第47話 高句麗の滅亡と統一新羅の成立

 663年に百済を完全に滅ぼした唐・新羅連合は次に高句麗の征討を目指した。唐は百済最後の王・義慈ぎじ王の太子で、唐に降伏した扶余隆ふよりゅう熊津ゆうしん都督に任じて旧百済領の安定をはかり、新羅との和平を進めた。そして倭国には同じ義慈ぎじ王の子・善光ぜんこうがおり、高句麗には白村江はくそんこうでの敗北後に逃亡したその兄の豊璋ほうしょうがいる。

 白村江での敗北によって百済は完全に滅亡し、倭国では国土防衛策に追われることになった。全長1.5キロ、高さ13メートルの防塁と、博多湾側に幅60メートル・深さ4メートルの濠を構築した、いわゆる水城みずきの築造、筑紫の大宰府の内陸部への移動、逃げ城の性格をもつ朝鮮式山城やまじろを対馬・筑紫・長門・讃岐・大和に次々に築造していった。さらに、律令制の迅速な導入推進など、倭国にとって軍事・政治体制の新たな段階への契機となった。倭国は朝鮮半島・中国大陸との関係を途絶しただけでなく、唐・新羅連合が日本列島に攻め込んでくる脅威を考えねばならなくなった。実際、664年4月には唐の百済鎮将劉仁願りゅうじんがんの使者、郭務悰かくむそうが筑紫に来て、「将軍牒書ちょうしょ」を筑紫大宰おおみことのつかさに手渡している。牒書の内容は不明だが、筑紫大宰は唐の使者を追い返している。また、665年9月には唐本国からの使者が倭国に来て入京している。しかし、この時点で唐が倭国へ侵攻するのは、朝鮮半島での状況から考えて無理であったと思われる。日本書紀に、「667年11月、唐の百済鎮将劉仁願、使を遣わして遣唐副使を送還」とある。これは唐の要請により渡唐した倭使が667年の唐使に送られて帰国したのである。この事例からすると、倭国と唐との国交は回復したようである。


 唐が高句麗征伐を再開するのは666年である。高句麗からは666年の1月と10月、668年の7月に「進調(貢納物の献上)」の使者が倭国に来ている。高句麗は唐の圧力にさらされており、倭国との友好関係を維持しようとした。しかし、642年にクーデターで栄留王を殺害し、王の弟の子である宝蔵ほうぞう王を擁立し、自らは莫離支ばくりしとなって権力を握っていた泉蓋蘇文せんがいそぶんが666年に急死すると、後を継いで莫離支ばくりしとなった長男の男生なむせんと、その弟の男建なむごん男産なむさんとが対立した。不和の原因は高句麗内における対唐停戦温和派と対唐主戦強固派との争いであったと思われる。長男の男生なむせんが地方を巡視していた間に、二人の弟は首都の平壌城を占拠してしまった。権力から追放された男生なむせんは鴨緑江中流域にある副都である国内城に逃げ、そこを拠点とした。自らの不利な立場に焦った男生なむせんは唐に降伏する道を選んだ。対唐停戦温和派の男生なむせんは、唐に使いを出して、弟の男建なむごん男産なむさんとの不和を奏上した。次に再び使いを出して、唐への忠誠と尽力とを誓った。最後に、16歳の息子の献誠けんせいを入唐させて、ようやく対応を得た。その後、三度使節を派遣し、唐から遼東大都督・玄菟郡公が授けられ、唐に亡命した。唐はそれを好機として侵攻を再開して高句麗に出兵し、新羅にも出兵を命じた。唐軍が侵攻するなど戦局が絶望的になると、新羅との国境方面を守っていた泉蓋蘇文せんがいそぶんの弟である泉浄土せんじょうどが、666年12月に新羅に投降してしまった。その後、男建なむごん男産なむさんの高句麗は善戦したが、唐軍は667年には遼東地域を占拠し、その翌年の668年夏には平壌城に進軍した。新羅軍も6月平壌城に向かって進軍を始めた。そして9月、唐軍と新羅軍が合流して平壌城を包囲した。数週間の籠城の後、男産なむさんは降伏するが、男建なむごんはなおも抵抗を続けた。そうした中、男生なむせんは、唐軍の辛労を避け、平壌城内の人びとの塗炭の苦しみに配慮して、ひそかに平壌城内の将軍僧信誠しんせいらに城門を開くように内通した。唐軍は易々と平壌城に侵入して、高句麗の宝蔵ほうぞう王(在位:642年~668年)や弟の男建なむごんらを捕らえることができた。これらの出来事は、中国河南省で出土した「泉男生墓誌」「泉献誠墓誌」や「新唐書・男生伝」に記されている。唐は668年9月に王都の平壌を制圧し、高句麗との長い戦いを終わらせた。こうして隋・唐の度重なる侵攻に耐えてきた高句麗は、最後は内紛により、あっさりと滅亡した。

