第48話 壬申の乱と天武

 中大兄皇子なかのおおえのおうじの時代から永らく天智てんじを支えてきた中臣鎌足なかとみのかまたりが669年10月に56歳で死去した。代わって蘇我赤兄あかえと中臣かねが台頭してきた。蘇我赤兄あかえは「乙巳いっしの変」で活躍した石川麻呂いしかわまろの弟であり、中臣かねは中臣鎌足の従兄弟である。6~7世紀の倭王権の皇位継承は兄弟相承を柱とする世代内継承で、元来は天智の同母弟の大海人皇子おおあまのおうじが最有力候補だった。しかし、天智は後継者として自分の子である大友皇子おおとものおうじを望んだ。それは中国的な父子相承でもあった。天智が671年10月に重病に陥ると、皇太弟であった大海人皇子はその即位に反対する蘇我赤兄あかえと中臣かねらの陰謀を察知して、天智に対して自分は剃髪して仏道に帰依し、天智の病気回復を祈るため直ちに吉野山に赴く旨を伝え、第一の妃である鸕野讃良うののさららと二人の間の子草壁くさかべ皇子、そして少数の舎人とねりと共に吉野山に入った。その2か月後に天智が671年12月に崩御すると、その二日後には、蘇我赤兄あかえと中臣かねの左右両大臣と、御史大夫ぎょしたいふの蘇我果安はたやす許勢こせひときの大人うしらが、天智とその采女うねめの子の大友皇子を後継者とした。後の弘文こうぶんであるが、記紀には即位したとは書かれていない。しかし、大友皇子の母は皇族や大臣の娘ではなかったため、古代においては例外的な即位であった。672年6月、大海人皇子は突如吉野を脱出して私領のある美濃へ向かった。皇位継承をめぐる「壬申じんしんの乱」が勃発した。


 672年の「壬申じんしんの乱」は、天智てんじの後を継いだ近江大津宮の大友おおとも皇子に対して、吉野山中に出家・逃避していた大海人おおあま皇子が、その機の到るをみて突如虚をついて反旗を翻し、周到にして果敢な作戦行動をおこし、先制よく大友皇子を倒して政権を握った戦いである。それは大海人皇子による綿密な計画のもとでの軍事クーデターといえる。


 この作戦行動において大海人皇子は、大津宮にいる自分の子の高市たけち皇子と大津おおつ皇子を急ぎ呼び寄せ、伊勢で会うことにして、鸕野讃良うののさらら草壁くさかべ皇子とともに6月24日にまず自ら少数の従者を従えただけで吉野を脱出し、宇陀うだ名張なばり伊賀いが倉歴くらふ鈴鹿すずか三重みえと山道を強行軍で突破し、伊賀の朝明あさけに大海人皇子の一行が入ろうとするところへ、美濃の兵3千が不破ふわ道を占拠したとの吉報がもたらされ、さらに信濃の兵も挙兵した。その移動途中で高市皇子と大津皇子も合流している。大津宮攻略の司令官として高市皇子を不破に派遣し、6月27日には大海人皇子も桑名を経て関ヶ原近くの不破へ入り、和蹔わざみを本営として陣容を整えた。そのころ、尾張の国宰くにのもこともち(後の国司)が2万の軍を率いて大海人の軍に加わった。

 そして、本隊は琵琶湖南岸を西南に向って野上のがみ息長おきなが横河よこかわ安河やすのかわを経て瀬田せたに到り、吉野を脱出して約1ヶ月後の7月22日には、わずか一日の戦いで近江側の大軍を琵琶湖南岸の瀬田川において全面的に撃破し、ついに大津京を攻略した。別働隊は野上から琵琶湖北岸を迂回して三尾みお城を攻めて南下する。また別隊は野上から道を戻って鈴鹿を越え、名張を経て宇陀に到り、大和の磯城しきを経て西進し、大伴吹負ふけいの大和の諸軍と合流して、箸墓はしはかから衛我河えがのかわで戦い、当麻たぎまを経て難波なにわに出る作戦行動を起こし完勝した。 

