第47話 高句麗の滅亡と統一新羅の成立
663年に百済を完全に滅ぼした唐・新羅連合は次に高句麗の征討を目指した。唐は百済最後の王・
白村江での敗北によって百済は完全に滅亡し、倭国では国土防衛策に追われることになった。全長1.5キロ、高さ13メートルの防塁と、博多湾側に幅60メートル・深さ4メートルの濠を構築した、いわゆる
唐が高句麗征伐を再開するのは666年である。高句麗からは666年の1月と10月、668年の7月に「進調(貢納物の献上)」の使者が倭国に来ている。高句麗は唐の圧力にさらされており、倭国との友好関係を維持しようとした。しかし、642年にクーデターで栄留王を殺害し、王の弟の子である
その後、泉
唐は9月に高句麗を滅亡させた後、12月には平壌城に
こうして新羅は、唐を引き入れることによって百済・高句麗を相次いで滅ぼすことができた。しかし、唐の狙いは新羅を含めた朝鮮半島全体を属領として間接支配することだった。
その同じ668年9月に新羅が656年以来12年ぶりに倭国に「進調(貢納物の献上)」の使者を送ってきた。これに対し、倭国も船一隻や絹・綿・などを授けている。新羅のこの動きは、高句麗が滅んだため、次には唐の圧力が新羅に向けられることを予測し、倭国との友好関係を築き直そうとしたためと考えられる。倭国がこれに応じたのは、唐との国交が回復したとはいえ、複雑な国際関係のもとでは、唐との良好な関係が続く保障はない。万一の場合は新羅との共同戦線もあり得るとの判断であったと思われる。一方で、倭国は669年に遣使して唐に礼を尽くしている。当時の朝鮮半島をめぐる東アジアの国際関係は流動的であった。そのとき倭国は天智の時代であった。
倭国が唐から圧力と懐柔を受ける中、朝鮮半島の情勢に新たに動きが起こった。新羅による朝鮮半島統一の動きである。唐と新羅との関係は、百済が完全に滅亡した663年に、唐が新羅に
唐は高句麗を668年に滅ぼした後、平壌に
670年の戦いは高句麗復興軍と新羅の連合軍の敗北に終わったが、その後も新羅は高句麗遺臣の抵抗を助け、これに対して唐は672年に4万の大軍を平壌に送り、8つの軍営を設置した。その間、新羅は670年から唐の支配する旧百済地域への侵入を始め、唐の支配下にあった63城の外に19城を攻め取り、翌年の671年6月には百済の旧都
この頃、唐は二方面で戦争を行わなければならない状況にあった。西方では、670年4月に、唐の西域18州を攻略した
668年9月の高句麗滅亡、それに続く新羅による朝鮮半島統一の動きと、朝鮮半島において目まぐるしく状況が変わっていた間にも、朝鮮半島における唐の駐留軍から倭国へ厳しい要求がなされていた。
671年1月、唐の百済鎮将
そうした中、671年の11月には、唐の百済鎮将
新羅の対抗姿勢に対して、唐は数度にわたり遠征軍を送った。672年、新羅は唐に反撃され大敗すると、唐に「謝罪使」を派遣して、捕虜の送還・金銀銅などを朝貢した。673年には新羅内部にも動揺が広がり、内紛も発生した。674年正月、唐は新羅遠征軍を再び投入し、675年にかけて攻勢に出たが、唐は決定的な勝利を収めることはできなかった。しかし、文武王の官爵を剥奪して、唐にいる王弟の
当時、唐は実質的に
そうした状況の中、新羅は675年初頭、倭国に王子らを派遣して倭国の援助を要請した。しかし、倭国は「壬申の乱」直後でもあり、天武は傍観の姿勢を維持することを選択した。その後も新羅軍と唐軍との戦いは散発的に続いていたが、新羅は朝貢・冊封関係に立脚した唐との外交関係は維持した。新羅独立戦争における決定的な転機は676年に訪れた。
676年、唐は
唐は新羅による朝鮮半島統一を認めなかったが、
668年に国交が再開されてから700年まで新羅はほとんど毎年、倭国に使節を送った。新羅のこうした積極的な倭国との外交は、唐との対立関係があるため後方の安全を確保するという性格が強かった。倭国側も、白村江の敗戦後、唐への警戒をおこなう必要があったことと、律令制を整備するなかで新羅の文物・制度を摂取する必要があった。672年に新羅が倭国に使節を派遣したときには、倭国は船一隻を与え、新羅との友好的関係を維持するようにしていた。これ以降702年に倭国が遣唐使を再開するまで、倭国は唐との交渉を途絶して新羅と緊密に交流した。この時期、新羅・倭国両国は内的体制の整備に力を傾けた。新羅は687年に中央官署の整備を終え、軍制も9軍団に整備し、全国を州郡県制に編成した。州は9つ設置され、さらに5つの小京を置き、これら9州5京には城郭が築かれて条坊が整備され、地方統治の拠点とされた。
盧泰敦(ソウル大教授)は高句麗ではなく新羅が朝鮮半島を統一したことについて次のように総括している。
“新羅による大同江以南の統一の意義は、韓民族の基本的枠組みを形成したという点である。今日の韓国では、「高句麗によって民族統一が成し遂げられず、新羅によって民族と領土の半分的統一がなされたことは、民族的に大きな不幸である、しかし、それはともかく、新羅の統一によって朝鮮民族はここに決定された。また、新羅の統一は不完全なものにも拘わらず、重大な意義を持つ理由は、それが韓国民族の形成のための土台になったためである」と評価されている。民族を構成する要素には、客観的な要素として、共通の地域・文化・言語・血縁などがあり、主観的な要素としては、先の要素に基づいた共通の心理的状態がある。後者は同族意識・帰属意識に集約される。
長期間にわたる国際戦でもあった三国統一戦争は、対外関係の面でも大きな影響を残した。高句麗は早くから中国王朝を牽制するために北方遊牧民国家と交流した。一方、新羅はその領域が大同江以南に限られたことによって、遊牧集団との連携が現実的に困難になった。そのため、新羅は中国王朝との関係では相対的に不利な位置に立つことになり、こうした点はその後も朝鮮半島の王朝に引き継がれていった。北方遊牧民集団および彼らを通じた中央アジア国家との交流は、軍事面だけでなく、文化的な面でも中国文明以外の異なる文明と接触しうる契機となり、バランスの取れた対外意識と文明意識を持たせる役割を果たした。高句麗人の天下観や対外政策はそうした側面をよくみせてくれる。ところが、それが遮断されたことによって、朝鮮半島の諸王朝は中国に一方的に傾く様相が不可避になった。新羅人には、唐や日本との関係をどのように設定するかだけが対外関係の基本課題となった。”
663年の白村江での大敗後、倭国にとっては防衛網の構築とともに国境が画定されたことも重要な事柄であった。弥生時代以来、倭人は朝鮮半島南岸地域と北部九州、さらに北陸・東海地方を含めた西日本一帯に居住していた。しかし、663年の白村江での敗戦、そして668年の高句麗滅亡、それに続く676年の統一新羅成立の過程で国境を画定し、日本列島の倭国として国の存続を図ることになった。そうした中で672年に「
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