 その後、泉男生なむせん・その息子の泉献誠けんせい、そして内通した将軍僧信誠しんせいの三人は、唐からそれぞれ右衛大将軍・司衛卿・大夫に任命され優遇されている。ところで、高句麗が滅亡したとき、663年の白村江での大敗後に高句麗に逃れていた百済王豊璋ほうしょうが唐軍に捕まっているが、その後の消息は伝わっていない。

 唐は9月に高句麗を滅亡させた後、12月には平壌城に安東あんとん都護府を設置して、2万の兵を駐屯させ、5部・176城・69万戸余りだった旧高句麗領は、9都督府・42州・100県に再編され、唐に協力した高句麗人がそれらの長に任命された。その後、高句麗の有力な民戸2万8200戸余りを唐の内地に強制移住させた。それに反抗した遺民の武力蜂起が相次いだが、673年ごろまでに鎮圧された。

 こうして新羅は、唐を引き入れることによって百済・高句麗を相次いで滅ぼすことができた。しかし、唐の狙いは新羅を含めた朝鮮半島全体を属領として間接支配することだった。


 その同じ668年9月に新羅が656年以来12年ぶりに倭国に「進調(貢納物の献上)」の使者を送ってきた。これに対し、倭国も船一隻や絹・綿・などを授けている。新羅のこの動きは、高句麗が滅んだため、次には唐の圧力が新羅に向けられることを予測し、倭国との友好関係を築き直そうとしたためと考えられる。倭国がこれに応じたのは、唐との国交が回復したとはいえ、複雑な国際関係のもとでは、唐との良好な関係が続く保障はない。万一の場合は新羅との共同戦線もあり得るとの判断であったと思われる。一方で、倭国は669年に遣使して唐に礼を尽くしている。当時の朝鮮半島をめぐる東アジアの国際関係は流動的であった。そのとき倭国は天智の時代であった。


 倭国が唐から圧力と懐柔を受ける中、朝鮮半島の情勢に新たに動きが起こった。新羅による朝鮮半島統一の動きである。唐と新羅との関係は、百済が完全に滅亡した663年に、唐が新羅に鶏林けいりん(新羅の異称)都督府を置き、新羅の武烈王の後を継いだ文武王(在位:661年~681年)を鶏林けいりん州大都督に任じ、新羅を属領としたときから悪化の気配はきざしていた。新羅は唐からの独立を目指し、唐との戦いを決意した。後顧の憂いをなくすため、668年と669年の二度、新羅は倭国に使臣を送り和解し、国交を回復したのである。 


 唐は高句麗を668年に滅ぼした後、平壌に安東あんとん都護府を置いて高句麗の故地を統治したが、670年に高句麗の遺臣鉗牟岑かんむしんが挙兵し、高句麗復興の戦いを始める。この動きに対し、新羅は2万の大軍を送って鉗牟岑かんむしんを援助し、ここに唐と新羅との連合は破れ、新羅は唐との戦争に突入する。

 670年の戦いは高句麗復興軍と新羅の連合軍の敗北に終わったが、その後も新羅は高句麗遺臣の抵抗を助け、これに対して唐は672年に4万の大軍を平壌に送り、8つの軍営を設置した。その間、新羅は670年から唐の支配する旧百済地域への侵入を始め、唐の支配下にあった63城の外に19城を攻め取り、翌年の671年6月には百済の旧都泗沘しひ城を占領して、672年、ここに所夫里そふり州を設置した。これは事実上、新羅が旧百済地域を掌握したものといえる。さらに旧高句麗領で反乱を起こした勢力が亡命してくると、彼らを旧百済地域の金馬渚きんばしょ(今の益山いくさん)に居住させるとともに高句麗王の外孫であった安勝あんすんを高句麗王として冊封した。その後、674年には安勝を報徳王に封じている。


 この頃、唐は二方面で戦争を行わなければならない状況にあった。西方では、670年4月に、唐の西域18州を攻略した吐蕃とばん(チベット)を討伐するため10万の軍を投入した。しかし、唐軍は同年8月に大敗して、逆に長安のある関中地域が吐蕃とばんの脅威を受ける形勢となった。新羅による旧百済地域の支配も、その間隙をついたものであった。しかし、唐は新羅の大同江以南地域の領有権を認めなかったので、唐と新羅との緊張は続くことになった。この間、倭国は669年に唐、670年に新羅に使節を派遣し、新たな情勢を把握した。朝鮮半島の政局が動揺すると、倭国の地位は相対的に高まる。 


