第50話 律令制への道のり
天武は大宝令のもとになる
仏教が畿内から関東・四国・九州に至る日本全域に広がっていったのは天武・持統の時代だった。天武は全国に仏を祀り、経典を置くように
柿本人麻呂は「万葉集」所載の約500名の歌人中で、堂々とした歌で君臨している。人麻呂は「歌聖」と敬われ、天武・持統・文武の三代の天皇に仕えた白鳳時代の代表的な万葉歌人であった。「
天智・天武の父は
上田正昭(京都大学名誉教授)は、“天武・持統朝を主軸とする律令体制の仕組みは、大宝元年(701年)の大宝律令の完成に結実したが、
律令制度も日本的な展開となっている。藤原氏や大伴氏という倭王権以来の氏族や他の豪族を貴族とし、協調しながら政治を行っており、権力もバランスを取りながら行使していたと考えられる。東アジアの大変動の中で中央集権的な国家体制を急いで形成するには、従来の氏族制を包摂しながら律令国家を形成するのが、現実的で自然な道であった。日本の律令国家は「律令制」と「氏族制」との二重構造としてとらえることができる。ところで、男子の天皇で皇太子からすぐに天皇になったのは平安時代の始まりになる第50代桓武天皇(在位781年~896年)で、男子皇太子が天皇になる皇位継承のしくみができたのはその時期からで、天武・持統期の100年後のことである。
天武が686年に65歳で崩御すると、直ちに
[藤原宮]
694年に遷都した藤原京は持統から文武・元明と三代の宮となった。平城京への遷都は元明期の710年なので、わずか16年間の都であったが、日本で最初の固定した都であり、初めて碁盤目状の条坊制が採用された。それは唐の長安城の形態を模倣したものだが、城壁は築かれていない。藤原宮の宮名は、持統が即位した時の飛鳥の「藤原宅」に基づくとされる。政治を執る場である朝堂院の規模は、正面35メートル・側面18メートルの大極殿を中心に、東楼・西楼・北殿があり、その南に東西12堂、さらにその南に朝集殿があり、廻廊をもってこれを囲み、その全体の大きさは南北615メートル、東西236メートルで広大である。その造営は当時の国力からすると大事業であった。都全体の規模は平城京より小さかったようだが、よく分かっていない。都が固定化してくると内政が整えられ、都が発展を遂げ、社会も安定してくる。藤原京から平城京への遷都の理由については、藤原京は北西が低く東南が高いという地勢の不都合、近江の田上山で伐採した用材を藤原京まで運ぶのに遠い、宮城が長安のように北ではなく中央に位置していた、さらに
古代の日本では一代ごとに宮は移動していた。一代一宮殿制といい、前大王が崩御になると、次の大王は他の場所で即位するのが慣例であった。水野祐はその理由を三つあげている。
① 呪教的理由:古代は多霊教であったから、家には家の霊が憑りついていると考える。そこで大王が崩ずると大王の体に死霊が憑りついていると考え、次の大王は前大王の宮に入らず、自らの宮で即位した。
② 経済的理由:木造家屋では大体一代一家屋である。古代の家屋は掘立小屋で木造であるから20年~30年しか寿命がない。伝承の中の宮の名称をみても「飛鳥
③ 社会的理由:古代社会は多妻制であった。皇后の他に多くの妃があり、宮女や
696年、壬申の乱の立役者であった太政大臣の
[
701年に完成し、翌702年から施行された行政法と刑罰法とを備えた最初の体系法典である。大宝令の条文は中国の律令法「唐令」を基にしているが、日本の実情に合うように制定されている。大宝元年(701年)4月からは大宝令の講習会が皇族や官僚などに対して開催されている。大宝令によって、中央の行政組織は
大宝令の具体例を以下にいくつか示すが、これらは日本的になっている。
・「
・大宝令前の地方の行政組織は「国・評・里」であったが、「評」が「郡」に変わった。さらに717年には「国・郡・郷・里」に改めている。
・「
・皇族の範囲を定めた「
・神祇官が太政官と並列している。それは神祇の重視であると同時に、神祇官を分離することによって、太政官は古来の神々の呪縛から解放され、世俗的な権力機関として行動しやすくなった。藤原氏が祭祀を司る
