は多妻制であった。皇后の他に多くの妃があり、宮女や采女うねめもおり、どこかで母とその生んだ子が母親を中心に生活を営んでいると、大王の父が死んでその子が皇太子である場合、その生活をしていた宮がそのまま新大王の居所となる。それゆえ代ごとに宮が移動することになる。


 696年、壬申の乱の立役者であった太政大臣の高市たけち皇子は43歳で病没した。そこで持統は、翌年の697年に退位して15歳の珂瑠かる皇子を即位させた、文武もんむである。持統は高市たけち皇子亡き後、太政大臣を任命せず、退位後も太上天皇として、藤原不比等ふひととともに律令法典の完成に意を注ぎ、701年に大宝律令が完成した。藤原不比等が中心となって編纂した大宝律令たいほうりつりょうは、建設すべき律令国家の全体的な青写真で、唐のように法(律令)を儒教の「れい」よりも低く見る意識はなかった。その翌年の702年、持統は大宝律令の施行を見届けてから58歳で崩御した。天智・弘文から天武に、天武から持統に、そして文武・元明・元正へと皇位継承が行われたが、天智系と天武系とが交互に即位している。その後もこの両系統は平安時代まで続くこととなった。蘇我馬子うまこ厩戸うまやど王(聖徳太子)が夢見た古代天皇制律令国家は、その100年後の天武・持統によりついに完成をみたのであった。


大宝律令たいほうりつりょう

 701年に完成し、翌702年から施行された行政法と刑罰法とを備えた最初の体系法典である。大宝令の条文は中国の律令法「唐令」を基にしているが、日本の実情に合うように制定されている。大宝元年(701年)4月からは大宝令の講習会が皇族や官僚などに対して開催されている。大宝令によって、中央の行政組織は神祇じんぎ太政だじょうの二官と八省制となり、地方行政組織として国・郡・里制が成立する。官位制、戸籍制度、よう調ちょう税制も整備され、元号制も始まり、国家の儀礼が整えられ、日本最古の鋳造貨幣である「富本銭ふほんせん」が発行され、さらに708年には「和同開珎わどうかいちん」も発行され流通し始めた。口分田を班給して地租を納めさせ、成年男子(21歳~60歳)を基準にして人頭税である庸・調を負担させ、さらに雑徭などの力役や兵役を課して、律令政府の政治的・経済的・軍事的基盤を確保しようとした。また、土地を離れた「浮浪」の人びとをも戸籍を介して「公民」化することも重要な課題であった。

 大宝令の具体例を以下にいくつか示すが、これらは日本的になっている。

 ・「儀制令ぎせいりょう」には、「およそ公文に年を記す場合は、すべて年号を用いよ」と、公文書での年号使用を規定した。「大宝」以前は年号ではなく、干支かんしで年を表示していた。年号を使用することは、中国王朝から冊封を受けない国であることの証であり、東アジアで独自の年号をたてることは、中国王朝の統治を認めない反逆行為に等しかったといえる。実際、藤原京から出土した荷札木簡には干支年で記され、平城京出土の木簡には年号が使用されており、大宝令が実施されていたことが確認されている。

 ・大宝令前の地方の行政組織は「国・評・里」であったが、「評」が「郡」に変わった。さらに717年には「国・郡・郷・里」に改めている。

 ・「天子てんし条」には、天皇の称号の使い分けの規定がある。祭祀では「天子」、詔書では「天皇」、対外関係では「皇帝」、上表文では「陛下」、譲位した帝は「太上天皇」となる。「太上天皇」は日本独自の規定である。そもそも中国では退位した皇帝が政治に関与することを想定していない。

 ・皇族の範囲を定めた「継嗣けいし令」には、「およそ皇の兄弟・皇子、みな親王と為せ」とあり、その補足条文で「女帝の子はまた同じ」とある。女帝のいることが前提となっており、中国の「唐令」ではありえないことである。

 ・神祇官が太政官と並列している。それは神祇の重視であると同時に、神祇官を分離することによって、太政官は古来の神々の呪縛から解放され、世俗的な権力機関として行動しやすくなった。藤原氏が祭祀を司る中臣なかとみ氏から分離したのは、太政官と神祇官の分離に対応する動きであった。