 668年9月の高句麗滅亡、それに続く新羅による朝鮮半島統一の動きと、朝鮮半島において目まぐるしく状況が変わっていた間にも、朝鮮半島における唐の駐留軍から倭国へ厳しい要求がなされていた。

 671年1月、唐の百済鎮将劉仁願りゅうじんがんが使節を倭国に遣わした。対新羅戦における不利な戦況の中、倭国に対して軍事協力を求めてきたものとされる。それに対する天智の近江朝の回答は不明であるが、使節は7月に帰国している。同じ671年には高句麗遺臣団・百済遺臣団・新羅の朝鮮三国の使者も倭国に来た。高句麗遺臣団の使者は新羅の援助があったからと思われるが、いずれの国も倭国を自分の側に引き入れようとした。

 そうした中、671年の11月には、唐の百済鎮将劉仁願りゅうじんがんの命を受けた郭務悰かくむそうが、船47隻に乗せた2000人を引き連れて倭国に送り込まれた。この中には白村江の戦いで唐側が獲得した倭人と百済人の捕虜が多数含まれていたようである。一説には捕虜の数は1400人にのぼるとされる。唐側の目的は、捕虜の返還を交換条件として、倭国が唐に協力して新羅と戦うように仕向けるためだったと考えられる。近江朝は出兵の約束はしたものの時間がかかる旨説明し、とりあえず、捕虜の返還と引き換えに大量の甲冑・弓矢などの武器と、(あしぎぬ、絹織物の一種)・布・綿を供与して、672年5月に郭務悰に帰国してもらった。天智はこの間の671年12月に崩御している。・布・綿は捕虜の身代金とも受け取れる。ところが、唐が三度目の使節を派遣する前の672年6月に「壬申じんしんの乱」が起った。その間にも唐は新羅によりいくつかの敗戦を蒙っていた。「壬申の乱」は単なる倭国内での王位継承争いではなく、白村江での大敗後の中国や朝鮮半島情勢への対応をめぐる中央と地方の対立でもあった。「百済救援の役」には多くの地方豪族がかり出され、大きな負担と甚大な損失を受けていた。近江朝や中央豪族に対する地方豪族の不信感は増大していた。


 新羅の対抗姿勢に対して、唐は数度にわたり遠征軍を送った。672年、新羅は唐に反撃され大敗すると、唐に「謝罪使」を派遣して、捕虜の送還・金銀銅などを朝貢した。673年には新羅内部にも動揺が広がり、内紛も発生した。674年正月、唐は新羅遠征軍を再び投入し、675年にかけて攻勢に出たが、唐は決定的な勝利を収めることはできなかった。しかし、文武王の官爵を剥奪して、唐にいる王弟の金仁問きんみんむんを新羅王として帰国させようとした。すると、軍事的な抵抗は続けながらも、新羅の文武王はまたも唐に「謝罪使」を派遣して謝罪した。

 当時、唐は実質的に則天武后そくてんぶこう(在位:690年~705年)の時代に入っていた。武則天ぶそくてん(後の則天武后)が唐の高宗(在位:649年~683年)の皇后になったのは655年で、高宗が病気になると、高宗に代わって万機を決裁するようになり、世に高宗と並んで二聖と呼ばれたほどの実力者となった。683年、高宗が没すると、我が子中宗を即位させたが、間もなくこれを廃し、次子の睿宗えいそうを立てたが、氏一門のもので執政部をかためて権力をほしいままにした。そして690年には国号を「周」と改め、67歳にして自らを聖神皇帝と称した。則天武后は、内政に重点を置いていたこともあり、新羅の文武王は許された。 

 そうした状況の中、新羅は675年初頭、倭国に王子らを派遣して倭国の援助を要請した。しかし、倭国は「壬申の乱」直後でもあり、天武は傍観の姿勢を維持することを選択した。その後も新羅軍と唐軍との戦いは散発的に続いていたが、新羅は朝貢・冊封関係に立脚した唐との外交関係は維持した。新羅独立戦争における決定的な転機は676年に訪れた。