 大化改新以前において有力であった大伴氏は、大化改新以後、一時右大臣になった時期もあったが、天智の近江朝では重要な地位につくことはできなかった。そのため大伴馬来田まくた吹負ふけい兄弟は大海人皇子に期待をかけていたとみえて、天智の没後、早くに近江朝廷を抜け出して、大和の本拠地である奈良盆地東南部に戻って形勢を見ていたところ、大海人皇子の叛乱が起こったので、馬来田まくたは大海人皇子の吉野宮脱出に同行し、吹負ふけいは高市郡の辺りに住む東漢やまとのあや氏とも連携し、近江朝の飛鳥故京を占拠した。さらに、三輪みわかもなど大和各地の豪族に呼びかけて大和一円を勢力下に入れて、美濃にいる大海人皇子に状況を報告するとともに、近江へ向けて進撃し、大海人皇子の別動隊と合流した。 

 壬申の乱は、7月22日の大津宮の陥落、ついで逃亡した大友皇子が翌日に山前やまさきで自害、そして近江朝の重臣の死罪・流罪が実施されて終わった。こうした両陣営の戦いぶりをみると、近江大津宮の大友皇子陣営は終始、後手にまわった感がある。一方、大海人皇子は、いったん決断を下すや、いち早く大海人皇子の私領がある美濃に入って東国諸国を押さえ、地方豪族らを味方に付けた。これが勝敗の分かれ目となった。


 大海人皇子にとっては、自らの私領である安八磨あはちま(今の岐阜県安八あんぱち郡)の湯沐ゆのうながしを基地として東国の兵力を動員することが唯一の戦力の源であった。大海人皇子は作戦行動途中の6月26日の朝に伊賀の朝明あさけの川辺で伊勢の大神を遥拝して戦勝祈願をしたりして呪術を行っている。それは美濃とともに伊勢・尾張の豪族たちも味方に付けるための遥拝であった。「壬申の乱」後、天武は伊勢神宮を非常に尊重して、自分の娘の大来おおく皇女を斎宮さいくうとして送った。それ以来、伊勢神宮の地位は高まり、天皇家の唯一の氏神うじがみとなった。伊勢神宮の式年遷宮の始まりは天武の末年ごろといわれている。司馬遼太郎は、“伊勢神宮の式年遷宮の儀式の思想は道教で、礼儀は儒教によっている。7世紀末の持統じとうの時代に制度化されたが、これらは外来文化であり、高句麗の影響が大きいと思われる”、という。


 大海人皇子は戦線には出ず、不破ふわで指揮を執っていたが、戦いに勝った後も1ヶ月余り動かず、戦後処理を行った。この「壬申の乱」が文字どおり天下を二分する未曾有の内乱であったにもかかわらず、敗者の処分は意外に軽かった。乱後に処分された近江側の重臣は、右大臣の中臣かねが斬罪、左大臣の蘇我赤兄あかえ御史大夫ぎょしたいふ許勢こせひとと蘇我果安はたやすが流刑ぐらいで、他はことごとく許された。御史大夫ぎょしたいふきの大人うしは大海人皇子の味方をしており、罪をまぬがれている。乱の規模に比べて断罪が比較的軽かったのは、最後まで大友皇子を助けたものが少なかったのと、乱後のために恩を施そうとしたからと思われる。


 上田正昭(京都大学名誉教授)は近江側について、“大友皇子は「壬申の乱」の敗者である。日本書紀は天武の第三皇子舎人とねり親王を中心として完成しており、その全30巻の中で、第28巻を「壬申の乱」にあてたほどに、天武による皇位継承の正当性を強調している。したがって、日本書紀の立場だけで大友皇子を評価するのは問題が残る。大友皇子の側からの考察も必要である”、と述べて正当な評価を求めている。


 9月に入ってから、大海人皇子は不破を発し、9月12日に飛鳥の故京に帰り、岡本宮の南に新しく宮を造営して移り住んだ。それが飛鳥浄御原あすかきよみはら宮である。そこで673年に天武てんむとして即位し、吉野以来行動を共にしてきた天智の娘である鸕野讃良うののささら皇女を皇后に立てた。

 この戦いにおいて自ら三軍を統轄し戦勝した高市たけち皇子は日本書紀におけるヤマトタケルのモデルとも言われている。高市皇子は大海人皇子の長男で、「壬申の乱」のときは19歳だったが、大海人皇子の右腕となり、前線司令官として活躍した。天武の死後には、持統の太政大臣であったが、43歳で崩じた。一説には、高市皇子の母は九州の豪族胸形むなかた(宗像)氏の娘、尼子娘あまこのいらつめであり、身分が低いため、功績から言えば天武の後継者になる資格はあったが、天皇になれずに亡くなったといわれる。