 鎮護国家仏教の中核として藤原京四大寺(大官大寺・川原寺・薬師寺・飛鳥寺)があり、地方では郡寺が整備される。漢方の食事法や医療・医薬、衣服制も採用された。大宝律令完成と同じ年の701年には30年ぶりに遣唐使が再開され、新しい制度や文物が大挙して流入してきた。藤原京は中央集権国家・日本国の誕生を高らかに謳う記念物であった。この藤原京への遷都と大宝律令の完成において重要な役割を演じたのが藤原不比等であった。藤原不比等は大納言となり、さらに右大臣となったが、そこに留まった。左大臣の地位が空席であっても、太政大臣にとの要請も、これを固辞して受諾しなかったようだ。そこには地位や名誉よりも、実力と実権の人として行動した形跡が見出されると、上田正昭(京都大学名誉教授)はいう。


藤原不比等ふじわらのふひと

 中臣鎌足の子、藤原不比等は持統・文武・元明・元正の四代に仕え、藤原氏全盛時代の道を開き、実質的に大宝律令(701年に完成、702年から施行)と養老律令(718年に撰上、施行は757年)を選定して、律令制度を完成させ、「古事記」「日本書紀」の編纂にも大きな影響を与えた。特に「日本書紀」は天智・天武と中臣鎌足に好意的に書かれているとされる。それは持統と元明が天智の娘で、元正は元明の娘であり、不比等は鎌足の息子であれば当然のことである。したがって、「乙巳いっしの変」と「壬申じんしんの乱」はともにクーデターであったが、勝者である天智と鎌足、そして天武と持統を肯定的に描いている。日本書紀が完成して奏上されたのは720年5月であった。不比等はその完成をみて同年8月に63歳で薨じた。元正は不比等の死後に「太政大臣、正一位」を贈っている。

 不比等が史上に登場するのは、持統称制3年(689年)2月である。日本書紀には竹田王以下9名が判事ことわるつかさになったことを記し、その中に藤原朝臣ふじわらあそんふひとの名がみえる。判事とは裁判をつかさどる職掌であった。年齢はすでに31歳であった。ふひとが本来のいみな(実名)であり、その名は田辺史たなべのふひと大隅おおすみの家に養われたことに由来する。鎌足がこの世を去った時、不比等はまだ11歳の少年だった。不比等の教養に田辺史たなべのふひとらの百済系渡来氏族の知識人たちが与えた影響は大きかったと推察される。

 藤原不比等の娘の宮子みやこは文武の「夫人ぶにん」になり、おびと皇子(後の第44代聖武しょうむ)を生んでいる。天皇の配偶者には「后」「妃」「夫人ぶじん」「ひん」があり、「后」と「妃」は皇族出身でなければならない。したがって、文武には最後まで「后」も「妃」も存在せず、非皇族出身の「藤原夫人ぶじん」宮子が実質上の皇后であった。さらに聖武(在位:724年~749年)の皇后に、不比等と県犬養三千代あがたのいぬかいみちよの間に生まれた安宿あすかべ媛(後の光明子こうみょうし)を据えるという、天武直系の天皇と藤原氏との密接な婚姻関係が存在した。これが持統と不比等との間で結ばれた盟約に基づくものであることは、「正倉院文書」の「東大寺献物帳」の記事によって裏づけられるとされる。そこには、“「黒作りの懸佩かきはきの大刀」は、日並ひなみし皇子(草壁皇子の美称)が常に身に帯びていたものであるが、太政大臣(藤原不比等)に賜り、大行天皇(文武)が即位したとき、太政大臣がこれを文武天皇に献じた。そして文武天皇が崩じた時、再び不比等に賜り、最後に不比等が薨じた時、後の太上天皇(聖武)に献じた”、とある。土橋寛(同志社大名誉教授)は、“それは不比等が皇位継承の監視役を務めたことにほかならない”、と述べている。不比等は、皇族出身の皇后が生んだ皇太子による皇位継承の伝統を廃して、藤原氏出身の女性を皇后に据える道を拓くとともに、その皇后が生んだ幼年の皇太子を即位させて、藤原氏が摂政として天皇を補佐するという摂関(摂政・関白)政治の基を築いた。

