第49話 画期としての天武期、天皇号・日本国号の成立

 672年の「壬申じんしんの乱」を経た天皇権威の高揚の下に、中央豪族の官僚化や地方支配体制の確立などが進展し、中央集権国家の成立に至る。この体制下では全国に軍団が置かれ、陣法に基づく軍事訓練も実施され、白村江で顕現した軍事面での欠陥も解消されたと思われる。倭国に幸いしたのは、668年に唐により高句麗が滅亡した後、唐の勢力を駆逐して朝鮮半島統一を図る新羅と唐との戦争が始まり、倭国は厳しい政治的選択を迫られる場面を回避することができたことである。また、668年から新羅が倭国に朝貢という形で辞を低くして通交してきたため、倭国は新羅を新たな文物移入の仲介者とすることで、朝鮮半島との交流を回復している。そして、旧百済領に拠る唐軍や百済人、あるいは耽羅たんら(済州島)の救援要請には応じず、朝鮮半島のことは新羅に委ね、676年に新羅が朝鮮半島を統一するのを傍観している。唐との関係は701年の遣唐使で修復できた。8世紀中葉から、倭国との対等な通交関係を求めてきた新羅との関係は悪化するが、ちょうどそのころから高句麗の後裔を称する渤海ぼっかい(698年~926年)との通交が始まり、この渤海を主要な通交国とすることで、外交上の軋轢を避けることができた。

 また、「壬申の乱」の結果、倭国に初めて体系的な国家が誕生し、天皇という君主号、日本という国号、律令という法体系が成立した。天皇の称号は、飛鳥池遺跡の木簡によって天武の時代に確認できる。そして、「倭」に代わって「日本」という国号を広く公的に用いるようになったのは、大宝令制定の701年に始まると考えられている。この時代は倭国から日本国、大王から天皇へと変化した時代であった。


 上田正昭(京都大学名誉教授)によれば、天武期には次のような事柄が始まったり、誕生したりしており、日本古代史における一つの画期となったという。


 ・唐の「開元通宝」を手本として造った日本で最初の銅銭「富本銭ふほんせん」を鋳造し使用させた。奈良県明日香村の飛鳥池遺跡から、その鋳型とともに大量の富本銭が出土している。天武12年(683年)には、「今より以後、必ず銅銭を用いよ、銀銭を用いることなかれ」、というみことのりが記されている。銀銭は地金としてすでに流通していたが、富本銭の使用を命じている。これが後に、和銅元年(708年)の和銅開珎わどうかいちんの発行につながった。

 ・古事記の序によれば、天武はその勅語ちょくごで古事記の編集を命じた。天武が稗田阿礼ひえだのあれに帝紀・旧辞を誦習しょうしゅう(古文を節をつけて読むこと)を命じ、それを太安万侶おおのやすまろが撰録して古事記が完成している。だから古事記は漢文体ではなく、ヤマト言葉を重視した「フルコトブミ」であった。「壬申の乱」によって皇位を簒奪した天武は、その皇統継承の正当性を古事記の編集によって主張しようとした。

 ・神祇じんぎの祭祀を重視した。本殿があり、拝殿のある神社が誕生したのは7世紀の天武の時代である。神社の格付けを社格と呼ぶが、社格の始まりは、高天原たかまがはら系の神々をまつるあまやしろ葦原あしはらなかつ国系の神々をまつるくにやしろである。あまつ神は天神てんじん天孫てんそんとに分けられる。くにつ神は地祇ちぎである。天つ社・天つ神を重視する神統意識は記紀に見出される高天原を中心とする宮廷神話の成立をその背景としていた。そして天武6年(677年)の「ちょく」によって、「あまやしろくにやしろの神税は三つに分かち、一つをば擬供つかえまつるが為にし、二分をば神主に分かちたまえ」、と決められた。あまやしろくにやしろという社格制度が出来上がったのは、天武期であった。