 676年、唐は吐蕃とばん(チベット)の内紛に乗じて大規模な遠征軍を投入した。唐にとっては、朝鮮半島の新羅との戦いより、吐蕃とばんとの戦いの方がより深刻で重要であった。したがって、新羅との戦争から撤収する方策をとった。唐は676年に安東あんとん都護府を平壌から遼東半島の新城に移し、旧百済の熊津ゆうしん都督府を遼東半島の建安城に後退させた。唐が退いたのを見て、新羅はさらに攻勢を強め、そしてついに、676年に新羅は大同江(平壌ぴょんやんはその中流域の北岸に位置する)以南地域を領有した。有史以来初めて、新羅によって朝鮮半島は統一されたのである。なお、朝鮮半島中部の平壌は古代において稲作の北限であり、それ以南の地域では農耕・漁労を生業としていた。結果的に、朝鮮三国のうち最も後発ながら親唐路線をとり続けた新羅だけが残ることになった。

 唐は新羅による朝鮮半島統一を認めなかったが、吐蕃とばんとの戦争がより深刻で、則天武后の権力掌握に対する皇室内での争いが続く中で、新羅を討伐する余力がなかった。676年以降、700年までの間、唐と新羅両国の使臣往来は、頻度は少ないとはいえ、続いており、武力衝突に至ることはなかった。唐は681年に神文王、692年に考昭王が即位した直後に使臣を新羅に送り、新王を冊封している。新羅は大同江以南を支配することはできたが、唐の冊封を受ける朝貢国であることに変わりはなかった。そこが唐の冊封を受けず完全独立の立場にあった倭国との違いであるが、強大な唐と国境を接することになった新羅としてはそれが生き残る道であり、朝鮮半島国家の宿命であった。


 668年に国交が再開されてから700年まで新羅はほとんど毎年、倭国に使節を送った。新羅のこうした積極的な倭国との外交は、唐との対立関係があるため後方の安全を確保するという性格が強かった。倭国側も、白村江の敗戦後、唐への警戒をおこなう必要があったことと、律令制を整備するなかで新羅の文物・制度を摂取する必要があった。672年に新羅が倭国に使節を派遣したときには、倭国は船一隻を与え、新羅との友好的関係を維持するようにしていた。これ以降702年に倭国が遣唐使を再開するまで、倭国は唐との交渉を途絶して新羅と緊密に交流した。この時期、新羅・倭国両国は内的体制の整備に力を傾けた。新羅は687年に中央官署の整備を終え、軍制も9軍団に整備し、全国を州郡県制に編成した。州は9つ設置され、さらに5つの小京を置き、これら9州5京には城郭が築かれて条坊が整備され、地方統治の拠点とされた。


 盧泰敦(ソウル大教授)は高句麗ではなく新羅が朝鮮半島を統一したことについて次のように総括している。

“新羅による大同江以南の統一の意義は、韓民族の基本的枠組みを形成したという点である。今日の韓国では、「高句麗によって民族統一が成し遂げられず、新羅によって民族と領土の半分的統一がなされたことは、民族的に大きな不幸である、しかし、それはともかく、新羅の統一によって朝鮮民族はここに決定された。また、新羅の統一は不完全なものにも拘わらず、重大な意義を持つ理由は、それが韓国民族の形成のための土台になったためである」と評価されている。民族を構成する要素には、客観的な要素として、共通の地域・文化・言語・血縁などがあり、主観的な要素としては、先の要素に基づいた共通の心理的状態がある。後者は同族意識・帰属意識に集約される。 

長期間にわたる国際戦でもあった三国統一戦争は、対外関係の面でも大きな影響を残した。高句麗は早くから中国王朝を牽制するために北方遊牧民国家と交流した。一方、新羅はその領域が大同江以南に限られたことによって、遊牧集団との連携が現実的に困難になった。そのため、新羅は中国王朝との関係では相対的に不利な位置に立つことになり、こうした点はその後も朝鮮半島の王朝に引き継がれていった。北方遊牧民集団および彼らを通じた中央アジア国家との交流は、軍事面だけでなく、文化的な面でも中国文明以外の異なる文明と接触しうる契機となり、バランスの取れた対外意識と文明意識を持たせる役割を果たした。高句麗人の天下観や対外政策はそうした側面をよくみせてくれる。ところが、それが遮断されたことによって、朝鮮半島の諸王朝は中国に一方的に傾く様相が不可避になった。新羅人には、唐や日本との関係をどのように設定するかだけが対外関係の基本課題となった。”


 663年の白村江での大敗後、倭国にとっては防衛網の構築とともに国境が画定されたことも重要な事柄であった。弥生時代以来、倭人は朝鮮半島南岸地域と北部九州、さらに北陸・東海地方を含めた西日本一帯に居住していた。しかし、663年の白村江での敗戦、そして668年の高句麗滅亡、それに続く676年の統一新羅成立の過程で国境を画定し、日本列島の倭国として国の存続を図ることになった。そうした中で672年に「壬申じんしんの乱」が起こった。

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