 不比等の長男の武智麻呂むちまろの子孫は「南家」、次男房前ふささきのそれは「北家」、三男宇合うまかいのそれは「式家」、四男麻呂まろのそれは「京家」をそれぞれ起こした。不比等の四子は律令の新しい制度に乗って、三位以上の位階を得て、各々公的な「家」をもった。それは「うじ」から「いえ」への日本社会の長期にわたる大変動のはしりとなった。この四家のうち、最も栄えたのが「北家」で、その後裔が奈良・平安期の貴族政治の中心になっていった。「藤原」の氏号は持統天皇のみことのりにより不比等の子孫に限定され、その他の中臣鎌足の子孫は神祇の祭祀を職とする中臣氏に復帰させている。「藤氏家伝」は不比等の孫の「南家」の仲麻呂なかまろによって書かれた。鎌倉時代以降は「北家」から近衛・九条・二条・一条・鷹司などの家名を名乗るようになる。これが五摂家であり、明治時代まで繁栄してきた。


 7世紀を通じて導入が図られ、8世紀初頭に成立した律令国家体制は、それまでの古代豪族のあり方に大きな質的変化を遂げさせた。律令国家とは、律令という法体系によって運営される国家のことである。そこには国家を動かすものは法であり、法は国家なりという思想がある。律令体制の頂点に位置する天皇が支配者集団を組織して被支配者層に君臨するための論理は、官僚制原理であった。そのため、旧来からの支配者集団である古代豪族は、建前の上では代々世襲してきた土地・人・職などの権益を失い、官僚原理に則って才能ある人材が個人として官に仕え、その奉仕の対価として禄などを支給されることとなった。しかし、地方豪族は律令貴族とは異なり、律令制以前の古代豪族性をある程度保持しながら、在地との関係を築くことを可能としていた。律令制による地方の行政区画として、国・評(後の郡)・里がある。里は50戸をもって一里とする。国制は天武期に成立している。日本の律令体制の手本は隋・唐の国家体制であった。中国や朝鮮半島諸国が長い年月をかけて作り上げた社会の組織・体系・文化を、その周辺にあって後進国だった倭国は積極的に、かつ新古を問わず選択的に摂取して古代国家を樹立したといえる。


 律令制の基幹は官僚制である。官司の機構、官人の登用・成績評価・昇進・給与のシステムが整えられた。行政の命令や報告を文書によって行う、いわゆる文書行政のシステムが、大宝律令の施行とともに動き始め、やがて天平時代(729年~749年)には膨大な量の文書が作成される。日本の古代国家が文書行政を主としたことは、日本の社会に文字が普及していく重要な契機となった。また、律令制は辺境の地域にも拡大していった。708年、越後国の北部に出羽郡が新設される。律令制の拡大は蝦夷えみしの人びとの抵抗を引き起こし、翌年、ヤマト王権は軍を派遣してこれを征圧し、710年には出羽国を建てた。


 司馬遼太郎は律令制について、“その前世紀までは、日本の実情は統一国家というより、津々浦々の諸豪族の郡立状態だった。豆腐をかためるのに、ニガリが要る。そのニガリの役割を律令制が果たした。日本全国に律令という大網を打ち、農地という農地、人間という人間を律令国家がまとめて所有し、統一国家が成立したのである。まことにふしぎなほどで、この間、軍事力が用いられることなく、地方々々はその権利を放棄した。こういうふしぎな例は、はるか千数百年くだって明治四年(1871年)の廃藩置県にもみられる。律令制というのは沈黙の社会主義体制だった。沈黙というのは、社会主義につきもののやかましさがなかったということである。地方豪族には律令制による位階が与えられた。律令制は叛乱も討伐もなく、静かに進行した。類似のしずかさは、廃藩置県についてもいえる。そこには国家存亡の危機意識が豪族たちや藩主、そして、その下の家臣たちにあった。隋・唐の古代帝国や西洋諸国による脅威である。律令制施行という「革命」が進行するについて、圧倒的に効果があったのは、平城京の建設だった”、と述べている。

 また、上田正昭(京都大学名誉教授)は、“慶応3年(1867年)の12月9日、15代将軍徳川慶喜の大政奉還・将軍職辞退を受けて、新政府は「王政復古の大号令」を公布した。その中で「諸事神武創業ノはじめもとツキ」と明記したが、古事記・日本書紀などをみてもいわゆる「神武建国」の記載はあっても、政治体制や法令・外交などは一切述べられていない。実際に「王政復古」の「いにしえ」のモデルにしたのは天武・持統朝から具体化して文武朝に実現した律令国家であった。その点一つをかえりみても、天武・持統朝における日本国の成立と天皇制が、日本古代史はもとよりのこと、日本の歴史と文化においても重要な画期であったことがわかる”、として律令国家樹立の歴史的意義を強調している。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る