 直木孝次郎は、その時の社会情勢から「壬申の乱」を次のように分析している。

“天智は内外の情勢に押されて大豪族と妥協し、蘇我・中臣以下の強大豪族が近江朝の上層を固めるという事態を作りだした。これは、必ずしも天智が律令体制を守るために、天皇制の進行をなおざりにしたわけではないが、結果的に大豪族の勢力が伸びて、天智の死後には天皇の地位の低下を来す恐れを生じたことは否定できない。これに対して、天武は律令制完成の根本原則は受け継いでいるが、まず弱体化の危機に陥った天皇の地位を回復することを先決条件と考え、大豪族によって固められている近江朝そのものの転覆を計った。そのために、大豪族層と対立関係にあった中小豪族の力を利用したのが、「壬申の乱」であると考える。あるいは律令制または大豪族に圧迫されつつあった中小豪族層の反撥が、天武に上述の決心を固めさせたと言った方がよいかもしれない。大海人皇子があのような優勢をもって戦いを進めることができたのは、律令制的収奪に対する農民大衆の不平不満と、律令制的体制に対する在地の中小豪族層の不平不満というものを抜きにしては考えられない。大海人皇子の兵力動員がスムーズに進行したのに比べて、近江側の兵力集結が敏活に行われなかったということが、当時の農民と地方豪族の動向を示している。”


 「壬申の乱」では、ほとんどの中央有力豪族は大友皇子の近江方に味方したが、大海人皇子の下には中小豪族や地方豪族が集まるだけであった。しかし、当時は地方豪族が地方支配の実権を握っており、美濃・尾張、さらに信濃・甲斐ら地方豪族たちの加勢が勝利を決定づけた。「壬申の乱」で近江方が敗北したことで、中央有力豪族の多くは昔日の権力を失った。こうした状況の中で、天武は大王の権威を強大なものとして本格的な律令国家建設に向かって大きく歩みだした。まずは、地方豪族の動きに対応して、地方豪族が下級官人に出身する道を開き、律令体制の中に取り込んでいった、天武2年に、地方豪族に対し、大舎人おおとねりとして朝廷に仕え、さらに能力に応じてそれぞれの地位についていくというコースを打ち出し、さらに、天武5年には、国造くにのみやつこクラスの地方豪族の子弟の出仕を認めた。これらは「壬申の乱」において天武を支持した地方豪族の不満を解消するためであった。


[伊勢神宮] 

 三重県伊勢市に鎮座する。内宮ないくうの祭神はアマテラスで天皇家の皇祖神であり太陽の女神でもある。アマテラスには卑弥呼のイメージが反響しているという人もいる。外宮げくうの祭神は豊受とようけ大神でアマテラスに食事を奉る神である。内宮の神職集団の長である禰宜ねぎ荒木田あらきた氏が世襲し、外宮は渡会わたらい氏が受け持つ。これら在地豪族の神職集団の上に、朝廷から派遣される大中臣おおなかとみ氏が大宮司・祭主を務め、皇女が最高の巫女である斎宮さいくうとして奉仕する。中央と在地の二重組織であった。内宮の創祀は日本書紀によれば垂仁25年(3世紀後半~4世紀初頭)であるが、続日本紀によれば文武2年12月(698年)となる。外宮は雄略期に物部目もののべのめが伊勢の土豪であった朝日郎あさひのうらつこを平定した後の478年に豊受大神が丹波から伊勢に奉遷されたと伝えられている。垂仁は有力な五武将を召して、神祇の祭祀に努めるべきことを詔し、次いで天照大神を笠縫邑かさぬいむらで祭っていたトヨスキイリヒメ(崇神の皇女)からヤマトヒメ(倭姫:垂仁の皇女)に引き継がせ、さらに伊勢神宮に鎮座の処を移した。天武が「壬申の乱」の戦勝祈願をし勝利したことが、天武の後の持統の時代に20年ごとの式年遷宮が制度化されたと推定されている。また、崇神の時代に始まった斎王さいおう制度は用明の時代が最後になっていたが、天武期に復活したことも「壬申の乱」と関わりがある。未婚の皇女が天皇の代わりに祭祀に奉仕する斎王制度は奈良時代を通じて連綿と続けられた。天武以前の土地の豪族は渡会わたらい氏で、荒木田あらきた氏はこの地域を開墾した新興の氏族と推定される。内宮のご神体は八咫やたの鏡。この神鏡を直接包む御樋代とそれを納める御船代がある。この八咫の鏡は、伊都いと国の平原ひらばる遺跡から出土の超大型(直径46.5センチ)倣製内行花文鏡と同型のものである。内宮の近くに猿田彦神社がある。伝承ではヤマトヒメとともに伊勢の地に来たアマテラスの道案内をしたのがサルタヒコであったという。但し、現在の猿田彦神社は明治11年に造営されたもので、神宮の管轄社ではない。