 ・国家と仏教の結びつきも、天武期から顕著となる。588年に蘇我氏が造営を始めた大和の飛鳥寺を天武9年(680年)に官寺としている。また、飛鳥の百済大寺(高市大寺)も天武2年(673年)に官寺とし、天武6年(677年)には大官大寺と名を改めたように国家仏教のさきがけともいうべき官寺仏教の具体化も天武期であった。そして天武12年(682年)には、僧正そうじょう僧都そうず律師りつしを任命して、国家による仏教統制システムともいうべき僧綱そうごう制が実質的に始まった。天武期における仏教重視の路線は、次の持統期にも受け継がれた。実際、天武期以前の寺は大和・河内・摂津・山城のほぼ畿内に限られていたが、天武・持統期以後は、関東から四国・九州に至る日本全域に広がっていった。

 ・天武期には天照大神あまてらすおおみかみはより明確に皇祖神として神格を強化したが、その後を受けた持統はその4年(690年)に、伊勢神宮の第1回の式年遷宮を行った。20年を節目として、「カミがよみがえる」とする日本的な式年遷宮が、天武の宿願であって、それが持統によって執行された。実は、皇祖神は天照大神あまてらすおおみかみ高皇産霊神たかみむすひのかみ二柱であったとの説がある。天照大神が南方系の土着系(三輪王権以前)の神で、早くから政治的最高神として崇められ、後から北方系(河内王権)の高皇産霊神が朝鮮半島を経由して入ってきたとする解釈が有力のようである。しかし、天武の時代、王権を強化するためには、最高神を一柱に限定する必要があり、天照大神の伊勢への遷祀はこの状況のもとで行われたと思われる。それは天照大神の信仰が地方の豪族たちの間に浸透していたからと考えられる。

 ・天武・持統期のころから即位の祭義も唐風となり、日本の皇室の伝統にふさわしい、即位後の最初の新嘗祭にいなめさいを拡充した大嘗祭だいじょうさいが、持統の代から実施された。さらに、天皇号と日本という国号が成立したのも天武・持統期である。


 「大王おおきみ」ではなく「天皇すめらみこと」と称するようになったのは天武・持統期である。5世紀中葉の倭国の王が「大王おおきみ」を称していたことは、和歌山県橋本市の隅田すだ八幡宮に伝える人物画像の「みずのとひつじの年(443年)の八月」から始まる銘文に「大王」とあるのをはじめとして、埼玉県行田市の稲荷山いなりやま古墳出土の鉄剣の「辛亥かのといの年(471年)の銘文に「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」とみえる例などに明確にうかがうことができる。「天皇すめらみこと」の用例として、天智7年(668年)の船王後ふなおうごの墓誌に「治天下天皇」が3ヶ所、「天皇」が2ヶ所みえており注目されているが、後年の追葬の可能性もあるといわれる。しかし、天武期に「天皇」の用語が確実に使われていたことは、奈良県明日香村飛鳥池から天武6年(677年)の木簡と共に出土した天武期の木簡に、墨痕あざやかに「天皇」と書かれていることよって確かめられる。


 天武(在位:673年~686年)こそ天皇号を称した最初の君主であり、この現人神あらひとがみとしての権威を背景に、「壬申の乱」の後に都を近江の大津おおつ宮から飛鳥浄御原あすかきよみはら宮に戻し、律令体制の確立に邁進する。675年に部民べみん制を廃し、旧来の豪族を官人として編成するために出仕法や考課の仕組みを整え、684年に「八色やくさかばね」で天皇を中心とするかばねの新秩序を作った。685年の新冠位制度は皇族をも含みこんだもので、天皇を頂点とする官人社会の序列を示すものとなった。この新冠位制度は603年制定の冠位十二階以来の冠位構造を刷新する画期的なもので、大宝令制につながる中央集権国家の仕組みを体現するものといえる。681年には飛鳥浄御原令あすかきよみはらりょう編纂を開始、その他、風俗の唐風化にも務め、目に見える形での変革を進めている。また、676年ころから新しい都造りにも着手し、都市生活や貨幣使用の基礎をつくろうとした。

