第49話 画期としての天武期、天皇号・日本国号の成立
672年の「
また、「壬申の乱」の結果、倭国に初めて体系的な国家が誕生し、天皇という君主号、日本という国号、律令という法体系が成立した。天皇の称号は、飛鳥池遺跡の木簡によって天武の時代に確認できる。そして、「倭」に代わって「日本」という国号を広く公的に用いるようになったのは、大宝令制定の701年に始まると考えられている。この時代は倭国から日本国、大王から天皇へと変化した時代であった。
上田正昭(京都大学名誉教授)によれば、天武期には次のような事柄が始まったり、誕生したりしており、日本古代史における一つの画期となったという。
・唐の「開元通宝」を手本として造った日本で最初の銅銭「
・古事記の序によれば、天武はその
・
・国家と仏教の結びつきも、天武期から顕著となる。588年に蘇我氏が造営を始めた大和の飛鳥寺を天武9年(680年)に官寺としている。また、飛鳥の百済大寺(高市大寺)も天武2年(673年)に官寺とし、天武6年(677年)には大官大寺と名を改めたように国家仏教のさきがけともいうべき官寺仏教の具体化も天武期であった。そして天武12年(682年)には、
・天武期には
・天武・持統期のころから即位の祭義も唐風となり、日本の皇室の伝統にふさわしい、即位後の最初の
「
天武(在位:673年~686年)こそ天皇号を称した最初の君主であり、この
このようにして天皇の地位を確立し、その考えの下に古事記・日本書紀の編纂に着手した。681年、天武は川嶋皇子以下12人の王族・豪族たちを大極殿に集め、帝紀と上古諸事の記定を命ずる
倭国から日本国に国号を改めたのもこの頃と言われ、律令体制の完成や藤原京遷都(694年)の課題は皇后であった持統に託されることになったが、日本国家の基礎作りはまさに天武の時代に進展したといえる。天武の時代は日本史上における一つの画期である。
[
中国皇帝に匹敵する天皇という存在ができた背景として、近江朝に味方した旧来の有力豪族が没落して、「
徐建新(中国社会科学院教授)は「神聖化する倭王権」について次のように述べている。
古代王権の発達とは、地域王権から統一王権へという単なる実力の拡大を意味するだけでなく、その発達につれて王権の権力の内部構造も変わっていくことを意味する。したがって、古代王権はこれを未熟型の王権(初期王権)と成熟型の王権に分けることができる。威信や才能などのよって選ばれた地域共同体の首長たちの権力や、単に武力によって得られた軍事王権は成熟型の王権とはいえない。なぜなら、彼らの権力は固定的ではなく、制度化されていないからである。古代における成熟型王権は次の三つの要素を備えている必要があるといわれる。
① 王権が神聖性をもつこと
② 王権が合法性をもつこと
③ 王権(王位)継承制度が確立されていること
王権の神聖化とは、王本人と王の権力を地域社会の最高神と結びつけ、王と王の祖先を神の系譜に取り込んで、王・神同源の系譜を創り出すことを指す。このような王権神聖化の過程で、王と王の祖先の人格は神格化され、王は次第に神様の子孫となり、あるいは直接に神様になった。また、王のもっている世俗的権力と祭祀を掌る神権も、祖先の神様から授けられたと考えられるようになった。
魏志倭人伝に記されている「鬼道を事る」邪馬台国の女王卑弥呼は、神様の意思を臣民に伝える媒介的な存在に過ぎず、彼女の人格はまだ神格に昇格していなかった。これに対し、7世紀初頭の倭国王(推古と蘇我馬子の時代)はすでに自らを天(アメ)の神様と日(太陽)の神様に結びつけており、607年に隋の
この徐建新の論によると、倭国では、①に加えて②と③が確立した天武の時代に成熟型王権に達したといえる。
・945年成立の
・
熊谷公男(東北学院大学教授)によれば、「日本」という国号は、天武10年(681年)に編纂が開始され、持統3年(689年)に施行された
倭から日本への国名の変更とその当時の朝鮮半島情勢について朝鮮古代史が専門の井上秀雄(元東北大学教授)は次のように総括している。
中国史書で「倭人伝」があるのは「三国志」から「
ヤマト王権が日本国名を用いたのは唐の時代である。「旧唐書」と「唐会要」では、倭国伝と日本国伝とを分離している。その冒頭に、「日本国はいにしえの委奴国である」といい、「日本国は倭国の別種である」とも言って、両者(倭国と日本国)が異なるものであることを明記している。また、「旧唐書」に、「四面の小島五十余国をみな付属す」ともある。これによれば、倭国は後漢時代の「委奴国」が根拠地とした北部九州のことを指している。倭国の別種とは、倭国から分かれた国と読むのが正しい。倭国の記事は648年が最後で、日本国の記事の最初は703年である。中国の歴史書には、日本国外交が始まった時期は701年から703年の間となっている。このことから、国号の変更は701年~703年の遣唐使によって行われたと考えられる。「旧唐書」と「
663年の白村江での大敗の後、唐が
朝鮮や中国の史料からみれば、ヤマト王権が直接中国と外交関係を持つのは8世紀に入ってからである。それまでは北部九州の倭国が、国内的にはヤマト王権に従属していても、対中国外交では古くからの伝統もあって、日本を代表するものであった。ところが、白村江の戦いを契機に、朝鮮の統一戦争にヤマト王権が直接介入することになった。668年以降、新羅と唐とは旧百済領土をめぐって対立することとなり、6年半の戦争期をはさんで、735年まで両国の国交は断絶していた。ヤマト王権と唐との関係は、白村江の戦後処理や百済からの亡命貴族を受け入れているなど、間接的に唐と対立していた。少なくとも白村江の戦後処理が対唐外交の復活には必須の条件であった。具体的には、倭国外交の延長である大宰府外交をやめ、ヤマト王権が直接外交を司ることになった。それは実質的には白村江の戦後処理であった。九州倭国から大和日本への国号の変更は戦後処理の一環でもあった。
7世紀後半、朝鮮半島をめぐる東アジアの情勢は、各地域に様々な影響を与え、それに対応するそれぞれの地域住民の対応が新たな民族性を創造しつつあった。新羅は対唐戦争を経て、政治的には貴族連合体制を一掃し、下級貴族や地方豪族、さらに敵対国からの降伏者を含めて律令体制を作り上げるとともに、三国対立を止揚(否認)して、統一された朝鮮文化建設に向った。しかし、新羅は大同江以南を統一したが、旧高句麗領の北半分にあたる南満州は唐の支配下のままだった。その地に、高句麗の遺民と
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