皇祖神が大和ではなく、伊勢にある理由について直木孝次郎(大阪市立大学名誉教授)は、“雄略期または継体期に成立した最初の伊勢神宮は、天照大神の敬遠・左遷によって成立し、その後も地位は次第に低下して地方の有力神と大差のない状態になった。しかし、「壬申の乱」に際し、伊勢神宮は叛乱を起こした大海人皇子に協力し、大海人皇子が勝利を収めたことによって権威と地位を回復した”、とする。


 実力で皇位についた天武・鸕野讃良うののささら皇后(後の持統)は、太政大臣や左右大臣を任命せず、有力豪族を政権の主要な地位から排除し、皇族及びその血脈につながる人びとを政治の中枢にすえ、天武自らが執政の首座にあって、果敢な政策を断行する。このような時期に記紀の編纂が開始された。そこでは改めて天皇統治の必然性を強調し、その王統のよってきたるところを神代にまで遡及する必要があった。


 水野祐は、“「壬申の乱」は、天武すなわち大海人皇子によって吉野において計画的に企画され主動的に決行された近江朝打倒の目的によって惹起された謀叛事件であると見るべきである。多くの悲惨な流血を伴って完遂された古代史上最大の内乱であった。その結果は天皇の武力行使による天皇権の掌握であり、天皇は鸕野讃良うののささら皇女とともに絶対権を獲得し、日本史上最強の天皇権を実現させたのであった。その政治体制を皇親こうしん政治という”、と結論づけている。


皇親こうしん政治]

 天武は14年間在位したが、その間一人の大臣も任命しなかった。政治にあずかる者は、天皇をおいては皇后ただ一人である、後に皇太子の草壁くさかべ皇子・高市たけち皇子・大津おおつ皇子が加わった程度で、他の皇子諸王は一定の官につけず、朝廷の要務を分掌させるという徹底した天皇親政が強行された。この政治体制は天武から持統・文武に至る三代に及んで厳守され、さらに元明・元正の治世を経て、長屋王の時代まで辛うじて存続した。中でも天武(在位:673年~686年)・持統(在位:690年~697年)・文武(在位:697年~707年)の三天皇の時代が、日本の天皇政治史上最も強力で典型的な天皇親政の時期であった。

天武には十人の皇子があったが、それらの皇子すべてが腹違いの兄弟であった。また天武の甥にあたる天智の皇子たちの中の数人も自分の皇子同様に処遇していた。彼らは大友皇子側に味方しなかったようだ。679年、天皇と皇后は草壁くさかべ大津おおつ高市たけち川嶋かわしま忍壁おさかべ施基しきの6皇子を率いて、吉野へ赴き、天皇の意に従って協力すべきことを互いに誓約させ、天皇親政の基礎を定めた。この中で、川嶋かわしま施基しきの2皇子は天智の子である。このうち皇女を母とするのは、天智の娘であった鸕野讃良うののささら皇后の生んだ草壁皇子と、鸕野讃良うののささら皇后の姉大田おおた皇女の生んだ大津皇子の二人だけである。大田皇女はすでに天智6年(667年)に病没していたこともあり、鸕野讃良うののささらが皇后の地位に就くことができたという経緯はあるが、天武は681年に鸕野讃良うののささら皇后の子である草壁皇子を皇太子に立てた。そこに群臣協議の様子はない。さらに、この年の2月には天皇は律令の制定と法式の改定を命じている。それが飛鳥浄御原令あすかきよみはらりょうとなった。3月には川島皇子・忍壁皇子以下4人の皇子と6人の官人に命じて、帝紀および上古の諸事の編纂に着手させた。したがって、この681年は天皇親政の一つの頂点をなす重要な年で、最も厳しい天皇制、天皇独裁の法制的基盤を確立した年である。