 このようにして天皇の地位を確立し、その考えの下に古事記・日本書紀の編纂に着手した。681年、天武は川嶋皇子以下12人の王族・豪族たちを大極殿に集め、帝紀と上古諸事の記定を命ずるみことのりを発した。豪族は上毛野かみつけぬ君三千、忌部いんべ連首、阿曇あづみ連稲敷、難波なにわ連大形、中臣なかとみ連大嶋、平群へぐり臣小首の6人で、中臣連大嶋と平群臣小首の二人が自ら筆をとって記録にあたった。豪族については、中臣氏を除いて、大化以後に左・右大臣や御史大夫などの要職に就いた有力氏の阿部あべ蘇我そが巨勢こせ大伴おおともきのの出身者がいないことが注目される。古事記・日本書紀は原資料に手を加え、天武の時期に作り備えた部分が多いといわれるが、日本書紀完成の720年まで40年近い間に多くの撰者の変動や交替があったと思われる。 

 倭国から日本国に国号を改めたのもこの頃と言われ、律令体制の完成や藤原京遷都(694年)の課題は皇后であった持統に託されることになったが、日本国家の基礎作りはまさに天武の時代に進展したといえる。天武の時代は日本史上における一つの画期である。


天皇すめらみことの呼称]

 中国皇帝に匹敵する天皇という存在ができた背景として、近江朝に味方した旧来の有力豪族が没落して、「壬申じんしんの乱」の勝利によって大王権が伸長した結果、道教の知識に通じた天武が即位したことが非常に重要であった。この天武こそ、天皇を称した最初の人物である。「天皇」は春秋時代の儒家の経書を神秘主義的に解釈した書物「緯書いしょ」の「春秋緯合誠図」に「天皇大帝北辰星(北極星)なり」に由来するとされるが、道教では扶桑ふそう大帝東王公を天皇と仰いだ。天皇すめらみことの“すめら”はモンゴル語の「最高の山」を意味する“sumel”と同源。天皇とは天皇・地皇・人皇の三皇の首座であり、中国太古の天子の称号である。古代日本は「漢委奴国王」に始まる中国皇帝の臣下としての王号から、雄略の「治天下大王」や遣隋使小野妹子の国書の「天子」の採用を経て、「天皇」を頂点とする体制の確立に到った。こうした一連の動きは日本において中華意識が形成されていったことを示す。日本では、「天つ神の子孫で、皇帝並みに格の高い君主」という意味を付与したのではないかと考えられている。また、大王おおきみから天皇すめらみことへという君主号の変化とともに、君主の性格の変化が起き、神としての君主が誕生したともいわれる。王やその一族を神の子孫とみる天孫思想を、王自身を神とみる現神あきつかみ思想へと飛躍させたのは、天武の絶大な神的権威であった。そして、その隔絶した神的権威を維持するために、天武期から持統期にかけて、即位式の改編、大極殿だいごくでん大嘗祭だいじょうさい宣命せんみょうの制定、現神あきつかみ理念の形式などが組織的に行われた。こうして現神あきつかみ化された君主は、律令国家の頂点に君臨することになった。


 徐建新(中国社会科学院教授)は「神聖化する倭王権」について次のように述べている。

 古代王権の発達とは、地域王権から統一王権へという単なる実力の拡大を意味するだけでなく、その発達につれて王権の権力の内部構造も変わっていくことを意味する。したがって、古代王権はこれを未熟型の王権(初期王権)と成熟型の王権に分けることができる。威信や才能などのよって選ばれた地域共同体の首長たちの権力や、単に武力によって得られた軍事王権は成熟型の王権とはいえない。なぜなら、彼らの権力は固定的ではなく、制度化されていないからである。古代における成熟型王権は次の三つの要素を備えている必要があるといわれる。