鎮護国家仏教の中核として藤原京四大寺(大官大寺・川原寺・薬師寺・飛鳥寺)があり、地方では郡寺が整備される。漢方の食事法や医療・医薬、衣服制も採用された。大宝律令完成と同じ年の701年には30年ぶりに遣唐使が再開され、新しい制度や文物が大挙して流入してきた。藤原京は中央集権国家・日本国の誕生を高らかに謳う記念物であった。この藤原京への遷都と大宝律令の完成において重要な役割を演じたのが藤原不比等であった。藤原不比等は大納言となり、さらに右大臣となったが、そこに留まった。左大臣の地位が空席であっても、太政大臣にとの要請も、これを固辞して受諾しなかったようだ。そこには地位や名誉よりも、実力と実権の人として行動した形跡が見出されると、上田正昭(京都大学名誉教授)はいう。
[
中臣鎌足の子、藤原不比等は持統・文武・元明・元正の四代に仕え、藤原氏全盛時代の道を開き、実質的に大宝律令(701年に完成、702年から施行)と養老律令(718年に撰上、施行は757年)を選定して、律令制度を完成させ、「古事記」「日本書紀」の編纂にも大きな影響を与えた。特に「日本書紀」は天智・天武と中臣鎌足に好意的に書かれているとされる。それは持統と元明が天智の娘で、元正は元明の娘であり、不比等は鎌足の息子であれば当然のことである。したがって、「
不比等が史上に登場するのは、持統称制3年(689年)2月である。日本書紀には竹田王以下9名が
藤原不比等の娘の
不比等の長男の
7世紀を通じて導入が図られ、8世紀初頭に成立した律令国家体制は、それまでの古代豪族のあり方に大きな質的変化を遂げさせた。律令国家とは、律令という法体系によって運営される国家のことである。そこには国家を動かすものは法であり、法は国家なりという思想がある。律令体制の頂点に位置する天皇が支配者集団を組織して被支配者層に君臨するための論理は、官僚制原理であった。そのため、旧来からの支配者集団である古代豪族は、建前の上では代々世襲してきた土地・人・職などの権益を失い、官僚原理に則って才能ある人材が個人として官に仕え、その奉仕の対価として禄などを支給されることとなった。しかし、地方豪族は律令貴族とは異なり、律令制以前の古代豪族性をある程度保持しながら、在地との関係を築くことを可能としていた。律令制による地方の行政区画として、国・評(後の郡)・里がある。里は50戸をもって一里とする。国制は天武期に成立している。日本の律令体制の手本は隋・唐の国家体制であった。中国や朝鮮半島諸国が長い年月をかけて作り上げた社会の組織・体系・文化を、その周辺にあって後進国だった倭国は積極的に、かつ新古を問わず選択的に摂取して古代国家を樹立したといえる。
律令制の基幹は官僚制である。官司の機構、官人の登用・成績評価・昇進・給与のシステムが整えられた。行政の命令や報告を文書によって行う、いわゆる文書行政のシステムが、大宝律令の施行とともに動き始め、やがて天平時代(729年~749年)には膨大な量の文書が作成される。日本の古代国家が文書行政を主としたことは、日本の社会に文字が普及していく重要な契機となった。また、律令制は辺境の地域にも拡大していった。708年、越後国の北部に出羽郡が新設される。律令制の拡大は
司馬遼太郎は律令制について、“その前世紀までは、日本の実情は統一国家というより、津々浦々の諸豪族の郡立状態だった。豆腐をかためるのに、ニガリが要る。そのニガリの役割を律令制が果たした。日本全国に律令という大網を打ち、農地という農地、人間という人間を律令国家がまとめて所有し、統一国家が成立したのである。まことにふしぎなほどで、この間、軍事力が用いられることなく、地方々々はその権利を放棄した。こういうふしぎな例は、はるか千数百年くだって明治四年(1871年)の廃藩置県にもみられる。律令制というのは沈黙の社会主義体制だった。沈黙というのは、社会主義につきもののやかましさがなかったということである。地方豪族には律令制による位階が与えられた。律令制は叛乱も討伐もなく、静かに進行した。類似のしずかさは、廃藩置県についてもいえる。そこには国家存亡の危機意識が豪族たちや藩主、そして、その下の家臣たちにあった。隋・唐の古代帝国や西洋諸国による脅威である。律令制施行という「革命」が進行するについて、圧倒的に効果があったのは、平城京の建設だった”、と述べている。
また、上田正昭(京都大学名誉教授)は、“慶応3年(1867年)の12月9日、15代将軍徳川慶喜の大政奉還・将軍職辞退を受けて、新政府は「王政復古の大号令」を公布した。その中で「諸事神武創業ノ
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