 天武が、「われ、今より更に律令を定め、法式を改めむとおもふ」と述べて、681年2月に編纂を命じた法令が、日本で最初のりょうとなる飛鳥浄御原令あすかきよみはらりょうである。その完成・施行は持統称制しょうせい期の689年になったが、後の701年の大宝律令たいほうりつりょうへとつながった。さらに新羅の唐風化と同様に、男女の結髪、女子の乗馬、宮廷での立礼、礼儀・服装など、風俗・慣習に関わる事柄を唐風に切り替えようとした。

 また天武は、681年の9月に諸氏族の氏上うじのかみを定め、それを上告させている。この上告された氏上制度を選考の基礎として官吏の登用が行われた。したがって、うじの組織が依然として官僚制の基礎をなし、土地国有制の代償として氏族にこのような特権を与えなければならなくなったことは事実である。このような官僚機構の中核に位置する天皇は、その権威によってきたる所以ゆえんを神の権威をもって神聖化する必要をみとめざるを得なくなった。いわゆる天皇神権というのは、この絶対的独裁天皇の下に置いて創始されたのである。


 684年10月、「八色やくさかばね」の制定によって諸々の氏は、真人まひと朝臣あそみ宿禰すくね忌寸いみき道師みちのしおみむらじ稲置いなぎの八階の新しい姓によって秩序づけられた。うじ族社会においては、氏の出自、氏の勢力、土地人民私有数量の多少によって姓を帯し、それを世襲的に継承して尊卑を示していたが、天武期の賜姓はそうしたことに関係なく、朝廷における功績、「壬申の乱」の戦功などから天皇の意志によって授けられた姓である。したがって、公地公民の原則が賜姓によって破られることはなかった。つまり天武改姓は、冠位性と姓制とが並行するよう改変し、姓という形式を生かしつつ、実質的には古い姓を一掃したのである。


八色やくさかばね

 天武13年(684年)に制定された「八色の姓」は、旧来の氏姓制度を打破し、旧豪族の伝統的な勢力を一掃して、皇親政治の実をあげるための新官僚層を育成する手段として、古い姓制に因んではいるが、実質的には旧姓制を否定する巧妙な手段であった。


① 筆頭は真人まひとで13氏が選ばれ、皇別氏族である。  

 守山もりやまみち高橋たかはし三国みくに当麻たいま茨城うまらき丹比たぢひ猪名いな坂田さかた羽田はた息長おきなが酒人さかひと山道やまじ。後ろにきみがつく。 

最も重視されたのは、天皇家ゆかりの皇親氏族への真人まひとの賜姓であった。真人まひと姓13氏のうち、息長・羽田・山道は応神の後裔で、他の10氏はすべて継体から数えて5世の氏族である。

② 第二位は朝臣あそみであり、当時の上位豪族から選ばれた52氏に与えられた。その出自はむらじが2氏、おみが39氏、きみが11氏に分かれる。 

 阿部あべ臣、きの臣、物部もののべ臣、平群へぐり臣、中臣なかとみ臣、上毛野かみつねぬ君、下毛野しもつけぬ君、など。その内20氏が武内宿禰を祖としている。また、別の出自としては、旧在地豪族42氏、旧伴造とものみやつこ10氏よりなる。

③ 第三位は宿禰すくねの51氏、忌寸いみきの11氏。 

 宿禰すくね大伴おおとも連、佐伯さえき連、阿曇あづみ連、忌部いんべ連、尾張おわり連、など。

 忌寸いみきはた倭漢やまとのあや葛城かつらぎ連、など。

④ 第四位以下は道師みちのしおみむらじ稲置いなぎ


 実際に賜姓されたのは真人・朝臣・宿禰・忌寸の上位四姓のみであり、第四位以下は賜姓の例を見ない。特に、旧来では最上位であったおみむらじは下位に置かれた。天武は神別氏族を軽視し、皇別氏族を重視した。


 森公章(東洋大教授)によれば、天智期ではまだ律令の制定、中央集権的律令国家の確立には至っていなかった。そこには672年の「壬申の乱」で近江朝を支持した旧来の豪族が没落し、万葉集に「大王おおきみは神にしせば・・・」と謳われるほどの君主権の伸長を得て即位した天武の登場が必要であったとする。神と仰がれて天武は国政の全権を一手に握った。さかのぼれば、雄略・継体以来、倭王権の王たちが目指していた大王中心の政治体制は、天武期において実現したといえる。

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