 ① 王権が神聖性をもつこと

 ② 王権が合法性をもつこと

 ③ 王権(王位)継承制度が確立されていること

 王権の神聖化とは、王本人と王の権力を地域社会の最高神と結びつけ、王と王の祖先を神の系譜に取り込んで、王・神同源の系譜を創り出すことを指す。このような王権神聖化の過程で、王と王の祖先の人格は神格化され、王は次第に神様の子孫となり、あるいは直接に神様になった。また、王のもっている世俗的権力と祭祀を掌る神権も、祖先の神様から授けられたと考えられるようになった。

 魏志倭人伝に記されている「鬼道を事る」邪馬台国の女王卑弥呼は、神様の意思を臣民に伝える媒介的な存在に過ぎず、彼女の人格はまだ神格に昇格していなかった。これに対し、7世紀初頭の倭国王(推古と蘇我馬子の時代)はすでに自らを天(アメ)の神様と日(太陽)の神様に結びつけており、607年に隋の煬帝ようだいに宛てた国書の中では、倭国王は自らを「天子」と称するようになっていた。

 この徐建新の論によると、倭国では、①に加えて②と③が確立した天武の時代に成熟型王権に達したといえる。


 ・945年成立の旧唐書くとうじょには、倭国と日本の両伝が併記され、倭から日本に変更した理由が記載されている。「日本国は倭国の別種なり。 その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名とす。 或いはいう、倭国自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日本となすと。 或いはいう、日本は旧小国、倭国の地を併せたり」、日本は倭国の別種で、もともと小国であったが倭国を併合したとある。

 ・大和やまとは、倭人や倭国の「倭」から「大倭」となり、その後「大和」となっていることからも、「ヤマト」の当て字である。文字からもその変遷を読み取れる。北部九州にあった倭人の国が東遷し、より大きなクニとなったから大倭とし、倭の字は良い印象を与えないから和に変えて、大和としたのである。


 熊谷公男(東北学院大学教授)によれば、「日本」という国号は、天武10年(681年)に編纂が開始され、持統3年(689年)に施行された飛鳥浄御原令あすかきよみはらりょうで正式に定められたと推定される。これは天皇号が現神あきつかみ(明神)思想と結びつき、さらには皇后・皇太子の称号と地位が定められた時期とほぼ一致する。日本国の誕生は、新しい国家体制と、それを支える新しい国家理念の誕生でもあった。


 倭から日本への国名の変更とその当時の朝鮮半島情勢について朝鮮古代史が専門の井上秀雄(元東北大学教授)は次のように総括している。


 中国史書で「倭人伝」があるのは「三国志」から「唐会要とうかいよう:961年成立」までの13書、「日本国伝」が「旧唐書:945年成立」と「唐会要」に「倭国伝」とともにみられ、「唐書」以後は「日本国伝」のみに統一される。

 ヤマト王権が日本国名を用いたのは唐の時代である。「旧唐書」と「唐会要」では、倭国伝と日本国伝とを分離している。その冒頭に、「日本国はいにしえの委奴国である」といい、「日本国は倭国の別種である」とも言って、両者(倭国と日本国)が異なるものであることを明記している。また、「旧唐書」に、「四面の小島五十余国をみな付属す」ともある。これによれば、倭国は後漢時代の「委奴国」が根拠地とした北部九州のことを指している。倭国の別種とは、倭国から分かれた国と読むのが正しい。倭国の記事は648年が最後で、日本国の記事の最初は703年である。中国の歴史書には、日本国外交が始まった時期は701年から703年の間となっている。このことから、国号の変更は701年~703年の遣唐使によって行われたと考えられる。「旧唐書」と「通典つてん」の倭伝に、「倭は一名日本といい、自ら国が日の出近くにあるので、このように称する」とある。国名変更の理由として、ある人のいうには、「倭国は自分の国名は優美でないことを嫌い、日本国と改称した」と、また「日本国はもと小国であったが、倭国の地を併せたのだ」という。さらに、中国との関係は、479年に南斉なんせいから官位・軍号が授与された倭王で、倭国そのものは実質的に終わる。三国史記でも500年で倭の記事がひとまず終わる。したがって、国外からは、倭国が滅びたのは6世紀初頭といえる。しかし、外交権はその後も倭国が握っていた。それは北部九州にあった倭国である。

 663年の白村江での大敗の後、唐が郭務悰かくむそうら2000人を671年11月に倭国に派遣してきたが、672年5月に帰国した。その翌月に「壬申じんしんの乱」が始まっている。その後、30年間唐との国交は途絶している。また、唐書などによれば、670年に倭国から高句麗平定の祝賀使節が唐に来ている。ここで百済地方にいる倭人の抵抗と白村江での倭兵との戦闘に関するヤマト王権の責任を唐から追及されたものらしく、その後30数年間、日本の遣唐使派遣は中断した。この間、新羅との国交は維持されていた。その間、676年の統一新羅の成立をめぐる東アジア諸国との緊迫した外交が行われていたのは、白村江の戦後処理と考えられる。この対唐外交の行き詰まりを打開するため、伝統的に外交を担ってきた大宰府(北部九州の倭国)から外交権をヤマト王権に移行して、日本国外交とすることで、唐との外交を正常化したと考えられる。その結果、701年の栗田朝臣真人くりたあそんまひとらの遣唐使任命、703年入唐、その時に日本国への国名変更となった。

 朝鮮や中国の史料からみれば、ヤマト王権が直接中国と外交関係を持つのは8世紀に入ってからである。それまでは北部九州の倭国が、国内的にはヤマト王権に従属していても、対中国外交では古くからの伝統もあって、日本を代表するものであった。ところが、白村江の戦いを契機に、朝鮮の統一戦争にヤマト王権が直接介入することになった。668年以降、新羅と唐とは旧百済領土をめぐって対立することとなり、6年半の戦争期をはさんで、735年まで両国の国交は断絶していた。ヤマト王権と唐との関係は、白村江の戦後処理や百済からの亡命貴族を受け入れているなど、間接的に唐と対立していた。少なくとも白村江の戦後処理が対唐外交の復活には必須の条件であった。具体的には、倭国外交の延長である大宰府外交をやめ、ヤマト王権が直接外交を司ることになった。それは実質的には白村江の戦後処理であった。九州倭国から大和日本への国号の変更は戦後処理の一環でもあった。

 7世紀後半、朝鮮半島をめぐる東アジアの情勢は、各地域に様々な影響を与え、それに対応するそれぞれの地域住民の対応が新たな民族性を創造しつつあった。新羅は対唐戦争を経て、政治的には貴族連合体制を一掃し、下級貴族や地方豪族、さらに敵対国からの降伏者を含めて律令体制を作り上げるとともに、三国対立を止揚(否認)して、統一された朝鮮文化建設に向った。しかし、新羅は大同江以南を統一したが、旧高句麗領の北半分にあたる南満州は唐の支配下のままだった。その地に、高句麗の遺民と靺鞨まつかつ系を結集し、698年に大祚栄だいそえいしん国を建国し、713年には渤海ぼっかい国を名乗り、唐の冊封体制に加わった。渤海ぼっかい(698年~926年)は中国東北地方から朝鮮半島北部・ロシア沿海地方に広がった国家である。こうして唐は東方政策の安定をみることになった。日本では百済・高句麗の亡命貴族をはじめ、多くの移住者を迎えて、日本文化を多彩に発展させた。また、対唐関係のつまずきで国際関係の困難さを体験したが、新羅と唐とのような軍事的な対立にまで発展せず、時期を待つことによって国際関係の責任を回避した。

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